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その決断は「勇気」と呼べるのか

昨日、「天気の子」を見に行きました。
えぇ、そうです、2回目です。人生初「同じ映画を2回見る」という、ちょっとリッチな体験をしてきました。

昔は

「同じ映画を何度も見るってオタクじゃん」

という悪しき偏見を持ってましたが、「君の名は」以降は映画の素晴らしさに気づき、その偏見は近くの川に流しました。下流にいた鯉が食べたと思います。素直じゃない鯉がいたら、それは僕のせいかも。


初めての観覧はストーリーを追うことに一生懸命で、細かいところまでは意識が及びませんでした。


けど、2回目になると実は色々なところに話の伏線があったり、細かい表現にも気づけたりと、また違う視点で楽しめて、作品の理解もより深まって、予想以上に(・∀・)イイネ!!。


でも今回は、様々な媒体の「天気の子」の批評を見て、納得できるものや、ちょっと引っかかる意見などを読んだので、

「あれ、そんな複雑な意味が込められてるのかな?斜に構え過ぎじゃね?それとも俺の理解力が足りないのかな?あれあれ?」

と他人の意見に影響受けまくって、1回目で感じた自分の純粋な感動に自信を無くしていた状態でもありました。


しかし、昨日僕は確信したのです。

人の意見に左右されることはないのだ。物語は感じたままを受け入れればいいと。

自分と違う意見の人に何か言い返す必要もないし、自分の意見を変える必要もない。

そして、この物語がなによりも物語っていたのは「自分の選択に責任を持つこと」だったんじゃないかって。

物語の終盤で、二人は大きな決断をするんだけど、それは傍目から見たらすごく迷惑な事なんですよ。でも、この作品に出てくる人々はそれぞれ何かを犠牲にした選択をしていて、結局誰かの幸せは他の誰かに迷惑が掛かるようになってる。

ということは、みんなが幸せになる正しい選択なんて最初からこの世には存在しないんだなってことがやっとわかった気がする。


例えば、自分考えで動いたら確実に他の何人かに迷惑が掛かるとき

「これ私が我慢すれば丸く収まるんじゃない?」

と思って我慢する人が沢山いると思うけど、それは正しくもないし間違ってもいない。

ただ、大事なのはその選択に責任を持てるかという事なんだ。

我慢した後に後悔しないか。我を通したときに責任を負う覚悟があるか。

みんな誰かのために人生を歩んでいるようで、実はそのすべては自分が選んできた選択肢の結果なんだよね。


京アニの事件みたいな、人の命を奪うような決断は絶対に認められないけど、99人に「我がまま」と言われても、だれか1人が「よく決断した!!」と応援してくれるような、前向きな決断っていうのは「勇気」と呼ばれてもいいんじゃないかと思った。


僕は先天性の心臓病とてんかんを持っていて、会社に働きに行くということが難しいから、今はずっと実家で家事をしている。

僕が今すぐにこの家を出て一人暮らしを始めたら、母にはまたおじいちゃんの世話と家事が負担となって、また体調を崩すだろう。そしてなにより、僕自身がお金を稼ぐスキルを持っていないから、恐らくすぐに野垂れ死ぬ。

だから、今すぐ人生を変えるような大きな決断はできないけど、でもこのままじゃいけないってこともずっと思ってた。

そして今回、「天気の子」を2回見たらその迷いっていうのが、霧が晴れるように薄らいできて、ある一つの光が見えるようになった。

それは昔から見えていた光なんだけど、自分に自信がなくてどうしてもその光に向かうことができなかった。

才能とか、今の境遇とか理由にして、もっとはっきりと見える光ばかりを追い求めてたけど、どれも途中から僕には歩けない道にばかり続いていた。

でもやっとわかった。僕にはこの道しかないんだって。この決断で家族に迷惑がかかるかもしれないし、自分が体力的にも精神的にも辛い思いをすることもきっとあるだろう。

でもこの決断で、何もない自分から脱却できるのなら、いつか誰かの「勇気」に繋がるのなら、もう迷ってはいられない。

僕は小説家になる。


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