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小説 名娼明月

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#小倉

粟盛北光著 「小説 名娼明月」 自序

粟盛北光著 「小説 名娼明月」 自序

 博多を中心としたる筑前一帯ほど、趣味多き歴史的伝説的物語の多いところはない。曰く箱崎文庫、曰く石童丸(いしどうまる)、曰く米一丸(よねいちまる)、曰く何、曰く何と、数え上げたらいくらでもある。
 しかし、およそ女郎明月の物語くらい色彩に富み変化に裕(ゆた)かに、かつ優艶なる物語は、おそらく他にあるまい。
 その備中の武家に生まれて博多柳町の女郎に終わるまでの波瀾曲折ある二十余年の生涯は、実に勇気

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「小説 名娼明月」 第37話:旅に病む

 月日は矢のように流れる。馴れぬ旅とはいえど、一日の五里は積もって、十日の五十里である。
 母娘は、筑紫(つくし)の空に一日一日と近づいてゆくを楽しみに、今は人家軒先の袖までも、以前ほどは恥ずかしくもない。鈴振るごとき声に称うるは「巡礼にご報謝」の称語。巡礼姿に隠せし顔は、見目美しきお秋と、品格高き阿津満。路々家々の人が恵みくれる報謝は、母娘を西へ西へと送った。
 露は霜とと変わって、晨(あした)

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「小説 名娼明月」 第39話:進退谷(きわ)まる(前)

「小説 名娼明月」 第39話:進退谷(きわ)まる(前)

 商人は醉いの廻るにつれて、だんだん言葉使いや様子が無遠慮になり、相間相間に変なめつきをして、底気味悪く笑ってみせた。

 「当家の主婦(おかみ)よりの話は、委細承知したれば安心せよ」

と云いながら、お秋の手を握って、ぐいと引き寄せ熟柿(じゅくし)のような息を吐いた。この瞬間、お秋は、

 「何をなさるの?!」

 と言って、飛び退いた。思うさま商人を恥ずかしめてやろうとは思ったが、主人(ある

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「小説 名娼明月」 第39話:進退谷(きわ)まる(後)

「小説 名娼明月」 第39話:進退谷(きわ)まる(後)

 お秋にとりて、このくらい苦しいことはない。早呑込みの罪は主婦(おかみ)にありとはいえ、最初はこちらから頼みしこと。かつ主人(あるじ)夫婦と商人との金の関係、自分の返事一つで、いずれともなる次第。
 かくと知りて、なお反(そむ)くは、主人夫妻にに対し、何とも済まぬ次第ではあれど、操(みさお)は女の生命(いのち)である。我ら母娘が飢ゆればとて、主人夫婦の顔が立たざればとて、主婦の言葉に従うことはでき

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「小説 名娼明月」 第40話:主人(あるじ)の強(こわ)談判

「小説 名娼明月」 第40話:主人(あるじ)の強(こわ)談判

 宿の主人(あるじ)は足音高く入り来たり、お秋の前に膝突き合わせて坐った。顔色が変わって気色(けしき)ばんでいる。

 「自分の口から頼んでおきながら、客嫌いをして逃げるとは、何事であるぞ! 他の者ならば格別、あの人に腹立てられては、さしずめ我々夫婦の活計(くらし)に差し支える! 今から、素直にあの人の意に従えばよし、さもなければ、宿料薬代を耳を揃えて払い、今より病人もろとも宿を出て行ってもらいた

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「小説 名娼明月」 第41話:恐ろしい親切

「小説 名娼明月」 第41話:恐ろしい親切

 母娘が手を付き涙を流しての詫びも、主人(あるじ)には諾(き)かぬ。

 「ここのところは、どうあっても、五貫六百の金を拵(こしら)えて立退いてもらわねばならぬ! どうしても金ができぬとなれば、お秋さんの身は下関あたりへ売ってでも計算は済ましてもらいたい!」

 と言葉荒々しく責めつくる主人の無情乱暴を、お秋は、あわれ母さえなくば、この憎々しい主人を人刺しに刺殺さんとまで思ったほどであった。
 主

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「小説 名娼明月」 第42話:一難去って一難来たる

「小説 名娼明月」 第42話:一難去って一難来たる

 太左衛門が天晴(あっぱれ)の親切を装って阿津満(あづま)母娘のために五貫六百の金を宿の主人(あるじ)に払いたる後、母娘を案内せしは、小倉で一等との評判のある、「亀屋」という綺麗な宿屋である。
 母娘の居間に当てられたのは、二階座敷の二畳に八畳の次の間、それに二十五六歳の女中が一人付ききりで次の間に控え、母娘のために用を弁ずるという役を仰せつかり、かつ家内挙(こぞ)って下へも置かぬ待遇(もてなし)

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「小説 名娼明月」 第43話:絶体絶命

「小説 名娼明月」 第43話:絶体絶命

 太左衛門は、辞するお秋を無理に自分の真向こうに坐らして、

 「まず一杯!」

 と杯を献(さ)した。
 一人立ち、二人立ちして、四人の女中が一人もいなくなったのを、すぐと感づいたお秋は、どうかしてこの坐を立つに足るべき辞抦(じへい)を考えた。しかし、今来て今立つわけにもいかぬ。
 杯を無理に押し付けらるれば、三度に一度は受けねばならぬ。
 お秋は、飲めぬ酒を飲みし苦しさに、ほんのりと紅潮(くれ

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「小説 名娼明月」 第44話:感謝の涙

 意外の差出口に驚いたのは太左衛門である。せっかく絶体絶命の瀬戸際まで漕ぎつけたところで、突然思わぬ邪魔が入ったのであるから腹を立てた。

 「どこのお方かは知らねど、こちらの話に要らざるお世話、話の済むまで暫くご遠慮くだされたし!」

 と睨みつくるを、その男は敢えて口やかましく争おうとはせず、恭(うやうや)しく太左衛門の前に頭を下げた。

 「お咎めの次第、もっともながら、始終のご様子は残らず

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「小説 名娼明月」 第45話:一封の手紙

 急場を思いがけなき人に救われて、蘇生の思いをしたるお秋は、感激の涙を両眼に湛えながら、母の室(へや)に帰った。そうして事の始終を詳(つまび)らかに話すと、阿津満(あづま)も一方(ひとかた)ならず喜んだ。

 「いずれ明朝お目にかかって、ゆっくりお礼を申し述ぶることとしょう。その際、その方がどこの何というお方であるかは判るであろう」

 と、その夜は枕に就き、翌朝朝飯を終わるやいなや、すぐにお秋は

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「小説 名娼明月」 第46話:零落の底

「小説 名娼明月」 第46話:零落の底

 阿津満(あづま)母娘が今度引越した裏町の家は、六畳の一間に二畳の板敷が付いている。門口から台所まで、一目に見透さるる棟割である。
 亀屋から貸してくれた世帯の道具いろいろを、それぞれの所に並べ、綺麗に払いて、お秋はまず母の床を敷いた。南窓を頭に母を臥(ね)さして、母の枕元に坐れば、近所の色黒き男や、人相の悪い女房どもが、移り替り門口から母娘を窺(うかが)いに来る。自分たちの仲間としては、余りに品

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「小説 名娼明月」 第47話:門演(かどづけ)の身

「小説 名娼明月」 第47話:門演(かどづけ)の身

 長屋の盲女(めくらおんな)から聞いたる三味線門演(かどづけ)のことを、その夜お秋は種々思案してみた。

 「かくまで窮迫した身で、どうして贅沢が云えよう? 飢えたる者は食を撰ぶの隙はない。幸い自分は三味線ならば一通りは弾ける。三味線の門演でも仕事には相違ない。思い切って門演を行(や)ってみよう!」

と、雄々しくも心を極めたが、

「このことが母上に判っては許されまい。よし許されたとしても、却

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「小説 名娼明月」 第48話:病勢進む

「小説 名娼明月」 第48話:病勢進む

 お秋の美容と美音とは、たちまち小倉の城下の大評判となった。
 もうあの美人三味線が来そうなものである、と日暮るれば、お秋の来るのを待ちかねる人が、そこここにあった。従って収入(みいり)も殖えて、母の病気を養い、己の口を養うのに充分であった。
 そうして、このことの評判は、長屋中に伝わらずにはおかなかった。近所のおかみさんや娘さん連は皆、お秋の身を羨んだ。
 ある晩のこと、お秋はある家で、尠(すく

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「小説 名娼明月」 第49話:阿津満(あづま)の死

「小説 名娼明月」 第49話:阿津満(あづま)の死

 阿津満(あづま)の病勢は、いよいよ募った。十二月五日は雪を以って明けた。真っ白く明け放れた空には、なお小歇(こやみ)なしに綿雪が降る。雪を踏んで寒そうに仕事に出かける長屋の人もいる。
 阿津満は、目をつぶったと思えば開き、開いたと思えばつぶりして、窓の向こうに見える雪を力なくながめていた。
 頭は惘然(ぼんやり)となってくる。そうして眼界にある総ての物が影薄く眼の底に映ってくる。それでいて古郷を

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