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立ち上がれ万国の杞憂民 ーーガチの心理学、議論の方法と問題解決の本から考える、Vtuberへの杞憂を文化資源に昇華する方法

グウェル厄介古参後方彼氏面同担拒否過激派限界オタクムーブ不破湊を見るグウェル

検索したところによると、「杞憂民」という言葉はバーチャルユーチューバー界隈に特有の言葉だという。

真ん中にいるアイドルは良いのに、周りにいるファンが厄介で~とかいう言説はどの界隈に行っても共通で存在する(自治厨とか)。それでもこの言葉が特筆してVtuberの世界で使われるということは、皆「しなくてよいはずの不安」に頭を悩ませていることの証左だろう。それはライバーもリスナーも同じである。


もうみんな不破湊先生になるしかない?


杞憂は形にして出したほうがよい。ただし出し方を考える ーー心理学・症状処方の教え

黛灰は、あえて全力でコメントを杞憂させる放送を敢行した。

400メートルハードルの日本記録保持者である為末大さんは、今年のオリンピックに関して不安を覚えている選手たちに対して、次のように述べた。

ところが不安になってはいけないと思ったところで、不安のような感情は直接コントロールすることができません。感じようと思って感じるものではなく、感じてしまっているものだからです。その自然と感じている不安をよくないことだと抑圧して見ないふりをした場合、それは消滅するのではなく自分の無意識下に潜っていきます。                                          みなさんよくご存知だと思いますが、私たちの世界では隠したものは結局全部試合で出てしまいます。表の自分と裏に隠した自分、それ全てトータルで競技をしますから隠そうと思っても隠せません。不安ではないと思い込めば混むほど、不安になってはならないと言い聞かせれば聞かせるほど、裏側の自分に溜め込むことになります。そしてそれが試合の時歪な形で現れます。

そこで、為末さんは選手たちに、不安な気持ちがあれば文章などに書き出すことをおすすめしている。これは『オリンピックに出るレベルの、一定のメンタルトレーニングもされてるであろう選手に、プロのトレーナーがかけた言葉』である。『そもそも』不安というのは、汗や唾のように止めることができないのだ。

なら尚更、アイドルやVtuberに対しての不安が止まらないのは『構造的に』当たり前だろう。Vtuberなど文字通り何が起こるかわからない世界である。その中で、自分の好きな人がやばいことに手を出したりしたら、思わず止めたくなる。

しかし、Vtuberの場合、ここにさらなる問題が発生する。

杞憂を『コメントやTwitterに』書くと、その瞬間、高確率で推しに直球で届いてしまうのである。推しも人間である。「やめろ」というコメントが書かれれば、反応的に止めたくなったりするだろう。そして、そのコメントに対して反応的に「そんなこと言うな」「本人の自由にしろ」「嫌なら見るな」というコメントが反応的に出てくる。かくして、容易にコメントが出来ない・あるいは同じ方向のコメントが溢れかえる同調圧力性の高い「村」と呼ばれる状況が出来上がる。

ここで書いてある村は、悪い話題が同じコミュニティの中でぐるぐる回ることを指しているが、ある人物を思い出した時に悪い話ばかり思い出すのも反応的なものだろう

繰り返すが、不安はそもそも自然に出てくるものである。それを溜めておくと明らかに体に悪く、エンターテインメントを見ている意味がなくなってしまう。さらにものが言えない環境は同調圧力を生む。しかも、その意見や不安がアーティストにとって有効な場合もあるのだ。

実は、近代政治学の礎を作った政治学者・ルソーは人間が生まれつき持っている同情心(憐れみ)が自然に出せる状態にできるだけ近づけるのが平和な自然状態に戻るためには重要であると述べている。なんとお気持ちは大事だと言っているのだ!!!!!しかし、ナマモノのままで出すわけにはいかない。

通常の不安対策と同じように、体を動かす、踊ってしまうのも杞憂対策としてはありである。とりあえず踊ればいいと思うよ。しかし、この記事では「杞憂はどのようにして文化資源になるか」ということに焦点を当てる。


杞憂もLV.10000000000にすれば、創作やコミュニティの資産になる

どうしてそうなった

ではどうするか。私は批評のように、ある程度の文献や論拠を持った上で、文章にしてしまうことをおススメする

日本ではどうしても批評と聞くと「論難」、つまりは人への攻撃行為としての印象を持たれやすい。しかし海外のファンカルチャーに関する論文を読むと、遊戯王やポケモンのコミュニティを例に、アーティストが健全に成長していくためには、ファンとの健全な切磋琢磨の状況が望ましいと言われている。

ーー先ほど『スター・ウォーズ』新3部作の話もありましたが、作り手とファンの幸福な関係とはどんなものだと思われますか? いい作品に結実するのが理想だと思うのですが。                                             北村:作り手が優秀じゃないとファンも優秀にならないと思います。例えば、スパイク・リーは他人の言うことは聞かないみたいなふりしてるんですけど、ちゃんと批評を読んで作品に反映しているんですよ。あれくらい強い作家性のある作り手だと、批判への応じ方もどんどん上手になっていく。切磋琢磨の状態がいちばん理想だと思いますね。
ーーいいファン、いい消費者とは何なのでしょう。暗黒面に落ちないでいるためには。                             阿部:作り手側とファン側のコミュニケーションを円滑にするためにも、ファン同士のコミュニケーションがいいものでないといけない。そのための条件としては、ジェンキンズも書いていることですが、ファン自身が他のファンに対して「お前そんなことも知らないのか」などと言って知識でマウントをとろうとするのではなく、新しいファンが入ってきた時に古参ファンがメンターとして迎えるような形でコミュニケーションできることが重要だと思います。それがファンダムを活性化させるし、ファンと作り手側のコミュニケーションも円滑にする一つの要件になるんじゃないかと。                        渡部:自分の欲望を知ることが、いい消費者であり、いいファンになるための条件の一つなのかなと思います。ファン的な活動をする対象は、どんなものであってもいい。その活動の中でマウンティングに走ってしまうのは、自分の欲望がわからないからだと思うんですよ。何か突き動かされるものがあって、その対象に欲望を投影しているのであれば、そこで深めるべきは自分の欲望なんです。たぶん消費者に関しても同じで、自分の欲しいものがわかってないと、広告に踊らされてしまう。                  https://tokion.jp/2021/03/15/convergence-culture/  より引用                                      

こちらの記事でも書いたように、人格攻撃と批評行為は別の物と考えなくてはいけない。実際に日本を代表する批評家の小林秀雄は、批評を「生活的教養」として、言いにくいことや自分の感じた違和感を、自分に懐疑的ながらもなんとか言葉にして相手に届けようとする知恵と位置付けていた。

スマブラ大会の中心的スタッフ・アユハさんの記事。

特にesports界隈やVtuber以外の界隈のnoteを見て見ると、こうした慎重な分析の姿勢の例はたくさん見ることができる。また、二次創作は解釈を含むものなので、当然推しの配信を分析したうえで創作物に転嫁してしまうのもありだ。Twitterではなくnoteに書くことで、自分の違和感を冷静に吟味する時間が与えられる。さらに、文献などを共有することは、ファンのコミュニティに、推しの新しい見方を提供する・あるいは新しい道を示すことができる。本来、杞憂というのは創造のタネなのだ。

ほかならぬ、にじさんじ所属Vtuberである社築さんも、知識があることでわかる面白さを奨励している

ここから、この記事では私が書いてきた文章や本を参考に、どうやって人格攻撃に至らずに、人を批評するかを書いてみる。ありがたいことに、私の記事はそれなりに挑発的なことは書いてしまったものの、まだファンコミュニティの方には受け止めていただいている。これは私自身の力というよりも、先駆者の例を文献を探したり、言葉の使い方を工夫して説得力を増しているからだ。その方法を今回は少しご紹介する。

ただし、当然ではあるが批評はチャレンジングな方法なので、体調がよくないときには避けてほしい。またテーマが政治などセンシティヴなものになればなるほど、時間をかけて熟成することをおススメする。最初はちょっとした気づきを言葉にすることから始めたほうがいいだろう。


Linkin ParkのFaintは無視されたくないという心の内を叫んだ歌

ユリイカは、あるポピュラーカルチャーの事象に対して肯定・否定ごちゃまぜで批評文をまとめた雑誌の良い例である。「いろんな声がある」ことを意識できるだけでも、議論とコミュニティは活発化する




人ではなく、構造や性質に分析をいれる ーー構造主義

長尾景くんは、にじさんじ麻雀大会に際して、わざと勝負を無理やり終わらせてしまった。オーラスにて勝ち目がないのに故意にあがってしまった。この件については上記のように謝罪があり、私自身も上記文章の中で分析を書いている。

この件で何も考えていないと問題にしがちなのは、長尾くんのパーソナリティの話である。しかし、麻雀杯はある程度までアマチュア向け、「面白ければよい」という部分を保ったままで勝負になっていた。

だから、ここで大事なのは麻雀のゲームの面白さとは何か?であり、長尾くんのことを責めることではなかった。人を責めるというのはクローズドな問いつめであり、やるのは簡単であるが一回行った程度の行為で、そこから生まれるものが少ない

(※このように、行動の結果を重視して判断を行う思考をプラグマティズムと言う。責任や性格という曖昧なものを問い詰めても、無限循環に陥ってしまう。)


麻雀は、一件「勝負」の面が強調されがちであるが、実は釣りのように網に獲物がかかる瞬間を待つ楽しみがある。どの「偶然」を待つかに運命に賭ける覚悟を見る楽しみがあるのだ

さらに、にじさんじは、田角社長が麻雀が好きなことを考えるに「何が起こるかわからない」あるいは「直観や、不安定な状況の中での決断」に価値が置かれていた。これがわざと悪役になることが大事な、危険な組織の麻雀だったら「面白い」と判断されることもある。価値判断は場所によってあっさり変わってしまうのだ。

このように、個人の内面ではなく、システムや環境、ゲームのルールなどの仕組みから状況を分析する主義を「構造主義」とかなりおおまかに呼ぶ。(本当はもっと難しい専門用語である)。文化人類学から生まれた用語だ。

この主義の良さは、ある事件の問題を個人の責任や分析に終わらせず、その状況を作り出した環境の仕組みを浮かび上がらせることだ。今回の場合、良くない事件から、田角社長の記事などを参考に、にじさんじそのものの風土のおおまかなスケッチを描くことができた。この分析であれば、聡明な彼であれば飲み込んでくれるはずである。


考えてみた式

考えてみた式は、思いついた予想をしっかりnoteに形にしてあげることである。こちらのやり方は見ていて楽しいし、気軽でnoteを書き始める方にお勧めする。この記事では、にじさんじ甲子園が面白かったことをきちんと述べた後で、新しいにじさんじ甲子園での改善点を提示している素晴らしい記事監督予想もかなり当たっていた。妄想や予想を勝手にすることは、にじさんじの人気の原動力である。


情報提供・雑誌の記事風にする ーーただのクレームにしない

私は、この記事で「10代の人がにじさんじのグッズに触れにくい環境が出来上がっていないか?」という友達と自分の指摘を組み合わせたものを書いた。これは田角社長が10代へのリーチを表明していたことに対応している。

これを直球でそのまま書いてしまうと、流石に文字通りクレームであるし、そのレベルで問い詰める意図はない。そこで私は、「現状の子供たちの苦境(甲子園の中止、外で遊びにくい、共有できる体験がない等)」「二次創作における技量の差(基本的に年上の人の方が、パッケージ化された技術は持っているし、原理的に練習量は年下より多い)」「ニコニコ動画の10代へのリーチの失敗」という三点の情報を付加している。

情報を付加するとよいのは、相手に考える余地を与えることである。これはなかなかTwitterやコメント欄の行数ではできない工夫になる。元々、90年代のサブカルを醸成した雑誌では、本格的ではないものの、各々が思ったことを論評することができる空気感があった。読者投稿欄などもそうだろう。

私が記事を書き続けているのは、この懐の深さがにじさんじやVtuberの界隈にもあってほしいからである。また、長い動画説明がついているプレイリストとしても読めるようにしている。


議論法やレトリックを学ぶ

人間はわかりやすい答えがあると思い込みやすい。議論を行う時には、確固とした答えを白黒つけて出しがちである。しかし、現実の営業活動や、Vtuberの活動を見ればわかるように、「答えがない」問いに答えを出さなくてはいけないことが、この世には多くある

香西秀信氏の『議論入門』では、議論を行う際は

①定義                                                    ②類似                                                         ③譬え(たとえ)                                                   ④比較                                                       ⑤因果関係                                           の5つを意識することをおすすめしている。

ただし、論文ではない場合、最終的に結論として選ばれるのは提案や意見が重要そうで、それを実行することで何かが起きそうな「説得力」を持った意見である。未来を完全に予想することは、専門家でもアインシュタインでもできなかった。ゆえに、言葉にはこういう不確定要素や限界がいまだに付きまとっていることは、理解しておきたい。『議論入門』はプロの議論の例が書いてあるので、おススメ。

橋本治氏は、上司が思いつきでものを言うのは、『上司が直面している現実があまりにも多様で、判断を臨機応変にしなくてはいけないから』という。

ニーバーの仕分け


宇多田ヒカルのWait & Seeの歌詞の中には、アメリカの神学者二ーバーの言葉からの引用がある。

Vtuberは、間違いなくある側面で人間である。お相手には「変えたいけど変えられない事情があるかもしれない」。そのラインを見極めて、どこで踏ん切りをつけるか考えることは、人間が健全に行動し続けるために大事な倫理である。

文献調査

これは最上級の方法。もしも、にじさんじのことについて考えていて、自分の知識不足を感じたのならば、是非文献調査を行って見て欲しい。例えば私は、にじさんじがTwitterの急上昇ランクを占拠していることから、「これはおそらく社会現象や経営学的な問題が発生する」と考えて、次のような記事を作っていた。


にじさんじファンの方の場合、注意していただきたいのは「にじさんじ以外の文脈もきちんと理解するようにする」ことだ。例えば、野球が好きなリゼ様がいた場合、リゼ様の目線は巨人の岡本和真選手にあるかもしれない。またパワプロのにじさんじ甲子園2020年度大会で夜見れなさんが異様に強かったのは、近鉄バファローズの俊足大石大二郎さんが文字通り「転生」していたからだ。この大石さんを調べて、noteに書いておけば、それはコミュニティに対してありがたいまとめになる。

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健屋さんの演劇の話や、小説などの読解からは並々ならない情熱を感じることがある。ライバーの方も、作品を「自分ごと」として受け止めて、自分の行動を見つめなおしている。

健屋さんの芝居論はこちらから。鴻上尚史さんの演劇論を知っている人が聞くとびっくりすることを言っている

終わりに Let's Begin Our NIJISANJI-RESISTANCE!!!

なんでこんなことを書きまくっているかといえば、私は自分がにじさんじレジスタンスの一員だと思い込んでいる変な奴だからである。

真の反抗は、相手を打ち倒すことではなく、相手の心にすっと入り込んでいくことなのかもしれない。というわけで次回は、月ノ美兎さんに思いっきり逆張りじみたことを書いてみようと思う

皆様もどうか、よきにじさんじライフをお過ごしください。



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