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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_12_小学生編01

1990年3月24日(土曜日) 正友幼稚園 1階 講堂

 幼稚園の卒園式は滞りなく終了した。
 久保先生は顔に痛々しい包帯を巻き、僕以外の児童も顔や体に包帯がまかれている。中には腕や足が一本なくなっている子もいて、野戦病院さながらの重たい空気に耐えられず、保護者がすすり泣く場面もあった。

 講堂の中を玲瓏なピアノの音が虚しく響き、何度も練習した歌が次第に小さくなっていく。
 徐々に、徐々に、そして聞こえない歌が悲鳴となって空間を埋め尽くす。

 たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて。

 包帯だらけの子供たちは、聞こえない悲鳴で哭《な》き、僕と大川くん以外、歌を歌えなくなる。

 巣から落ちて傷を負った雛が、雨の中で鳴くような痛々しい光景のなかで、醜くて無傷な僕と、額に縦の傷あとを残した大川くんだけが、何度も練習した成果を披露するかのように、のびのびと歌を歌いつづける。

――まるでみせつけるように。

 ぼくたちはずっといっしょ、ずっとずっとともだち、すてきなともだち、すてきなみらい。ぼくたちはおとなになっても、おじいちゃんおばあちゃんになってもずっとずっと――友達でいようね。

「うっ……うぅ」

 だけど、ついに子供たちが泣き出した。
 かわいそうな子供たち。大勢の大人たちに断罪され、一生に残る傷を負い、僕を裏で貶めていた子供は身体の一部を失った。
 もちろん、久保先生もだ。両頬にネコのヒゲのような傷をつけられた彼女は、一生、結婚することが叶わず、それ以前に誰かと恋をするのも難しい。

 それが、山中崎《ここ》のルール。
 彼らはずっとここに囚われ、大人になっても、なにがあろうとも日の当たる場所に出ることはない。

 幼い僕は歌う。大川くん以外を無視して。大川くんと共に小学校にいけることに、それだけに希望を膨らませて。
 大川くんと大川くんの両親は、僕に謝った。
 それが、どれほど重要だったのかは、他の児童を見ればわかるだろう。
 ただ僕に謝るだけで人生が大きく変わった。
 大川くんは赦《ゆる》された。

 大人の僕の意識が、うっとりと自分を含めた子供たちの歌声に耳を澄ませる。久保先生がよく「心を込めて歌うこと」を、子供たちに繰り返してきたことを想い返しながら。

 僕も大川くんも、傷だらけの子供たちも、心を込めて歌を歌う。
 希望と絶望、天国と地獄、明と暗、白と黒、光と闇。
 見事に二極化された不協和音の旋律は、蜜のようにとろりと甘く、極上のワインを飲んだ後の余韻を思い出させた。
 子供の僕では感じるができない、不幸な人間が感じることのできる悦び。

 絶望に濡れた声が、周囲へ涙を誘い、絶望的な現実を大人たちへと雄弁に語る。
 傷が癒えたというのに「痛い」と泣いている。
 もう二度と生えない現実に「耐えられない」と慟哭す《ないてい》る。

 だって自分たちは、悪いこと《そんなにひどいこと》をしていないのに。

「だまらせろ」

 誰かが不快そうに言った。そして、すすり泣く声も消えて、一人、また一人と消えていく。

――正友幼稚園を卒園できたのは、僕と大川くん二人だけだった。


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 卒園式を終えて僕と大川くんは、笑顔で、紙で作られたピンクのバラのアーチをくぐった。

「小学校でもよろしくね」
「おうっ、よろしくな。で、明日どこで遊ぼうか」

 大川くんは、かつての友達がどうなったのか気にしない。
 もう彼にとっては、どうでも良い存在なのだから。
 多くの友達に配分されていた優しさは、僕一本に絞られて、僕一人に対してどこまでも優しく、他者に対してはどこまでも残酷になれた。
 だけど、大川くんはどこまでも大川くんで、僕のことを「キモイ」「バカ」「死ね」とストレートに言ってくれる。

 幼い僕はそれだけでよかった。
 それだけで、幸せなままならよかった。


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 大川くんと友達になって、暗闇を見つめるよりも、僕はテレビを見るようになった。
 アニメとか特撮とか、絵本とか、大川くんとの会話が滞りなく続くように、彼が僕のことをもっと好きになってくれるように頑張った。
 内容に関して言えば、そこそこ前よりも楽しめて見れているんだと思う。感想を言い合って、お互いの意見を交換する時に、僕が気づかなかった点とか小ネタとか、その場で発見できるのが面白かった。

 大川くんは、僕がキャラクターのセリフを、正確に一字一句覚えていることに驚いていた。怪人の名前とか、必殺技とか、あの話は何話だったか? とか、即答できる僕に、大川くんはキラキラした目で醜い化け物を見てくれる。

 母に殺されかけた記憶を引きずる幼い僕にとって、大川くんは救いだった。息苦しくて辛い思い出が、楽しい記憶のおかげで薄まって、息をすることがとても楽になれたんだ。
 固まった絵具を水で溶かすように、ゆるやかに確実に、嫌な記憶を過去のものにして、幼い僕は新しい生活に思いを馳せる。

 大川くんと友達になれたのだから、小学校でも新しい友達が出来ると無邪気に信じて。卒園できなかった児童がどうなったのか、考えないようにして。


 卒園式を迎えたその夜、父から書斎に呼び出された。

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 大きい椅子に座った父は、眼をしょぼしょぼさせて疲れたように重たい息をはく。顔色が悪く、いつもよりも父の身体が小さく見えた。

「俊雄、明日は大川くんと遊ぶ約束があるのかな?」
「う、うん」

 僕の態度を伺う父は、やや逡巡した後、目をつぶって言った。

「明日、納骨がある。それに、お前も連れていくことになった」
「のうこつ?」
「お墓に骨を入れることだ。俊雄を連れていくかさんざん悩んだのだが、後々のことを考えて、連れていくことになった」
「……お墓? あの、だれか、死んだの?」
「オレの姉。お前の伯母にあたる人だ。一度も会わせなかったのには、事情があるが、今は話せない」

 そういえば公民館で、父と園長先生が、伯母のことを話していた気がする。ただ、その時の話の内容から察すると。

「その人も、僕みたいに顔がみにくいの?」
「醜くないっ!」

 息子の問いに父が間髪入れずに怒鳴り、僕の体は恐怖でこわばった。大きな瞳を見開いて、顔を赤くして怒鳴り返す姿は、普段の父とはかけ離れていた。

「俊雄、オレの姉さんは……」

 僕に迫る父は、まるで噴火寸前の活火山のように大きくそびえ立っていた。

「姉さんはね、オレの姉さんはね。とても美しかったんだ。杉藤家の奇跡と言われたほどに美しくて、父は母の浮気を疑ったほどなんだ。そんな姉さんは、美しい上に学問にも秀でていて、どんな人々にも分け隔てなく接し、ボランティアにも積極的な中身まで美しい人だった。オレにとっては自慢の姉だったんだよ。そんな姉が、高校になったころだ。顔を崩れて彼女は杉藤顔になった。父と母は喜んだよ。だけど、周囲はまったく違った。あからさまに態度に変えて、嫌がらせをし始めたんだ。ヤツらの中には姉さんの幼馴染もいた。遠くで姉さんを眺めていたヤツなんかは、露骨に姉さんにちょっかいを出し始めて、姉さんを笑いものにして姉さんを傷つけた。だけど、一番に驚いたのは担任の教師が、からかわれて傷ついた姉さんを助けなかった。あからさまに悪意があってからかってきているのに、訴えた姉さんを逆に咎めたんだ。顔が変わってしまった君を、彼らは受け入れやすくするように盛り上げているんだから、そんなことを言うなって。……あぁ、オレも同じことを言われたよ。だけど、まさか姉さんまで言われるなんて思わなかった。その時、思い知ったんだ。外見で人を判断する愚かさを。嫌がらせをする心の醜さを。もちろん、姉の心を傷つけた自称友人たちと担任教師は、当然の報いをうけてもらったさ。こんなヤツラを放置するのが、犯罪だと思ったしね。あぁ、だけど不十分だったみたいだ。私の俊雄が馬鹿どもの価値観に染まったなんて。いいかい? 醜い人なんて最初から存在しない。もしかしたら、美しい物すらも最初から存在しないのかもしれない。……あぁ、そうだ。夢だ。幻だ。信じたくない、姉さんが死ぬなんて。悔しい、苦しいよ。姉さんはずっと一人で杉藤家の資産を管理してきた。万が一あった時の為に、オレでも運用できるようにいろいろ根回しして、なにが起ころうとも、オレが困らないように頑張って……そして、死んだんだ。たった一人で……」

 熱弁をふるう父の強い感情が、幼い僕の身に音を立てて打ち寄せてきた。

 悲しい、寂しい、助けて。
 濃厚な海の匂いが鼻につく。目の前にいる父が、なにもない真っ青な大海原の真ん中で、一人寂しく溺れているような気がした。

 助けないと。けど、どうすれば?
 膝から崩れ落ちる感覚を辛うじて堪えた僕は、必死に父の言葉に耳を傾けて、心が慰められることを願う。

 今日まで見せてこなかった父の姿は、とても頼りなく、とても傷ついていた。僕はうんうんと頷いて、胸奥に渦巻いた言葉を呑み込んで、最初から無かったことにする。
 頭の中に浮かんで消えた、泡のような疑問を無理やりねじ伏せて、顔に出さないように父親を愛《いつく》しむ。

 それは姉の死を悲しんでいる父にかける言葉ではない。
 孤独に死んだ姉を憐れんでいる父が、「本当は悲しんでいない」ことを口に出してはいけない。

 悲しもうとすることは、バランスをとることなんだと、おぼろげながら理解する。僕は言葉とともに吐き出された父の感情を受け止めて、必死に己の心を押し殺す。
 父は僕を愛し、助けてくれた存在だから、僕は少しでも父を助けたいと本気で思っていた。あの頃は切実に。

――その一方で大人の僕は、父の姿が滑稽すぎて、せせら笑いをこらえるのに必死だった。

 なんておぞましいんだ。この救いようもない、シスコンが。と。

「この家は本当は仮の宿なんだ。本来は山の方にある、杉藤本家の屋敷が家族の住む所。だけど、繊細な姉さんのために、オレたち家族は遠くに離れるしかなかった。オレたちが住む丘の家も十分大きいかと思うけど、本家の家もすごく大きい。明日、俊雄も行くんだ。姉さんを迎えに、そして、姉さんとお別れするために、杉藤一族の霊園にいくんだ。これは大切なことなんだ。次は俊雄の番なのだから、杉藤を継ぐものは、たぶん、もうお前しかない。予感がするんだ。数年後に弟か妹が出来ようとも、俊雄、お前が杉藤の後継者なのだろうと。俊雄は賢いから大丈夫だろう。そして、引き合わせなければいけない子もいる、二人とも良い子だ。杉藤家の主治医の家と、杉藤家の施設管理を任せている家の子だ。本来なら、もっと早く合わせるべきだった。本来なら、本来なら、そう、本来なら幼稚園の出来事なんて起こる前に終わっていたんだ。そう」

「本来なら」を繰り返す父は、不安だったのだろう。
 おそらく、いままで通用してきたルールが崩れる予兆。社会全体が変わる、バブル崩壊の兆しと共に、杉藤家の斜陽を父は感じ取っていたのだ。

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 山中崎の地形を簡単に描くと、〇にYの字の川が走っている絵になるだろう。ぐるりと山に囲まれ、上流からながれている二つの川が合流し、一本の川へとなって下流へ流れていく。

 杉藤本家の屋敷は、Yの字の上部に位置する山の奥深く、車が通れない、舗装されていない狭い道を、一時間ぐらい歩いたところにあった。

 三月の下旬だというのに、山の中にはまだ冬の気配が息をひそめて、雪の香りがする冷たい風を運んでくる。霜でじゃりじゃりとする足元、未だ枝に緑の芽をつけない木々は眠ったように静かだ。

 変化の乏しい、寂しい景色の中で、その屋敷は存在感を放っていた。
 でたらめに改築を繰り返してきたことがわかる、つぎはぎだらけが印象的な武家屋敷は、人の住む家と言うよりも、屋敷自体が一つの生き物のように固い地面に蹲《うずくま》っているように見えた。

「疲れた」

 目的地に到着したことが分かって、僕はぽつりと零した。朝六時に起こされて、車にずっと乗せられた上に歩き同し、大川くんが居なかったら正直くじけていた。そんな僕の隣を歩いていた大川くんは「でっけぇ」と感心した様子で屋敷を眺めている。彼には、急な予定変更に付き合ってくれて感謝しかない。

 時代劇のセットのような、立派な門扉《もんぴ》を僕たちはくぐる。僕の家の軽く二倍はある正面玄関を、先頭を歩く父は通らないで、僕たちも父に続く。そのまま裏へと迂回すると、砂利が敷き詰められた日本庭園に出た。屋敷から長い縁側が伸びて、緑の松葉が輝いている松の木と、色鮮やかな鯉が泳ぐ大きな池があった。

「ん、あれ?」

 大川くんの声で、僕は池の傍で二人の子供がいたのに気づいた。
 この二人が、父の言っていた子どもたちだろうか。

「おーい」

 と、父がややオーバーリアクション気味に手を振る。二人は僕たちに気付いて、白い砂利を蹴りながら駆け寄ると、ぺこりと同時に頭を下げた。

「こんにちは。私は五代 公博《ごだい きみひろ》です」

 礼儀正しくお辞儀をする男の子は、眼鏡をかけた知的な感じのする男の子だった。優しくて甘い桜の匂いがして、みたところ同い年ぐらいなのに、妙に大人びて堂々としている。

「こん……ちは、ぼくは園生 緑《そのう みどり》です」

 お辞儀をして、すぐに五代くんの後ろに隠れた少年は、怯えた目で僕を見た。
(まぁ。当然だろうけど、ちょっと傷つく)
 園生くんは黒くて潤んだ瞳を持って、背は僕たちより一番小さいのに、ひょろりと手足が長かった。この少年からは、遠い異国の海の匂いがした。

「オレはこいつの友達の大川 直人だ。おまえら、本当にコイツの手下になるのか?」

 ストレートに聞く大川くんに、僕はぎょっとするが、二人も父も母も落ち着いている様子だった。

「うん。手下以前に、多分、長い付き合いになると思うんだ。私も、緑もね。君とも長い付き合いになるとおもったから、大人たちは私達をひきあわせたのだろう」
「……おまえ、本当にオレと同じ六才か? 言っていることがマジ大人だな」
「話し方だけは賢いって、よく言われる」
「なんだよそれ」

 すっかり普通に会話している大川くんと五代くんに、僕と園生くんは困ったように顔を見合わせる。

「ぷっ」

 お互いがじっと目を合わせていることに気付いて、なんだか、おかしくなった。どちらが先に噴き出したのか分からないけど、気づいたら止まらなかった。

「「ははははは」」

 僕と園生くんは声を上げて笑った。僕たちを不思議そうに見ている、大川くんと五代くんの顔に、おかしさがお腹の奥からこみあげてきて、さらに笑った。最後には腹を抱えて、その場で爆笑した。山の中を歩き続けた疲れなんて、ふっとんでしまった。

「もう、すっかり打ち解けたようだな。よかったら、時間になるまで屋敷を探検しなさい」
「いいの?」

 僕が父に聞くと、父はまぶしいものを見るように目を細めた。

「大川くん、俊雄たちを頼むぞ」
「あ、うん。はい」

 いきなり指名された大川くんは、びっくりして直立不動になる。
 少し可哀そうなくらい緊張して、懸命に胸を張ろうとする姿は、戸惑っているようにも、期待に応えようとしているようにも見えた。

 大川くんはわからないのだろう。
 なぜ、杉藤家の関係者ではない自分を同行させたのか。
 僕から見たら、大川くんのおかげで五代くんと園生くんと打ち解けたし、居てよかったと思っている。

 僕一人だったら、そこまで打ち解けられずに、二人に対して距離をあけていたのが想像できた。たぶん、それは父の望む関係ではない。

 大川くんは僕たちの間を繋ぐ見事な潤滑油だった。その関係は、大人になってからもずっと続いた関係だった。

……なのに、狂ったのはいつからだった?

『い、いやだ。オレは間違っていない。アイツが悪いんだ、全部アイツがっ!』

 血にまみれた死体を横に、大声をあげて頭を抱えるのは、高校生になった大川くんだ。
 彼は僕たちのために人を殺した。
 だから、彼の友情に報いるために、僕たちは選択しなければならなかった。

 ぼくたちはずっといっしょ、ずっとずっとともだち、すてきなともだち、すてきなみらい。ぼくたちはおとなになっても、おじいちゃんおばあちゃんになってもずっとずっと――友達でいようね。

 迷う僕の耳に蘇るのは、卒園式で歌った曲だ。
 この曲は、卒園して小学校がバラバラになる園児たちの、友情がずっと続くように願いを込めた、正友幼稚園のオリジナルソングだったのだとあとで知った。

 そうだ、大川くんはずっとずっと友達だ。
 今も昔も、そして明日も未来も。

「そうだよ、大川くんは悪くない。この死体をどうにかしちゃえば、大川くんは警察に捕まらないよ。きっと……」

 僕は自分のとった選択を悔いてはいけない。


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 屋敷の探検は遊園地に行った時より、ハラハラドキドキした。
 ずっと廊下を直進しているかと思ったら、いつのまにか元の場所に戻っていたり、隠し部屋や隠し階段があったり、部屋が一つ一つ広くて、まったく同じ部屋なんて存在しなかった。

「風呂は銭湯みたいに、大きくて、壁の部分に座るようなでっぱりがあって、親が言うには地下には牢屋があるから、子供は近づいちゃいけないってよく言うんだ。それでね」

 探検ツアーのガイドは園生くんだった。なんと、この家は園生くん家でもあったのだ。屋敷の管理者兼、伯母の身の回りの世話と、杉藤家専用施設を管理するための事務所として、園生くん一家はこの屋敷で住み込みで働いていた。
 僕は単純に感心した。こんなに広いし部屋もいっぱいあるのなら、掃除とか大変そうだったから。
 園生くんは説明する。この屋敷に部屋がたくさんある理由は、ずっと昔に、親戚や使用人すべて一堂、この屋敷に住まわせたからだと。
 
 僕はその当時の屋敷の光景を想像した。多くの使用人と親戚、たくさんの家族が一つの屋敷で暮らしている日常。
 僕と同じ、醜い顔の子供たちが外界を気にすることなく、のびのびと遊んでいる光景が想像できて、胸が痛くなった。あるべきものがないことに気付いた、奇妙な喪失感を伴う痛みだった。
 この屋敷は一つの世界であり、杉藤家の子供を守る砦だったのではないかと、大人の僕は考え込み、子供の僕はただただ痛みにたえている。

 廊下を歩く僕たちの横を、大勢の子供たちが鬼ごっこして、騒がしく走り去っていく後姿を見た気がした。子供たちの楽し気な声と、たしなめる大人たちの優しい眼差しを見た気がした。この屋敷には、堆積した過去の思い出が、常に空気に溶けて流れているのだろうか。

「霊園はね。四月に入ると、花が一気にたくさん咲くんだよ。今もいっぱい咲いているけど、四月になると、桜以外の花びらが風にのってひらひら飛んでいて、とてもきれいなんだよ。あと、チューリップとか僕が植えたんだ」

 自分のしていることが誇らしいのか、園生くんは饒舌に嬉しそうに話した。僕たちの先頭を歩く彼は、僕たちより一番背が低いのに、一番頼もしく、その反面で一番誰かを欲していた。
……そのことに気付いたのは、もっとずっとあとだった。

 屋敷を案内する彼は、饒舌ながらもとても聞き取りやすい口調で話し、僕たちを退屈させないように、絶妙なタイミングで場所を移動し、興味がありそうな話題をそっと忍ばせて、その場所へ誘導させた。

 もしも、と、大人の僕は考えた。園生くんが自分の家を見限り、山中崎を飛び出してツアーガイドになっていたら、彼目当てのなじみの客が大勢現れて、多くに人間に愛されていたのではないか、そんな栓もない想像だった。


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 そろそろ、探索終了の時間が近づいてきている。
 集合場所の仏間に移動しようとしたところで、五代くんが僕たちを呼びとめた。

「ねえ、ちょっといいかな。杉藤君に来て欲しい部屋があるんだ」
「そうなんだ、わかった。どこに行くの?」
「二階にある、唯一裏庭を見下ろせる部屋だよ」
「え、そこって」
「じゃあ、行こうぜっ!」

 僕の問いかけに五代くんが説明すると、園生くんが顔を青くさせた。
 あんなにも楽しく探検ツァーを牽引していた彼が、テンションを一転させて今にも泣きそうな顔になる。
 無言で「行かないでほしい」と訴える園生くんを、大川くんの声が遮った。絶対わざとだ。屋敷を案内できるほど精通している園生くんが、なぜ『唯一裏庭を見下ろせる部屋』を案内しなかったのか、そのへんが大川くんは引っかかったのだろう。
 
「この部屋、貴子《たかこ》さんが住んでいた部屋なんだ」

 五代くんが案内した部屋は、本棚が天井まで積まれて、大きな机とパソコンが置いてあるごちゃごちゃした部屋だった。部屋に入ると、少し埃っぽい香りが鼻につき、裏庭を見下ろせるらしい大きな窓は、ヒマワリ畑がプリントされたカーテンで閉ざされている。

 五代くんは当然のように、扉の横にある照明のスイッチを押して、僕たちに対して少し重たげに口を開いた。

「貴子さんは――君の伯母さん。……ここのソファによく寝ていて、音楽をかけて寝るのが好きな人だった」

 五代くんが部屋の隅にあるソファに指さすと、僕たちはぞろぞろとソファーの前に群がりだす。僕たち四人が十分に寝そべる程のでかいソファーには、ふわふわな黄色のブランケットがかけられていた。くるまったらとても柔らかくて、気持ちよく眠れそうなブランケットだった。

「伯母さんは身体が弱かったの?」
「……わかんない。けど、よく怒鳴っていて怖かった。いろいろ、ぼく、よく「死ね」って言われた」

 僕が訊くと園生くんは怯えたように涙ぐんだ。五代くんはよしよしと園生くんの頭をなでると、視線を少し下に落とす。自分の感情に蓋をするように、つとめて僕に、貴子さんという人間を説明しようとしていた。

「貴子さんは未来が視《み》えたんだ。だから、ろくでもないことをやらかすヤツは、わかりやすく「死ね」って、言っていたんだ。それだけだよ。大人たちは、仕方がないっていいながら都合よく貴子さんに群がっていた。貴子さんは辛そうだったけど、割り切っていたよ。仕事だからだってね。彼女の「死ね」はいつも正しくて、いつも不条理だった。私も死ねと言われたよ。本当に、なにを見たんだろう。死ねと言われるほど、私がひどいことをしたのなら、ちゃんと教えて欲しかった」

 五代くんは寂しそうに言う。彼の目には、僕の知らない貴子さんの日々が映っているのだろうか。
 主を失った部屋は時間が止まり、初冬の時に感じる、葉をすべて落とした樹の匂いが漂っていた。
 分かりやすい例えはゴボウだろうか。母はよく、水で洗って刻んだゴボウをザルにあけて、天日《てんぴ》に干していた。その時の匂いに、土に還る落ち葉の、もの悲しい香りを足したら同じ匂いになりそうだ。

「ぼ、ぼくは怖かった。死んで、ほっとした、みんな、あの女を魔女だっていってた、いつかヤバいことをするって、ひどいことかもしれないけど、やっと、この屋敷が平和になった気がしたんだ」
「ひどいなお前。死んだから、言いたい放題かよ」
「うっ、ふっ……」

 大川くんが非難すると、園生くんは奇妙な声を出して唇を震わせた。自分でもひどいことを言っている自覚があったのだろうか。
 彼は子ウサギのように身を震わせて、まるで自分を守るように、ひょろりと長い手を自分の身体に巻き付ける。

 僕はソファを見て、ブランケットに触れて、貴子さんが寝ながら聴いた音楽を想像する。
 二人を通して見えてくる、この部屋にあったはずの日常。
 部屋に残っている、見えない名残りと存在が、この部屋に人が住んでいたことを伝えている。

 未来が視えていた伯母は、最後になにを視て、なにを思っていたのだろうか。
 五代くんと園生くんの、伯母に対する印象は天と地ほどに真逆で、彼女の人物像をうまく捉えることが出来ない。
 父は伯母がよく死ねと怒鳴るからこそ、息子の心を守るために僕を遠ざけたのだろうか。

「私は貴子さんが好きだったよ。確かに怖い一面もあったけど、そんなのは些細な問題だったし、それに緑も世話になったろ?」
「う、うん。そうだね」

 会話から浮かび上がる僕の知らない記憶、僕のいない世界のなかで、見えない誰かが、確かに生きていた。

 僕は今更ながら、人が死んだということを呑み込んだ。


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