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中学生、私はカルト二世を自覚した。(4)母の話


これは私のもう一つの話。(1)~はマガジンにまとめてあります。

新興宗教(崇〇真〇)と母の出会い

母は兄弟の中で唯一の女性だった。田舎の実家では女性らしく。お姉ちゃんらしくと言われ、勉強はできた方だったが、働けといわれ短大はでたものの希望した勉強はできずに就職、出会った父と結婚している。

裕福とはいえない家庭だったが、家族親戚のつながりの濃い実家だ。

その母、私の祖母は自営の家と別に働いていた。しかし家族・親戚との相性が悪く、家庭や子供に対する気持ちと仕事とのバランスが崩れた。心を病んだ。

母は、「母というより祖母に育てられたようなもん」というほどだ。

短大入学を機に、母は都会へ。祖父の妹の家で下宿をはじめた。そこでおばに勧誘され入信したのが、新興宗教だった。

母はやっと見つけたのだろう。自分の居場所を。そこには「お前にはむりだ」「働け」という人はいない。

宗教でこわいと思うのは、「居場所」をいとも簡単に与えるところから浸食するところだと思う。その後”世界のため” ”平和のため”というように、信者に使命を与え、”選ばれしもの”というような特別感を与えて依存させる。

それから母の人生は、すべての基礎が新興宗教の上に成り立つようになった。今でも。

新興宗教(〇教〇光)は、まず母から自立心と視野を奪った。

憧れと依存と結婚生活と。

母はすぐに”居場所”に夢中になった。弟と母を勧誘・入信させ、自分は神の業を行うために必要な「おみたま」の格を上げた。(神の業、おみたまについては(2)参照)

母親からの愛情が足りず、母という存在を絵空事のように思っていた母は、「家族円満・愛和」という言葉にあこがれを抱いていた。

それと同時に、教団の幹部を目指そうとも考え始めていた。

短大を卒業した母は、一般職として父と同じ会社に就職した。先輩だった父と付き合い始めた。

結婚に至った経緯の細かいことは聞いていない。プロポーズの言葉なんてなかったのかもしれない。

母は、「教団幹部になる修練を積むか迷っている。結婚するか、どうするのか。」と訊いたのだと言っていた。父は昔きいた時に濁したので、恐らく事実なのだろう。

”迷っている”なんて。と思う。迷う余地が、その時にはまだあったということなのかもしれない。

父は結婚を選んだ。愛情と別に、世間体と、母をその沼から救い上げようという考えもあっただろう。救い上げる。は愛情のようで上から目線。母のことを思っての行動のようで全く違うと、今も気が付いていないことだろう。

母もまた、結婚を選んだ。父親を早くに亡くした父に、家庭を与えたかったのだろう。これもまた、上から目線だ。

かくして結婚し、後に私が生まれた。

母親像を知らない母が、母になった

母親像を知らない母は、悩んだ。多く足を運んだコミュニティーは、新興宗教の場だった。

宗教を取り巻く風潮として、まだ広報の投函などが盛んな時期であったある日、母は広報紙を折りたたんでいた。

父が帰ると、母はそれを隠したという。父はそれに激怒。「隠すようなことならやめろ」と言ったらしい。不信感をもっていた父が反対を表明したのはそれからだった。

父は、母の話を聞いたのだろうか。よくわからん宗教に加担している人。という軽蔑も込めて怒ったのだろう。宗教自体に怒るなら、母をどのようにしたら離れさせることができるのか、行動に移せなかったのか。

父は常にどこかで人を見下す癖がある。自分こそ被害者と思ったのだろう。「隠さなくてはいけないような宗教に加担する妻」を持つことに怒ったのだ。

母を「妻」というカテゴリーで見て「人」として深く接することから逃げてしまった。

父の転職を機に父の故郷へ引っ越し、母は専業になった。

夢の専業?

専業主婦になった母は、子育てと宗教を両立するようになった。このあたりからは私の記憶も残っている。

崇〇真〇は神道系、日本会議ともつながりのある新興宗教だ。どの宗教に属していても、併行で信仰することができる。まあ、そんなことは幼子にはわからないし、結局誰も教えてくれなかった。

先祖を大切に、仏壇を大切にするので父方の宗教への猛反対などはなかった。

妹、弟が生まれても、毎週のように地域の拠点である「道場」に行くのが毎週末のルーティーンだった。母子のコミュニティーがあり、その中で友達ができ、道場内で遊ぶことも多かった。

中身がなってなくても信仰している姿勢をみせれば、耐えれば親も周りの大人も褒めてくれるので、子供は気持ち悪さを感じるより早く、認められることへの満足を得てしまった。

今はすごく気持ち悪いと思う。戦中の教育のようで。

父は仕事に没頭するようになった。平日に家族で食事を囲んだ記憶がほとんどない。それは今でも。だが。

育児は兄弟の人数が増えるたびに完全にワンオペになった。母はよく「弟は沐浴すら父に入れてもらったことが無い」という。

母は愚痴をいう相手もおらず、道場に行くことを習慣づけた。物心ついた時にはもう、それだった。

母は自分の育児がなんとかなったのは神のおかげ=自分の信仰のおかげと信じて疑わない。その状況を作ったのは社会であり、父であり、母自身だ。

母はこうして、熱心な信者となり、子供にもそれを求めた。







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