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ACT.53『あの感情へ、一歩…3』

住所

 岩見沢から北海道の保存蒸気機関車を見つめていく旅を開始し、まずは駅を拠点に移動開始していく事になる。この岩見沢からバスに乗車すると、もう1つの鉄道テーマパークのような場所、『三笠鉄道村』にも向かう事が出来る。保存車両は今回の旅路で訪問した小樽と同じくして国鉄系の車両。そして北海道の鉄道史に貢献した車両の保存展示を多く扱っており更にはホンモノの蒸気機関車の運転体験まで可能な施設だ。今回は『訪問施設のキャラ被り』という事で向かわなかったが、次回の北海道訪問時には是非とも向かってみたい場所だ。
 しかし、こう言ってもなんだが京都鉄道博物館のように同じような国鉄車を扱い、鉄道車両を広々と保存するテーマパークが2つもあるとはこの北海道の大地は広いモノだと感じさせられる。
 さて。話は自分の旅に戻って。ここからまず、岩見沢駅付近(と言っても徒歩だと30分圏内にかかる)の場所に蒸気機関車が保存されているのだ。
 その場所に向かうのだが、場所は『市立病院』の近くだと事前にリサーチで学んだ。改めて自分の知識面も含めて不安になったので、バス案内所に確認に向かう。
「すいません。市立病院に向かうバスって次は何時頃ですか?」
「えっと…次が確か2番乗り場から発車する循環バスになりますね。」
「ありがとうございます。で、その後に栗山の方にも行きたいんです。その際にはどこから乗車すれば良いですか?」
「栗山…ですか。栗山でしたら北10条でしたかね…」
「はい…え…?」
イマイチ、自信を失ってくる。
「栗山の方でしたら、北10条の方からまたバスが出てますのでそちらからご乗車ください。ただし、バス停に屋根がある方とない方がありますので気を付けてくださいね。」
「ありがとうございます。では…」
と向かったは良いものの。全く自信がない。
 そして、バスに乗車。京都で生まれ育った自分には、京阪バスを想起させるストライプカラーだ。
 中央バスの管轄区なのか、とも感じつつ、岩見沢でのバス移動を開始。但しここで最初のハプニングが発生した。
 まず、バスの運転士が乗車してこないのだ。
「運転士呼びに行った方が良いかな…」
「時間もう何時くらいだっけ…」
とザワザワ嫌悪な雰囲気が漂い始める。そしてようやく。発車時刻10分過ぎになって運転士が乗車しハンドルを握った。
 だが、自分にとってこの
『運転士が乗車してこない』
というハプニングは序の口のハプニング。しかし、この先。自分は北海道の本当の力に捩じ伏せられることになる。
 京都の住所にも、『上ル・下ル』や『綾小路・御前』…など、複雑な住所記号が存在している。しかし、この北海道にも複雑な住所が存在しているのであった。しかもその住所は、バス停名となって自分に襲来する。
『次は、7条西5丁目』
え…どうしよう…
そして、自分の行きたい蒸気機関車の公園の話をすると
「その公園に行くのであれば市立病院ではなく10条通で下車した方が近い」
との教授も頂き、そのまま乗車した。
 しかし、難点(この場合は欠点か)は遠回りに走行してしまうのでバスの乗車時間が長くなってしまう事にあるという。難しい問題だ…
 結局、降車ボタンを押すタイミングも難しく計れなかった。本当に難しく、この初見で北海道独自住所法則に挑むのが1番の難航だったと今でも思う。
 結局、駅を外れて団地を走ったし集落の外れもバスで見て回った。ただ、この時に2軸貨車の空き倉庫のようなものを見た記憶がある。ただ、自分は貨車に詳しくないので型などはサッパリだが。
 なぜ、北海道ではこのような住所法則を使用しているのかについて帰ってから少し調べ込んでみた。
 北海道では、『連番法則』に則った住所表記を採用している。市・区の表記の後には北海道では『◯条◯丁目』と条丁目を表記している。札幌の場合(北海道の拠点となる都市)では、この条丁目の制度が北は51条まで。東西は30条まで続いている事になっている。
 この為、具体的な交差点の名称や地名の堂々たる表記が存在していない。この事を全く知らずに北海道を周遊していると、本当に頭を悩ませてしまう。初見では特に。
 そして、このバスで大きくやらかしてしまう。全く気付かずに終点の1つ前のバス停を通過。そして
『次は、岩見沢ターミナル』
と終点に到着してしまったのであった。
「え…」
取り敢えず降りるしかないか、と思い構えたが、同時に
「循環だしまた乗車できるかもしれん」
との思いもあった。しかし
「終点ですよ〜」
と放送が入る。
「…はい?」
と呆気なく声を残して、再びJRの線路の近くに降り立ってしまった。一体どうすれば良かったのだろうか。取り敢えず、10条通とあるバス停で即座に反応しておけば…の気持ちしかなかったのであった。

※北海道ではストライプ系の塗装が目立つ中央バス。小樽・岩見沢と個人的に世話になった。

 再び雨で湿った空の中をバスに乗車する。今度は循環逆経路として乗車し、再び10条通を目指す。
「次は楽に向かえるやろ…」
と何とか気持ちを落ち着け、何とか成功させた。
 しかし、下車しても雨が次々に降ってくるのである。何とも災難な天気だ…と感じつつ、歩き始めていく。
『これさえ覚えてナビなしでクリアしちゃおう!」
と表記されているように感じるネタだが、流石にこうした場面では携帯に依存してしまう。少しだけ歩いて、蒸気機関車の黒い車体が自分の視界に顔を覗かせてきた。
「お、おった…ようやくや…」
遂にあの、旅客機として晩年まで活躍した蒸気機関車との対面を果たす時である。

功労者の眠る場にて

 この蒸気機関車の保存されている場所は、先述の通り岩見沢市の中心部…にはなるが、駅から30分ほど歩く。またはバスを利用するなどの交通機関を使用しての訪問が必要な場所だ。
 到着したのは『みなみ公園』。この場所に、D51形蒸気機関車とC57形蒸気機関車が保存されている。片方は貨物の時代を代表し。片方は旅客の時代の先頭に立った誉れ高い蒸気機関車である。
 関西を拠点にし、日本の様々な場所の保存車を見てきたがこのように本線級の蒸気機関車を2つも保存展示している公園というのは中々ないだろう。自分でもその迫力には驚いてしまった。
 まず、その写真に収めたのは給水温め機。そして砂箱などを全て一体整形にして覆ったのが特徴の『なめくじ』ドームが特徴のD51形初期車である。

 蒸気機関車の番号は、D51-47。
 今回の北海道旅で見た蒸気機関車の中では最も若い番号である。
 改めてになるが、この初期に製造されたD51形蒸気機関車の特徴として煙突から延びている『なめくじ形』のドームがある。このなめくじ形のドームが、車両整備や車両の部品を覆って整形する際の流麗な姿作りに役目を果たしたのであるがこの姿は初期のみで、その後のD51形に向かっては全く波及しなかったのであった。
 そして、この47号機には北海道活躍の意味もあってかデフレクター(煙よけ)は少し先端を縮めた冬仕様になっている。白老で見かけた333号機もそうであったが、この姿は除雪を効率化する為の秘策なのである。
 この写真…サイドを撮影した感想として思った事を書き記すのであれば、実にこの機関車は綺麗に整備され。また、色差しも美しくなされている印象を感じる。冬季期間にはビニールシートでの覆い装備もしているようで、より一層の好感が持てる機関車だ。

 前面から見て、D51-47の形状はこのようになっている。
 見た目としてはそこまで変化はないように感じるが、他の全国に保存されし『なめくじドーム』を持つD51形と比較してみると、もっと様々な差異があるのだろうか。
 47号機は、金色のハンドルと煙突・前照灯周りの装飾。そして白いスノープラウが気になるところだ。格好良いから大丈夫なのだが…
 また、煙室の蓋部分に関しては白アクセント?だろうか。銀系の塗料が確認できる。これも素晴らしい良さが引き出されており格好が良い。至る場所の白アクセント、そして金の装飾がこのD51形の良さとなってくるのではないだろうか。そう思って他ならない。

 反対側に向き直って、もう少し機関車周辺の情景物を確認してみる。
 蒸気機関車保存では定番…だろうか。腕木式の信号機が植わっていた。その先には沢山の緑色。この機関車は平和な余生をこの公園で過ごしている事だろうか。
 また、情景物の確認にと撮影した写真ではあるがこの機関車の北海道独特のヶ所、として『密閉式にされた運転台(キャブ』が確認できる。
 コレもまた北国の大地を走行していく鉄の速馬には欠かせない装備なのである。
 写真は雨天環境下だったので、曇りの濃い…少し暗い状況が反映された写真となってしまったが、それでも綺麗に機関車を照らす金銀のアクセント塗装。この機関車が大事に扱われている事を感じられるモノを見た気分になる。

 キャブ反対側は開けられていたものの、梯子や階段などはなく入る事は出来なかった。
 そして区名札などは挿されていない。配管周りにも金色に塗られたアクセントの配色を感じる事が出来る。本当に圧巻の美しさだ。(先ほどからそれしか言っていないけれど)
 また、少し塗装は禿げてしまってはいるものの窓周りの色味も綺麗に白く(?塗られている。
 ランボードはこうして白く塗られてこそ、蒸気機関車の美という感触にさせられるものだ。
 少し見えている発電機など、部品としての単体については塗装を黒くしただけとなっているようだ。アクセントが入っているのは配管類だけなのかもしれない。

 D51形初期製造の特徴、『なめくじドーム』を見ながら、この47号機の経歴や47号機の遍歴を見ていこう。
 D51-47は昭和12年に東京鉄道局・高崎にて製造されこの年の2月に新製配置。そして、昭和13年に追分へ。この追分入りが47号機にとっての北海道入りの始まりであった、
 その後はこの年、昭和13年の12月に岩見沢へ。この年から昭和48年まで一貫して岩見沢を離れる事なく働き続け、激動の時代を駆け抜けたのであった。
 この場所に保存されているのは、そうした功労者としての念を労っての事だろうか。地元の英雄として、いつまでも輝いてほしいものである。

 キャブ反対側には、機関車の詳細な製造歴と走行線区。そして機関車の具体的なスペックなどが記されていた。
 この筆書きに近い文字がまた、昭和っぽくて非常に良い感じだ。
 走行線区の中には、北海道の屋台骨である函館本線から宿内で話に上がった万字線。そしてこの機関車の貨物運用で晩年は有名になった室蘭本線などが走行路線だったようだ。
 室蘭本線での活躍に関する写真も幾つか探してみたところ、なめくじドームを持つD51形の中にはテンダーに合理化や当時の労働組合などのスローガンを掲げた反対運動を書き記したものもあり、壮絶な時代を辿った機関車…壮絶な時代の波に囲まれた機関車であった事をこの機関車からも感じるものだ。

 最後に、D51-47をテンダー方向から観察しておこう。
 テンダー側には、通常前照灯が設けられ逆走…バック運転が可能なようになっているのだが、この47号機はテンダーの前照灯がなく色刺しだけになっている。
 しかし、この色差しに関しても
「現役時代はこんな場所まで色刺ししていたのだろうか?」
と感じるくらいの仰々しさも感じ、少し大袈裟にも感じるのだがそれがまたこの機関車にかけられた手塩の愛情というものだろうか。
 D51形蒸気機関車は、現役時代に
『1つとして同じ姿を持たない蒸気機関車』
としてその製造両数から名を馳せた蒸気機関車であったが、保存機としては各自治体・管理先による保守と維持によってその形態は更に進化を遂げていくものになった。こうした醍醐味がまた、保存機観察の面白さである。

銀幕のスターにて

 この岩見沢市・みなみ公園にはもう1台の蒸気機関車が余生を暮らし眠っている。
 その蒸気機関車は、日本のパシフィック形機関車としての最高傑作であり、旅客用蒸気機関車としてこの上ない汎用性の高さを見せた蒸気機関車、C57形である。
 このC57形は、現役最後の旅客運用の仕事をココは北海道の岩見沢で遂げ、鉄道史…日本交通史の中に大きな足跡を残したのであった。
 雨脚が強まってきた状況下だったので、
『公園×蒸気機関車』
の記録をもっとしておきたかったのだが残念ながら少なくギブアップ。載せられるだけのものを撮影して各機関車の記録に入っていた。

 保存されているのは、C57-144。
 個人的な感想になってくるが、埼玉県は大宮の135号機と少し似ている格好のC57形だ。それも番号が近いから当然と言えば当然なのだが。
 この144号機は、135号機機のと共に、室蘭本線の旅客列車を彩り。そして岩見沢第一機関区を飾った存在でもあった。
 岩見沢に所属した最後のC57形のうち、本当に晩年まで活躍した蒸気機関車でありその活躍は今でも語られている。135号機と共に遭遇回数が多かったとの証言も多い室蘭本線のC57形である。
 しかし、本当に美しい蒸気機関車だ。ここまで美しいC57形蒸気機関車は。ここまで美しいパシフィック形蒸気機関車は。おそらく自分の中で初の遭遇ではないだろうか。

※フィルター掛けの撮影です、ご了承ください。

 C57-144は当初、昭和15年に高崎に配置されその生涯を歩み始めた。しかし、昭和27年には北陸の蒸気機関車としての活躍をすべく金沢に転属する。この時点で、何か雪国との縁が出来ているようなものだと思うのだが…
 同年6月、富山へ。北陸内で小移動し、活躍を継続していく。
 しかし、この中で144号機に転機が訪れた。
 昭和37年の北海道行きだ。この際に144号機は室蘭に渡り、海を越えての生活を始めた。この先、144号機は北海道での活躍が続き。昭和45年には岩見沢に渡った。その後は岩見沢(第一)で生涯を終え、この駅近くの公園に保存されている。この機関車の周辺をぐるりと見ていこう。

 フィルターをかけて撮影している状態なのだが、このC57-144にも配管類の塗装は濃くされており、細かに丁寧に維持がなされている事がよく分かる。本当にこの配管類の金塗装のアクセントの美しさというのが美しく、2台の機関車を見ていて飽きさせなかった。
 そして、フィルターで少し曇りがかった状態になってはいるがロッドは青色アクセント。青色のアクセント塗装は北海道のイメージではなかったものの、見て撮影してい時には
「このロッドの塗装もありなのかもなぁ」
なんて考えて撮影していた。
 しかし、自分の中で岩見沢のC57というのはここまで綺麗な状態ではなく何かこう。蒸気最後の時代を飾るにあたって少し煤けている姿。また、切なく役者として歳を取った銀幕のスターのような姿でのイメージが強いだけに、ロッドの濃い塗装は少し違和感であった。
 そんな事を挙げてしまったら維持管理への細かなるオーダーになってしまいそうなので、自重しよう。

 岩見沢(第一)のC57に関しては、特別な思い出がある。
 NHKが蒸気機関車の撤退を近くして、蒸気機関車最後の活躍の場となった北海道でロケを行った番組、『さらば蒸気機関車』である。昭和50年に放送され、山口百恵さんと加藤芳朗さんを乗せた室蘭本線の蒸気機関車の旅の様子が放送されたのだった。
 この映像を見たのが中学2年の頃。そして、この番組に山口百恵さんが出演し国民的人気を当時掻っ攫っていたと知ったのは高校に進学してから。その映像は本当に鮮明な記憶として覚えており、自分の見た鉄道番組の中で。映像として。大きな記憶として自分に残っている。
 少し、この144号機の記録を貼りつつその思い出を載せていこう。

あの感情へと

 さらば蒸気機関車、の番組の一節。番組が始まって少しした時に、加藤芳朗さんによるこんなセリフがある。
「百恵ちゃん。コレはオモチャじゃないんだよ。昔は全部コレだったんだ。」
その言葉が、その番組を見ている上で1番頭に残っている。
 祖母の語り聞かせてくれた蒸気機関車の話。そして、蒸気機関車と共に歩んだ生活の思い出が蘇る一瞬だった。
 その瞬間は、加藤さんが何か。共に寄り添った恋人や友人を新しい人に紹介するかのような語り口。今でも忘れられない。本当にお爺さんのように。しかし時には父のように。加藤さんの話は進んでいく。
 本当に岩見沢第一のC57形といえば、この瞬間が1番に浮かぶのである。そして、百恵ちゃんのワクワクした目付き。
「昭和のスターだし、そんなの知らないでしょ?」
と思われそうだが…
 しかし、あの印象的な微笑みというのだろうか。汽車の発車を待つ百恵ちゃんの姿が忘れられない。あの瞬間の百恵ちゃんは旅人のようでもあり、父と懐かしい親戚に会いにいく家族のようでもあった。

※六郷鉄道公園の写真を使用しています

 この瞬間の汽笛の音色を、自分は絶対に忘れられない。決して、忘れる事が出来ない。
 旧型客車と繋がれた、百恵ちゃん・加藤さんを乗せたC57形。その列車が、岩見沢を発車し苫小牧方面に向かって発車していく。
 その時に鳴る汽笛が、凄く切なく聞こえてきたのだ。C57形が、自分の寿命や余命を悟ったかのように切ない音色の汽笛を鳴らし駅を出る。
 蒸気機関車の汽笛…
 といえば、何かその中には音圧や迫力。そして鉄道の魂を込め、勇ましい姿で駅を意気揚々と出ていく姿が浮かぶ人も多いのではないだろうか。
 しかし、自分がこの『さらば蒸気機関車』という番組で聞いた汽笛の音色は切なく細く。自分の残された時間を回想するような音だった。本当に忘れられない。
 写真のように連結面のアングルが映り、C57の連結の衝撃で発車していく。
『ボォぉっ。』『ガッチャン…シュッ、シュッ…』
切ない汽笛に続き、列車が動き出した。
 自分の中に蒸気機関車に対する気持ちが新たに芽生えた瞬間であり、蒸気機関車に対する心情の変化が起こった番組である。中学時代の大きな思い出だ。

 番組は当時の映像技術を結集し、その集大成としてあの番組を送り出したのだろう。NHKの蒸気機関車に関する番組。そして鉄道に関する番組では未だに5本の指には確実に内定する作品だ。
 下から機関車をアオるアングル。機関車と並走するアングル。また、時には自然の雄大な姿とC57形の姿を捉えた番組でもあった。
 この番組に中学時代魅了され、加藤芳朗・山口百恵の語りには高校時代に惹きつけられた。当時の百恵ちゃんフィーバーを知る事が出来る映像としても何か貴重な資料であり、また鉄道としては
『蒸気機関車が百恵ちゃんフィーバーの中に共存した』
と時代の1つを捉える大事な世相の分岐点でもある。
 番組ではこの他にも、臨場感のあるアングルに自然たっぷりの景色。そして鉄道の弁当売り…と非常に多くの景色がその中には映されている。
 番組は待合中にサインを書いたりなどしていたそうで、大柄なサービスの様子を感じる事も出来るのだが。
 また、番組…さらば蒸気機関車では、番組内を演出するダ・カーポの軽快な音楽も忘れてはいけない。コレがまた、道を旅する音楽隊のような役割を果たしているのだ。
 番組内で登場した蒸気機関車の番号は異なっていたものの、岩見沢第一の蒸気機関車。岩見第一のC57形といえばこの番組を想起してしまうくらいには、自分はこの番組の虜になっていた。
 中学時代、この汽車の汽笛に何度感動を味わい切なさを感じたのだろうか。高校生になって、加藤芳朗さんの語りに何度救われたのだろうか。考えてみると、そのキリは果てしないのである。
 自分の国鉄好きの原典とも言えるかもしれない。

 少し、スペックなどにも触れつつして番組の話も。
 山口百恵×加藤芳朗…両氏との旅路は昭和50年の撮影であった。そして、このC57-144は北海道での活躍のみをこのプレートに記している。
 製造だけは昭和15年…と記しているようだが、その先は大雑把なようだ。本当にこうして見てみると、昭和15年から昭和44年までの期間というのは実に長期間である。気が遠くなるというのはこの事だろうか。蒸気晩年の時代まで息を吐き、そして多くの社会の中に身を投じたその歴史に思う事を感じ。そして中学時代に感じた切ない景色とその映像の神秘に惹かれつつも蒸気機関車の周辺を観察した。
 C57形蒸気機関車に関しては、汽笛の音色。そしてキャブの形状に関して、自分にとって好きな蒸気機関車の1台である。
 貴婦人…とその名を付けられたのも納得の1台だと言うように、本当にこの機関車のキャブは流麗で尖った形状が美しい。旋回窓に機関士の視界から守る庇の顔つき。コレがまたキャブとよく似合っている。
 実際に入ってそのキャブを観察して見たかったが、今回は入る事が出来なかった。何枚か入っている写真を発見したが一体アレは何だったのだろう。

 少し観察眼を変えて、この2台の機関車を観察してみる事にした。
 おや…なんか面白いな…?と。
 こうして観察していると、重連運転のように見えるのだ。実際にD51形とC57形の重連をしているのは山口県の方でしかないが。
 何かこうして、静かに余生を送っている機関車ではあるが息を吹き。また黙々と足の準備を始める姿が想像につく。ロッドの駆動する機械的な音。機関士たちの息のあった遣り取り。そんなものを感じさせる、少し神秘的なアングルがそこにはあった。
 しかし映っている写真でも察せるように、この時の天気は急変した雨であった。折角に買った土産もずぶ濡れな状態であり、そして折角買った小樽と白老の土産が雨に濡れてお釈迦になってしまったのであった。ん〜、本当に残念としか。
 白老で購入したシマエナガさん、本当にその節はごめんなさい。
「発車ぁー!おぉらい!!!」「ボォぉぉぉっ!!」
そんなサウンドを感じる瞬間であった。
 自分の中でこうして本線級の蒸気機関車2台を一気に見られる機会というのは非常に大きく、また感動的だ。
 野球チームで言えば、エース投手と4番打者に同時に出会えたような。そんな気分でこの公園で過ごしていた。

I'm getting drenched by this rain.


 岩見沢の天気が1番酷だったのは、この旅を語る上で欠かせない話である。
 突然降り出した雨の勢いは増し、急に雨粒の大きさを肥大させて自分を打ち付けてきたのであった。
「あかんな…買うか…」
決心して、覚悟して。近くのファミリーマートに入った。しかし、ファミリーマートだとしても通常のファミリーマートと変化している点は一切なかったりする。ファミリーマートは何処に行ってもファミリーマートだ。
 買った土産濡れ、そして自分の着替えなども危ない状況になっている。
 そして入店した先のファミリーマートが改装されている店舗…であり、レジの大画面と店内有線が連動している店舗であった。
 その中で、
『一級河川、ヤリキレナイ川があるのはどっち?』
として、
『A。北海道 B。沖縄県』
との2択を答えるSDキャラクターの問題があったのだが、自分の中では傘を選んでいる最中に
「え、コレさっき聞いたしカンニングになるんじゃね…?」
と思いつつ眺めていた。
 やはり、正解は北海道。この『ヤリキレナイ』は今でこそ標準語で笑いのネタになっているが、その昔に河川名となったのにはアイヌ語が起因しているようであった。
「なるほどなるほど。」
そして、傘を買い自分はそのまま岩見沢駅に向かい道を歩いて行く。増水で浸水してしまう危険性があるにも拘らずであったが、地下道を歩行して帰ることにした。バスの時間は結局合わず、そのまま30分の道のりになったのであった。
 岩見沢市10条東1丁目。ここで650円の被弾にて、次の場所に向かう事になってしまった…

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