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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_11_現代編01

202×年6月 バンコク

「あぁ、ちくしょう。道路が冠水してやがる!」
「どうやら、本格的に雨季が始まってしまったみたいですね。日本に帰る予定は、思った以上に遅れるかも」
「ふざけてやがる。昨日まであんなに晴れてたじゃないか。なんだ、これは! 詐欺だ!」

 甲高い男の声で僕は目を覚ました。全身が気怠く頭が鈍く痛み、ひどく喉が渇いている。
 
 ここはどこだ? ホテルか?

 観葉植物の苗が天井から吊るされて、花の装飾が飾られた照明が、真下にある五つ並んだベッドに、花の影を散らしている。
 不機嫌なクーラーの音と派手な水音から、外は雨が降ってるのだろう。時期的にスコールだろうか。
 身を起こそうとしていると手首のあたりに、硬くて冷たい感触が走った。輪っかのように手首にはめ込まれたそれは、十中八九《じっちゅうはっく》――手錠だ。
 僕は息をひそめて、注意深く周りを観察した。ベランダに出る大きな窓の前で、二人の男が話し合っている。

 すらりとした長身の若い男と、シルバーフレームのメガネをかけた年配の男だ。二人ともスーツ姿で、さきほどから喚き散らしているのは、意外にも若い男の方だった。刑事ものだと、こういう短気なポジションは、定年間近な冴えないオッサンがお約束だというのに、リアルではやっぱり違うのかと残念に思ってしまう。

 僕は最低限の動きで周囲を見る。ベッドの多さから団体客向けの部屋だ。植民地時代の名残である、アジア風にヨーロピアンテイストが調和した内装とインテリア。部屋の隅には、僕の背丈ほどの……だいたい、150cmくらいかな? 象の頭を持った黄金の神像が鎮座されていた。

「ここはタイですよ。日本の梅雨と同じだと、思わないほうがいいかと」

 二人は僕が起きたことに気付いていない。

「あぁ、畜生、畜生、畜生、ふざけるな、なんであんな殺人鬼と仲良く、ホテルで缶詰めなんだ、ふざけやがって、ふざけやがって」
「本田警部補殿、落ち着いてください。ほら、YouTubeでもみましょう。最近、日本では「ありのまま運動」っていうのが流行っているみたいですよ」

 年配の男が、宥めるように若い男にタブレットを渡すが、本田と呼ばれた若い男は鼻を鳴らす。
 本田の態度は、階級が上であることが起因しているのだろうか。
 警察は階級社会だときく、本田は警部補で年配の男が下の階級だとするのなら、横柄な態度は組織内では、至極当然なのかもしれない。
 ドラマの知識で警部補だと、僕が思い出したのは【古畑任三郎】だったが、本田警部補は古畑よりもあきらかに若い。――つまりキャリア組。と、乏しい知識で僕は断定した。

「自分のすっぴん晒して、詐欺メイクを謝る動画なんか興味ねぇ。っというか、それぐらい知っている」
「おやおや」

 年配の男は気にしない風で、タブレットを下げた。どこか、本田とのやり取りを楽しむような余裕を見せて、優雅に腕を組む。

 二人は付き合いが長いのだろう。年輩の男は、長年仕えている執事のような、後ろに一歩さがった誠実さで、本田警部に接する姿は、礼儀正しくもどこか親しみ深い。

「まぁ、犯人《ホシ》は起きたことですから、取り調べでも始めましょうか」
「なにっ!」

 あ。

 分厚いレンズ越しに、感情のない目が僕を見る。
 若い頃をうかがわせる精悍な顔立ちと、深みを感じさせる顔中のシワ。七三分けの白髪には品のある艶があり、厚い唇からは甘い色気を漂わせている。
 紡ぐ言葉が愛の言葉なら、女性は相手の年齢を忘れて、心をときめかせただろう。

「杉藤 俊雄に間違いないね? 私は警視庁の八幡 国吉《はちまん くによし》。階級は巡査部長。こちらは、本田 真人《ほんだ まさと》。私の上司で階級は警部補だ」

 年配の男が軽く自己紹介をすると、本田の方は気に入らなそうに僕を見た。まるで、汚物を見るような眼だ。

「お前には、聞きたいことが山ほどある」

 湧き上がる怒りを隠さない本田は、つかつかと僕がいるベッドに近づいてきた。真ん中分けの手入れの行き届いた黒髪。きめ細かい白い肌。顔もそこそこ整っているものの、逆立つ柳眉と深い眉間のシワが、相手に対して近寄りがたく、気難しい印象を強く与えている。

「本当にふざけやがって、コロナのせいでこっちはごだごだしているのに、国外逃亡をしたと思ったら、全身整形で入院だぁ。殺人者様の考えることは、一般人には到底理解できないし、理解しようとも思わないけどな」

 体中の産毛が逆立つほどの強い怒気だった。本田の身体から漂いだす異臭に、僕の警戒心は最上までひきあがる。

 これ、アパートで嗅いだ血の匂い。

 本田から放たれている怒りの匂いは、視界を赤くかすませるほどの濃厚な血の匂いだった。こんなことは初めてだ。どんな人生を歩んだら、こんな匂いをまとわせるんだ。

 本田に向けられた強い敵意のおかげで、頭の靄が晴れる。
 僕は自分の置かれている状況を確認しつつ、ため息をついた。

「あん? 捕まったのに、ずいぶん余裕だな」
「どうも」

 僕がため息をついたことで、本田は右眉をぴくり持ち上がるが気にしない。その程度で、びくついていたら、いちいち人なんて殺せないじゃないか。

 とうとう捕まってしまったことで、気持ちが少し安定する。むしろ、逮捕されて、そのまま日本に送還されても良いとさえ思ってしまう。

 二人の態度から、僕の罪はあばかれて、殺人鬼として周知されていることが分かった。それはそうだ、葛西 真由《かさい まゆ》を手にかけてから、僕は人を殺すことに、なんの躊躇いもなくなっていた。
 日本をたつ前は月一のペースで殺していたし、犠牲者は三桁ぐらいにのぼっていたと思う。                                                                                                                                                                                             
 どれくらい、骨が見つかったのだろう。コロナで大変なのに、余計な仕事を増やしてしまった。僕は目の前の二人と警察関係者に対して、少し申し訳ない気分になる。

 日本中では、おそらく、僕の話題で持ちきりだ。
 ネットを駆使して、醜かったころの写真や、出国前の天使の顔写真が、多くの人の眼に触れているのかもしれない。
 マスコミも僕の過去を掘り出して、大々的に、悲劇的に報道しているのではないだろうか。
 多くの人間が僕を知りたがり、多くの人間が僕に関心を寄せている。
 考えれば考えるほど、想像すれば想像するほど、全身に力がみなぎるのを感じた。心が踊り狂い、脳内麻薬がドバドバと音を立てて駆け巡っていく。

 きっと、みんな、おどろくぞ。

 全身整形の適合手術で手に入れた、新しい僕を多くの人間にお披露目する――それはとてもいい考えに思えてきた。

「おまえ、ろくでもないこと考えているだろう」

 僕の考えを見透かす本田に、僕はにっこりと微笑んだ。
 鏡の前で、なんども練習したエンジェルスマイル。多くの人間を虜にして、男ですら劣情を催すほどの――罪な微笑。
 鏡が無くても、いつでもできるように、宝石のように磨きあげてきた僕の笑顔。
 忌々し気に目を逸らした本田に、僕は「勝った」と、内心有頂天になる。
 そして、不安に駆られる。自分の状態は、今、自分が望んでいるベストの状態か。寝ている間に、あの二人になにかされていないか。
 赤くかすむ視界の中で目を凝らし、僕は今の自分を確認する。
 手錠のせいで不自然な状態なまま、ベッドに転がさて身動きが取れない体。着替えさせられたパジャマはシワ一つなく、体には新しい包帯がまかれている。思った以上に人道的に扱われていて、僕は少し二人に対して評価を上げた。

 よかった。潰されていないし、下の方も無事だ。

「本当にふざけている、男のくせに豊胸手術を受けやがって。性転換手術の方がまだわかりやすかった」

 なんとも遅れた考え方だね。と、僕は本田の偏った知識を笑う。

 タイでは性別は十八個、LGBTの意識が高まっている昨今では、アメリカのフェイスブックでは五十八種類の性別が選べることができる。
 手術前のカウンセリングを受けた結果、僕はBI《バイ》……男女双方に魅力を感じる男性に該当し、醜形恐怖症《しゅうけいきょうふしょう》と、様々な要因が複雑に絡み合って主治医を困らせてしまった。

 簡単な適合手術どころではなかった。
 求められるのは、芸術品に触れるような繊細さと、未知の突貫工事に挑む勇気が必要だったからだ。

 だが、病院のスタッフたちはやってくれた。
 僕が【世界中から嫌われている】日本人だとわかっているのに、輝かんばかりの笑顔で、僕に「マイペンライ《問題ない》」と声をかけてくれた。距離感が日本と違うことで最初は戸惑っていたが、彼らの明るさとジャスミンを思わせるお香の匂いが、手術前でささくれだった心を解きほぐしてくれた。

「分かりやすいってなに? 僕は男でも女でもある、性別を超えた存在になりたかっただだよ」

 シリコンで膨らんだ胸を揺らして、僕は誇らしげに笑う。
 手術が終わり麻酔から目が覚めた時、心と体、そして顔が、一つに繋がった一体感を得た。
 まるで、悪い夢から覚めたような清々しさだった。このまま、脱皮を遂げた蝶のように、新しい世界に羽ばたけると思ったのに。

「ねぇ、喉がかわいたんだけど。水をもらえるかな?」

 そう言って、小首をかしげるようなしぐさでおねだりすると、本田は怒りで顔を赤くした。

「てめぇ」

 地を這う低い声と共に、本田の身体から放たれる血の匂いが一層濃くなり、さらに視界が赤く淀む。赤く染まった世界を作り出す本田は、人の皮を被った獣のように、眼をぎらつかせて狼のように唸った。

「あぁ、落ち着いてください。本田警部補、血圧が上がりますよ」

 のんびりとした声をかける八幡は、シルバーフレームのメガネをかけ直して、僕に提案した。

「では、片方の手錠を外して私の片手に付けます」
「あぁ、刑事ドラマでよくやるやつだね」
「えぇ、そうです。そのかわり」

――バン。

 八幡の手が容赦なく、僕の華奢な肩を押した。
 ベッドに倒れ込むと、頭を押さえつけられて、手錠を開錠する音が聞こえる。手首が自由になったと感じた刹那。

 ぐぎり。と、鈍い音がした。

「――」

 痛みが全身を突き抜ける。
 激痛に頭の中が白く弾けて、悲鳴が押し付けられたベッドに吸い込まれていく。

「左手の小指を折りました。これから、私達と手錠を繋ぐ事態が発生したときは、必ず指を一本折らせていただきます」

 八幡の脅しにどっと毛穴から汗が出る。本田の匂いで誤魔化されてはいたが、八幡の匂いもさらに異様だった。彼の体からは、甘さを感じさせる死臭がした。磨かれた墓石が並ぶ冬の霊園で、打ち捨てられるように捧げられた、干からびた菊の花――そんな香りだ。 

「今回は警告です。トイレや食事などの生命の維持に必要な場合は、指を折りませんのでご安心ください。……あぁ、そういえば、水を飲みたかったんですよね。私としたことが失礼しました」
「……ぐ、いぃぅ」

 カエルを押しつぶした声が口から零れて、全身がカッと熱くなる。
 なんて、醜い、醜い、醜い、醜い、醜い、醜い、醜い、醜い、醜い、醜い、醜い、醜い声。
 未だ残されていた醜怪《しゅうかい》に、全身がぞわぞわと鳥肌が立った。
 許せない、僕にこんな声を上げさせたお前らを。
 そして、無様に痛みに屈して、楽器のように美しい悲鳴を奏でられなかった自分を。

「素直に言うことを聞け。巡査部長は生粋のサディストだ」

 とぼける八幡と見下ろす本田の気配を感じて、僕は痛みに耐えた。
 歯を食いしばって、痛みを和らげるために呼吸を整える。顔に感じるベッドはとても柔らかく、思ったより圧迫されていない。
 呑気に痛がっている場合でも、屈辱に浸る場合でもないのだ。刑事たちが暴力を使って、なりふり構わない手段を使っている理由、その可能性に思い当たり、僕はベッドに顔を押し付けられたまま訊ねる。

「もしかして、爆弾、みつかっちゃった?」
「ご明察です。ですので、解除コードを教えていただきましょうか?」

 仕組みはいたってシンプルだ。
 スーツケースの横についているジッパー付きのポケットに、数字を打ち込む端末が隠されている。
 そこに解除コードを入力すると、同時に起爆装置が待機状態に移行し、スーツケースを開ければ秒もたたずにドカンっ! だ。
 爆発を防ぐには、スーツケースを開ける前に解除コードを再び入力する必要がある。

「ふぅん。そこまで仕組みが分かっているんだ」
「まったく、あなたはひどいことをしますね。コロナで失業した一般人を巻き込むなんて。確保したタイミングは本当にぎりぎりでした」

 話しやすくするように押さえつけている手が離れて、僕の体にかかる圧力が消えた。二人の様子だと、日本での事態はかなり切迫しているのではないか。僕は自分が起こしたことで、日本がひっくり返っている状況を想像し悦に入る。しかし、爆発する前に、見つかってしまったとは少し悔しい。
 なにせ、ただの爆弾ではない。

――スーツケース型の小型【核爆弾】なのだから。

 荷物管理のアルバイトを募集して、スーツケース《核爆弾》を渡した。一か月後に僕から連絡がこなければ、スーツケースを開けて中身を指定した場所に移動してほしいという内容だった。報酬は百万。前金で五十万を渡した。
 もちろん、連絡なんてこない。するつもりもない。
 なにも知らないバイト君は、スーツケースを開けて、山中崎ごと周囲が消し飛び、完全に証拠が隠滅される計画だった。

「あなたは本当に分かりやすい。だから、周りは油断してしまうのでしょうね。核爆弾は緘口令が敷かれていて、日本ではあなたが思っているような混乱なんて起きていませんよ」

 がちゃりと音を立てて、片方の手錠が施錠される音が聞こえた。八幡にむりやり起こされて別の部屋に入ると、四角い飴色のテーブルに連行される。

 そこには先に、不機嫌な表情の本田が手を組んで座っていた。はやく取り調べをしたくてたまらない様子だ。テーブルに置かれたピッチャーと三つのグラスは、もしかして彼が用意したのだろうか。
 グラスには、幾何学模様《きかがくもよう》が組み合わさった、繊細な細工が施されていて、みていて美しく、どこか儚く見える。

 僕が席に着くと、本田の肩越しに大きな鏡が見えた。

 あぁ、なんて。

 僕はうっとりと、鏡に映る自分の顔を見る。術後の腫れもだいぶ引いて、さっぱりと生まれ変わった僕の顔が。

 日本にいた時の、天使のような中性的な美貌を超越して、今の僕は女神のような神々しさと神秘性を備えている。

 偉大なる医者とスタッフに感謝だ。大金を払ったかいがある。

 十代でも通用する瑞々しい肌。形の良いアーモンドの瞳は長いまつ毛に縁どられて、卵をさかさまにした輪郭、品の良い唇とすっと伸びた鼻梁。すこしはだけたパジャマからは、果実をおもわせる美味しそうな二つのふくらみ。全身は注文通り、全身脱毛が施された後に、シワもシミも黒子も一つ残らず一掃した白雪の雪原そのものだ。

 このクオリティなら、今の状態では確認できない、乳輪の色や形、臍や肛門、もちろん僕の分身も完ぺきなフォルムで、僕が確認するのを待っているはず。
 はやく、はやく、服を脱ぎ捨てて、生まれたままの姿になって確認したい。確認して、観察して、一つ一つのパーツを惚れ惚れとながめて、自分自身に称賛を贈りたい。

 完璧な美。究極の美。醜い僕がようやく手に入れた、自身の楽園。
 この顔、この体、自身の語彙力が乏しいのがもどかしい。この美しさ、この感動を呼び起こす、絶対的な美を顕現させているというのに、湧き上がる感想が「美しい」の四文字しか浮かばないなんて。

 顔も体も徹底的に作り替えて、芸術性を感じさせる人の御業。僕はとうとう、望んだ美を手に入れた。

 本来なら、病院へ正規の料金とは別に、報酬をはずみたいのだが、まさか、暴徒に襲撃されて火をつけられるとは思わなかった。収束しないコロナでストレスが溜まったいたことや、失業率の増加、国の方針、国内のセレブ層や海外の客を受け入れていたこと、様々な要因が絡んだ結果なのだろう。

 かなり作り込まれた体は、それに見合う長い入院を必要としていた。だけど、このまま他の入院患者同様に殺されるのはごめんだった。
 スタッフに助けられて脱出に成功し、潜伏先のアパートについたと思ったら、この体たらく。

 あぁ、この顔に似合うカツラを買いたかった。

 今の髪型は、短く刈りこまれたどこにでもある髪型だ。ハッキリ言って、今の顔にあわない。捕まったことよりも、核爆弾が見つかったことよりも、それだけが無念だ。本当に無念だ。

「おい、この状況を理解しているのか。いい加減、解除コードを教えろ」
「黙秘権はここでは通用しませんよ。折られる指が増えるか、それともせっかく手に入れた美しいお顔を、生まれたことを後悔するレベルまで徹底的に傷つけましょうか。ここには鏡があります。見るも無残に変形していく様を、リアルタイムで見られるという貴重な体験ができますよ」

 なるほど。脅しに使えそうだから、この部屋にしたのか。

 僕は自由になる左手でグラスを持ち上げた。小指があり得ない方向に折られているせいで、腕全体に痛みが走り思ったより持ち上がらない。
 僕は他人事のように、はやく冷やさないと、小指の腫れがさらにひどくなると考える。

「おい」

 本田は声を上げるが仕方がないじゃないか。

 僕は手のひらでグラスを小突き、テーブル全体を水で濡らした。びしゃりと水が跳ねて、テーブルからボタボタと水がこぼれるが構わない。

 ずずずずず……。

 僕はテーブルに直接口づける。流れた水をタコのように吸い上げて渇きをしのぎ、折れた指を濡らして腫れを癒した。心地の良い冷たさに、このまま上体をテーブルに突っ伏して、水をすすりながらパジャマごと体を濡らす。

 びちゃびちゃ……ず……ず……ずずぅ。

「おい。杉藤、お前にはプライドがないのか?」

 本田の声が聞こえたが、僕には響かない。そのくだらないプライドのせいで、なんども窮地に立たされたのかわからないからだ。

 この二人は、致命的に僕を勘違いしている。
 せっかく手に入れたからと、この美貌が傷つけられた程度で僕が屈すると思うのか。母に殺意を向けられるほどの醜い顔を持ち、成長するごとに醜く変形する顔を二十歳《はたち》まで貼り付けてきた。そんな苦行に耐えてきた――この僕に。

『杉藤君は将来、なにになりたいの?』
『僕は父さんみたいになりたいな。困っている人を見つけたら、すぐに助けられる、そんなかっこいい大人になりたい』

「イヤになっちゃうなぁ」

 余計なことを思い出してしまった。
 小学校に上がる前のクリスマスの夜に、大川くん一家とホテルのレストランで、クリスマスパーティーをしたんだ。そこで父さんは若い女性を救い、その場に居合わせた人々に感謝された。幼い僕には、そんな父がヒーローのように見えたのに、今の僕にはカルト教団の教祖にしか見えないのがなんとも寂しい。

 上体をオットセイのように持ち上げて、僕は対面に座る本田を見た。隣に座る八幡は、いつでも僕を拘束できるように身構えているのだろう。

 彼らに僕は止められない。
 僕は――杉藤 俊雄は【核爆弾で山中崎市をふっ飛ば】したい。

「解除コード12桁のヒントは、僕の【小学校の思い出】【中学の思い出】【高校の思い出】【大学の思い出】だけど……思い出に【意味はない】だよ。せいぜい頑張れば」

 小馬鹿にしてせせら笑い、僕は自分の頭を振り上げる。

「僕はね、痛いのも、死ぬのも怖くない、ずっとね!」

――ガンっ!

 頭蓋を叩き割るつもりで、思いっきりテーブルへ頭突きをする。
 目の前が真っ暗になり意識が暗転すると、優しい闇が僕を包み込む。
 ずっとずっと求めていた、安心できる暗闇。
 僕が還《かえ》る場所は此処しかいない。

『杉藤くん』
『とっしー』
『杉藤』
『俊雄』
『俊雄君』

 あぁ、懐かしい。
 もういない人たちの声に導かれて、僕の意識は過去に戻った。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「気絶しているな」
「まぁ、舌を噛まないだけマシでしょう」
「あぁ、めんどくせえ。だから「快」と「不快」しか、判断基準がないやつはイヤなんだ」

 濡れたテーブルに突っ伏したまま、ぴくりとも動かない殺人鬼に対して、刑事二人の視線は冷ややかだった。
 濡れた美貌と、肌に貼りついた濡れたパジャマが扇情的だったが、その程度で自分の行動を曲げるほど、彼らは飢えた人間ではなかった。ただ、決定的な部分が欠けていた。
 八幡は手錠を外して杉藤を担ぎ上げて、本田はポケットから携帯を取り出す。

「……はい。解除コードの。ヒントを聞き出しました。はい、はい。現地入りした公安の……杉藤の引き渡しは……はい、そうですか」

 淡々と手短に成果と経緯を報告して、本田は部屋から出た。大きな窓から見える風景。見下ろす異国の街並みは白く煙り、濃密な水が雨となって天上から垂れ流されている。
 水と水がぶつかり合う音が、ドラゴンの雄たけびのように響き、灰色の雲から紫の光筋が見えた。日本ではお目にかかれないダイナミックな稲光だ。
 異国に慣れていない日本人は気圧されて、外に出る事すら忌避するのだろう。

――公安《スペシャリスト》が笑わせる。

 公安は慎重にならざるを得ない。今回の件が露見すれば、ぎりぎり保っていた日本の信用がさらに地に堕ちる。
 2021年に無理やり強行した、東京オリンピックで感染爆発が起きたどころか、最悪の変異種オメガ株が誕生し、世界経済に強烈な打撃を与えた国――日本。
 各国が日本を渡航禁止にしないのは、あまりにも経済がマイナスになりすぎて、渡航を禁止にするメリットがほぼゼロになってしまったからだ。
 だからそこ、政府は恐れている。オリンピックの反省から強化したはずの水際対策が、じつはなにも改善されずに放置されていることに。
 ことが露見すれば、国際裁判は免れない。下手をうてば、輸入・輸出がストップし、その上で経済制裁を受けることになる。
 なにせ日本は、非核三原則を掲げているのだ。
 水際対策のみならず、日本が日本として掲げている理念を、日本政府は蔑ろにした。
 もしも核が爆発したら、国際的な立場すら失い、ヘイトを溜めこんだ全世界からも追い込まれ、最悪、日本は終了する。

 政府の望みは、マスコミや関係各社に気取られないように、杉藤俊雄を確保して秘密裏に処理すること。身元を確保したが、原因不明で死亡するのが理想の筋書きだ。その際に、自白剤を使えば核の解除コードも、なにもかもが一気にわかるのだろうが、本田が望むものは永遠に手にはいらない。

 だからこそ、本田と八幡は警視庁の威を借りて立ち回る。
 警察官としての茶番と体裁を整えつつも、杉藤しか知らない真実に少しづつ斬り込み、望みをかなえるために。

 異国の地で臆病風に吹かれる公安は、今、ホテルに缶詰め状態だ。多分、事態が大きく動かない限り積極的に行動することはない。
 それに比べると、笑顔の国に住まう人はたくましい。道路が水没したというのに、人々はゴムボートで悠々と移動している。しかも、ちゃんとマスクをつけて。

 公安の連中も、現地人を見習えよ。

 このままでは日本が終わる。頭では分かっているのだが、本能的な恐怖が行動を抑制するのだろう。公安はコロナに、とてつもないトラウマを植え付けられてしまったのだがら。
 本田は舌打ちして携帯を切ろうとするが、ある一点だけは伝えなければと、刑事としての声に従う。
 
 これ以上、事態を悪化させてたまるものか。
 
 すべては、今年の一月――コロナで困窮している北朝鮮が、管理と維持費がかかる核兵器を、はした金で海外に売り飛ばそうとして、公安の情報網にひっかかったのが始まりだった。

「はい。それなのですが、杉藤はどうやら【複数の核】を所持していたもようです」

 その段階では、公安の動きは速かった。販売元と売った顧客を特定し、日本に持ち込ませる前の段階で、対応できたはずだった。まさか、公安本部でコロナのクラスターが発生するなんて、恐ろしいほどのタイミングの悪さだ。

「いえ、自白はしませんでした。ただ、この男の性格を考えると簡単にヒントを与えたのには裏があり、私達の目を、別の方向へむけるのが目的かと推測しただけです」

 しかも、ただのコロナではない、オメガ株からさらに変異を遂げた、現在において感染力・致死率ともに最凶最悪のオメガ株――オメガ+5《プラスファイブ》だった。
 泣きっ面に蜂どころか、泣きっ面に核ミサイルだ。
 クラスター発生の事実がマスコミへ漏洩しないように、対応に当たる職員の人数は制限されて、警視庁に助けを求めるほど、公安は追い詰められていた。

「えぇ、人手が足りないのは重々承知していますが、よろしくお願いします」

 携帯をポケットにねじ込んだ本田は、額を窓ガラスに擦り付けて長身を預けた。

「真由《まゆ》……、ごめんな。だめな兄さんで」

 背中に八幡の視線を受けつつ、決意を固めるように本田は拳を強く握りしめた。

【つづく】

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