ひと狩り行こうで!討伐クエスト報酬

※今回の記事で使用する画像には、動物の死骸、その一部等が含まれています。人によって気分を害する表現があることをご了承いただいた上でご覧ください。


12月4日(日)は、家裏の畑打ちと、赤花絹さや兵庫絹さやの種植え。あと、猪肉を貰った。


昼過ぎ、そろそろ畑を打とうかいうとき、母親の電話が鳴った。二つ隣のおっちゃん(通称:ハンター)が猪肉を取りに来いということだった。週末に猪討伐クエストに行ってきたのだろう。無事、討伐クエスト「猪1頭の討伐」をクリアしたようだ。僕と父親、男二人でボール皿を手に、卑しいアイルーのように肉を頂戴しにうかがった。

家の前にある溝で、よく猪や鹿が転がっている。肉の保冷、不純物を取り除くのに適しているそうだ。ハンターのおっちゃんは、週末山で狩った獣を家でさばいたあと、よくウチに持ってきてくれる。おかげで我が家の冷凍庫は鹿肉でいっぱいである。

今回の猪は思ったより大きくはなかったので、やはりドス猪ではなく普通の猪討伐をしたのだと思う。山から持って降りるのも大変だろう。

腹わたを取ったから好きなやつを持っていけということで、ハツ、キモ、アミをいただいた。

アミというのは猪の胃を包むその名の通り網状のもので、これができてから内側に胃が形成されていく?らしい。これも食べられるのだそうだ。見た目が違うようだけど、牛でいうアミイ、ハチノスのようなところか?初めて見たからわからない。おっちゃん曰く、これは良い出汁がでるらしい。

猪の心臓は人間のものと同じくらい?僕の方が大きいかなあ。握りこぶしよりちょっと大きいサイズだった。大動脈、右心房、右心室、左心房、左心室....

こちらは大腸と小腸。気持ち悪いけど、自分もこれと同じようなものが体内にぎっしり詰まっているのだな。これらは貰ってない。

直接聞いたわけではないけど、ハンターのおっちゃんが使っているナイフの柄はどうやら鹿の角でできた特製品。特注ではなく特製というのは多分おっちゃんが自分で仕留めて自分で作っているから。実際、肉以外の部分を様々なアイテムに応用しているのは確かだ。熊の油を薬として利用したり、骨や角を使ってアクセサリーを作ったり。まさにモンスターハンターを地で行く人なのだ。週末におっちゃんを見かけたときは法螺貝の音が聞こえる気がする。

山の麓の方に行けば、ハンターたちが仕掛けた罠があって、たまに鹿や猪が捕獲されている。罠は、落とし穴やシビレ罠ではないケージタイプなのだが。このおっちゃんハンターは、罠とライフルを使う。山に入るときはライフルで狙撃。麓では罠。山の動物にとって最大の天敵である。さらにコックでもありナイフさばきも華麗なことから、和製スティーブンセガールの異名を持つ。

キモ。灰汁が出るので数回湯煎し、酒、醤油、砂糖、すりおろした生姜と一緒に炊いた。やっぱりキモはどの動物も味は同じようなものだな。

ハツ。これは塩胡椒をふって焼いて終わり。これも焼肉屋で出るハツと同じような味だ。

ハンターから肉をもらった後、家裏の畑打ちと種植え。

右の畝と真ん中の3分の2は赤花絹さや、左側は兵庫絹さやを植えた。

絹さやの種はこんな感じ。ソラマメの時と同じで着色してある。これを株間30cmほどで3粒ずつ植えていく。春獲れの豆は死ぬほど収穫できるよと、いろんな人から言われたので期待しよう。

次回は、母の実家の畑作り。


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〜狩猟からハンティングへ〜

ハンターってすごく面白い仕事だと思ったけど、案外ハンター志望の人は少ないらしい。ジビエというのが流行りだして、ハンティングに興味を持つ人は増えてきてはいるものの、まだ足りていないのだそうだ。足りていないというのは、主に鹿や猪など、獣の増殖の速さに対してハンターの数が追いついていない状態だということだ。

鹿が増えると草本や低木の植物がどんどん食われていく。若い植物が食われるので森林の高齢化というのが進むらしい。そのうち土壌にも影響してきて、森林の保水機能がやられて土砂崩れが起きたりする。その原因が鹿と限らないだけに、問題として認識されにくい。まあどうせ獣害対策のためにハンティングしようって言っても誰もやるはずがない。そんなことより僕はエンターテイメントとしてハンティングができたらなあと思うのだ。別に生き物の殺戮を楽しむのではなく、環境保護のためでもなく、殺しと食というきっかけから我々の生活中にある価値のありかを考える体験をしてみたい。

ハンティングから動物のさばき方まで覚えたら、食料獲得の最も基本的な流れを体験できる。「豚や鶏をさばいて食べる体験をしてから、肉が食べられなくなった」というトラウマの話は割と耳にするのだけど、やっぱりそれだけ我々の生活は切り身化されたものの上に成り立っているのだと実感するのだ。トラウマというほど酷くなくても、しばらくの間肉を食えない人はいる。それが良いか悪いかは問題ではない。ただ、生き物を殺して食うという原始的で基本的な人間の活動を知る機会があってもよいのではないかなと思うのだ。みんなは知りたくないだろうか。それを誤解なく伝えられる環境を作ってみたいと細々と考えているのだけど。その手段として、狩猟をエンターテイメント化するのだ。学ぶという意味でエンタメ化できたらね。昔の貴族の道楽としてのハンティングは問題かもしれないけど、学問が娯楽化した今では、学びの場としてのハンティングならできるだろう。学ぶというより、考えるかな。僕は、切り身のみの生活から、生身の生活を体験した人たちが何を考えるのか非常に興味がある。殺して食うことの、どこに価値があるのだろうね。

僕は、実際に山で狩猟をしたことはないけど、海ならある。釣りだとかなりの人は経験しているだろう。釣った魚の頭を切り落として、腹わたを抜いて三枚におろしたことくらいはあるんじゃないかな。僕は小学5年の時に自然学校で体験し、大学に行ってからも食費を浮かすためにたくさんの魚を釣った。そのときにトラウマになるほど魚が可哀想だと思ったり、動植物の命について考えたことがどれだけあっただろうか。多分無いと思うのだけど、それが哺乳類と魚類の差なのかもしれないね。哺乳類が死ぬのと、魚が死ぬのはやっぱり違うのかもしれない。

鹿を鉄砲で撃って、そいつの死を見届ける。腹をえぐって内臓を取り出し、皮を剥いで、脚を切断し細かく切り分ける。後はいつも通り、切り身になった肉を調理して食べる。これで何か変わることってあるのかな。

実は自分自信が手を動かして体験しなくても、見るだけでもかなりインパクトがある。まだ体温が残っているような鹿が腹にナイフを刺され、腹わたを引きずりだされるところや、皮を剥がれるところを直接見たら、最初はやっぱり気持ち悪くなったよ。よく庭先でハンターが鹿をさばいているのが見えていたからね。僕と同じ状況に遭遇した時、人が何を考えて、その後どういう行動をとるかが一番興味深いな。ある人は美味しく食べようと思うだろうし、ある人は、もう肉なんて食べたくないと思うだろう。両者は、何に最も価値を置いていたのだろうか。



※切り身と生身の話は、学校の先輩から紹介していただいた、鬼頭秀一氏の『自然保護を問い直す』を読んで、そこからヒントをいただき、自分の体験を交えて思ったことを書いた。

このところ大勢の人からかなり重大なヒントをいただいている。「環境保護について」「自然とは何か」「肉を食うことについて」「生き物を殺すことについて」「何を持って死とするか」など、こういう単純だけど込み入った話は大好きなもんで。

全てに通ずる僕の思考のキーワードは「価値の所在」なのだけど。

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