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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_閑話_01


 1989年12月25日(月曜日)

 気が進まないな。

 岡道 栞奈《おかみち かんな》は、ため息を我慢して改札を出る。毎年恒例の12月25日《くりすます》ならば、気の合う友人たちとクリスマスパーティーをして、夜には家族とクリスマスケーキを食べて、思いっきりだらだら過ごしていたはずなのに。

 ぐちぐちと脳内で愚痴をこぼして駅前の広場へ出ると、雪がうっすらと被っている山稜《さんりょう》が見えた。空気も心なしか住んでいる地域よりも冷たく、通り過ぎる風は皮膚を抉るかのように鋭利だ。

「思った以上に田舎ね」

 失望と納得が入り混じった感想が、紅をひいた口から零れる。
 駅前広場をぐるりと囲む商店は閑散としていて、近くに学校があるのか、下校途中の学生たちが、広場の横にあるバス停でたむろして、見ていて少し寂しいような懐かしさを感じた。

 山下達郎のクリスマスソングと一緒に冷たい風が流れて、そこかしこに飾られているイルミネーションは、何度も使いまわされたことが分かるみすぼらしさ。今にも雪を降らせそうな灰色の雲が、全体の景色を陰鬱に翳《かげ》らせて、クリスマス特有の賑やかさを徹底的に排除している。

 どうして自分が今、華やかな都心を出て、ここに居るのか分からなかった。

「岡道さん、ようこそ。山中崎へ」

 辟易して、声のする方向に振り向いた。ややオーバー気味に手を振り、彼女を出迎えるのは東 修一《ひがし しゅういち》――岡道 栞奈の婚約者だ。

「こんにちは、東さん。クリスマスディナーに呼んでくださって嬉しいわ」

 我ながら白々しいと思ってしまう。彼が婚約者じゃなったら、無視して素通りしているだろう。確実に。

 東は育ちのよさそうな顔に満面の笑みを貼り付けて、すぐそこの道路に停めている黒のセルシオへ岡道を誘導した。
 手をすいすいと泳がせる仕草が、獲物を誘い込もうとするイソギンチャクのように見えて、なんだかイヤだった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 川沿いにあるホテルに車が止まる。時刻は午後七時。
 最低でも最長でも、ディナーは一時間が限界だと岡道は頭の中で計算する。
 八時に帰れば九時ぐらいに家に着く。クリスマスとはいえ明日は火曜日だ。私的な理由で会社を休むわけにはいかない。

「岡道さん、安心してください。ここのホテルのバイキングは絶品なんですよ。なんでも、シェフが赤坂のホテルに勤めていたとか」
「えぇ、そうなの。たのしみね」

 うきうきと話す東に、岡道はふんわりと笑いかけながらホテルのエレベーターに入った。目指すのは最上階のレストランであり、すでに彼の両親が予約席に座り岡道を待っているという。

 好きになれるのかしら。

 彼も含めて彼の両親も。
 職場の上司に薦められたお見合いから、結婚を前提に付き合って三ヶ月。上場企業の幹部候補で、実家も裕福と言う優良物件だというのに、東とデートを重ねれば重ねるほど嫌悪感が強くなる。

 会話がかみ合わない。いつの間にか彼《東》の中で結論が出て、決定事項を押し付けられる。箸の持ち方を含めて食べ方が汚い。外見や服に気を使っているけど、当人の品のない泥臭さが目立つ――だけど、その分、仕事が出来る。

 このクリスマスディナーは上司も知るところであり、逃げることが難しくなるだろう。

 レストランに入ると、大きなケーキが富士山のようにそびえたつのが見えた。これからクリスマスケーキとして、このケーキが切り分けられるというので、東は岡道をそっちのけでケーキのほうに直行してしまう。

 どうしよう。彼の両親がどの席にいるのか分からないというのに、彼は岡道をそっちのけで、皿を持ってケーキの列に並んでしまった。

「こちらで、ケーキにかける特製ソースと、盛り付けのアイスとフルーツをご用意しております。どうぞ心行くまで、当店が用意したクリスマスディナーをご堪能ください」

 ウェイターのアナウンスに周囲の熱気が高まる。テーブルに置かれた銀の盆に、センス良く盛り付けられた色とりどりのフルーツとアイスが、華やかな期待をこのフロアにいた客たちに抱かせた。
 岡道だけを残して。彼女だけは冷ややかな目で、ケーキとフルーツに群がる蟻のような人々を見ていた。東とではなく、友人や家族とだったら喜んでケーキの列に並んでいたのだろう。と、鮮やかに想像できる分、気持ちが夜の海へ沈んでいく。

 ケーキは本当においしそうなのに、気持ちは台無しだ。
 悲惨すぎて笑えない。

 ここまでぞんざいに扱われたのなら、帰ったとしても文句は言われない……はず。

「えっと、あなたは岡道 栞奈さん、かしら……?」

 帰ろうとしたところを、いきなりフルネームで呼ばれて肩がびくりと震えた。

「えぇ、そうですが」

 肯定して振り向く。声をかけた主は年齢は50代ぐらいの女性だ。身なりがよく、微笑むとどこかあどけない印象があった。

「あぁ、よかった。写真を拝見しただけで、間違えていたらどうしようかと思ったのよ。今日は来てくれてありがとう。修一はどこかしら? ちゃんとエスコートできた?」

 母親か。

 もっと、早く、レストランを出ればよかったと後悔しながら、岡道は無理やり笑顔を作り、肩をすくめて手のひらをケーキの列に向ける。
 初対面の相手に対して、失礼かつ雑な対応であるが、東の母親は岡道の態度に「あぁ」と、深く、疲れたように頷いただけだった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 予想できたことだが、食事の席は最悪だった。
 東の父親も、息子に負けないほどの汚い食べ方で、親子二人が奏でる身の毛のよだつ咀嚼音《そしゃくおん》に、周囲の目は当然厳しい。
 居た堪れない母親は、音を立てずに静かに食べるが、ナイフとフォークを使い慣れていないせいで、箸を使って食事をしている――それだけならまだいいのだが、持ち方が握り箸だ。

 下品な上に、致命的にプライドが高い。三者の食事風景から、東家の縮図が見えた気がして、岡道は紹介した上司の顔を潰さずに、うまく断る理由を考える。いくら裕福だとしても、結婚したら確実に苦労するのなら意味はない。
 油絵のように、嫌な記憶が塗り重ねられていく人生なんて、生きていく意味すらないではないか。

 せっかくのクリスマスなのに。

 落ち込む気分を鼓舞しようと、岡道が皿に盛ったのは、鴨肉のオレンジソース掛けに、ウニの海鮮ムース、緑黄色野菜のグリル。クレソンが添えられているサケのムニエルに、小さな七面鳥。

 本当はケーキが食べたかったのだが、前菜もなにもかも無視して、ケーキにかぶりつく東の姿と、時間がたつごとに残骸と化していくケーキだったものに、食べる気が失せてしまった。というよりも、ぐちゃぐちゃなスポンジと赤いソースが妙に生々しくて吐き気がした。

 母親は息子に対して、形だけたしなめるのだが、息子はどこふく風であり、父親がさらにひどいのだから手に負えない。

 婚約者に対しての挨拶もそこそこに、乾杯も「いただきます」もないまま、食事に突入したクリスマスパーティーはまさに拷問だった。

「ところで、栞奈《かんな》さんは」

 ようやく胃袋が落ち着いてきたのか、東の父親が話しかけてきた。
 だが、なんの前置きもなく名前をいきなり呼ばれて、岡道の反応が遅れてしまった。

「お父さん。いきなり名前を呼んじゃって、岡道さんがびっくりしているわよ」

 岡道の顔色を読んで母親は注意を促すが、父親の方はニヤリと卑しく笑い「いいじゃないか」と一蹴する。

「どっちみち、栞奈さんはうちの嫁になるんだから、名前で呼んでも良いだろうに」

 父親の言葉も一理あると思ったのか、東も軽く頷き。

「そうだね。いつまでも名字に呼び合うのも変な話だし、ちょうどいいのかもしれないね」

 べたべたとした笑顔を向ける東に、岡道は様々な感情が津波に如く押し寄せてくるのを感じた。こんな時に、両親や弟たちが同席していないのが痛かった。

 今日、東の住んでいる山中崎市のホテルで、クリスマスディナーをすることは、先月から通達されていた。しかし、東の両親が同席すると電話があったのは昨日の――クリスマスイブの夜だった。
 あまりにも直前すぎた。岡道の両親も是非っと言われたが、共働きをしている両親のスケジュールが合うはずもない。まだ学生である弟たちを頼るのも気が引ける。

 昨晩の一件で、岡道の両親からみた東――というよりも東家の評価は地に堕ちて、弟たちも警戒する眼差しで姉をみた。
 
 こんなヤツ等でいいのか。一人で大丈夫なのかという、もの言いたげな視線に、岡道自身が楽観視していたのが間違いだった。

「申し訳ございませんが。私はまだ東さんと、結婚を決意できるほどの踏ん切りがつきませんので、名前を呼んでくださるのはご遠慮できませんか?」

 遠回しの拒絶だったが、自分の発言が火に油を注ぐとは、想像も予想もしていなかった。

「ほう、つまり。うちの修一では不足があると?」

 父親の言葉に、硬く冷たいものがこもる。表情は穏やかさを保ちながら、内側から流れ出す威圧感に、岡道は自分の失言を悟った。

「うちの修一は有名大学を首席で卒業して、君でも知っている一流企業の幹部候補だ。そんな息子と結婚を前提に三ヶ月付き合ったのだ。どこに不満があるのだというのだね。仕事をしているが君はどうせ腰掛なのだろう? 専業主婦と言う幸せが約束された身分が手に入るというのに、どうして即答できない。遠慮だとするのなら無礼な話だし、返事をじらしてこちらから譲歩を引き出そうとするのならば、もっと悪質だ。不愉快だ。こんな性悪な女性なら、死んでもいいとさえ思ってしまう。君は選ばれたのだよ。光栄に思うと良い。やるべきことは修一と結婚して、孫を三人産む。長男、次男、そして長女の順だ。ちゃんと産み分けないと許さないし、同居はもちろん、私の母の介護もお母さんと一緒にやってもらう。なに? それのどこに不満がある。世間一般的な常識の範疇だ。それが異常だと感じるのなら、君の両親が共働きで、父親が母親を専業主婦にできない甲斐性なしな上に、母親が生意気にも仕事をしていることで、君は世の女性の模範を知らないで育ったからだ。分かりやすく言うと世間知らずにすぎない。それなら、うちの嫁に来て教育してやろうではないか」

 突然の演説に岡道は唖然としてしまった。まるで、溶岩流のように垂れ流される、暴力的な言葉の氾濫に、驚愕を通り越してうすら寒いものを覚えた。
 父親の演説に、うんうんと頷く東がとても不気味で、母親は虚ろな目で岡道を見ている。

――その瞳に岡道の記憶が刺激された。

 いい? 安易な気持ちで結婚しないこと。結婚は奴隷契約だと自覚していない人が多いのよ。あなたはちょっと、想像力が乏しいから、お母さんは不安だわ。

 両親は折に触れて、娘や息子たちに幼い頃のエピソードを語った。
 子供たちの想像力を補う手段として、将来訪れるだろう災難を回避するために。

 生活費を人質にとって浮気三昧。ちょっとしたミスで蹴りと拳が飛ぶ。気に入らないことがあれば、風呂場で恫喝と説教、集中力が途切れる瞬間を狙って水をかけられる。友人関係に口出しされて、門限を一分でも守らないと、竹刀でめった打ちにされる。自由が許されない。自分以外の家族が、ただ笑っているだけで怒り散らす。家計の為に稼いだアルバイト代が盗まれる……。

 父と母が交互に語るエピソードは、だからこそ、対等な関係を望んだことに帰結し、お互いを認めて結婚したのだと結ぶ。仕事をこなし、子育てと家事を分担するという理想と、今自分たちが感じる幸せ。そして、両親が逃げてきた奴隷制度の世界が、この日本では当たり前だという現実。

 岡道は両親の話を、話半分として聞いていた。そこまで、我が子と妻を虐げる夫の姿を想像できなかったのだ。

……それが今、目の前に迫ってきている。
 岡道の尊厳を踏みにじり、従順な奴隷に作り替えようと、イソギンチャクのような醜い触手を伸ばしている。

 い、いやだ。

 脳裡にありもしない記憶が再生される。
 話半分できいていた父と母のエピソードが、岡道自身に置き換えられて、虐げる側が東一家だ。

 徹底的にいたぶられて、奉仕されて、奴隷のように酷使されても感謝一つ返されることはない。

 そんなのはいやだ。岡道は結婚をして、子供を産んだ後も仕事をしたいと痛切に感じていた。会社の仕事は女だからということで、責任のない雑用中心だったが、周囲が気持ちよく仕事できる環境を作る――それは、とても重要な仕事に思えたし、英語が得意で学生時代に英語検定1級をとっていたことが幸いして、英文で構成された書類のチェックをまかされるようにもなった。

 やることが増える分、幸せも増える。子どもを産んだあとも、それは変わらない。連理の枝《れんりのえだ》のように支え合う両親のように、自分もなれると確信していた。

 なのに、どうして、私は安易に流されてしまったのか。

 それは、充足感と刺激に満ちた毎日をおくる一方で、同じ会社で働く同性たちが、岡道を目の敵《かたき》にし始めたからだ。

 専業主婦が女の幸せだと信じている彼女たちにとって、仕事が出来て、上司に重宝されはじめた、岡道の存在が脅威だった。
 女でも、満足に仕事がこなせると男たちが認識したら、自分たちも岡道と同レベルの仕事を求められる。

 彼女たち曰《いわ》く。
「男という存在は、めんどくさがりのバカが多いから、女も仕事が出来るとわかれば、女は家庭に仕事にと搾取される」
「男性社員が、ことあるごとにあたなを引き合いに出して、虐めてくる。とてもツライ。もう会社に来ないで欲しい」
「あなたの頑張りは認めるけど、男はあなたが思っている以上にずるいの」
「関心がないのだろうけど。君のせいで、同じ部署の由紀ちゃんが、妊娠しても仕事を休ませてもらえない事態に陥っている。そのことは知っている?」

 等々だ。
 上司は部署の空気がおかしくなっていることに気付き、軌道修正を図るために、トラブル元である岡道を穏便に辞めさせようと考えたのだろう。
 女が飛びつきそうな優良物件を用意して、寿退社させようと東 修一を紹介したのだ。

 東 修一と、その家族はどんな人物なのかという――重要な部分を無視して。

 そして、同僚たちとの関係に悩んでいた岡道は、上司が薦める海老に飛びついてしまった。一見するとおいしそうだが、中身は相当腐っているなんて想像が及ばなかった。

 母が言ったように、自分には想像力があまりなく、事態を楽観視して最悪な方向に首を絞めていく。今回はとても最悪な方向に。イソギンチャクの触手が体に絡まって、吐き出される毒にやられて身動きがとれない、バカな小魚のように。

「しかもなんだね、君のその恰好は! くたくたなスーツ姿で恥ずかしくないのか」

 東の父は語っているうちに、増々感情を昂らせて顔を真っ赤に染めていた。自分の言葉で自分を怒らせて、口調がさらにとげとげしく攻撃的になっていく。

「そんな、私は東さんにあらかじめ言いました。この待ち合わせ時間だと、会社帰りでそのまま電車に乗らないと間に合わない。スーツ姿で化粧もあまりなおせないから、大丈夫かって……」
「言い訳するな!」

 岡道が弁明すると、東の父親が拳を振り上げて、ハンマーのようにテーブルにうちおろす。
 ガシャンと食器類が振動で揺れて、耳障りな金属音を鳴らし、純白のテーブルクロスが拳を中心に渦を巻いた。
 周囲の視線をいやでも感じながら、岡道は一縷《いちる》の希望をかけて、助けを求めるように東を見ると、当の婚約者は朗らかな笑顔を浮かべたまま言う。

「ごめんね。まさか、本当にその恰好で来るとは思わなかったんだ。うちの両親が来るって電話もしたしね。まさか、最低限のTPOをわきまえずにここまで来るとは思わなかったんだ」

 ふざけるな。という、言葉を喉の奥に押し込めて、岡道は東を睨んだ。悔しくて涙が出そうだった。

「やはり、仕事をすると女はバカになって思いあがるのだな。君を見てよくわかったよ。仕事をする女は人間じゃない。サルだ! 礼儀知らずのサルは教育ではなく、調教をする必要がある!」

 もはや止まらないのが分かっていた。ヒートアップする東の父親に、頭を垂れたまま、岡道は皿に盛られた食べかけの料理を見る。

 今日はクリスマスなのに、去年はみなでたのしく過ごしていたのに。

「ちょっと、よろしいでしょうか。東 修《あずま おさむ》さん、ですよね?」

 岡道はびっくりして顔を上げてしまった。

 父親の名前を呼んでいることから、知り合いなのかもしれないが、この事態を打開してくれる人物なのか分からなかった。

 ぽんっと、気軽に、東の父親の肩に手が乗せられた。岡道の周囲が一瞬で凍り付き、緊張を孕んだ空気が流れる。
 流れは最悪だった。東の父親は、せっかくの演説を中座させられて、赤い顔がさらに赤黒く濁り、憤怒の形相になる。

「なんだね! 今……」

 反射的に肩に乗せられた手を振りはらい、苛立たしげに席をたつ。
 だが、動きがそこで、ぴたりと止まってしまった。
 振り払った相手の正体を知り、全身からたちまち、憤怒の熱が湯気のように抜けていくのを見えた気がした。

「今?」

 岡道は目の前の光景が信じられなかった。唯我独尊を地でいくこの男が、言葉を詰まらせて大きく目を見開いている。
 東も彼の母親も、父親を止めた相手に顔を青くさせていた。

「す、杉藤様っ! どうしてここに?」
「どうしてって、ここでクリスマスディナーを楽しむためだが? 別に君の許可が必要なわけでもあるまいに」
「そ、そうですね……は、ははは」

 媚びるように笑う婚約者の父親。東も母親も、ナプキンで口元を拭いたり、箸を置いたり握ったりとせわしない仕草で、視線を交互に見合わせている。

「いやぁ、賑やかすぎてうちの家族の席まで声が届いてね。今日は息子の友達も交えてクリスマスを楽しもうとしたのだが、ちょっと聞き捨てならない内容を耳にしてね」

 穏やかで芯のある声だった。父親の神妙な態度から、かなり頭の上がらない人物なのだろう。いや、もしかしたら首根っこを押さえられるほどの権力を持っているのでは。と、急降下した東家の態度を観察する。

 どんな人物なのだろうか。立ったままの状態で固まっている、東の父親が壁になっているせいで、杉藤と呼ばれた人物が見えない。おそらく、ひどく小柄な男なのだろう。

「東さんは、仕事をしている女性は人間ではない――サルだと主張しているが、だったらうちの妻はなんなのだ。妻は結婚する前に仕事をしていて、私が無理を言って専業主婦になってもらったんだ。家事はもちろんだが、それだけではない、私が仕事で行き詰まった時、私には思いつかないアドバイスをしてくれたり、新鮮なひらめきを与えてくれる。東さんは、どのような意図で社会で働く女性を貶《おとし》めているのだ? ん?」
「そ、そんなつもりは、ただ、彼女があまりにも無礼だったので」
「無礼だと、私は感じなかったぞ。むしろ、せっかく来てくれた娘さんに対して、東さんがはたらいたことが無礼ではないのか?」
「それはありません。彼女はうちの嫁なのです。嫁を躾けるのはうちのルールなのです」
「そうか。ではあくまで、そちらのルールで話を通すというのなら、うちもうちのルールで話を通そう」

 ルールを通す――という言葉に、東家はおろか、レストランフロア全体の空気が一変する。暖房が効いてあたたかいはずの室内が、ホテルの外よりも冷え込んだように感じて、岡道の肌に無数の鳥肌を立てた。

「お嬢さん、災難だったね。明日は仕事を休んで心を落ち着けると良い。これは、せめてもの心づけだ」

 と、仕立ての良いスーツの袖が伸びて、テーブルの上に万札が五枚置かれた。

 逃げられる。

 そう悟ると、岡道の行動は速かった。
 万札を掴んで勢いよく席を立つ。上司の評価はこの際気にしない。
 緩んだ触手の隙をついて逃げ出す魚の如く、居るべき住処《すみか》へと逃走する。

 あ、そうだ。

 レストランを出ようと、入り口のレジを通過しようとした時、岡道は彼女にとって重要なことに気付いた。

 そういえば、お礼を言ってない。

 他人にとっては些細なことであるが、彼女にとっては地獄から脱出できる蜘蛛の糸を垂らしてくれたのだ。
 せめて礼を言わなければ気が済まない。
 岡道は振り返る。振り返った先では、両目がぎょろりと飛び出している異形の小男がいた。向かってすぐ横に東の父親が、惨めにぺこぺこと頭を下げている。
 だとするなら、異形の小男が、自分を救ってくれた「杉藤さん」なんだろう。
 異常な顔立ちに面喰ったが、見た目で差別してはいけないと理性が感情を押さえつける。

 見た目なんて些細なことだ。
 杉藤さんは自分を救ってくれたのだから。

 意を決して感謝の言葉を絞り出そうとする。

「…………」

 だが、岡道の口から感謝の言葉がでることはなかった。
 小男に走り寄る子供が目に入り、あまりにもおぞましい子供の顔に、感謝の念が頭から吹き飛んでしまった。

 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。

 眼球を通じて、自分の中に気持ち悪いものが侵入していくような、強烈な感覚があった。目の奥が倦んだように痛み、眩暈と吐き気、寒気、ありとあらゆる病が全身に駆け巡り、魂を直接けずりとるほどの命の危機を感じた。

 いやっ! 眼が腐るっ!

 目の奥が熱く、痛みで次々と涙が押し出されていく。そのまま涙にのって、目玉が外へ零れ落ちそうな痛痒に襲われて、岡道は両手のひらを目に押し当てて走った。

 東家の振る舞いよりも、醜い顔の子供の存在が衝撃的だった。こんな奇形が存在しているだけで罪だとさえ思った。

 岡道はそのまま逃げた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 あれから、三十年以上経過した。岡道はバツイチでありながら、そこそこ幸せに暮らしており、二十代に経験した地獄のクリスマスを忘却の彼方に沈めていた。

――臨時ニュースで、山中崎の山奥から、大量の人骨が出てきたという、速報が流れるまでは。

 令和史上の最低最悪の殺人鬼として【杉藤 俊雄《すぎとう としお》】がメディアを賑わせるのは、速報の数日後だった。

 岡道は直感した。あの時の、あの子だと。

 手配写真の顔は、記憶の中のおぞましい顔ではなく、中性的な天使のような容貌で、かなりの頻度で整形手術を繰り返してきたことを、ニュースは大々的に報じていた。

【つづく】

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