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日本修行編 第3話

洗礼...


2015年 10月某日 
大野 尚斗 26歳...

粋がっていた...
トガっていた...
生意気だった...
いや、調子にのっていたただの身の程知らずのバカだった。

当時を知る友人や知人たちからは、普段からギラギラしすぎていて近寄り難かったと...

周りとの違いに焦っていた僕は、生まれて初めてディナーを経験することもなく、2, 3ヶ月ほどヘルプだが働かせてもらうこととなった。

ヘルプだろうが、バイトだろうがそんなこと僕にとって働くモチベーションに違いはなく、やるからには本気でやり、得られるものは全て得る。
店に午後くらいにつきシェフやスタッフに挨拶をすませ、シェフからは明日からよろしくと言われたが、息ごんていた僕はヘルプの間住まわせてもらうこととなった店の2階に荷物を置き、着いたその瞬間から「やります」と伝え、ヘルプが始まった。
オーナーシェフの下、正社員はキッチン2人とサービス2人だけであとは僕のようなヘルプとたまの週末にだけ手伝いに来る人がいる感じだった。
ランチもあったため、AM7:00にはキッチンに入り、営業と掃除が終わって帰宅するのは毎日AM1:00ごろで、このお店を紹介してくれた人はキツイ職場だと言っていたが、アリネアなどのお陰で労働時間や仕事量でキツイとかしんどいと思うことは僕にはなかった。
まかないを食べることができるというだけで天国のようだった。ましてや座って。

入って1番最初に戸惑ったのは、調理道具の呼び方の違いだった。

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僕は飲食店で使われる、調味料や食材をポーションして保存しておく金属の容器を弁当箱と呼んでいた。福岡のレストランでも、軽井沢でもパリのシェフたちもそうだった。
だが、ここのシェフはカクワリと呼んでいて、それはいいのだが入った初日に
「カクワリ持ってこい!」
と言われ、それが何なのか分かるわけない僕は、当然のように
「すみません、なんですか?」と聞き返す。
すると、「お前は今まで何して生きてきたんだ?」「役立たず」「使えない」と奴気早に罵られる...
意味が分からなかったが、まぁ深く考えないで「すみません」と返事だけし、仕事を続けていればいいものを、当時の僕はキレやすく調子に乗っていたため、すぐに感情をあらわにし言い返し、こういった行為が僕の店での立ち位置を不利にしていくとも知らず。

3週間後に新しくフランスから帰ってきた人が1人入り、1, 2週間も経つと僕と新人の彼ともう1人キッチンの人(2番手を除き)とソムリエとはすぐに仲良くなった。

このレストランではオーナーシェフが冷前菜とデザート以外ほぼ1人で営業中の料理を仕上げていく。
僕たちは全員そのサポートにまわる中、営業中もちろん僕は洗い場と盛り付けをしながら味見をし、シェフの動きを見て技術を盗むの必死だった。
料理はどれもシンプルだが、美味しく。
特に食材のクオリティと火入れの技術は凄まじかった...

ある日、宅配が遅れランチの営業10分前にアンコウが1匹が届いた時、シェフの「まな板!」の雄叫びに思わず「(今から)やるのかよ!」と思いつつ、まな板を用意すると、ものの7, 8分でポーションにまで仕上げてしまうのを目の当たりにした時、今まで積み上げてきた僕が思っていた僕の技術や経験というのはクソほどのレベルなんだと理解した。

圧倒的な技術...
圧倒的なおいしさ...

僕が知っている中で、職人として、極めることに命を燃やし続けている97%の料理人(シェフ)の人間性は腐っている。僕自身も腐っている類だろう(笑)

問題の多くは、シェフにもあったが、それよりも2番手を務めていた人であった。
仕事にも慣れ、滞りなく進む中、多少のイザコザがあってもすみませんの一言で片付き、仕事は続く。
しかし、2番手がヒステリー持ちなのか毎日のようにシェフと大喧嘩を繰り返し、営業中に職場放棄して飛び出すことも多々あった。
飛び出してくれた方が、スムーズにその後仕事できたのは言うまでもない。
問題は、トバッチリが僕に全て向かってきていたということだ...
僕以外のスタッフはヘルプの人も僕の後にやってきた人も全員が歳上で、世渡りがうまかった。
僕の世渡り下手さは、不器用だからっということを超えていた。
毎日のように泣き叫ぶ2番手... 
毎日のように暴れ回るシェフ...
レストランは巷では・・・の収容所とまで呼ばれていた。

笑えるような、言い合いも多かった。多くは僕の失言なんだけれども。
ある時、僕がヒゲを剃るのを忘れていて、シェフに「なんでヒゲ生えとんのや?」とツッコマれた際、アホな僕はちょっとヒゲを生やしていたシェフに「シェフのヒゲかっこいいなぁ思いまして」なんて、調子が言いことを返し、その場はシェフも「そうか、そうか、ええやないか」となるんだが...
3日後...
急に「お前ナメとんのか!」と完全に忘れた頃に(しかもヒゲもきれいに剃っている)、主語なしで爆発してくる。もちろん、状況が掴めない僕らは呆然と立ち尽くし、こういうことが頻繁に起きていた。休憩中にみんなで(2番手とシェフを除いて)笑っていた。

年末、大掃除を終え、急いで新幹線のホームへ10分前にと向かいついた僕は、いつの間にかホームのベンチで、時間にすると5分程度だけ眠りに落ちてしまい、眼を開くとちょうど新幹線の扉が閉まっていき... 乗り遅れ、実家に帰れず、途中の広島まで行って1人大晦日にお好み焼き食べて1泊して帰ったのもいい思い出だ。

数日の正月休みを終え、レストランに戻って数日後、コトは起きた。
ヘルプが終わった後、一度も食事をしたことがなかった僕はディナーを食べたいとシェフへお願いし、ちょうど4月から就職が決まっていたシェフも食事をしたいと言っていたため、一緒に食べれないかと相談し、その日はOKの返事をもらった。
翌日の営業後の夜中、シェフからメールが入り、「ナメてるのか」の一言...
翌日、仕込みをしている最中、シェフに呼び出され口論が始まり、大喧嘩となった。
ギラついていた僕は、引くことを知らず反論し続け、営業後に「やってられるか!」そして「やめます」とシェフに直接啖呵を切り、夜中荷物をまとめた。
朝、シェフが来る前に荷物を持って階段を降り、仕込みに集まってきたみんなに笑顔でありがとうございましたと伝え、店を出た。

その後も色々確執はあった... 嫌がらせもかなりあった...

僕の中では、フツフツと理由はなんであれ、生まれて初めて途中で辞めたということの罪悪感と自分自身への不信感などがつのり、情緒不安定になっていった。

料理人としては、今まであったシェフの中でもダントツに仕事も早く、技術も素晴らしく料理も美味しかったシェフを尊敬していた。

退職の意を伝え、辞めたことで飛んだ(逃げた)わけではないと思いつつも、自分の中のどこかで、僕は逃げたのか... 全ては自分の弱さが招いたことと悩みに悩み、自分で自分を蔑む日々が続き、トラウマとなり僕の心をえぐった...

数年後、トラウマを克服することとなるまでは本当に辛かった

2020年 8月に31歳となる。
色んな人たちと出会い、自分自身も見つめ直し、たくさんの友人や今でも仲のいい当時のスタッフ達とも話し言われ、自分でも気づいた。

同族嫌悪だと...

くしくも、僕とシェフの性格は似ていたのだと。
もちろん技術において僕は今でも圧倒的に負けているだろう、でも料理に対する情熱は負けていなかった、同じくらい命を魂を込めている。
僕も周りが見えなくなるタイプだが、僕には厳しく示してくれる友たちのおかげで根本的には変わってなくても、僕は変わることができた。

どんな経験でも、無駄な経験なんてない。
この時出会った仲間たち、眼と舌に焼きついているシェフの技術とセンスはかけがえなのない経験だ。

そう、遠くないうちに挨拶へ伺います。

To be continued...

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料理人である自分は料理でしかお返しできません。 最高のお店 空間 料理のために宜しくお願い致します!