愛し、愛されて、今がある。
来週の月曜に登壇するイベントに向けて、鳥取のことを考える時間が増えました。
今日は「鳥取」に対しての僕の想いを書いてみようと思います。
「地元愛」なんて幻想だ。
まちづくりの界隈にいると、「地元愛があるから立ち上がった」というサクセスストーリーによく出会います。多くの人の共感を呼びやすい美しいストーリーだと思います。
ですが、僕の中には『地元愛』という感情は一切ありませんでした。まちづくりに興味を持った大学4年の頃から、どっぷりと足を踏み入れて時間の経った今まで、その気持ちは変わっていません。
鳥取のリノベーションまちづくりの一環で「ホンバコ」というコミュニティカフェを運営していたので勘違いしている方も多いですが、僕の中では『地元だから』ではなく『やりたいから』という想いの方が強かった。
その街で関わった人たちには愛着がある。
ただ、地元愛がないくせに、熱海に活動の拠点を移した今でも月に1週間ほどは鳥取に帰る二拠点生活を続けているのは、やはり鳥取に対する愛着があるからでもあって。
その気持ちの根源はなんだろうと考えてみると、鳥取の街に対する感情というよりは『鳥取の街で関わった人たちに対する感情』なんだろうと思うんです。
生まれ育ったから、でもなく、実家があるから、でもなく、約3年間カフェを運営したから、でもなく、家族がいるから、でもない。
定期的に会いたい人や、たまに顔を出したい店や、大事にしたい仲間が、鳥取の街にいるから接点を持ち続けたい。そう感じている気がします。
僕の行動のフックは「人」にある。
もしかすると、多くの人が共感する価値観ではないのかもしれません。というか、僕自身にだけ強く表れる感情だという可能性だってある。
でも、だけど、やっぱり、僕の行動のフックは「人」にあるのは自明の理だし、その感情を自分で理解した上でしか自分の関わり方は模索できないなと。
愛し、愛されて、今がある。
結局ね、『愛がすべて』なんです。
僕にとっては、愛を向ける対象が「街」や「地元」ではなく「人」だというだけで、きっと、鳥取にいる人たちに対して僕の愛が向いているかどうかが大事になってくるんじゃないかと思います。
そして、僕がその人たちを愛するに至ったのは、僕がその人たちから愛されてきたからでもあって。その感覚が今ならよくわかります。
以前「愛されるよりも、愛したい。マジで。」という記事の中で、『「愛したい」と思える人は、そもそも愛されてきた人なんだろうね』という言葉を書いたけど、愛し愛されて今があるし、そうやって世界は美しく回っていくんだろうなと。
僕と鳥取の間にある見えない糸は、きっと『人』と『愛』によって繋がっている。
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今日の記事は以上です。
明日の夜の夜行バスで鳥取に帰ります。
では、またあした〜!
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