世良一夢

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団塊世代が未来のためにできること

 1950年の戦後生まれ。団塊世代最終ランナーである。20世紀ど真中から、昭和、平成、令和と生きて来た。  生まれた年は朝鮮戦争、それを切っ掛けに日本経済が立ち直り、その後は高度成長、公害問題。学生時代はベトナム戦争、大学紛争。社会人になってからは数次のオイルショックと回復、バブルと崩壊、リーマンショックとその後の低成長。企業人としてそれら全てを経験させられた。Japan as No.1時代も知っている。中学時代に復興間もない前回の東京五輪も見た。  企業リタイア後、数年前か

    • ブラヒロシ東海道 25 総集編

      世良 一夢    愈々、今日は最終回です。これまで日本橋を出発点に二十四回に渡り、主要な宿場の様子と広重の浮世絵をご紹介してきましたが、今回はその浮世絵を借りて全体のまとめにしたいと思います。  広重の最も有名な東海道の浮世絵である保永堂版「東海道五拾三次之内」が描かれたのは、天保五年(1834)です。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が享和ニ年(1802)ですから、三十年程後のことです。文化文政の江戸文化爛熟期の後、黒船騒動の始まる前の比較的安定していた時期だっただろうと思いま

      • ブラヒロシ東海道24 京都編

        世良一夢  さあ、今日は京・三条大橋を目指します。大津からは三里(12キロ)、あと少しです。  大津宿を出るとすぐに、逢坂山隧道に入ります。近江国と山城国、滋賀県と京都府の境です。  逢坂山に入ると、平安初期の有名な歌人・盲目の琵琶法師蝉丸を祀った蝉丸神社が下社、上社、分社と沢山出てきます。「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」は非常に有名ですね。その関所跡のすぐそばに、峠の茶屋だった「かねよ」という今は鰻屋の店があります。茶屋の走井餅と言うのが名物だった

        • ブラヒロシ・東海道23 草津・大津編

          世良 一夢  石部宿を過ぎると東海道五十二番目の宿場、草津です。JR草津駅傍の本陣跡辺りに中山道からの合流点があり、それを通り過ぎて暫く行くと琵琶湖が現れます。そこが瀬田の唐橋です。  唐橋の北側に現在の幹線道路の瀬田大橋がありますが、丁度そこを通過する時に、大橋の橋の下で面白い情景に出会いました。まさにその橋脚の真下で若い男性が楽器の琵琶の練習をしていたのです。それが何と上手な事!どんな職業の人だったのでしょうかね。さすが京に近づいたと実感しました。  瀬田のすぐ近くには

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          ブラヒロシ・東海道22 土山・水口・石部編

          世良一夢  鈴鹿峠を越えると土山宿。近江国に入りました。 鈴鹿峠頂上にあった説明板によると、この峠道は仁和二年(886年)に開通したそうで、今昔物語の水銀商人が盗賊に襲われた話や、蝦夷平定で有名な坂上田村麻呂が山賊の首領を捕えた話など、山賊話が色々紹介されていました。  土山宿周辺には、この坂上田村麻呂ゆかりの名前が散見されます。浮世絵にある川が田村川、木々の向こうが田村神社だそうです。  ただ、田村麻呂の生まれたのは、天平宝字二年(758年)だそうで、少し時代が合わないよ

          ブラヒロシ・東海道22 土山・水口・石部編

          ブラヒロシ・東海道21 関・坂下・鈴鹿峠編

           世良一夢  伊勢神宮への寄り道から東海道に戻ります。四日市から伊勢街道を迂回したことで、石薬師、庄野、亀山は飛ばし、四十七番目の宿場、関宿に入ります。ここまで来ると東海道も終盤戦。最後の難所、鈴鹿峠を目指します。  関宿は東海道の中でも江戸期の町屋がそのまま残っていることで有名で、国の重要伝統建築物保全地区に選定されています。二百軒以上が1.8kmに続く様子は圧巻です。鈴鹿峠を控え、ここには関所があったそうで、広重はまだ明けやらぬ早朝の大名行列出立の様子を描いていますね。

          ブラヒロシ・東海道21 関・坂下・鈴鹿峠編

          ブラヒロシ・東海道20 伊勢特別編

           世良一夢  今日は東海道から少し外れますが、伊勢神宮迄足を延ばします。前回の四日市からは目と鼻の先です。東海道を歩いていると伊勢参りの人達で宿場が賑わったという話があちこちに残っています。江戸期には伊勢参りは大変なブームであったようです。  今回、私自身、生まれて初めて伊勢参りをしましたが、予想以上に素晴らしい所でした。一つの神社と言うより、天照大御神を祀る内宮と豊受大御神(衣食住の守り神)を祀る外宮を筆頭に、十四の別宮、六十七の摂社・末社等の百二十五の宮社を合わせて神

          ブラヒロシ・東海道20 伊勢特別編

          ブラヒロシ・東海道19 四日市編

          世良 一夢  今回は、桑名の次の四日市です。四日市と言うと化学やエネルギー系の工場群を思い浮かべますね。東海道沿いでは京浜地区を除くと唯一の工業都市で、今はコンビナートの夜景が人気らしいです。実は私はかつて化学業界で仕事をしていましたので、この地には馴染みがあります。四日市の工業地帯は、戦前に海軍燃料廠があったことから発展しましたが、そのせいで戦時に激しい爆撃を受け、街道遺跡は殆ど残っていません。東海道沿いでは軍施設があった平塚が同じでした。  この地には、名前の通り十五世

          ブラヒロシ・東海道19 四日市編

          ブラヒロシ・東海道18 桑名

          世良一夢  今回は、伊勢国・桑名宿です。「七里の渡し」と伊勢街道を控えて大いに賑わい、本陣が二、脇本陣が四、旅籠が百二十あったそうです。当時はお伊勢参りも盛んだったので、参勤交代の行列が重なりでもしたら、さぞかし大変な騒ぎになったことでしょう。 浮世絵を見て下さい。今到着した宮(熱田)からの舟でしょうか、乗船客で一杯ですね。後ろは徳川家康四天王・本田忠勝が作った桑名城で、三方を海で囲まれ、扇城と呼ばれた美しいお城だったそうです。今でも「蟠龍櫓」というお城の見張り台が

          ブラヒロシ・東海道18 桑名

          ブラヒロシ・東海道17 熱田

          世良一夢  今日は尾張国・宮(熱田)です。熱田神宮の門前町で、桑名への「七里の渡し」と名古屋城への別れ道として賑わったそうです。  熱田神宮の御神体の草薙の剣は有名ですが、境内もかなり広く、いかにも別格の神社と言う感じです。  浮世絵は、駈馬と言う祭りの神事です。この馬には神が降臨しているとされ、二頭競わせ、その早さでその年の作柄を占ったそうで、篝火の中での勇壮な祭りの様子が分かります。広重五十三次の浮世絵で神社仏閣が描かれているのは、この熱田神宮と三島大社だけです。  こ

          ブラヒロシ・東海道17 熱田

          ブラヒロシ・東海道16 知立-鳴海

          世良 一夢  今日から尾張です。尾張と言えば名古屋ですが、東海道の宿場は知立、鳴海、宮(熱田)の三宿場で、名古屋は通りません。今日のポイントは鳴海宿の手前の桶狭間と絞り染めの有松です。  最初の宿場の知立は、昔「池鯉鮒」と書いたそうです。芭蕉の句に「不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市」というのがあります。この辺は当時、木綿が有名だったらしいので、これが隣の「有松絞」に繋がっているのでしょう。 桶狭間で敗れた今川義元は、戦い前日は知立辺りに居たらしく、次の鳴海との間に「桶狭間古

          ブラヒロシ・東海道16 知立-鳴海

          ブラヒロシ・東海道15 御油-岡崎

          世良一夢  今日から三河國です。最大宿場は岡崎ですが、その手前の吉田・御油・赤坂も面白いです。特にこの御油・赤坂の二宿場は街道最大級の歓楽街だったそうで、宿場間の距離が最も短く2kmもありません。そのため隣宿同士の遊女が熾烈な客引き合戦をしていたらしく、浮世絵にもその様子が出てきます。今なら新宿・渋谷で競争しているようなものでしょう。「御油に赤坂・吉田がなくば、何のよしみで江戸通い(参勤交代の武士)」という台詞が残っています。余程楽しかったのかな?今ならツイッターの独白です

          ブラヒロシ・東海道15 御油-岡崎

          ブラヒロシ・東海道① イントロ編

          世良一夢  2015年春迄中国に駐在し、帰国後、若い人達 と、「ブラヒロシ」(本名が洋なので)と称して、 江戸名所巡りや街道歩きをやって来ました。その中 の、足掛け五年、計二十二日に分けて歩いた東海道 歩きの様子についてご紹介して行こうと思います。 2020年2月に終着点・京三条大橋に着きまし た。ご存知のように東海道には五十三宿場がありま すが、江戸時代の人々は十四日位で歩いたそうです。 これを二十二日で行ったのですから、相当のんびり 旅ですが、それでも急峻な峠あり、

          ブラヒロシ・東海道① イントロ編

          ブラヒロシ・東海道14 舞坂-新居

          世良一夢  今日は遠州、舞阪・新居宿です。弁天島を通り浜名湖を渡ります。  ところで、五街道には脇街道と言われるバイパスが時々ありますが、ご存知でしょうか?この辺では浜松の手前から湖北側を通り、三河まで迂回する姫街道がそれです。その由来は、この地域を何度も襲った大地震、津波だそうで、記録では戦国時代から幕末迄で四回にも及んでいます。  明応7年(1498)には、陸地30haが海に沈み、淡水湖が海水湖に、街道一里分が海路に変身、「今切の渡し」舟が始まっています。宝永四年

          ブラヒロシ・東海道14 舞坂-新居

          ブラヒロシ・東海道13 浜松

           前回の大井川迄が駿河、ここからが遠江です。この遠江と言う名前、琵琶湖を近淡海(ちかつおうみ、近江)と言うのに対し、浜名湖を遠淡海(とおつおうみ、遠江)と言ったことに始まるそうです。  この遠州の東部にも、小夜の中山の「日坂」、「天竜川」等色々面白そうな所はあるのですが、今日は、一足飛びに浜名湖の手前の浜松に行きましょう。  浜松は家康が駿府に移る前の拠点です。姉川、長篠、小牧長久手、三方ヶ原の合戦は、皆この浜松城から出陣しています。その後、本陣六軒を有する大宿場町となり

          ブラヒロシ・東海道13 浜松

          ブラヒロシ・東海道12 藤枝-島田

          世良一夢  今日は、東海道二十二番目の宿場・藤枝から大井 川迄行きます。JR藤枝駅で降り、地元Jリーグ チームの応援フラッグに背中を押されスタートです。 この辺の街道沿いは、他地域より道端農家の作物 売場が多いような気がしました。通ったのは四月で、 玉葱、蕪が並んでいましたが、驚いたことに、メダ カが容器に入って売られていました。田圃や池で 自然繁殖し、農作業時の副産物でしょうか。逞しい。  しばらく行くと島田宿です。この辺りには芭蕉 の句碑が沢山あります。芭蕉は大井川

          ブラヒロシ・東海道12 藤枝-島田