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綿帽子 第三十六話

季節が過ぎ行くのは早く、そして俺の歩みは遅い。

上手く伝えることはできないのだが、2月に差し掛かった頃には、もう俺の今年は終わったなと実感した。

多分色々な出来事が起こるのだろう。

しかし、変化して行くのは周りだけで俺の体と俺自身に大幅な変化が起こる兆しは全く見えず、自分に期待が持てなくなっていた。

今日は手術日が決まってから約一ヶ月後の経過観察の日。

今の所、抗生剤が効いているのか病状の大幅な進行はないそうだ。
このまま手術日までなんとか落ち着いていてくれることを願うのみだ。

事前にまたCTとレントゲンを撮って確認したらゴーなのだ。

一階に降りて会計を済ませてから、病院の外にある薬局に向かう。
薬局での待ち時間は長い。
やることのない俺は、この時間ついつい人間観察をしてしまう。

ここは薬を受け取る窓口と会計をする所が別々になっていて、それが時には誤解を生んだりもする。
薬を受け取ると、そのまま出て行ってしまう人もいるのだ。

そういった場面を見かけても、故意にやっているとは確証は持てないので、俺はいつも悶々としている。

中途半端に正義感が強い部分があるのが自分の世渡りの下手なところで、その辺の意識改革はとても必要なのだ。

『必要以上に荷物を背負うな』

これは今回最も身に染みて解ったことで、俺自身が最も最優先に取り組まねばならないことなのだ。

自分の順番が回ってきた。
薬を受け取って、説明を聞いている最中に何だかお腹も空いてきた。
時計を見ると12時を回っている。

会計に呼ばれるまでまだ時間があるが、それさえ済ますことができれば本日の病院ライフからは解放される。

俺は昼食を取ってから帰宅することにした。

薬局の入っている同じビルに食堂とコンビニがある。

あまり美味しいとは言えないが、ここ以外は少々歩くことになる。
食堂に隣接してコンビニがあるのだが、今回は食堂で食べることにした。

会計を済ませてから一旦外に出る。

食堂の中に入って、入り口の近くに置いてある券売機で食券を買う。

それをカウンターのおばちゃんに渡すのだが、何故だか不意に後ろが気になって目をやった。

並んでいる女性の様子が不自然に思える。

他人なのに何故だかよそよそしい態度とでも言いましょうか、とにかく何とも言えない空気感なのだ。
顔を見たいような見たくないような、そんな感じの仕草をしている。

それを不思議に思いしばらく考えていた俺は、そこでようやく気がついた。

そうだ、かつて知っていた人物に良く似ているのだ。

何十年も経って本当にそんなことがあるのだろうかと思いもしたが、姿形というよりも、何よりその人が身に纏っている雰囲気が俺の記憶を呼び起こした。

似ている、他人の空似じゃない。
そして何故かその人だと判る。

その人は俺の人生で初めて「彼女」と名がついた人だった。

カウンターでおばちゃんに食券を渡した後、空いている席に向かう。

その人も席を探していたが、空いているのは俺が座った席の真後ろにあるテーブル席と少し離れた窓際にあるカウンター席だけだ。

少しの間迷っていたようだが、結局俺の真後ろの席に座った。
何とも言えない空気がその場に流れる。

やがて注文したものが出来上がり、おばちゃんが大声で番号を呼び上げる。
カウンターに向かい、置いてあるトレイを受け取った。
席に戻ろうとした時その人とすれ違った。

間違いない。

お互い歳を取って容姿に変化はあっても分かるものなんだな。
かつての恋人?いや、中学生の時だからそこまで深い付き合いではなかったので彼女止まりか。

その人もトレイを受け取った後に席に戻ったが、やがて電話が掛かってきたようだ。
きっと家族からの電話なのだろう。

こんな偶然あるんだな、お互いが相手の様子を伺いながら無言で黙々と食事を続けている。
同じ病院に通っているのか、家族が通っているのかどちらかなのだろうけど、きっともう会うこともないだろうな。

彼女に一方的に別れを告げたのは俺だった。

彼女は何も悪くない、俺がただ悪かっただけだ。
彼女はただ泣いていた。
そして、彼女の心の中に蟠りを残したまま俺たちは別々の道を進んだ。

中学を卒業してからも街で何度か見かけることはあったが、俺の顔を見ると無視を決め込んで通り過ぎて行くだけだった。
俺はいつか謝りたいとずっと思っていたが、機会もなく時間だけが過ぎ去っていった。

そして、ある日彼女が高校に入って直ぐに別の男の物になっていたという噂を耳にした。

その時は特に自分が傷ついたわけではなく、そうなのかと納得しただけだったが、それを覚えていたということは、俺の中にまだ彼女を傷つけてしまったという罪悪感みたいものが残っていたのだろう。

こういう部分が男の方がよっぽど純情で、そして男の方が引きずると言われる要因なのかもしれない。
俺は子供の時の方が今よりもずっと大人だったのかもしれない。

緊張で全身がアンテナのようになっている。
このまま恐らく何事もなく時は過ぎて、食堂を出たらまたそれぞれの道に戻ってゆく。

何度となく振り向いて話しかけてみようかと思ったが、俺は昼食を終えるとトレイをカウンターまで運び、そのまま食堂を後にした。
食堂を出るとき振り返ると彼女がこちらを見ていた。

一瞬時が止まる。

それに気づいた彼女が下を向く。

俺はドアを開けて外に出た。
それからは一度も後を振り返らずにタクシー乗り場に向かった。

少々残念にも思ったが、これで良かったんだと思う。
案外話せば昔話で済んだのかもしれない。
しかし、彼女の中でとっくに整理が付いた感情を、自分の思いだけで蒸し返す必要もない。

彼女が電話を掛けていたのはきっとそういうことなのだ。
彼女には守るべき家庭がある。
家に帰れば待っている人も居る。

きっとこれは、俺の中に燻っていた彼女への想いを払拭する機会が巡ってきたのだ。

もう忘れていいんだ。

見えない誰かが

「過去にあったことは全て忘れて、お前は新しい人生に進め」

そう言ってくれているような気がした。

究極の解答とは結局は自分の中にあるのかもしれない。

明日への希望が少しだけ顔を出した瞬間だった。


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