センチメンタル・ツベルクリン【掌編小説】

 あの注射器の細い針を相楽ユウコは今でも鮮烈に覚えている。

 特定の記憶というのは、目の奥の網膜に焼き付いて離れないものだ。そして油絵の具を塗り重ねるように、思い出す度にゴテゴテと不細工に盛り上がっていく。頭の中にはひねくれた小さな画家が棲んでいる。相楽ユウコは冗談のようにそう思う。
 木枯らしが吹き始め、風景からいよいよ生命の躍動感が消失していく。もの悲しい季節だと人は言う。相楽ユウコは決してそうは思わない。彼女にはもの悲しいなどという感情はないのだ。

 〈悲しみ〉の予防接種を受けた時、相楽ユウコはまだ6つだった。その頃の彼女には特に目立った〈悲しみ〉の症状は出ていなかった。いたって普通の女の子だった。両親と共に東京の郊外のマンションに住み、公立の小学校に入学したばかりで、ピアノか絵画教室に通いたいと思っていた。友達はとりたてて多いほうでもないが、少ないほうでもない。運動神経は少し鈍く、二重跳びがどうしても続かなかった。膝小僧の絆創膏と引き替えに自転車に乗れるようになり、赤か水色の自転車を欲しがっていた。どこにでもいるような素朴で可愛らしい女の子だった。
 それが突然、病院のベッドで仰向けに寝かされている。窓のない個室は蛍光灯の人工的な光に照らされ、やけに白く平板に見える。塵一つない床、染み一つ無い天井が、かえって彼女の小さな胸を不安でいっぱいにさせた。

 つんとした消毒液の匂いが緊張を呼ぶ。

 聴診器が彼女の内臓の音を探る。

 医者の瞳から放たれる視線には奇妙な印象があった。ユウコという対象を注意深く見つめているようでそうではない感覚。まるで相楽ユウコの体を透過して、ユウコの持つ疾病だけを見定めようとしているようだった。ガラス窓の向こうの景色を覗き込んでいるような焦点の遠さとでも言えばいいのか。
 不意に二人の男性看護師が視界の両端から現れ、それぞれがユウコの手首を掴んだ。その強さは到底6才の女の子に対するものではなかった。血流が止まって痺れを生じさせるほどの力。その強さが、暗黙の内にユウコに一切の抵抗の余地がないことを伝えていた。消毒液を浸した脱脂綿が彼女の皮膚に触れると、腕の裏側からひやりと熱が奪われていった。いつの間にか医師の手には聴診器ではなく注射器が握られていた。病室の光を反射した細い針がユウコの柔らかな皮膚に鋭角にあてがわれる。先端が肌を貫くと、火花のような小さな痛みが生まれた。医師の親指が注射器のプランジャーをゆっくりと確実に押し込んでいく。シリンジの中の液体が針を通ってユウコの体内へと注入されていった。液体には僅かばかりの〈悲しみ〉が溶かされていた。

 次の瞬間、腕が凍り付いた。そう感じるほどの耐えがたい痛みが血管を通って駆け上がってきた。ユウコは動物的な反応で腕を振りほどこうともがいたが、無駄だった。診察台の左右に控えた二人の看護師は、石に変えられたギリシア人ように硬く動かず、恐るべき力でユウコの自由を奪っていた。医師はシリンジの中の液体を容赦なく押し込んでいく。真冬に氷水に浸けられたような冷たい痛みに肩から先が覆われている。腕全体が凍結したようだ。小指の先さえ動かそうとしてもまったく動かない。運動組織が壊れたというより、まったく信号が届いていないといった感覚だ。神経に変調でもきたしたのか、体温があっというまに下がった。背筋に寒気が走って止まらない。歯の根があわず、全身にひどい鳥肌が立った。幼いユウコが想像したこともないほどの苦痛だった。世の中にこんな苦しいことがあるなんて、たった6才の子供にどうして思えるだろうか。だが、本当に恐ろしいのはその後に起こったことだった。
 ふいにそれまで吹き荒れていた恐怖の感情が消えた。恐怖だけではない。ユウコの一切の感情の流れが突然の凪のように止んでいた。胸にぽっかりと空洞が空いた。さわれるほどの空洞、そう感じた。肋骨の内側がまるごと無くなってしまった。肺も心臓も神経も。こわばっていた全身の筋肉がだらっと弛緩し、両腕が垂れた。ユウコの顔から表情が消えた。口角から一筋の唾液がしたたり診察台のシーツに染みをつくった。プラスもマイナスも無い虚無。その虚無に向かって、間歇泉のように体の奥底から突き上げてくる流れがあった。〈悲しみ〉だった。〈悲しみ〉が、何も無い空っぽの容器になったユウコの胸に注ぎ込まれ、創世記の洪水のように彼女の心のすべて水没させていった。そこにはしがみつける僅かばかりの板きれも浮かんではいなかった。

「アルコールと同じでしてね。〈悲しみ〉を直接、血管注射すると効果はてきめんに現れます。初めての接種ですからね。投与したのはほんの0.01mgほどです。たとえ過剰に投与されたとしても身体的には悪影響は一切ありませんが、神経的、精神的な影響がないとは言い切れません。量を間違えると抑鬱や統合失調を起こす可能性があります。いえいえ、心配はありません。当院で投与される量は的確に判断され、娘さんの心身のコンディションも考慮してコントロールされています」
 医者は病室にいたもう一人の人物に向かってそう説明した。相楽ユウコの母親、相楽サエコに向けてだった。相楽サエコは娘に起こったことの一部始終をじっと見ていた。ハンカチを口元にあて、壮絶な光景に細い眉をひそめていた。

 世の中にはひどい〈悲しみ〉を発症させてしまう人間がいる。相楽ユウコは先天的な〈悲しみ〉の疾患を伴っていると診断された。原因は母親の相楽サエコにあった。つまりは遺伝だった。
 相楽ユウコの母親、相楽サエコは昔から重篤な〈悲しみ〉の疾患を煩っていた。この手の疾患を専門分野にする医師達(それほど多くはいないが)の間では有名な人物だった。相楽サエコは都心の裕福な家庭に生まれ育った女性で、何不自由ない人生を送ってきた。富裕層しか入れない高名な私学に通い、洗練されたファッションを着こなし、名家の令嬢らしい教養を身につけていた。
 しかし、何かのきっかけで頭の中のトリガーが弾かれると、相楽サエコは人目も憚らずに大泣きを始めた。嵐のような激しさ、というより、満月の日に潮が満ち、海面がゆっくりと高まり、陸地を残らず水没させるような、止め処ない泣き方だった。ひとたび発作がはじまると一週間は〈悲しみ〉が引かなかった。何をしようとしても、抜け出せないぬかるみの上で足を取られるように 〈悲しみ〉がつきまとい、涙が止まらなかった。

 相楽サエコに与えられていた豊かな人生はこの一点、〈悲しみ〉の疾患のせいで損なわれてしまった。あろうことか自身の結婚披露宴の最中に発作が始まってしまったからだ。
 心の内側にじわりと不吉な感情が広がった瞬間、相楽サエコは戦慄し、パニックを押し殺そうとした。だがもう止めることはできなかった。内臓から吹き出す感情がウェディングドレスを徐々に湿らせていった。最初は感極まった新婦の涙を微笑ましく見守っていた大勢の列席者も、十五分後には顔色を変えていた。新郎は戸惑うばかりだった。サエコの父母は事態を飲み込み、なんとかその場を取り繕おうとしたが、会場のざわめきは大きくなるばかりだった。相楽サエコは逃げるように退席し、新婚旅行のためにとっていたホテルのベッドの上で一週間そのまま泣き続けた。結婚は破談になり、よくない噂が立った。その知らせを聞いたときも相楽サエコは涙を止めることができなかった。しかしそれが病気のせいなのか、自分の感情なのか、もう相楽サエコには分からなかった。
 やがて年月が経ち、ほとぼりがさめた頃、彼女は学生時代の友人から紹介された男性と結婚をした。都心の証券会社に勤める男だった。あまり気の乗らない話だったが、年齢的にもサエコの容姿は下り坂にさしかかってきていたし、相手が見つかっただけでも幸運だと思っていた。新しい夫はサエコの発作を気にかけなかった。たまに食あたりになって寝込むのと大した違いはないだろう? 夫は無感情にそう言った。披露宴は挙げなかった。数年後、ユウコが生まれた。

 ユウコも母の疾病を遺伝している。生まれてすぐの検査でそれは判明していた。相楽サエコは自分と同じ呪われた運命を背負った娘の人生を救うべく行動を起こした。
 〈悲しみ〉を投与されたユウコは、病室のベッドの上で動物のように丸くなり慟哭していた。理性は吹き飛び、胸の内側にはただ〈悲しみ〉だけが満ち、渦巻いていた。心のエネルギーが奇妙にねじれ、涙と震えが止まらなかった。時計の長針が何度回転しても、それは終わる気配を見せなかった。6才のユウコは心の中にできた暗い海に放り込まれていた。真冬の北極圏のような、太陽のまったく当たらない冷たく真っ黒な海で、すがりつくものは何も無い。凍りついた四肢は水を掻く度に切られるように痛み、かろうじて小さな頭だけがうねる水面の上に出ている。時折、高波が少女を飲み込む。叫んだ悲鳴は泡となってどこかへと散っていく。ユウコは一晩中、暗い海を独りで泳いだ。
 
 〈悲しみ〉の予防接種を受けた人間は、感情の波が引いて正気に戻ると、〈悲しみ〉への耐性ができあがる。毎年の接種を繰り返せば、耐性は徐々に高まり、発作に抵抗できるようになる。ただし引き替えに日常生活で触れる〈悲しみ〉にも気がつかなくなっていく。

 35才になった相楽ユウコは都心の金融機関で働いている。今までに母親のような発作に見舞われたことはない。毎年の予防接種を受ける必要はすでになく、病院には義務的な経過報告に出向くくらいだ。
 3年間に母親がガンで亡くなった時、ユウコは母が苦しむ様子をただじっと見ていた。相楽サエコの体はやせ細り、肌は瑞々しさを失い、唇に色は無く、瞳は虚ろだった。命の火が消えつつある母に手を握られても、ユウコに〈悲しみ〉という感情は生まれなかった。葬儀の時も涙を見せないどころか、眉一つ動かさないユウコの振る舞いをみて、多くの列席者は物陰で悪口を言い合った。相楽ユウコはその陰口に気がついていたし、母の死を悼めない異常さも理解していた。だが、そんな自分の境遇をとりたてて悲しいとも思わなかった。

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