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いつか君と普通になりたい

――ないものねだりとか、隣の芝生は青く見えるとか、そういう類のものだと思うんですが、変わり続けた先で待っていたのは、普通になりたいという純粋な願いだったんです。


人生は物語。
どうも横山黎です。

作家として本を書いたり、木の家ゲストハウスのマネージャーをしたり、「Dream Dream Dream」という番組でラジオパーソナリティーとして活動したりしています。

今回は「いつか君と普通になりたい」というテーマで話していこうと思います。


📚変わってると言われ続けてきて

「変わってるね」

高校時代くらいかな、そう言われることが目立つようになってきたのは。

今もこうして毎日noteで文章を書いているわけですが、毎日2000字書き続けることができているのは、それが好きだからで、続けることに意味を感じているからです。子どもの頃からそういう気質があって、面白いと思ったものはとりあえず時間をかけてやってみることを繰り返してきました。

幼稚園児の頃から絵を描くこと好きだった僕は、小学生になってからも休日には家族や友達と絵を描く時間をつくっていて、そのたまものか、小学校6年間の間に、写生会で5回特選を獲ることができました。中2のときには美術の時間に描いた絵が東京都美術館に展示されたこともあったっけ。

「面白い」や「楽しい」を続けていった先に、分かりやすい成果がついてくる。そんな気付きを得られたのは中学生の頃だった気がします。

それから僕は演劇や音楽やYouTube、そして文芸と、あらゆる創作の世界を練り歩いてきて、これはちょっと違うな、これはもう少し突き詰めてみようと篩にかけながら、ここまで来ました。

日々を重ねるにつれ、他の人から「変わってるね」と言われることが多くなり、自分でも「他の人とは好きなものや生き方が違うのかもしれない」と思い始めるようになったのです。

別に「変わってること」は「間違ってること」ではないし、「悪いこと」でもないはずだから、そのうち僕はそれを自分の強みと捉えるようにして、褒め言葉と受け止めることにしてきました。

ただ、世界は普通で廻っているし、社会は普通で構成されているから、普通ではない僕には痛みを感じる瞬間が度々襲ってくるんです。

大学生になって、変わらず変わり続けてきて、Amazonで初書籍を出したり、ビブリオバトルでその本を紹介したり、一言も話さずにプレゼンしたり、卒業研究のテーマである「桃太郎」について1時間語るイベントを開催したり、とにかく誰もやっていないようなことをやり続けてきたんです。

ありがたいことに認めてくれる人も評価してくれる人も増えてきたし、少なくない仲間をつくることができたんですが、そんな今でさえふとした瞬間に襲ってくるのは、普通ではない痛みでした。

痛みを覚える度に思うんです。「普通になりたい」って。


📚本当は普通になりたかった

そもそも普通なんて幻想でしかなくて、あまねく人たちの最大公約数でしかありません。だから、普通を論じること自体愚かな行為なのかもしれません。でも、自分は変わってる、普通になりたいなんてことを考えている時点で、少なくとも僕のなかにはある。目には見えなくても、重さを感じなくても、概念として存在しているんだから、「普通なんてないよ」と存在を真っ向から否定することもできない。

だから、普通はあるという前提で話していきますね。そして、その実体を深く言及せずに語っていきますね。

とにもかくにも、僕は普通になりたいと思ってしまったんです。ないものねだりとか、隣の芝生は青く見えるとか、そういう類のものだと思うんですが、変わり続けた先で待っていたのは、普通になりたいという純粋な願いだったんです。

変わってると言われたくない。

自分は変わってると思いたくない。

そんなことを思うようになったんです。自分から変わり続けてきたのに普通になりたいと唱えているんですから始末に負えません。

でも、変わろうと思って変わってきたわけではないんですよね。「面白い」や「楽しい」を追いかけていたら、気が付けば変わり者になっていて、それを受け止めるしか前を向く術がなかったんです。

好きなものを好きと言いたい。

好きなことを好きなだけしていたい。

そして、それを認めてほしい。

僕の「普通になりたい」という言葉にはそういった願いと寂しさが込められているのかもしれません。


📚いつか君と普通になりたい

人は誰しも普通に生まれてくるし、普通に死にます。その途中の生きるという行為だけが無限通り存在している。絶対的な普通なんてものは存在していないけれど、これまでの歴史がつくりあげてきた普通は確かに存在しています。さっきもいったように、最大公約数的な化け物が共同幻想として息をしているんです。

性別がどうとか、趣味嗜好がどうとか、仕事の仕方とか、家族の在り方とか、愛の捉え方とか、正解が人の数通りある問いの答えに、僕らは模範解答を求めたがる。そして、その模範解答と一致するとき人は安心を覚え、そうではないとき人は不安を覚えるのです。普通ではないと、自分は変わっているのかもしれないと、迷宮を彷徨うことになるのです。

ただ、普通について考えていてひとつ得た知見は、どうせいつかは誰でも同じように死ぬんだから、生きているうちは変わり続けても悪くないじゃんってこと。普通に生まれて、変わりながら生きていって、普通に死ぬ。そう思うと、少し救われた気がしたんです。

その頃合い、僕の心を両手ですくってくれたのは、パートナーでした。

「桃太郎」のイベントが終わった頃、今書いているようなことをパートナーに話したんです。夜の電話越し、何時間も。久しぶりに心を裸にできた気がして、僕さえ忘れかけていた本来の自分の姿を思い出すきっかけでもありました。

「普通になりたい」

電話越し、そう囁いたとき、パートナーはこう返してくれたんです。

「あなたは普通だよ」

変わり続けてきた僕を普通と呼んでくれたということは、パートナーも同じように変わり続けてきた人だったということ。僕とパートナーが意気投合したのは、インスタのDMでのメッセージのやりとりが心地よかったから、言葉の感性が近かったから、パートナーが魅せられた水面の花火を僕も同じように美しいと思ったからでした。そんな特別なふたりのなかには、ふたりだけの「普通」が芽吹いていたんです。

僕もパートナーも、これからも普通になれません。昨日も普通になれない者同士、夜な夜な電話していました。それでも、僕らはひとりじゃない。似た色をした心を持ち合わせた同士だからこそ語れることがある。そんな風にしてお互いに生き延びていけばいい。孤独の底に沈みそうなときは命綱をつかむように手をつないで、社会の海に溺れそうなときは藁にしがみつくように抱きしめ合って、変わらず変わり続けていけばいいと思うんです。

そして、いつかふたりで普通になればいい。

そんなことを思っている今日この頃でした。みなさんにとっての普通とはどんなものでしょうか? 自分は変わっているかもしれないと思うことはあるでしょうか? 是非、聴かせてください。最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

20240408 横山黎






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