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ACT.108『希った出会い』

愛した味を探して

 下吉田付近での忠霊塔に近い踏切で撮影を終了すると、自分が予ねてより行きたかったうどん屋に向かった。
 ミュージシャン、志村正彦氏が勧めたうどん屋、『みうらうどん』である。この店のうどんを、志村氏は生前ずっと愛していたのだとか。
 やはり富士急行沿線を志村氏浮かべて訪問するのであればこの地は欠かせないだろう。大根パスタと迷ったが、そのカフェは次回に訪問する事にした。
 という事で下吉田の駅を通り過ぎて店に向かう。『みうらうどん』までは20分かかるかかからないかくらいだった。
 少し地図アプリを見て迷ったが、どうにか無事に訪問できた。
 写真にも映っているように、店には多くの車が停車していた。ナンバーに関しては甲信越のモノもあったが、中には神奈川県や東京都のナンバーもある。全国的に人気のようだ。
 駐車されている大量の車、バイクを掻き分けて店に入る。

 店に入店すると、所狭しと並んだテーブルに多くの客が既に鎮座していた。
 列に並んで待機する格好とはなったが、店の回転率は想像を絶する勢いで早く、個人的には店内でそこまで待機したイメージはなかった。
 やがて列での人数確認がなされ、テーブルに案内された。
 1人で訪問したので、昼時だったのもあり団体と相席状態になった。少し気まずいが、コレもコレで個人飲食店ならではの体験である。
 やがて、オーダーを聞きに店員がやってきた。
 勿論、頼むのは志村氏のお気に入りであった『肉うどん』。そしてオーダーを聞きにきてくださったタイミングで
「すいません、店内撮影して大丈夫ですか?」
の許可を貰う。
 許可を頂いて、店内を撮影。
 ちょうど写真の奥。自動車が停車している周辺にて列が形成されテーブルへの着座を待機している状態だったのだが自分が並んだ時点で列は解消され、昼時の忙しなさの中に一抹の休息が現れた状態となった。
 店内には、昼のワイドショーを流している薄型のテレビが設置されている。
 適当に番組を鑑賞しつつ、山梨県にしかないCMや山梨県の情報を見ている間に…
「お待たせしました、後ろから失礼します…」
やってきた。コレが志村氏の愛した食事だ。

 こちらが、山梨県は富士吉田市の名物である『吉田うどん』。その中でも特にこの『みうらうどん』は有名な店で、先程に記したように全国規模で多くの人々が来店している。
 行列必至となる名店だ。
 さて、志村氏の愛した郷土グルメを昼ごはんに食していこう。
 まずはうどんの要、汁を吸い込んで…
 汁は温かい味わいで、関東の料理に云われる醤油や塩分の効いた感じはなかった。大阪の味になれた自分でも特に違和感は感じない。
 そしてこの麺。麺がこのうどんの特徴で、うどんの粉っぽさ…そして粉で形成された弾力を歯で噛めば噛むほどに感じる。コシが強いというのだろうか。歯に挟めばしっかりと応えが返ってくる。
 太さも圧巻だ。
 普通のうどんの感覚でいうと『啜る』だが、こちらの吉田うどんについては『噛む』という食し方がかなり正しいと思う。
 途中に天かすを混ぜて味にコクを出し、汁も全て飲み切って退店。
 退店して駐車場を見てもまだ車の波は収まらず、多くの他府県ナンバーにて埋め尽くされていた。

共通点

 下吉田の駅に戻り、再び列車に乗車していく。腹ごしらえも終わったので、午後の旅路の準備は万端だ。
 この日は駅前で沿線の名物や食品を販売しているブースがあり、そこで少しだけ木の皮から(どんな木だったっけ)で抽出された成分で形成された健康ドリンクを試飲した。
「へぇぇ!コレが健康に良いんですね!!」
など様々に話した思い出はあるが、どうも購入して持ち帰る気分にはなれなかった。信仰的な意味が強いけど…
 そして、この駅には
『下吉田ブルートレインテラス』
という場所がある。この場所では、かつて全国を走行した青い客車による寝台列車…ブルートレインの車両を展示している。
 そしてその近くには、前頭部だけになるがこちらもかつて全国を駆け抜けた湘南色の急行型電車である169系を保存している。
 勿論、この富士吉田に保存としてブルートレインのトレインマークは『富士』だ。
 写真は並んでいる様子を撮影したモノだが、こうして両車の顔が並んでいるだけでも昭和の鉄道の名優が並んだ光景として国鉄の一時代を愛したファンには強く刺さるものだ。
 さて、まずはブルートレインを見てみよう。

 ブルートレインの客車の前に来た。
 車両のトレインマーク表示は、勿論富士急行沿線という事で『富士』である。
 平成21年の廃止時には絵の入ったトレインマークになっていたが、この文字だけの表示は国鉄時代の。それも寝台列車として走行している時期の初期のものだろう。
 ブルートレイン『富士』は東京から大分までを走行し、そして寝台特急史的にも大きな事象を掲げるのであれば『はやぶさ』と共に『最後の九州ブルトレ』として健在した。

※当時の特別急行列車の最後尾を飾った展望客車。富士…にも連結され、当時の国鉄としての最上級の旅路を彩ったのである。昭和4年に運転されていた『富士』は、1等車と2等車しかない最上級の列車だった。

 現在でこそ、『富士』という名称は永遠の九州ブルトレの名称として語り継がれているが、この『富士』という列車は鉄道の世界に於ける名門の列車であった。
 富士…という2文字が列車に冠されたのは、昭和4年の事である。東京〜下関を走行する特別急行列車にその名称は冠され、後に昭和30年代に登場したビジネス特急の元祖、151系電車に継承され東海道本線の電車特急として君臨する。
 しかし、在来線特急の『富士』は昭和39年の東海道新幹線、東京〜新大阪開業によってその名称を寝台特急に譲渡する事になった。
 新幹線の開業と同じくして、昭和39年の10月1日の出来事である。

 富士…の中で1つの転換期を迎えるとすれば、やはり『日本一』の距離を授かった昭和40年であろう。
 昭和40年での改正では、運転距離を西鹿児島まで拡大した。(現・鹿児島中央)昭和55年に宮崎まで短縮されるまでこの『日本一』は維持され、寝台特急『富士』は絶頂期を迎えたのである。

 だが、この話の続き…
 この下吉田に保存され『富士』の名称の共通点で活躍した功績のままに保存されている『スハネフ14-20』であるが製造初期からの話を見てみるとなんとなく拍子抜けしてしまうのである。
 まず、落成当初は品川客車区に配属された。
 昭和58年には尾久客車区に転属する。
 尾久に転属後は、主に寝台特急の北陸などに使用されてきた。東京と金沢方面を結ぶ活躍に貢献し、2段寝台への改造も施行されJR化されてからも生存する。
 そしてこのスハネフ14-20最大の功績であるが、平成22年の最終便の下り北陸に連結されていたのだ。
 こうして廃止後は富士急行に譲渡され、現在を迎えている。
 つまり。品川から転属して以降、この客車は一回も『富士』には充当されていないし、なんなら九州に上陸した経験もないのだ。
 あまりにも拍子抜けしてしまう話である。
 下吉田では、ブルートレインの他にも保存車両がいる。少しだけ注釈しておこう。

電鉄史を眺めて

 下吉田のブルートレインテラスには、まずこうして日本国内にて走行した『富士』の列車に関しての記録が残っている。
 この記事内では、昭和4年の特別急行時代と昭和30年代からの寝台特急時代を紹介したが、他にもこの列車の沿革に関して。『富士』の名称が脈々託してきたその時代に関して詳細に記されている。
 是非ともこの地に行った際には必見の看板だ。

※富士急行では2000系として活躍した165系『パノラマエクスプレスアルプス』。165系急行電車といえば、東海形急行として大車輪の活躍や派生形式の台頭など多く浮かぶが晩年の生涯はジョイフルトレインに改造された仲間も存在した。富士急行2000系として生き延びた車両もその1つである。

 そして。
 今回は車両修復の最中だったので見られなかったのだが、先代の『フジサン特急』に使用された2000系電車も保存されている。
 だが訪問した際にはこの区画の車両たちが再整備されている真っ最中だったので、今回は撮影を見送った。
 流石に足場がある中で記録するのも気が引けたので、整備が完了した後に再び記録に行こう。
 なので今回はそんな2000系のかつての姿である165系『パノラマエクスプレスアルプス』の姿を掲載しておく。
 勿論、富士急行線でもこの自慢のてんぼうだいは健在であり、同時に大きな人気を誇った。
 富士急行では2000系として平成28年まで活躍した。165系らしさを残しつつ、ジョイフルトレインとしての威厳も残し。東海型急行電車の最後の生涯に花を添えて引退した。
 今回は代用写真となるが、いつか訪問の暁にはその急行型電車の活躍を偲んで記録したいと思う。

待ち時間はお気楽に

 ここからは小田急ファンに…いや、関東私鉄のファンには垂涎の道を辿っていく。
 が、しかし乗客が多すぎて本当に息を吐く暇がない。これだけ外国人の多い鉄道もはじめて利用したかもしれない。
 ここで何日か鍛えてから海外に渡航すれば、躊躇なく鉄道を利用できるかもしれない。様々な言語や様々な色の肌の人と行き交う感じは、何処か新鮮な思いにさせられた。
 写真、停車しているのは河口湖と下吉田のピストン運転に充当されている6700系電車である。
 車両は富士急行の創立90周年を祝して金色に染められた。
 ちなみに駅を去る間際になってしまったが、この下吉田駅は有名な建築デザイナーの水戸岡鋭治氏がデザインをした駅である。
 全体的に水戸岡アクセントが染められているのだが、今回は全くと言って良いほど撮影できなかった。次回に回すしかない。

 下吉田駅の踏切注意信号?というものだろうか。
 警報器の中にはこんなものがある。
 まさかの横断歩道で使用する信号機がこうして駅構内にある。
 しかも律儀に横には『でんしゃにちゅうい』の文字が。但し、『歩く』動作のポーズがないのは一体どうした仕様だったのだろうか。その点だけが気がかりである。
 そして、こうした部分を注視していると列車がやってきた。この列車に出会いたかったのだ。やってきた。

純白の幻想〜再会へ〜

 沿線の踏切のサウンドが山々に、そして富士の麓にこだまする。
 鳴動した踏切のサウンドは手拍子のように、快晴の富士の周辺に鳴り響いた。
 そんな中、自分のずっと出会いたかった列車がやってくる。
 それが写真の『富士山ビュー特急』である。正式な形式名称…富士急行に転職してからは8500系に形式を変更したが、この姿。少年時代に鉄道に触れた人々なら絶対にわかるかもしれない。
 そう。JR東海の371系『あさぎり』としてこの車両は活躍し、御殿場線の沼津から小田急線との乗換駅である松田を経由し、小田急線は新宿までのアクセスを築いた車両なのである。
 と、ここまでの説明は皆さんも周知だろうか。
 撮影している最中、自分とこの列車の間には
「あさぎりが来たぁっ!!!」
という幼少期からの憧れが脳をただ感動に溺れさせ、大きな感動に浸っていたのである。

 やってきた車両は、JR東海時代の純白な新幹線を彷彿させる塗装ではなく水戸岡鋭治氏による真紅の塗装に変更され、さながらスーツを着替えたようにも思える。
 JR東海時代と遜色のない姿を見ていると、この車両を間違えて『あさぎり』と呼んでしまいそうだ。平成の少年時代が今、過ってくる。
 下吉田に停車した懐かしい列車は、乗降の作業に入る。
 自分も列に並ぶ大柄な外国人に混ざって乗車し、僅かではあるが懐かしの371系…もとい富士急8500系の旅路を楽しむ。
 ただ、乗車したのは自由席車両だったのだが、自由席車両は窓も通路もビッシリと乗客だらけだ。なんとか窓側を確保できたが、自分が撮影に車内を視察している間に大柄な欧米人が横に着席しており下車駅まではずっと狭い思いであった。

 さて、371系と変化のない部分といえばやはりこの大きく採られた窓だろう。
 この区画は371系時代から人気の展望席であり、富士急行に転職しても人気を誇っているようである。
 叶うならば着席したかったが、自分は座るのを諦めた。この満杯な状態では着席できているだけでも幸せである。
 列車が動き出した。
 特に走行音などはJR東海時代と変化していないようだ。(帰郷後に調査)
 そうした点が余計にこの車両に懐かしい思い、変化していない事への感動が重なる。
 本当に足部分や見えないヶ所だけは371系のままであった。
 走り出し、車内放送が流れる。
「お待たせいたしました。この電車は、富士山ビュー特急、大月行きです。」
何となく聞き覚えのある声だと思っていたら、車内放送は名鉄蒲郡線・広見線ワンマンの放送者と同じようだった。

窮屈

 かつての大きな車内案内表示器は、富士急行への転職で木組みのLED表示器に変更され、写真のように木材による暖かさが演出されている。
 富士急行8500系として転職して、この部分は大きな変化となっただろう。
 この富士山ビュー特急では、車内案内の表示を出した時に同時に
『標高×メートル』
と駅のある標高を表示してくれる機能がある。
 これは普通列車として活躍する6000系電車には存在しないもので、この装備は特急車ならではだ。6000系にも装着されていただきたいものである。
 しかし、転職してからは相当ガタが来ているようだ。車両各部の痛みは内部でも深刻で、少しづつではあるが登山生活に蝕まれている様が分かる。

 行きに下吉田まで乗車した6000系電車とは異なり、8500系富士山ビュー特急はゆっくりゆっくりと踏み締めるようにして走っていく。
『ガタッ、ガタッ、ドドっ』
車両の重い鋼鉄の質感のようなものが、線路にズッシリ響いてくる。
 もしかすると、この車両は205系たちより重量が重いのだろうか?
 種車などの歴史を少しだけ想像してしまう。
 列車の走りは、生活に寄り添う列車というよりかは観光特急といった佇まいで、車窓を魅せるようにして走行しているのが印象的だった。
 前記したように、体感的には普通列車より時間が掛かったような感触が残っている。
 しかしそれにしても窮屈だ。
 前後の座席を、自由席とはいえ大柄な欧米人に挟まれて過ごしている。
 いくらある程度の身長があるからといっても流石に自分の肩身がかなり窮屈になってしまった。

 途中、列車は下吉田を発車すると下り坂をゆっくりと走る最中で行き違いの為に停車した。
 この行き違いに関してだが、行き違い相手の列車が遅延している為時間を少々だが要した。
 遅れて行き違いにやってきた列車との挨拶を交わして、列車は次の停車駅であり、大月まで残す駅僅かの、都留文科大学前に向かう。
 この富士山ビュー特急では、車両の最後尾。河口湖方面行きでは先頭になる車両でスイーツプランなるものが行われているようだ。
 沿線の景色を見ながら、通常列車のダイヤに乗ってスイーツボックスを食しながらの観光移動。料金は通常の移動料金以上に跳ね上がり、4,000円近くするが今回は乗車を諦めた。
 取り敢えず、幼少期からの憧れであるスーパースターとの余韻に浸る間は一瞬にして掻き消された。次は『必ず』人の少ない時期に富士急行線に乗車しよう。

 車両は何回も記したようにして、JR東海の371系時代の面影は失われている。
 水戸岡鋭治氏の率いるドーンデザイン研究所の手が入った内装になっており、鉄道ファンによるところの『ミトー化』を執行され転職先では活躍している。
 車両は平成27年の改造という事で、もうまもなくだが富士急行への転職は10年を迎える。
 そもそもまだこの車両には371系時代の幻影を抱いている世代だが、転職してからの年代がもう記念の年月を迎えるのは未だに信じられない。
 この真紅の姿、富士山観光に身を投じる新たな姿となっても、御殿場線と東京副都心を繋いだ栄光を彼は記憶しているだろうか。

栄光のバトンを託して

 車内放送が、あと5分少々で都留文科大学前に到着する旨を放送した。
 手早く降車の準備に急ぐ。
 車内放送が鳴動した。
『まもなく、都留文科大学前。都留文科大学前です。』
この駅で降車する。この駅からはもう1つの小田急OBに乗車して、富士山方面を目指していく。
 荷物をまとめてデッキに向かう。
 短い時間ではあったが、御殿場線のエースとして輝いた371系の第二の生涯を少しだけ体感できた。
 車両の側面を見ると…
 かなりの満身創痍である。しっかりと次の検査では修復されるだろうか。流石に富士の麓での活躍は堪えるのか…至る各所に傷みや疲労が見えた。
 降車して、写真の1枚を撮影する。
 この部分から見ると、もう紛れもない姿だ。
 しっかりと、あの特急『あさぎり』として静岡県と新宿副都心までを小田急線に乗り入れ走行した幻影が見えた。
 少しだけではあるが、純白の主役が降臨した。
 そして富士山ビュー特急は発車の時間となり、警笛を鳴らして大月に向かっていった。

 都留文科大学前を発車し、下り勾配を大月に向かって走行していく富士山ビュー特急。
 JR東海では純白のオンリーワンな存在であり、大車輪の活躍を過ごしたこの車両も現在は真紅のドレスに身を纏い、活躍を富士の反対側に変えて第二の暮らしをしている。
 尾灯が去る姿。
 そして編成記号の『X1』の面影は、あの少年だった頃の憧れがそのまま凝縮されている。
『ガタッ、ガタッ、ガタッ…』
再びゆっくりと足を踏み締めて大月に向かっていった。

都留市の一角

 都留文科大学前に到着した。
 特急が停車する駅なので、もっと大きな駅を想像していたら駅は1面1線の棒線状の駅で、放送を聞き間違えたり案内を見ていないと方面を間違えそうな小さな駅だった。
 この駅には、JRからの直通特急である『富士回遊』も停車する。
 駅名標には様々な『きかんしゃトーマス』の仲間たちが埋められており、この都留文科大学前はゴードンだった。
 ゴードンは少しだけ話題が横道に逸れるが、自分がはじめて『きかんしゃトーマス』で憧れたキャラクターである。
 ここで普通列車を待機して大月には…行かず富士山方面に行く事にする。
 もう1つの小田急OBがやってくるのだ。
 特急『あさぎり』に魅せられた幼少期を過ごしているからには欠かせない列車である。

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