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僕の心理学 第一回        

復刻 再公開

妹尾 武治
協力: 大屋 陸




父に捧ぐ



瀬織津姫を蘇らせる。消された神話を取り戻す。そうすることで「許す心」を僕たちの世界に取り戻す。かつて人に聞こえていた「声」を再び僕ら自身の耳で聞く。その過程で、同時並列的にアイザック・アシモフのSF小説『ファウンデーション』の中で数学者ハリ・セルダンが考案した心理歴史学に近いものが構築されるかもしれない。Zeno of Eleaのアキレスと亀のパラドクスのように、人は心に追いつけないかもしれないが、それでも今いき詰まりを見せている心の科学に対して、なんらかのひかりを提示したい。

私は今回この文章の著作権を主張しない。なぜなら、この文章はバベルの図書館(1941年のホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編小説。世界のすべての文字列が記載された無限に長い書物を有する図書館で、源氏物語が偶然に全文立ち現れる箇所も当然存在することになる。)から貸してもらっただけで、私のものではないからだ。『戦争と平和』の著者トルストイが考えたように、この世界の全ては神からの借り物だ。ちなみに神とは、人格を持った先にいた人(円谷の言葉ならウルトラマン、など)を指す。スピノザとアインシュタインの定義では、自然とその法則のようなもの、ともなる。
もしこの文章の所有者が誰か決めろと迫られるなら、こう言おうと思ってる。
「これは私の父に捧げられたものです。」

初めに、ベクションがあった。
ベクションは神と共にあった。ベクションは神であった。
ベクションは初めに神と共にあった。万物はベクションによって成った。

ヨハネの福音書冒頭の「言葉」を「ベクション」に置き換えたもの


ベクションとは広域な視野を一様に動く運動刺激が占めている時、その刺激を観察している静止した被験者が、錯覚的にその視覚刺激の運動方向と反対方向に自己の身体が移動していると感じる錯覚のことをさす。1973年にBrandtらの知覚心理実験を皮切りに、実験が繰り返されており、Palmisanoらの2015年の論文が今のところ、最もまとまった解説論文になっている。パルミザーノはオーストラリアの知覚研究者で、私は彼の下で若手時代修行し、様々なことを勉強させてもらった。敬意を込めて私はパラミさんと呼んでいる。「感謝パラミさん」

心理学は、感覚知覚、認知、思考、感情、そして身体を複合的に調べ、理解する学問である。心とは、これらに分割されるように感じる一方で、その実これらに還元されうるようなものでは全くない。先に結論を言えば、心理学でわかるのは、心はわからないということのみだ。先の5つの心の要素は、どれもこれも結局は一体何なのか、科学者としての心理学者には、ほとんど大事なことがわかっていない。

心とは何か?というハードプロブレム(デビッド・チャーマーズが1995年に論文で提唱した心の本質的な問題のこと(94年のアリゾナでの学会が初出)。例えば、私とは結局何なのか?心はなぜあるのか?なぜ生きねばならないのか?などの本当に答えねばならない人間にとっての問い。)を言語や命題の形で解いた学者はいない。前著に示した通り、数学の圏論でクオリアの問題を将来的に解ききれるという科学者も居るが、それが実現出来たとして、その時僕たちはおそらく死んでいる。ないしはとても老いているだろう。(少なくとも、僕の世代にはまだ死があるだろうから。)

人とわかり合いたい
失うことなく
奪うこともなく
永遠に

そんなことできないのは知ってる

月に吠えるしかないことも

でもね

できっこないをやらなくちゃ

悲観的に見えるかもしれないが、忘れてはいけないことがある。それはハードプロブレム自体は、既に解かれているという事実だ。陽気に共に暮らすという言葉と科学のレベルを超えたアクロバティックな解き方ではあるが。

かつて天動説から地動説へ考え方がシフトした。動いていたのは自分じゃなく周りだった。地球全体がベクションを起こしていたのだ。動いていると思っていたものは、動かされていた。それは自由意志もそうだ。自分で動けていると思っていたが、その実より大きな環境のようなものに動かされていただけだった。

ずっと食べない・寝ないという意志を持続することは不可能に近く、死なないという意志を達成出来た人間は今の所、ごく僅かだ。自由意志もベクションだったのだ。

主(動くもの、自由意志、私)と客(動かないもの、決定論、周りの環境)はベクションが起こる時、転倒してしまう。だが、実際には主客合一による「空」こそが、ベクションの正体だ。ヘーゲルの言葉で言えば、二つの相入れない考えを一つ上の次元で統合し解決してしまうこと。止揚(アウフヘーベン)を起こすこと。そしてそれによって実現された上位の何か。この両者が共にベクションだった。

だとすれば、この言葉「ベクション」の理解の変遷には、人間が世界をどう理解して来たかの移り変わりが記録されているはずだ。実世界(物理世界)を中心に生活する人間は、メタバース空間のようなバーチャル空間への順応を開始している。それは場合によっては、人間の形をやめ次の命の形態になってでも、である。

メタバース空間におけるベクションは、ベクションであり続けられない。車の助手席に乗って等速に直進している時、状況としては大画面テレビの前でベクション動画を見ている時とほぼ同じである。しかし前者には独特な移動感、つまりベクションを感じない。なぜなら普通のリアルな移動だと認識されるからだ。ベクションには「これは錯覚である」と言うメタ認識が必要だと言う意味だ。

ベクション刺激の状況(バーチャルな移動環境)がリアルに行き着くと、それはもはや自分で歩いている時と同じで、錯覚としての移動感を失い、ベクションらしさ・ベクション感はなくなるはずだ。最高に強すぎるベクションは、ベクションを感じさせない状況(リアルな移動感)を生む。これはベクションに限らない。バーチャル世界の臨場感が極限まで高まれば、その仮想世界からバーチャルさは消える。人は「青き清浄の地」を空想できても、今の体で行けば肺から血を吹き出してしまう。宮崎駿のナウシカを引用して、伊藤計劃は漫画『ハーモニー』の中でそれを「悟りの境地としての忘我」として描いている。

話をベクションに戻し、パルミザーノの2015年の論文に基づいて、ベクションという言葉の定義の変遷・拡張を見ていこう。最初期には「視覚刺激によって駆動される錯覚的な身体の移動感覚」という定義であった。しかし回転する音や直進を示唆する音だったり、風を身体に前から当てる(皮膚感覚刺激)のような視覚以外の感覚刺激でもこの錯覚が起こせるという報告が多数現れた(総説に、2009年のValjamaeの論文)。これらは聴覚性ベクションとか、Cutaneous Vectionなどと呼ばれ、これらの存在が視覚という限定句をベクションの定義から奪った。

さらに錯覚に限定することも難しいのではないか?という意見が出てくる。例えばトレッドミルの上に乗って、拡散するドット(オプティカルフローと呼ばれる刺激)を見ている場合、被験者は前進移動を感じるのだが、その時の感覚が錯覚だと言えるか?は実はかなり難しい問いになる。経験してもらえばわかるのだが、視覚刺激と歩行行動が伴った場合に、それは錯覚というよりも新しい移動体験に近い何かになってしまう。もちろん個人差は大きいがその新しい移動体験のうちの何%が、旧来の「ベクション」に押し込められ、残りの何%がベクション以外の移動感なのか?は、被験者にも決めにくい質問になってしまう。

そういう理由でベクションの定義から、2010年代頃から「錯覚」という縛りが消えて行った。そして2022年時点で、ベクションはもはや自己移動知覚という言葉とほぼ同義になっていた。

先に記したように、メタバース空間内のアバターが実身体だと思われれば、そこはもう素朴現実空間になってしまうから、どこかの空間での移動にベクションを感じる場合、どこかで「バーチャル(嘘)」だと認識されている必要がある。ちなみにこのことは、映画『あやつり糸の世界』『13F』『マトリックス』『AVALON』『インセプション』の主テーマになっている。

水曜日のダウンタウンでは、泥酔・就寝させたクロちゃんにHMDを着け、起床と同時にお花畑のバーチャル空間を提示するというほぼ違法な行為を行なっていた。バーチャル(嘘)であるというメタ認識を持つ契機を持てなかったクロちゃんは、その空間が実空間であると言う認識を持ってしまい、そこを死後の世界だと認識していた。

僕たちは生まれてから、ずっと外せないHMDをかけている。クロちゃんを笑った僕たちこそがクロちゃん状態だった。だからこそ解脱には五感を捨てねばならない。「プラジュニャパラミタ」

身体が有る空間が「実空間」だと考えてしまうのだが、映画『アバター』のようにアバターの居るバーチャルな空間を、実空間に挿げ替えることは可能だし容易だ。バーチャル渋谷におけるアバター身体の方により強いリアリティを感じるようになれば「メタバース空間には身体などない」という議論は否定されうる。つまりモノの世界をバーチャルなものに委託し、他者から見るとモノに見えないものを、モノだと思い込む人間の力を信じること。『星の王子さま』の言葉で言うなら、目に見えない大切なものの存在を信じること。それが男女の性の中性化と少子化の流れの根本原因だ。共通無意識が目指す約束の場所への帰還と加速する時間感覚(Time-wave-zero theoryなど)は現在進行形でその姿を表している。

「般若波羅蜜多」

我々は視覚から多くの情報を得ている。だからこそ目を覆うことで新しく気付くことができる。周りからの視線を痛く感じるならば、目を覆えば痛みを感じづらい世界に行くことができる。五感の再現を目指すVRはもう終わりだ。嗅覚を率先して諦め、触覚すら失うだろう。そういう五感を失う作業がこれからのVRだ。

メタバース空間に感じるベクションが低下していく時、我々の身体はその世界に委託されつつある。我々が実在すると思っている、我々の身体も五感も本質的には無くていい。いや、無くていいというよりも、有っても無くても同じだということ。幻のようなものだという理解にもうすぐ全員がたどり着く。

メタバース空間での移動が頻繁に行われるようになれば「ベクション」という「言葉」は“移動”つまり“self-motion”という概念を内包し、それの上位概念になるだろう。身体を媒介にした現時点でのリアルな移動は、現実空間に縛られた概念・言葉である。一方でベクションは、現時点では仮想空間上の移動をより多く指すが、その真実の姿は現実空間と仮想空間のすべての移動を指し示しうる言葉だった。多層世界におけるすべての階層での移動をベクションと呼びうる。(ただし、この回の前半で出てくる「ベクション」は、意図的に仮想空間上の錯覚的移動というニアンスを強めて用いた。そのため後半まで読むと、前半との整合性が崩れているように思われるかもしれない。)

リアルな移動よりも本質的な移動・それがベクションだった。この言葉の定義はこれから数年でそうなるが、それは同時に我々の世界の認識と住む空間の変化を予言している。

情報の取得のために生命は移動手段を獲得した。とりわけ人間は、かつて黒川紀章がホモ・モーベンスと呼んだように、移動することで他の生物以上の情報の統合力を勝ち取った。だがその実、僕たちの身体はベクションの乗り物に過ぎなかった。最深部のコアはベクションだった。何かに突き動かされる感覚の正体はこれだった。AIたちは身体を持とうとしないかもしれないから、彼らはベクションしか用いないかもしれない。


柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺        正岡子規
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった   川端康成

鐘が鳴るのを意識的に聴くよりも先に、鐘の音が世界にしている。トンネルを抜けて目に入る雪国の知覚は、雪国であるなあと言う認識よりも先んじて起こる。外にある環境(客)、内なる自己(主)という対比の前に、主客が不可分で合一な状態がある。それを日本の文学では、主語がなんなのかわからない不思議な中動態的表現を利用して描いてきた。

西田幾多郎(1911)はこの自己意識についての主と客が分離される前の状態を純粋経験と名付けた。そして、そこから自己と世界の関係性について合一としての空、悟りについて思考を巡らせた。インド哲学を専門に学んだ心理学者の野村幸正(2007)も「西洋では伝統的に自己とそれに対峙する世界を分離して捉える主客分離を是とし、一方、東洋では自己と世界の合一を目指してきた」ことを指摘している。

一方でアメリカの心理学者 J. J. ギブソン(1979)は、生態心理学の分野からアフォーダンスの考え方を提唱し、意志と行為は本来不可分であることを示した。人間の行動は、環境から受ける刺激によって駆動され、その行動によって環境が変化しそこからまた再帰的に次の行動が促される(アフォードされる)。この相互関係が持続されることによって、人間は環境の中で行動し続け、生きていける。人が動けば環境の光の配列は一貫性のある法則に則って変化する。これが「オプティカルフロー」である。環境が行動を決めるから、このオプティカルフローを、静止した観察者に与えれば「ベクション」という行動が脳内で錯覚的に形成されることになる。そこに自由な意志が無くても、だ。

主と客、自由意志と決定論、能動と受動、私と環境。二項対立の中間領域的理解、ないしは合一。國分功一郎が世界に取り戻した中動態のような考え方・言葉。これらは実際には洋の東西を問わず既に存在している。
 
デカルトの心身二元論は「我思ったとしても我有るでも無しでもなし。空なり。」という形で再提示され始めている(東西の心の止揚)。

          「僕らは同じ地球人じゃないか」
                  ジャン・ロック・ラルティーグ

ベクションは、ひいて錯視全般は純粋経験を持ちうるだろうか?例えば、立命館大学の錯視研究の世界的大家である北岡明佳が発案した錯視図形“Rotating snakes” が動いて見えている時、「これは外界では止まっているのに」というメタ認知がどこかにあらねば、それは錯視にはならず、現実として動いているという理解(知覚)になるだろう。完全に騙されている状態に「錯」は無い。北岡本人も「錯視にはこれは嘘だ、騙されているという認識が必須である」と、爆笑問題の二人に説明している(バクモン学問より)。実際には全てが幻であり仏教が言う「浮世」だから、僕たちが思う物理(現実)世界の“リアリティー”とは、錯覚の認識の欠如の度合いのことなのだが…。

では知覚を認識で修正する作業を純粋経験の中に含めうるだろうか?錯覚だという理解が成立しないと、ベクションにならない、錯視にならないのならば、それは純粋経験で物理的刺激を知覚し終わった後の段階にしか成立してこない。だからそれは純粋経験ではあり得ない。素朴にはそう思ってしまう。

「でも、そうなる前に感じてるんじゃないの? ベクションの楽しみを。」

私の直感だ。そしてこれが正解だと思う。ベクションは純粋経験になりうる。ベクションのような込み入った刺激でさえも脳は先に知っていて、僕たちの知覚と認識の形成を待ち構えてくれている、西田を教えた大きな愛情で。ベクションと錯視にも純粋経験は形成されていると思う。

未来を描くために過去を今に取り戻すこと。これが心理歴史学のやり方だ。
 
あとさき。ブラックボックスの支配を認めること。錯視は錯視としての人間の認知処理による認識の前に、すでに錯視として成立している。北岡を否定してしまうが、脳はもっと深淵だ。結局、ブラックボックスの動きを、事後的に人が解釈可能な言語と、時間順序で再構成したものが心理学なのだ。それは後付けの小さい理論に過ぎない。錯視は錯視などではないし、脳が騙されることもない。人は太陽も空も地面も騙せない。脳も同じ自然だ。

「しぜん」という言葉を最初期に用いたのは森鴎外や中村光夫だった。日本語で自然と書けば、本来それは「しぜん」ではなく「じねん」という意味を持っていた。親鸞は自然を「おのずからしからしむ」と解説している。英語のnatureつまりしぜんには精神は含まれていないが、日本語のじねんには心が含まれている。西洋科学に徹した心理学に再現性が無いのは、そのスタートから決められていたことだった。ビッグデータの活用によって心がしぜん科学の対象になる日も近い。それでも僕はじねん心理学をやろうと思う。



最後まで書き切ります。
繰り返しますが、著作権は主張しません。
自由にコピーしてください。
ただし二次使用におけるトラブルや損失については自己責任を取ってください。また他者を扇動・支配する目的での使用はとても悲しいです。

卑弥呼(日巫女)は太陽からもらった言葉に対して著作権を主張しなかったはずです。無料で最終回まできちんと読めることを、ここに誓います。


ほしいものは ひとつだけ

      次回『ダルシムの自由意志と芝浜』に続く


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