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綿帽子 第一話

ああ、嫌な夢だった。

いや、果たして夢だったのであろうか。
皆んなが嘆き悲しんでいる。
皆んなって誰だ?もうそれすら分からない。

だが、ともかく俺は足を止めた。
分かっているのはあと一歩前に出たら確実に死ぬという実感。

ただ、それだけだ。

何故目の前に並んでいた人は大戦下の特攻服のような物を着ていたのだろうか。

確実に死ぬというのに彼は出て行った。

その時聞こえた胸が砕け散ってしまうような悲痛な叫びだけが、耳に焼きついて離れない。

果たして朝は来るのか?

俺は毎日それだけを考えて眠りについている。

いや、眠ろうとはしていない。

眠ってしまったら、もう二度と朝日を見ることが出来ないような気がして眠らないのだ。

下半身から細胞の一つひとつが死滅していっている。そんな感覚と共に、看護師さんのカーテンを開ける音だけを楽しみに俺はここにいる。

看護師さんは「体温が測れたらテーブルの上に置いておいて下さい」と言っては一旦部屋を離れるのだが、俺にはもうその感覚は残っていない。

体温計の計測音なるものはとっくに忘れてしまった。というか聞こうにも聞き取れないのだ。

だから俺は適当に時間が経ったなと思ったら、脇から外してテーブルの上に置いている。その繰り返しだ。

気にしているのは、いつになったら血圧が100の大台に乗るのか?ただそれだけ。

いや、本音を吐くと多分失ってしまったであろう男性としての機能が、運良く肉体が回復したとしても果たして再起動してくれるのであろうか?
万が一機能が回復したとしても、もう二度と子供を作ることはできないんだろうな。

待てよ、どちらに転んでもこの歳ではもう無理か。
ちよっと待て、そもそも嫁さんがいないんだからそこから始めなきゃダメか。

嫁さんをもらうにしても子供ができないアラフィフの男性に生産性の高いそこそこ若い女性が来てくれるのであろうか?

いや、そもそも働けるようになるのかさえ分からないアラフィフ男性のもとに来てくれる女性自体がこの世に存在しているのであろうか?

嗚呼セックスがしたい。
この世に俺の遺伝子を持った自分の分身と言える存在を誕生させることすら叶わないのであろうか。

この世の生きている大凡殆どの男性が叶えられるであろう、そんな願いすら俺は実現することなくこの世から消えてしまうのか。

そんな思いだけがグルグルと頭の中を巡っている。

巡回に来る主治医の先生が治療計画を説明してくれるのだが、分かっているようで分かってはいない。そもそも聞こえないんだから。

無理矢理聞こうとしても聞こえないし、第一理解している自信も無い。
それでも俺は必死に答えようとした。

答えようとしても殆ど声すら出ない。先生本当に分かってるのかよ?
治療計画なんて誰かが俺の代わりに聞いて指示してくれたらいいじゃない。

じゃないと死んじまうじゃないか俺。
はっきりと分かっちゃいないんだよ、誰か俺を助けてくれる人は居ないのかよ。

居ないか、家族はもう齢八十に手が届きそうな母親のみ。

そして俺は諦める。

諦めて新しい薬を点滴されて、体に合わなきゃ拒否反応が出て、のけ反って悶え苦しむだけだ。

不思議なもので、全身熱くて苦しくない所なんてないはずなのに、考える事だけは出来るんだな。

入院した夜、何度も看護師さんが水を汲んできてくれた。
有難い、どこから運んでくるのだろう。

何度も運んでもらって申し訳ないなと思いながら、携帯に目をやるとお袋にラインした形跡がある。

なんて書いてあるか分からないけど、どうせお袋は何も感じないだろうな。

それにしても今日で熱が出始めてから何日目だ?
もう数えることすら怪しいけど多分2週間は経っている。
40度以上の熱がこれだけ出続けたら頭もおかしくなっているかもな。

熱は少し下がり始めたけど、それでもまだ38度台の後半から39度台を行ったり来たりしている。

実際、入院の前日俺は錯乱した。

完全に思考がブッ飛んで自分が制御できなくなった。何とかしようとしても、そこに意識を集中する事自体が困難になる。

今までおよそ体験したことのないような恐怖感が俺を襲う。
思いついたのは普段から服用している抗不安薬を飲むこと。

殆ど気休めにしかならなかったけど、激しく襲う思考の乱れと恐怖感の中、何とか全力を振り絞り意識の集中に全てを傾けた。

少しでも落ち着いたと思えた瞬間に、お袋にタクシーを呼んでもらって病院に行った。
片道約1時間はかかる道のりを必死の思いで辿り着いたのに追い返されるとは。

「主治医の先生がいらっしゃるならその方の指示に従って下さい。今日はこのままお帰り下さい」

って一体なんだ?

二日前に来た時も帰らされたけど、今日は違う。
今日帰ったら俺は助からないって直感が言ってる。
頭を上に向けるだけで意識がぶっ飛びそうだ、とても立っていられるような状態じゃない。

だからお袋に頼んだんだ。
お願いだからこのまま入院させてくれって頼んでくれよって。

あの時ばかりは非情なお袋も少しは焦ったみたいだな。
何度か頼みに行ってくれた。
絶望感を抱きながらお袋と二人で帰路に着く。

仕方ない、明日になったら主治医の元へもう一度行こう、そう思いながら眠れない夜は明けた。

翌日、主治医の居る内科医院へ。

待合室でかなり待たされてから、主治医と対面する。
看護師さんが血圧を測ろうとしたが血圧計が反応しない。
焦った看護師さんが何度も測り直そうとするが測れない。

それから入院するまでの経緯はよく思い出せないのだが、今ここに俺はいる。


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