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【ジャイアンとのび太の構図が資本主義の始まり?】資本主義から紐解くこれからの「人間観」 についての考察

昨今は「働き方改革」や「テレワーク」などで従来の労働観が変わりつつあるが、改めて現代に至るまでの労働システムの変遷を確認したい。

現代の資本主義社会では、当たり前のように多くの人は何かしらの組織に属しながら働いています。組織の運営責任者を「資本家」、組織に属する者を「労働者」とすると、そもそもいつから「資本家」対「労働者」の構図ができたのか。

改めてですが、「資本主義」とは、一言でいうと個人が自由にお金儲けしても良いというシステムです。そして「資本家」とは自己資金や銀行借入を基にお金が増えるシステムを構築し、その利益を享受する人です。オーナー企業であれば、社長は資本家+経営者ですが、上場している大企業などの場合は、社長は資本家に雇われた経営者であり、お金を出資している株主が資本家に該当します。資本家は労働者を雇って事業を行い、利益が出ると更に投資をして事業を拡大します。資本を増やしながら経済成長を促します。

上記の通り、「資本家」と「労働者」の決定的な違いは「雇う」か「雇われる」にあります。

つまり「資本家」対「労働者」は「雇う」対「雇われる」の構図に読み替えることができます。下記リンクによると、この構図は、どうやら16世紀のイギリスで起きた「囲い込み運動」が発端となったようです。

当時のイギリスでの売れ筋商品であった毛織物を生産する為、領主および富農層が農民(小作人)から取り上げた畑や共有地だった野原を柵で囲い込み、羊を飼う為の牧場に転換したとの事です。

これは、完全にジャイアンとのび太の構図ですね(笑)
「ジャイアン=資本家」、「労働者=のび太」です。

そして、土地を追われた農民たちは、自らを労働力として切り売りするしか生きる道がなくなった為、自ら労働者に転化し、毛織物工場での「工場制手工業」(マニュファクチュア)に吸収されました。囲い込み運動は、雇われる側の労働者階級を誕生させると同時に、工場という生産手段を所有する雇う側の資本家階級も誕生させました

つまりジャイアンとのび太の構図が資本主義の始まりであり、そもそもは搾取から端を発したのです。

18世紀半ば~19世紀半ばにかけて「産業革命」が起き、生産技術が飛躍的に発展したことで資本主義に拍車をかけました。より多くのモノをより効率的に、よりダイナミックに生産できるようになり、資本家はより多くの労働者を必要とするようになりました。そして資本家は考えます。

「どのように労働者を管理すれば効率的にモノを生産できるか?」

この問い対して、E.H.シャインというアメリカの組織心理学者が唱えた4つの人間モデルが登場します。

「合理的経済」人(1910年代)

人間は自分の利益を最大ならしめるように行動を計画し、行動するというものである。人間は本質的に経済的刺激に動機づけられ、その収穫を最大のものにしようとする。

「社会」人(1930年代)

人間は基本的に社会的欲求によって動機づけられ、仲間との関係を通じて基本的な一体感を持つ。

「自己実現」人(1950年代)

人は仕事のうえで成長することを求め、かつ成長する能力を持っている。また、人間は、本来的に内的に動機づけられれ自己統制的である。

「複雑」人(現代)

人間は複雑であり、かつ極めて変化しやすい。そして、人は組織での経験を通して、新しい動機を学び取る能力を持つ。

このように時代の変遷と共に人間観も変化してきました。現代の「複雑」 人という人間モデルは①~③の混合体であり、一概に人間観は定義できないという事ですが、資本家は「複雑」人とどのうよに向き合えば、事業の成長に繋がるかが問われる時代になったとも言えます。

労働観も並行して従来より流動的になりました。結局、働くのは人であり、人間観が変わると当然労働観も変わると言えます。現代の日本でもこれから終身雇用は崩壊し、「個」の価値を高める時代と毎日のように様々な媒体を通じて目にしますが、それだけ人間観の変化が労働観の変化にも現れてきたということです。

これからの人間観がどのように変化するのか考える事はビジネスのチャンスにも繋がると考えます。特に変化の激しい現代社会ですので、人間観も併せて変化しやすい状態にあると思われます。

最後に私の考えるこれからの人間観の見解を紹介して本記事の結びとしたいと思います。

「自然調和」人

人間は何に価値を見出し、何を欲するのか。

これが人間モデルを考える上で根源的な問いになっていますが、私は今後は自然調和にシフトすると考えます。

シャインの4つの人間モデルは心理学という切口から分析してますが、最終的には「複雑」人というモデルにたどり着いていることから人間の心理という即面だけで人間をひと括りにできないという一種の諦めが見えます。想像するに、学問として人間を分析すると、あまりの多様性の幅の広さから堂々巡りを強いられ、一概なモデルには至れないという事だと思います。

そこで、究極的に人間を諦観すると、人間は自然という普遍の事実があります。

昨今は毎日のようにSDGsが謳われていますが、SDGsがこれからの人間観に大きな影響を与えると考えます。

SDGsは17の目標を掲げていていますが、エッセンスを抽出すると国籍や性別に関係なく、お互いが一人の人間として尊重し合い、地球に優しい持続可能な世界を目指そうという事を謳っています。

ここでのキーワードは「人間」と「地球」です。そして両者に共通することはお互いに自然であるということです。人間は地球で生命が誕生してから、進化を通じて誕生した生命体に過ぎず、地球も無数の偶然が重なって誕生した惑星なのです。まさに神のいたずらと思わざるを得ない壮大なことですが、両者共、自然発生的に爆誕したのです。

科学技術の進歩により便利になった世の中ですが、便利になり過ぎたと感じる人もいるのではないでしょうか。現代社会では、人間本来の自然性を感じる場面が少なく、疲れたと感じている人もいると思います。ジャイアニズムを発端とした資本主義体制で、経済成長を促すことが必ずしも人類の豊かさに繋がるものでもないという風潮も広まりつつあります。

まさに現代は今後の時代を左右する巨大な分岐点にあり、これまでの人類の歩みを振り返ろうとしている時期にあります。そして、SDGsは人間の自然性に還る為の潤滑油となると考えます。

便利の中にも自然を見出す「自然調和」人

これが私の考えるこれからの人間モデルです。





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