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森(9話)

 話し声で中学生男子は目が覚めた。中学生女子の声だった。囁き声だった。中学生男子は寝起きの頭でこういった順番で認識した。

 囁き声は、誰かに語りかけるようだったが、それが誰と決まっている様子はない。彼女は中学生男子の眠るベッドのあるカーテンの外で、声を出して本を読んでいた。そうわかったのは彼女のシルエットが本を座って読んでいる人そのままだったからだ。

 なぜ寝ている横でわざわざ? と中学生は思ったが、彼女の声は心地よく、そのまましばらく聞いていることにした。が、数分聞いてもう一度眠りに落ちてしまいそうな気がした。眠たい目をこすらずに眠たいままで時計を見やるともう十五時を指していた。

「三時間も!」と思わず、大声が出て、頭がふらつく。起こした体が後ろに倒れるのを中学生女子が支える。

 ありがとう、と中学生男子が言ったのに対して食い気味に「おはよう!」と中学生女子は言う。さきほどの囁き声はどこへやら大きめの声に中学生男子はまたもや頭がふらつくが、支えられたままだったのでことなきを得た。

「おはよう……ってもうお昼も過ぎだけど」
「いや、思ったより早く起きて良かったなーって」
「それってこのまま目が覚めないとか?」

 心配してくれたのか? と続けるはずだった声は心の中だけに留めた。寝起きすぐとはいえ中学生男子は自分の気持ちを悟られてはならないという意識だけはしっかりと持っていた。

「バカ。夜まで寝ているのかなって思ったんだよ。今日保健の先生いなくて、顧問と監視人の人だけだったから、その二人が前に倒れた人は夜遅くまで寝てたこともあったから、先に帰ってて良いって言われて。で、17時までに起きなかったら帰ろうと思ってた」

「おかげさまで、良い目覚めですよ。良すぎて、また寝ちゃいそうだったけど」

「あ、聞いてた?」

 この距離で声に出して本を読んでいて聞いていたもないだろうと中学生男子は思ったが、それを言うより早く、

「私国語苦手なんだよね」と切り出した。

 その割には聞きやすい綺麗な声だったと言おうとしたが、彼女は口を挟むのを許さないと言わんばかりに食い気味で続ける。

「全然理解できなくって。それで悩んでたら声に出して読むといいよって言われたから、やってみたらすごくて!」

 興奮して話し、中学生男子の体を揺らす中学生女子。

「いやいや、声に出してたのもそうだけど、なんでわざわざここで?」

「いやー待つって決めたのはいいけど、今日は走るのが終わったらすぐに帰ろうと思ってたから手ぶらで来ちゃって、暇潰すものがなかったんだよね。宿題でもしようと思ったけど、それも持ってきてないし、校舎の中をぶらついていたら図書室があったからテキトーに本を持ってきた」

 ほら、といって見せてきた本は、表紙こそファンシーだが、内容はわりと暗めの児童文学だった。どうだった? と中学生男子がたずねるも、まだ序盤だからわからないとの返答。三時間あったのにまだ序盤とか、全然理解できてないじゃんと中学生男子が思ったのを中学生女子は瞬時に理解する。

「いや、倒れてから、運んで、ご飯食べて、校舎ぶらぶらしてーってしてたから読み始めたのは、30分くらい前だよ!」彼女はそう言うが、本の栞は序盤の中でもだいぶ前半を指している。それを指摘すると彼女は語気を沈めた。

「だって、いつ起きるか気になって集中できなかったんだもん」

 そっぽを向く彼女に、ごめんと言おうとして、中学生男子は固まる。

 つまり、それは、寝顔を見られたってこと!?

 顔がみるみる赤くなる二人。しかし互いに顔は見れなかった。

「そ、そういや走りの方の件はどうなったの?」

「あ! そうだ! ひどいよまったく! 私大変だったんだから! あれから三十分余計に走らされたんだよ! やっと終わったと思ったら追加の三十分ってどれだけ大変かわかる? そうだ! それもあってこれだけしか読めてないんだからね!」

 今度ははっきりとごめんと言って、中学生男子は顔を背けて外を見る。

 怒る彼女は攻撃的な気持ちからか無意識に体を中学生男子に近づけていた。顔がはっきり見えたのも去ることながら、体操着姿の女子がこの距離に来ることなんてほとんどなかった彼は、純粋に照れていた。

 そこで中学生男子ははた、と気づく。

「匂い、臭くないね」

 言った後で、しまった! と中学生男子は思った。中学生女子の顔を思わず見やるが、彼女は寂しげな表情を浮かべながら少し微笑んでいた。

「やっぱりそう?」
「ち、違うんだ」とは言ったものの違うは嘘なので続きが見つからない。

「ううん、大丈夫。これ私の匂いじゃないから。多分お兄ちゃんのだと思う」

 彼女は自分の胸に手を当てて深呼吸をし、また微笑む。さきほどより寂しそうな様子は薄かったが、それでも眉によるほんの少しの皺を中学生男子は見過ごさない。

「走り方もそうだったけどね。私体が弱かったから、体はお兄ちゃんのを引き継いでいるのが多いのかな」

 言った後で思わず中学生男子は彼女の体をまじまじと見る。

「ちょっと……変なこと考えないでよね。私、生えてはないから!」
「え、何が?」
「え?」

 彼女の顔がみるみる赤くなる。会話を脳内で巻き戻し、彼女の顔の赤い理由に気づいた中学生男子も顔を赤くする。今度は二人とも固まってお互いをみたままだった。

「おっ、起きたか」と保健室に顧問が入ってくるまで、二人はそうしていた。入ってこなければどれくらいそうしていたかわからないと二人とも思った。
「もう、大丈夫か」

 中学生男子がはい、と答えると顧問は背中をバシバシと叩いて「いやぁ、よく頑張った。先生感動したよ」と激励する。

「もしかして、ずっと見ていてくれたんですか?」レギュラー入りとまではいかなくても、それに向かって一歩進んだのではないかと思った中学生男子。

 しかし顧問の先生は「あーいや、ずっとは見てないが」と背中を叩く手を止めた。実際、走り始めと一時間ごとに数分見にくるだけだった。最後に報告した時もふくめて計四回、十分未満だった。が、それを知る由もない中学生男子はありがとうございます! と喜んだ。

「まぁでも、その、無理はするなよ」

 はい! と勢いよく返事をする中学生男子に「明日の部活も休んでも良いんだぞ」と微笑む。

 顧問が笑顔を見せるのは珍しい。顧問は他に数学を担当している。だが、教え方は厳しい。いわずもがな部活中もそうだから、二人とも驚いた。中学生女子にいたっては「うわ、笑顔、めずらし」と声に出してすらいた。顧問はそれに苦笑いで「まぁ、ここには監視人もいないからな。カメラがあるかもしれんから変なことは言えんが、笑顔くらいかまんだろ」

「え、あるかもしれないってことは、先生もわかってないんですか?」

「今、変なことは言えないって言ったばかりなんだがな……。まぁお前たち生徒に厳しくするんだから先生だけ楽にするわけにもいかんだろ。カメラの位置や有無がわかったら、それが見えないところでサボったりできるからな」

 そんなことより、と先生が中学生男子から中学生女子に向き直る。

「お前、本当にバスケ部やめるのか?」

 中学生男子は驚く。え、という声より早く、
「はい」と彼女が言った。

「確かにうちのバスケ部は女子には過酷かもしれん。だが、さっきも言った通り、お前は変に男子のような動きをするから、いろいろしんどいだけで、そのポテンシャルはものすごいものを秘めてると先生思うんだ。もったいないと思うな」

「だから、先生、何度も言っているじゃないですか。私は別に男子についていけないから部活を辞めるんじゃないですって」

「だったらどうしてだ?」

 彼女はうっ、と言った後に「それは……」と声に出して中学生男子を見やる。

 まさか、森について調べるためにやめるのか? 

 そうだとしてもそれを素直に言えばさらに追加のメニューになるのは必至。部活を辞めるという中学生女子はいいが、中学生男子の方はそうなるだろう。今日はさすがにないにしても、明日ないし次の練習は今日より過酷を極めるのは避けられない。

 中学生男子と中学生女子の視線がぶつかる。その実際には見えない線を、目でなぞるように何度も往復する顧問。顧問はやがて一つの結論に辿り着いた。それは、まぁ、この流れだったらそうなるだろうなと普通ならわかるが、二人は違います! と声を出さずにはいられなかった。

「またまたー」と言う顧問はいじわるな笑顔を見せる。笑顔の瞬間はとてもレアで、このタイプの笑顔はさらにレアだが、二人は全くもって嬉しくなかった。

「そういやぁ、二人で隣町でお茶してて、今日も走らされてるんだもんな」

 そういえば付き合っているという設定にするという話だった。もうすでにそういうこととして数人には定着しているので、部活を辞める、恋人と視線を交わすとなれば、もっとイチャイチャしたいから部活を辞めるととられてもおかしくない。

「まぁ、辞めるにしても、だ。うちは運動部にしても文化部にしてもなにかしら部活には入ってもらうことが鉄則になってる。夏休み中だと転部の手続きも難しいが、バレー部くらいなら隣だから口ききしてやれるぞ」

「うーん。体育会系はなぁー」と彼女が言うと、顧問の口角がにやり、と上がる。

「二人の時間が合わなくなる、か?」

 森について調べるため、という理由では間違っていないが、その笑顔にムカついた二人は同時に「違います!」と否定した。

 あまりにも大きい声を出してしまい、グラウンドにいた監視人にも聞こえたため、顧問に逆らったとして病み上がりなのにも関わらず、三十分追加で走らされた。

 それが終わった後、顧問に帰る挨拶に職員室に行った。

「三十分ですんだ私の厚意に感謝し、気をつけて帰るように!」と顧問は大声で言い、続いて「二人でな」と小声で言った。

 これからの部活について話していたのか、中学生女子は中学生男子を待っていた。いちおう付き合っているという約束のために、手を繋いで校舎を出たが、学校が見えなくなってすぐにどちらともなく手を離す。

 どちらのものか、またはどちらのものもなのか、手は家に着くまで熱かった。

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