【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_幼少期_5
なにも知らないことが、幸せだというのなら、あの時の僕は確かに幸せだった。
風呂に入り、背中を流し合い、父の手の平に絶対的な信頼と安心を感じていた時代。
シャンプーの香りに交じって、父の細い体から少し甘くて優しいミルクキャンディーのような匂いがした。
父が僕といることを喜んでいる。
人が強い感情を持つとき、様々な匂いが出ることを病院で知り、父との交流で今、確信を持った。
「お父さん」
「なんだい」
「お父さん、大好き」
「お父さんも俊雄が好きだよ」
「うんっ! 嬉しい」
だれかが傍にいることを許し、ともに過ごす時間を尊んでくれること。
それらがとても希少で大切なんだと知る。
「いい湯だな~」
「だな~」
湯船の中で父と歌を歌い、優しい香りに包まれながら、幼い僕は母とは見いだせることのなかった、絆の心強さに胸が温かくなる。
父に寝かしつけられて、体中が温かいものでいっぱいになりながら見た夢。
「俊雄、今日はいい天気だから。ピクニックに行くぞ。お母さんには内緒だ」
「うん!」
場所は近くの山で、広い原っぱに銀色のシートを敷いて、二人で食べているのは、なぜか大盛のラーメンだ。
「新鮮な空気と一緒に食べるとおいしいな」
「おいしいね」
ずるずる青空の下でラーメンをすすりながら、僕と父は「お母さんには絶対に内緒。男と男の約束」と、にんまりと笑う。
……わかっている。多忙な父が僕とピクニックに行くなんてありえない。
だけど、夢だと思っていても、僕は本当に幸せだった。
下の階で、帰ってきた母が、父とどんな会話をしたのかわからない。
目が覚めた時には、父は仕事に行き、母が化粧をしてどこかに行く、いつもの日常だったことに、かなり落胆したことを覚えている。
母の化粧を観察しながら、理想の暗闇の行方に没頭し、季節は11月の冬に突入した。
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「俊雄。明日はあなたにとって、ものすごく大切な日なの。決戦よ」
母は夜、そう言って僕の肩を叩いた。
久々に息子の目を真っすぐに見る母は、頬を紅潮させて、化粧で大きくした瞳を不気味に輝かせている。媚びるように、期待するように、まるで、自分の健闘を褒めてくれと言っているように。
決戦と彼女は言った。
母はなにかと戦っていたのかは、大人になった今でも理解できないが、指輪を外していたことから、ろくでもない手段を使っていたことは確かだ。
「けっせん?」
「そう、戦うの。俊雄も戦いわないとダメなのよ」
はりきる母の笑顔はひややかで、僕の不安は、膨れ上がる雨雲のように灰色の塊を重たく膨らませている。土砂降りの上に酸性雨の雨が降る予感がした。すべてを茶色く枯渇させて、苦い風をまきちらし、すべてを平らかにしてなにも残らない。
「どうして?」
僕は母がやろうとすることに、怯えながら問いかける。
戦いたくない。誰も傷つけたくない。息子が傷つけられたから、報復の為に戦うのなら大きな間違いだ。
僕はなに一つ、傷ついていないのだから。
「母さん」
僕は口を開こうとした。訴えなければという強い気持ちが、喉につかえて言葉にできない。
「なに?」
「……」
僕は言葉を失った。
目前の獰猛な笑顔に圧倒され、きゅう、と、音をたててなにもかもが母に吸い取られていく。胸の奥に感じる、ざらりとした虚ろさに惨めな気分を味わいながら、枯れた花のように無意識に顔が俯いた。
「なんでもない」
「そう、明日は頑張りましょうね」
「うん」
僕はもはや、調教された家畜のなのだ。
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母から垂れ流される、甘い香りに絡めとられる。沈丁花の香りよりも甘ったるくて、生臭く、少し酸っぱい香り。
懐かしくて、忌まわしい感情を想起する香りの束が、いつの間にか肉色の無数の紐に変わり、僕の身体にまとわりついて身動きが取れない。
やめろ。
肉の紐が、やがて、僕のへそに辿り着く。もぞもぞと蠢いて、へその窪みに肉の紐が吸着し、へその緒のように繋がる。母と僕の。暴力的な絶対的な愛情。
逃げたいのに、逃げられない。
いや、もう逃げられない。
父さん、助けて。心の中で僕は悲鳴をあげる。
どうせ届かないとわかっている悲鳴をあげて、諦めの極致でなにも考えないように思考をシャットダウンする。
これ以上、僕は傷つきたくなのだ。
翌朝。化粧を終えた母が、思案気に僕を見ていた。
「ねぇ、俊雄。俊雄もかっこよくなりたいわよね?」
有無を言わせない笑顔。今日の口紅は、赤ワインの色とバラの色を混ぜた、上品でありながら攻撃的な酷薄さを感じさせる赤だ。
「うん」
僕はなにも考えずに肯定した。
母の香りが変わる。甘さの中に、胡椒のようなスパイシーな香りが混ざり、控えめなミントの香りがする香水とまじりあって、僕を息苦しくさせる。
この世界には、結局、僕と母しかいない。
母とお揃いの濃紺のスーツを着せられて、母がいつも使っている鏡台に座らされる。
鏡に大きく映し出される僕の顔。
狆《ちん》くしゃと評された――輪郭が丸くむくんで、アリの巣のようにぼつぼつとした毛穴が無数に広がり、肌色は腐ったミカンの色。
団子鼻のベースで横に広がる鼻、左右の形の違う瞳。右は母から受け継いだぱっちりとした瞳なのに、左は父から受け継いだチワワのようにぎょろりとして、瞳全体が充血して赤く血走っている。
唇は病気にかかったミミズそのものだ。不自然に膨らんだ青紫の塊が蠢く光景は、グロテスクで見ている僕でさえ吐き気を覚える。
しかも、口からのぞく歯だけが、白く美しく規則正しく並んでいて、それが却って顔の歪《いびつ》さを際立たせていた。
母は挑むような眼で、鏡に映る息子の醜い顔を睨む。
「お母さんはこれでも、結婚する前は、大きいデパートで良いお化粧をいっぱい売っていたの。大丈夫よ、俊雄には伸びしろがあるわ」
「伸びしろってなに?」
「可能性よ」
幼い息子の問いかけを簡潔に答える母は、いつになく真剣な顔になり、僕の顔に触れる。
「あなたが、本当に男の子で良かった」
なぜ?
何度も母が繰り返す「男で良かった」というフレーズ。
母はどのような人生を歩んで、僕が男でよかったと決断をくだし、息子を生かしたのか。
この頃の僕にはわからない。
僕の顔からはなれていく、まだマニキュアをつけていない白い手。
赤ん坊の僕をくびり殺そうとした指先が、この時、まばゆい金色の光を放っているように見えた。
「じっとしていてね」
そう言いって母はチューブから、鮮やかなライムグリーンのクリームを絞り、僕の顔につけはじめる。
腐ったミカン色の肌に、緑の色。されるがままの僕は、緑という意外な色に驚く。このままでは自分の顔が、沼地のようなへどろの色になると全身が恐怖でこわばった。
「大丈夫よ、力を抜いて」
母は優しく、毅然と、耳元でささやく。
僕の顔で踊る細い指が、ライムグリーンのクリームを引き延ばし、ぼかして、まんべんなく顔を覆っていく。
顔に感じる、ぬったりとした冷たい感触に、背筋がぞくりと震えた。
「ね、大丈夫でしょう」
「…………」
僕は息をのんだ。顔を泥沼にするかと思った緑のクリームが、引き延ばされ肌に馴染むごとに柔らかな黄色に変わり、腐ったミカンの色を、やや明るいミカンの色に変化させたからだ。
顔色が少し良くなり、アリの巣のような毛穴がうっすらと隠れただけだというのに、僕の顔は僕の知っている顔じゃなくなった。
「まるで、人間みたい」
「バカ。あなたは人間なのよ」
鏡を映る自分にぽつりと呟くと、母が鋭い声で言った。
彼女の声は少し震えていた。
縦横無尽に指とパフと筆が走り回る。
黄色、赤、ピンク、青、茶色、白。眼前に広がる色彩の嵐が、自分の顔に一つの調和を持って収束する。
アリの巣のような無数の毛穴がなくなり、肌色が透明感を持ち、眼の形が少し違和感を感じる程度になり、肌色に塗りつぶされた唇に、オレンジとピンクを混ぜた筆がきれいな形の唇を描く。
変わっていく自分の顔に、僕は意識を奪われていった。
二重三重……七重ほど、顔に化粧の膜が覆い、輪郭がぼやけた横に広がる団子鼻の頂点に、ピンクの粉がのせられた。さらに鼻の脇に鼻筋に、上品な紅茶色のファンデーションが流麗な軌道を描く。
新たな輪郭を与えられた鼻は、小さく、そして高く自然に伸びて、僕は手に触れて確かめたくなった。
「本当に僕の顔なの?」
鼻に触れたい欲求を抑えて、僕は母に問う。
「そうよ、これもあなたの顔よ」
新鮮な風が体中に入ってくる感覚だった。鏡の中の僕の瞳が、明るい光を灯して、母が与えてくれた瑞々しい唇を持ち上げる。
笑っているのだ。
「あ、う、ん」
奇妙なくすぐったさが胸中に走る。
化粧を施された肌が、腐ったミカンから新鮮な白桃の色に変わり、肌色が変わったことで丸くむくんだ顔の形が、果物のような自然で柔らかな形に見えてきた。
顔が中央に寄っている、アンバランスな顔の造作なのは変わらない。
だが、今の僕の顔は見るに堪えない――「友達になろう」と声を掛けただけで相手がゲロを吐くレベルの醜さから、ブサイクだけどなんとか視界に入ることができるレベルへと変化した。
鏡の方に手を伸ばして、映る自分の顔をなぞる。つるりとした鏡面の感触とともに、これが今の僕の顔だという実感が、ふつふつと湧き上がり胸が高鳴った。
「伸びしろ」という母の言葉が、この時、理解できた。
僕は変われるの?
今まで漠然と思っていたんだ。
僕は一生、このまま醜い顔と付き合って生きていくのだと。
「すごい、母さん。すごいっ!」
「ふふふ、ありがとうね」
僕は大声で母を称賛した。彼女が施した化粧は、奇跡であり魔法だった。
化粧一つでこんなに変われるなんておもってなんかいなかったし、こんなにも心強くなるなんて思わなかった。このまま普通に外に出で駆け出したい気持になった。
信じられない。
胸がドキドキする。
嬉しいような泣きたいような、様々な感情が入り乱れて、思わず涙が出そうになった。
「俊雄、泣いちゃだめよ」
「な、泣かないもん。男の子だもん」
そうだ。涙でせっかくの化粧を台無しにしてはいけない。顔にぐっと力を入れて、涙を引っ込めようとすると鏡の中の自分が、必死に耐えているのが見えた。
耐えろ、耐えるんだ。
充血した赤い左目が、涙で潤み余計に大きく見える。また、醜い顔(いまでも十分醜いけど)に戻ってしまうと考えると、涙が自然に引っ込んでまつ毛を濡らす程度で済んだ。
「さぁ、行きましょう」
どこへ、どこに。と、いつもなら訊いていただろう。僕を立たせて手を引く母は、すでにいつも通り僕を見てない。そして、浮かれた僕も母の行動になんの疑問も持たずに外に出る。
そう、僕は浮かれていた。
魔法にかけられたシンデレラも、僕と同じ気分でカボチャの馬車に乗り舞踏会に飛び込みで参加できたのだろう。
なんにでもなれる。
化粧でこんなに変われるのなら、努力や工夫を重ねていけば、僕は周りと同じに存在になれるという幻想。
母が運転する車にのった僕は、彼女が施した化粧の行程を記憶する。どんな化粧品を使ったのか、どんな技術で化粧を施したのか。
僕に化粧を施した時の鏡越しに見た母の顔は、職人然としていながら、芸術家の繊細さをみせて、古《いにしえ》の魔法使いのような超然とした態度で、鏡に映る息子を愛しむように見つめていた。
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大人の僕は思い出して苦い気分を味わった。
母が未来を知っていたら、僕を赤ん坊のうちに殺していただろうし、化粧なんて施さなかっただろう。
僕は化粧を通じて「伸びしろ」という可能性を知ってしまい、身の程知らずな希望を抱いてしまった。
もしも母があの日、僕に化粧を施さなかったら、父が整形手術を反対した時点で、絶望して自殺していただろう。
婚約者である葛西 真由《かさい まゆ》を殺すことなく、父を殺すことなく、その他大勢を殺すことなく、僕が死ぬことで多くの人間の平穏が守られたはずだ。僕には生きる価値なんてない。
だけど、死ねなかった。あの日見つけてしまった希望の光が、僕の中で沈まぬ太陽のように、常に輝き続けているからだ。
……どんな絶望が待ち受けていようとも。
多くの人間を殺してきたから分かっていた筈だ。日常は少しでも力を加えれば、あっけなく崩壊する。その例にもれず、僕の黒く血塗られた日常も呆気なく崩壊した。
待ち受ける断罪に対して、コロナ禍のどさくさを利用して、タイのバンコクまで無様に逃亡を果たし、幸せになろうと、のうのうとゴキブリのように足掻こうとする。
僕は希望を見つけるべきではなかった。
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時間《とき》は戻らない。だからこそ悲劇は起こる。
僕は自分の行動に踊らされて、頭の中で何度も時間を巻き戻して、自分がやってしまった惨劇に対して、何度も悔いて、何度も嘲笑う。
もしかしたら、僕には過去しかないのかもしれない。
『わたしを選んでくれてありがとう』
プロポーズをした僕に対して、彼女は――葛西 真由は、そう言ってはにかんで見せた。
セミロングの茶色に染めた髪に、象を思わせる深みのある優しい瞳。少し高めの鼻筋と小さな唇には、淡いピンクのリップがのせられている。
真由から漂うのは新鮮な白桃の香り。彼女の香りを嗅ぐだけで、優しく豊かな気持ちになれた。傍にいると愛おしさに溢れて、幸せで窒息しそうなほど。
彼女は可愛らしい顔立ちをして、からから笑い、いつも上機嫌で常に周りにたくさんの人がいた。
――だけど、僕は知ってる。同じ整形外科で出会い、同族の匂いを互いに嗅ぎ取って、生涯の伴侶に出会ったと確信していた。
愛していたのに。真由の抱えている苦難と闇を、受け止めたいと思っていた。
彼女と結婚したら、輝きに満ちた真っ白い幸せが、一つずつ一つずつ増えていくと思っていたのに。
『ねぇ、もしかしたら家族が増えるかもしれないの』
本気で言っているの?
僕も君も、整形前の顔を知っている。
君が整形しなかったら、僕は君と結婚しようなんて思なかった。
それどころか、キスも触れ合うことも、言葉を交わすことも許さなかった。
整形するとわかっていたから、醜い顔の君との交流も我慢できた。
ちゃんと僕は避妊していたのに、勝手に妊娠しやがって。
許されない。許してはいけない。
黒い津波が僕の理性をさらって行く。
僕と君、双方の血をひいた醜悪な子供の誕生。
不幸になるために生まれてくる命。
子供の性別が、男だろうが女だろうが関係ない。
『そうなんだ。ちょっと良いワインが手に入ったんだけど、のみながらこれからのことをゆっくり話し合おうね』
会話のつなぎ方が不自然だっただろうか。
僕の負の感情を彼女に気づかれないように、整形で手に入れた中性的な美貌で、必死に笑顔をつくり背をむける。
口の中が強い怒りで、カラカラに乾いていく。
ワインが好きな彼女の為に用意した【シャトー・ディケム】。
清澄な朝の空気と太陽の光の味がする黄金の貴腐ワインだ。
価格は1本、軽く七万を超える。
僕は、こんなことに、七万以上もお金を使ったのか。
こんなことなら、眼袋の手術代に使えばよかった。
ヒアルロン酸の注射を打ちたかった。
唇をもっとぷっくりさせたかった。
ドゥ・ラ・メールの新作が欲しかった。
ディオールの石鹸が、ロクシタンのシャンプーが。
彼女と逢瀬を重ねた時間が、思いを募らせて眠れなくなった時間が、真由を喜ばせようとリサーチし努力した時間が。
金と時間、すべてが無駄《ゴミ》になった。
もう、僕は。
幼い頃に学んだこと――だれかが傍にいることを許し、ともに過ごす時間を尊んでくれること。
父と風呂に入った幸せだったころの記憶と、誰かと共に幸せを分かち合うことが出来る喜びが、なにもかもがガラスの如く砕け散る。
整形手術を反対されたあの日に、亀裂が入り、脆くなり、いつか壊れると予想できた記憶《こころ》。
必死に維持しようとした僕を、現実はいつも嘲笑う。
ワインを持つ手が震えた。
真由の無防備な笑顔に、腹に渦巻く殺意が最高潮に達し――。
「メリークリスマス」
気づいたときには部屋に、赤と黄金の雨が降っていた。
【つづく】
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