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試み:毒親に支配された人生を振り返る

思い出したその時々で推敲・追記していきます。
最終更新日:11/26

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「自分のことを可哀想って思ってるでしょ。」と言われたことがあるけど、思っていない。
ただ、運が悪い人生だな、とはずっと思っている。

可哀想って憐んでもらっても何にもならないが、運が悪いというのは笑い話にできると思えるからかもしれない。自分が尽きるほど悩んで苦しんで泣いて怒って辟易している家庭環境について、可哀想と高みの見物をし始める他人と関わりたくないのかもしれない。
または、何もわかっていない・わかってくれない(と思ってしまう)他人を巻き込みたくないのかもしれない。

とりあえず、憐れまれるより、笑われるほうがマシだと思える。自分を殺して殺して殺して、ずっとピエロを演じ続けていたからそう思うのかもしれない。
「同情するなら金をくれ!」というのは、よく考えられた台詞だと思う。

人生に後悔がない。いつも。
ただ、とても悲しく悔しく思えることは1つある。
それは、自分の問題を解消できないまま正規教員になって、その職業=夢・未来への希望を失ってしまったことである。

あまり書いたことがなかったけど、高校で臨任をしていた時から朝早く出勤することができなかった。周りの人が毎日朝早く出勤できること、前の日の疲れを引き摺らないでいることが不思議で仕方なかった。
この頃は中学に比べたら全くブラック労働じゃなかったのに、毎日疲れがすごくて、帰ったら床で寝たり、料理も化粧も風呂も諦めて自分はどうしてこんなに何もできないんだろうと落ち込んだりしていた。
今思えば、あれは明確にセルフネグレクトだった。しかも、一人暮らしを始めたせいで親からの過干渉が悪化していた時期だったというのもある。

遅刻については、学生時代から同じだった。
中学は最悪の時間だったので記憶が一切ないが、入学式は中学も高校も親のせいで遅刻したのを覚えている。
高校で初めてできた友達には「入学式に遅刻してきた子」と思われていた。
子どもの晴れ舞台なのに、遅刻するなよ。その子供を巻き込むなよ。謝りもせずに連れて行くなよ。今なら冷静にこう思えますが当時は遅刻がいけないことという認識がなかった。常に親を待って遅刻させられてたから。
そのせいであたしはそんなこと言われて、本当に最悪だ。

高校は人生で初めて色んなことができて楽しい、自然体でいられる、苦しくない、ここにいたい、と思えた場所ではあった。

だからほとんど、なんとかやっていた。
しかし、大学合格が決まるのが早かったので、決まってからはあ、もういいんだなと毎日遅刻し始めた。
受験モードで話が合わなくなった/遊んでくれない友達に会う意味もない。恩師は末期がんで入院していて校内にいない。家に帰るのはつらいから高校にいたほうがマシ、だから行くか、仕方ないか。
そんな感じ。

高校は大好きだったけど、高3のこの頃は本当に高校へ行く意味を失っていて、正直記憶がない。同じように受験が終わっている友達と遊んだり、その後も多分家に帰れずに外で寝てたり座ってたりしていたのはこの頃だったと思う。

大学2年、学費の支払い日目前になって親から「学費がない」と言われた。
これを機に、「親は信頼できない」と確信がもてて、そこから心がガラガラと崩れ始めたのだったと思う。もう、本当に辛い時の記憶が全てない。
多分、ロボットのような生活を始めたのはこのときで、
朝6時起き、食事なし、1時間半近くかけて電車→バイク(どうしようもない時だけバスに乗った。)で美大に通っていた。昼食を買うお金がない日は10円のチョコバーをよく食べた。(メンタルおかしくて常時食欲不振だからなんとかなっていた。)たくさん勉強して、制作して、大学が終わったら急いで地元に戻ってバイトをした。コーヒーを一日中飲んだ。
全て終えて家に帰って食べるものがあればラッキー・なければ地獄。シャワーも同じで何も言われずさせてもらえたらラッキー・何か理由をつけられてさせてもらえなければ朝に回して課題をはじめて、3時間寝れたらラッキー。起きてから寝坊しないで何も言われないでシャワーできたらラッキー。寝坊してシャワーできず遅刻だったら最悪。眠れずシャワーできず夜中から何も食べれず遅刻だったら一番最悪。全部できたらラッキー
みたいな感じで、とりあえずまた学校に行く。毎日そのスタイルを2年以上続けていた。続けるしかなかった。大学に行きたかったから。

体重がどんなに食べても40kg前半しかなくて低血圧で低血糖起こしまくりで、ひたすらに痩せていた。オーバードーズや酒と薬のちゃんぽんなどを知る機会があり、興味を持ち始めたがお金がなくて何も買えなかった。(後にお金を手にし、全てを知り尽くす。)毎日睡眠不足で栄養失調気味で、みるからに不健康そのものだった。目も死んでいた。全員死ね、全員殺す、全てぶっ壊す、とずっと世界を呪っていた。
昔の写真を見ると、なぜこれができてたんだろうと不思議に思う。若さかな。

小中らへんも同じ感じではあった。
食べても食べても全然太れなくて、(母親の体質のせい。)低血圧で低血糖おこしがちで、いつもクラクラ・フラフラしていた。
ひどい片頭痛(これも、母親の体質のせい。)や、起立性調節障害からくる寝坊(病院アンチなので連れて行ってもらえたことがほとんどないが、今思い返すとそうだと思える。)があったけど、そういえば、この大学2年からまた再発しだしていた。

毎日頭が痛いけど無視。クラクラ・フラフラいつも目眩立ちくらみがするけど無視。眠いけど無視。遅刻しちゃダメ、休んじゃダメ、そしたら大学辞めなきゃいけなくなる。だから全部無視。無視。無視。
時々、本当に倒れそうな時は授業中に気絶していた。したくてしていたわけではなく、無意識で必然だった。それが大切な授業のときは、本当にひどく落ち込んだ。

なお、父親はこの頃もずっと無職だった。
しかし今思い返してもこの時だ。
この時が、父親に一番働いてほしかった。
娘が大学に行きたい・辞めたくないと言っているのに、お前が学費を払えないことを言えずになあなあに引き伸ばしたり嘘をついたりしたせいであたしは傷付いて傷付きながらも大学を辞めないために学費の延納を申し出て死ぬ気で大学に通いながら働いているのに、働く時間は寝る時間を削らないとないってこともわかっているのに、なんでこいつ働かないんだ、死ねばいい、殺してやる。会話もしたくない。家に酒を飲んで文句を言って殴ってくるゴミがいる。
と思い始めたのもこの時期だった。

大学では九州まるだしパワハラ気味な教授(それでもあたしにとってはとてもよい教授だった。)に気に入られて本当によくしてもらって、上記のホワイト職場高校の就職を紹介してもらった。
ホワイト職場高校では珍しい職務に就かせてもらった。チームの上司たちは皆、憧れていた家族みたいに優しい人たちだった。2年目には親から逃げるように一人暮らしも始めることができて、人生で初めて安心を手に入れた時期だった。

他の高校の教員や、県のお偉いさんなどとも何度も飲みに行った。上司がよく連れて行ってくれたから、大学で経験できなかった飲み会を社会人1〜2年目でたくさんできて嬉しかった。
ちなみに、就職1日目か2日目そこらで歓迎会をしてもらったのに、お金がなくて払えず、この上司に払ってもらったのは忘れられない。今となっては笑い話にできるが、そのたった2、3千円すらないような生活をしていたあの頃のあたしは、本当に頑張っていた、いや、いつも頑張っていたか。自分を認められないのも病気だね。まあ、でも本当に、そのくらいお金がなかった。

話を戻そう。その上司に連れられたいくつもの飲み会では、数え切れないほどの強烈なセクハラと引き換えに、たくさんの偉い人たちに気に入られた。
キスどころか、大人になってから恋人もできたことがなかったあたしは他人から愛情を受けたことがなさすぎて、おじさんたちからのセクハラであろうがなんだろうが他人から可愛がられているという状態が心地よく、不快感をほとんど感じることができなかった。今思うと無知だから乗り切れていたというか、麻痺していただけかもしれないが。

でも、本当に、
親から受けてきた苦痛に比べれば、どんな苦痛も我慢できた。

この職場は県立だったのでそのまま県立に進めば良かったものの、頭がおかしいのでずっと市立を希望していたあたしは、幸か不幸か真面目なせいか、受験3年目にしてこの年に市立で受かってしまった。
中高どちらに配属されるかわからない。
これが社会人2年目=高校臨任2年目のことだった。

初めての正規は中学に決まった。
市内の新興住宅地の民度が高い場所で、地元のスラムからは距離も価値観も遠かった。

また、時を同じくして人生で初めての彼氏ができた。
彼はライブハウスで遊んでいたほぼひとまわり上の友人であり、本当に最悪の男であった。と、今なら簡単にそう思えるが人生初なのでこれがわからず1年以上苦しんだ。まあ、これは仕方ない。

教員という仕事を退職してからもう2年近く経つが、いまだ仕事のことを思い出して言葉にすることができない。そもそも、思い出すことに気持ち悪さや罪悪感がある。

とりあえず、毎日6時起き22時〜23時帰宅から始まって、それが続いた。
今思えばこれは大学時代と同じようなスタイルだったが、なぜかこれが全く続けられなかった。繰り返される毎日が辛くて仕方なかった。
コロナ真っ只中で、初めての担任で、だけど登校は不規則で、プライベートでいえば初めての彼氏とあまり会えなくて、など色んな気持ちがうまく保てなかったのもあるかもしれない。

まず通勤がつらくて、引っ越す必要があると思った。
初めての彼氏なのにまともに会えないのもつらくて、同棲したいと提案したらかなり嫌な顔をして拒否された。

もうおかしくなっていたあたしは、職場と彼氏の家の中間くらいをとって、アクセスのいい都心の街に住んだ。
この街に、その家に思っていたより長く住んだのはたまたまだったが、これはとてもよい時間を過ごすことができた。そのことはまた今度、別の記事で書きたい。

彼氏のことも、思い出して書くのに労力がかかる。思い出すだけで搾取されていたこと、大事にされていなかったことなど、色々気が滅入ってしまうので、今はやめる。
とりあえず、ジョーダンと比較すると最悪という言葉でしか表現できない。クソ男とはまさにこのことだ。

まあ、そんな感じで無理し続けること1年半ほど、いきなり仕事中にパニック発作を起こしてしまった。
朝のホームルームで話してる途中だった。
話しながら他のことを考えていたのを、はっきりと覚えている。
クラスで問題が起きてた時だったから、どうしたらいいんだろう、どうやって解決しよう、仕事もできない、生活もできない、そんな障がい者だからフラれた?(この半年前くらいに彼氏から振られていた。)あたしのことは大事じゃないけど、性欲処理はしたいからセフレがいいということなんだろうか。親も死んでくれないし、殺したらニュースになって逮捕されて仕事もクビだし、一体どうしたらこのクソみたいな世界をぶち壊して楽に死ねるんだろうか
とか、多分そんなこと考えながら今日の予定かなんか話してた。

そしたらだんだん息が苦しくて呼吸が浅くなってることに気づいて、
「あれ、息ってどうやって吸うんだっけ?
これってパニックの時の感じだ」
って思った瞬間にめまいがして視界がぐわんぐわんなって、喉が詰まって更に息が吸えなくなって、話していた声が出せなくなった。
思わず、胸をおさえて教卓に突っ伏してしまった。

子どもたちは、叫んだり泣きそうな顔をしてたりしていた。
休んでからはしばらくこれが夢に出た。PTSDってこんな感じかな。
だけど本当に今でも忘れられなくて、体調管理のできない駄目な先生でごめんね、巻き込んでしまってごめんね、と心底申し訳なく思い続けている。
やめられない呪いみたい。

この時「ああ、終わった。」と思った。
主任がクラスを後ろから見ていたから、すぐに駆け寄ってきてくれて、そこからあまり覚えていない。

確か職員室に戻って、元主任経験者のベテラン教員に
「こういうことは初めて?それとも前から?」
と聞かれて、
「すみません、前からです、薬があります。」
といって、アルプラゾラムを飲んで、授業とりあえず自習にしてもらって、保健室にぶち込まれて、養護の先生に
「クローズでやってたんです。もうだめですね、辞めます。」
って内容のことを話した気がする。

この時、養護の先生から
「何十年も休んでる人もいるから、一回休んで考えるといいよ。」
というようなことを言ってもらったことを覚えている。
「今まで頑張ってたんだね、もういいよ」
というようなことも。
あの時、伝えることができなかったけど、優しい言葉をかけていただき本当に感謝しています。救われました。ありがとうございました。

その日の1か月後がたまたま26歳の誕生日だったのだが、その誕生日から休むことが決まった。
そこまでの1か月もどうやって仕事したのか、本当に記憶がない。

休んでからも、ガンガン電話かけてきて「もう一度働けないかな?」と言ってくる理解のない校長のせいで、半年で耐えかねて退職して無職を選んでしまった。
休職していても東京で生活するのに問題ないお金はもらえるという状況だったから、本当はもう少し休んでから将来について考えたかった。
まあ、もしそうしていたらきっと今はないので、この選択で間違っていなかったと思っているが、そうとも思う、ということである。

結局、職場には休職してから一度も行くことができなかった。
自分らしさを取り戻す気分転換に、と即派手髪にしたせいもあるけど、そういう問題じゃなくて、ただ行けなかった。怖くて。

幸いなことに事務の方と仲が良かったので、引き継げるようなもの以外はシュレッダーや破棄をお願いして、私物は全て宅急便で送ってもらった。
この方にも、まともにお礼が言えなかったことを悔やんでいる。退職後、問い合わせに答えていただいたり、必要な手続きを手伝っていただいたり、とても助けられました。本当にお世話になりました。ありがとうございました。

一番やりたかった仕事に就いたのに取り返しのつかない失敗をした。
もう一度子どもたちの前に笑顔で出られるほどあたしは強くない。
誰もが立派だね、頑張ったねと称賛してくれるこのキャリアはここで終わりなんだろう。
どうしてこうもうまくいかないのだろう。神がいるとしたら、あまりに意地悪すぎやしないだろうか。
なぜ自分ばかり損をして、親ばかり幸せになるんだろう。
親は死なない。だから死にたい。でも親のためには死にたくない。なぜあたしが死なないといけないんだ?あたしは自分のために生きていたい。
この世界のことが許せない。親を殺したい。でも、親を殺して犯罪者になると自分の人生を歩めない。親を殺せない。死ねない。誰も助けてくれないし、助けることもできないだろうし、ものすごく、八方塞がりだ。
ああ、この汚いお金、汚いわたしが稼いだ汚いお金、退職金も貯金も全部使ってやる、これでフランスに行こう、友達に会いたいから。むかし日本に住んでいたフランス人の寡黙なアスペルガーのともだち。彼はわたしのことをずっと好きでいる。なんでなんだ?なぜかはわからないが、ありがたいことだ。久しぶりに会いたいから、会いに行ってみよう。クソみたいな元彼との関係をぶっ壊すためにも、彼とセックスしてみようかな。
ついでにイギリスにも行こう。ずっとイギリスで買いたいと思い続けたロッキンホース・バレリーナと、アーマーリングを買おう。タトゥーはないけど、町子になろう。お金を気にしないで、人生最後の旅をしよう。
帰ってきたら親にたかるだけたかって、無理なら風俗でもやろう。やりたくなきゃもういいさ、今度こそ本当に自殺をしよう。
と思って日本を出た。

そして、今に至ります。

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