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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_幼少期_6

 幼い僕が母に連れてこられたのは、公民館だった。
 一番大きな会議室の前で、僕は立ち止まり、母は眉を寄せて怪訝な表情を作る。
 部屋に入る前から廊下に流れ出してくる、強烈な悪臭と、会議室にひしめくたくさんの人の気配に体が動かなくなった。

 なに、このニオイ、くさい。

 思わずスーツの袖口を鼻に当てようとすると、母の手ががつりと僕の手を掴んだ。

「だめよ。化粧が落ちちゃうわよ」
「うん」

 匂いに気づかない母は、息子の苦しみが分からない。
 生卵をそのまま腐らせたような、
 生ごみをなんの処理もせず、
 そのまま燃やしたような、嗅ぐだけで病気になりそうな
――そんな匂いを。

「かえりたい」
「だめよ」

 間髪を入れず拒否される。

 あぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。

 どうすればいいんだろう。
 どうすればいいんだろう。

 息子の懊悩を子供特有の気まぐれだと、母は思っているのだろう。幼稚園に行くのを嫌がるレベルと同等だと。
 僕の願いをあっさり切りすてる彼女は、息子を引きずって会議室の扉を開けた。
 鼻の穴に遠慮なく入ってくる悪臭に、視界が薄赤くグラグラして、眼の奥が無数の針で突かれたように痛くなってくる。

 開けた先に見えた、肺を汚臭で満たす苦痛に満ちた世界。
 広い会議室には長い机が並べられて、幼稚園の同じチューリップ組の園児たちと、険しい顔の保護者達が座っていた。

 その中には、大川くんとその両親も座っていた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 大川くんの顔に僕は絶句した。
 顔中がブドウの実のようにボコボコに腫れて、両頬は赤く腫れあがり、肌が露出している部分には、痛々しい青タンが無数にできていたのだ。

 僕のせいで殴られたんだ。

 直感して、幼い僕は申し訳なくなった。
 僕が会議室にいることに気づかない大川くんは、小さく縮こまり、どこか呆けたように視線を漂わせている。

 助けなきゃと思っても、どうすればいいのか分からない。
 それになにより、大川くんと友達になることが絶望的だという状況が、僕を打ちのめした。

 母の登場で、会議室は重たい沈黙がのしかかり、誰もが助けを求めるような視線を僕に集めている。母がなにをするのか分からない以上、自分たちにも塁《るい》が及びことを恐れているのだ。

 なんだよ。

 いつもなら僕に対して視線を外し、とり繕うように笑う大人たちのあからさまな保身に走る態度に、お腹のあたりがムカムカした。
 こいつらが裏で僕のことを「汚い」とか「キケイ」「虫唾が走る」と言っているのを知っている分、ざまあみろという優越感よりもなんなのコイツラという嫌悪感の方が勝っていた。

 強烈な悪臭の正体はコイツラなんだろう、どうしようもなく性根が腐っているんだ。
 妙に白けた気分と焦燥が幼い頭をかき回す。

 こういうのを茶番って言うんだっけ?

 壇上にあがる母と、壇上の横で影のようにぬぼっと立っている、青い顔の幼稚園の先生たち。先生たちに隠れるように後ろにいる、年配の女性は園長先生だ。

 長机に座っている保護者達は、保護者である父母が、片親の子には祖父母が空席を埋めるように、子供を挟む形で座っている。

「今日はお忙しい中、ここまで足を運んでくださって誠にありがとうございます」

 壇上でキレイな角度でお辞儀をする母に、僕はなんとも言えない視線を向けた。
 まるで台本が存在するかのような淀みない口上に、どっと疲れがのしかかってくる。

 最近母が、フルメイクの化粧をして、指輪を外して頻繁に外出する理由が、この舞台を整えることだということに気づき、とても居た堪れない。
 今日のこの日に、誰も欠けることなく、公民館の一番大きな会議室に関係者全員を詰め込んだ、彼女の行動力と執念には、僕への愛があるのだろうか?

 多分、違うと思う。

「私の息子に暴力を働いた大川 直人《おおかわ なおと》君について、先生方は日頃からご両親や直人君自身にどんなご指導をしていたのか、ご説明をお願いします」

 母の言葉は見えない鞭《むち》だった。
 先生たちの肩が一斉にびくりと震えて、申し訳なさそうに顔をさげている。
 先生たちの後ろにいる一番偉いはずの園長先生は、保護者達の批難めいた視線に顔をこわばらせて沈黙を通し、身をすくませて耐えていた。
 大人の僕の意識は、この光景をため息をつく。
 逃げないだけマシなんだろうけど、この場にいるのならせめて弁明して欲しい。先生たちも、園長先生も。

 このままでは話が進まないと感じたのか、意を決して、前へ出たのは若い女性――僕のクラスを担当する久保先生だ。
 久保先生は母に対して頭を下げて、硬い表情のまま顔を上げる。
 他人がやりたくないことを率先してやる彼女に対して、周囲の大人たちは彼女を信頼してるのだが、彼女が僕のことを裏でなんて言っているのか知っている。

『まさか、現実で日野 日出志《ひの ひでし》のキャラを見るなんて思わなかったわ。生まれる価値のない醜いキケイ。多分、この子は成長したら、自分の醜さに耐えられなくなって命を絶つに決まっている』

 あはははは……。

 廊下の細い空間の中で、静かに木霊する嘲笑。
 突然の腹痛でこっそり教室を抜け出し、トイレに行く途中で聞いてしまった本音の会話。その場にいた僕は別に傷つかない。本当に醜いのだから仕方がないんだ。

 ちなみに、僕が日野 日出志のマンガを知ったのは小学校に入ってからだった。醜いキャラがよく登場して、ものすごく気持ち悪かったし、胸糞悪くて悲しい話が多かった。

 久保先生は昏《くら》い瞳で僕を見据える。嫌悪感を滲ませた顔で拳を作り、強く握りしめている姿は爆発寸前の爆弾にみえた。

「俊雄君、【今日は】とてもかっこいいわね。お母さんにおめかししてもらったのかしら?」

 久保先生は顔を引きつらせて、僕に話しかけた。

「う、うん。僕、お母さんが、お化粧をしてくれたの」
「そうなんだ、よかったわね。あまりのかわりように先生驚いちゃって、なにを言おうとしたか忘れちゃったわ」

 あはははは……。と、彼女はいつものように笑った。朗らかさの中に幾分の黒い感情を混ぜて。
 彼女の中では、僕はすでに敵として認定された。
 そして、自分の命運を左右するであろう母に対して、やや慇懃《いんぎん》に視線をあげる。先生の細い体からは、安っぽいシャンプーと焦げた油の匂いがした。

「それでは、ご説明を願いますか? 久保先生」
「はい。今回のことについては、保護者の皆さんや子供たちに多大な迷惑と不安を与えてしまい、申し訳なく思っています」

 久保先生も、この日の為に、言うべきセリフを頭の中で何度も推敲し、練習してきたのだろう。
 苺色の口紅で縁どられた唇から、すらすらと謝罪の言葉が流れだして、明瞭に会議室に響いた。

「本当に申し訳ありませんでした」

 言葉を絞めた瞬間だった。

「……っ!」

 久保先生の匂いが変わった。マスタードとお酢を混ぜたひりつく匂いだ。
 保護者と僕と母に深々と頭を下げる久保先生。彼女に続いて、他の先生も頭を下げ、園長先生が最後に頭を下げた。

「別にいいです。頭を下げたことがなんの謝罪になるのでしょう。私が今知りたいのは、児童に対してどのような対応をしたのかという実態です。この直人君は聞くところによると、積み木を振りまわして相手にケガをさせたり、女の子を泣かせたり、教室を脱走したりと、やりたい放題の問題児だと聞きましたが?」

 母の問いかけに会議室の空気が凍てついた。久保先生だけではなく、他の先生たちからも様々な悪臭が漏れ出して、会議室に充満する。

 すごくきつい。鼻が曲がりそう。

 室内に籠る生々しい匂いに、僕は今、誰かの腹の中にいるんじゃないかと考えてしまった。
 誰の? もしかして神様の?
 調理するシェフは僕の母であり、息子の不幸を最高の調味料にして、大川くんは生贄の子羊。
 久保先生は前菜で、先生たちの悲鳴が極上のワインになる。

 どうだ? とても美味しいだろう。と、見えない神様に向かって、心の中で独り言ちる《ひとりごちる》。

「はい。直人君はいつも元気で、力の加減が分からないのでしょう。ですが、この子は理由なく暴れておりません。オモチャの積み木を振り回してケガさせたのは、違う児童が積み木で遊んでいる児童から、積み木を取り上げて泣かせたから。彼は意地悪な児童から積み木を取り戻して、身を守るために積み木を振りまわしただけなんです」

 僕は驚いた。てっきり彼は、暴れるのが好きな粗暴な子だと思っていたのに、大川くんは大川くんの理由があったのだ。

 大川くんの座っている席を見ると、大川くんは腫れあがった顔を、少し照れ臭そうに顔を赤らめて、瞳に光が戻ってきている。
 生気を取り戻しつつある大川くんに、僕は安堵し、彼が元気になるのなら、久保先生を応援したいと思った。

「女の子を泣かせたのは、その女の子がひどい言葉で多くの児童を泣かせてきたからです。大川くんがよく外に抜け出すのを止められなかったのは、こちらの指導不足でしたが、彼が幼稚園の敷地から外に出たことは一度もありません。それは、防犯カメラで毎日チェックしてきたから、職員全てが周知しています」
「ご両親との話し合いは?」
「それは、問題があればそのつど何度も、解決に向けて話し合ってきましたよ。ですよね?」

 久保先生が、大川くんの両親に水を向けた。

 大川君の両親――父親らしい体格のいい男性が、ガタっと勢いよく席から立ち上がり、母親の方は粛々とした様子で静かに席を立つ。双方とも青い顔をして、申し訳なさそうに深々と頭を下げた。

「はい。今回のことで、ウチの倅《せがれ》が本当に迷惑をかけましたっ! 倅にはいつも自分より弱いヤツをイジメるなって言って聞かせて、毎度毎度先生がたとも相談して、まっとうに生きられるように努力してきたつもりです。ホラ、お前も謝れっ!」

 ドンっ。と、大川くんの父親が隣に座る息子の頭をワシっと掴み、頭を机に叩きつけて、そのまま額を机にこすりつけた。
 ぐりぐりと煙が出そうな勢いで、大川くんの額が長机に擦り付けられて、周囲から悲鳴が上がった。

「謝れっ! 杉藤に逆らったら、もうここで生活出来なくなるんだぞ!!!」

 大きな口から泡をまき散らし、怒りと悲鳴が混ざった声をあげる。

――ドン、ドン、ドンっ!

 信じられない、容赦のない暴力の嵐。
 大川くんの頭が、トンカチのように何度も机に打ちつけらる光景に、全身の血が凍ったように冷たくなる。
 いつも見知っている体が物のように扱われ、硬いものがぶつかり合い、鈍い音が不気味に響く――モノが壊れていくイヤな音。
 大川くんのお父さんの血走った目と顔。大きな体から漂う、唐辛子に近い赤い臭気は、たぶん、息子《大川くん》が死ぬまで止まらない。
 
 やめて、このままじゃ。死んじゃう。

 集まる周囲の視線に対して、母親の方は父の折檻をとめるどころか、目を逸らし媚びるように笑い始めた。
 目元をぴくぴくと痙攣させた光のない瞳。ひっつめた黒髪は脂ぎっていて、久保先生より細い体は枯れた枝そのものだ。大川くんの母親からは、腐った水を凍らせたヘドロ色の氷の匂いがする。

「あぁ、気にしないでください。これは、躾《しつけ》。我が家の躾なんです」

 へらへらと笑う大川くんの母親は、感情のこもらない平坦な声で説明した。先生たちも思いがけない展開についてこれず、会話を向けた久保先生も顔を青くして硬直している。

「謝れ! 謝れ! 謝れ!」

 ――ドン、ドン、ドンっ!

 容赦なく、大川くんの頭が叩きつけられる。痛みで抵抗も出来ず声も出来ない大川くんに、父親の方は苛立った様子で歯噛みし、こめかみにミミズのような血管が無数に這いまわっていた。

「……う、ふぇっ」

 謝罪を求める汚い声に、この場にいる子供たちから嗚咽が漏れた。目の当たりにした大人の暴力に恐怖を感じて、生まれたての子猫の声で両親に助けを求める。しかし、大人たちはなにもできない。
 もしかしたら、母の背後に蠢いている杉藤の存在に怯えて、下手に介入できないのかもしれない。

「やめて!」

 僕は耐え切れなくなり声を上げた。
 僕の声に、大川くんのお父さんの手が止まる。
 机に頭をつけたまま動かない大川くんの様子に、不安が胸を圧迫して全身から粘ついた嫌な汗が流れた。

「大川くん、だいじょうぶ?」
「う、るせえ、しね」

 かろうじて絞り出された悪態に、僕は安堵を覚えた。
 ゆっくりと上体をふらつかせて、頭をあげた大川くん。
 額はぱっくりと割れて、血の筋が涙のようにさらさらと滴らせている。
 ぽたぽたと音を立てて長机に落ちる血の雫は、触れたら熱そうで、見ていて奇妙な高揚を覚えた。

「馬鹿野郎! せっかく、坊ちゃんがお前のことを気にかけてくれたんだぞ」
「そうよ、このバカ! なんてことしてくれるのよ」
「いい加減にして! 救急車呼んであげて」

 尚も罵る大川くんの両親に、僕は負けじと大きな声で訴えた。
 もしかしたら、こんなに大きな声を出したのは生まれて初めてだったのかもしれない。
 だってそうだ。大川くんが僕のせいで傷ついているんだ。
 苦しくて悔しくて涙があふれてきた。

「そうね。いい加減にしてもらいたいわね」

 母も化粧で整えた顔を、うんざりと歪めて息を吐く。

「大川さん、お宅の教育方針がよぉくわかりました。どうやら、お父様は暴力を都合よく使うことで、息子さんを教育しているんですね。これでは息子さんも、トラブルの解決手段として暴力をふるうのは当たり前です」
「そして、先生方も」と、母の瞳が炎のように物騒に輝く。

「久保先生の説明から、普段の教育が行き届かないことで、大川くんが暴力的な手段で解決していることを容認しているように感じました。まるで、草刈りで根っこの部分を駆らずに葉だけを刈るような手抜きですね。防犯カメラに頼って、園児の行動を把握しているのにも引っ掛かりました。そもそも、久保先生が昼寝の時間に寝てしまったことで、大川君がうちの息子を連れだしたことを許してしまったんですよね。園児が出ないように教室の扉を施錠しなかったのも問題です」

 立て板に水とまくしたてる母は、逃げ場を失くす勢いで、久保先生の説明を一つ一つ潰していく。

「そんな、私達は日々園児たちのことを考えています。断じて手抜きなんて」
「でしたら、積み木を取り上げる園児にしろ、汚い言葉を使う女児にしろ、先生方がすぐに指導しないことが原因で、大川君が暴れたのでしょう。大人として、子供を監督する教育者として恥ずかしくないんですか!」

 最後に怒鳴る母は、すっと目を細めて後ろで震えている園長先生に視線を定める。

「来年から幼稚園の寄付を打ち切りますが、それでいいですねわよ」
「そ、ま、待ってください」
「そして、大川君のお父さんとお母さんは――」

 母は止まらない。彼女は酔っぱらっているからだ。
 この場を支配している自分に、息子の不幸で醸造した黄金の蜂蜜酒に。
 彼女の酔いやすい体質に、幼い僕は生まれて初めて嫌悪した。

【つづく】

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