「小説 名娼明月」 第44話:感謝の涙

 意外の差出口に驚いたのは太左衛門である。せっかく絶体絶命の瀬戸際まで漕ぎつけたところで、突然思わぬ邪魔が入ったのであるから腹を立てた。

 「どこのお方かは知らねど、こちらの話に要らざるお世話、話の済むまで暫くご遠慮くだされたし!」

 と睨みつくるを、その男は敢えて口やかましく争おうとはせず、恭(うやうや)しく太左衛門の前に頭を下げた。

 「お咎めの次第、もっともながら、始終のご様子は残らず、襖の蔭から聞きました。聞けば聞くほどお可哀想なのは、このご婦人の御身の上。今承れば、金さえ残らずお払いすれば、ご不足はなき由(よし)。その金、私が払いまするほどに、宿料薬代その他のお立替、総じて、いかほどになりまする?」

 と尋ぬるを、いままでその男の顔を見つめ、その言うところに驚いて物をも云わなかったお秋は、ここに初めて口を開いて押留めた。

 「はじめてお目にかかることなれば、いずこの、どなたさまかは存じませぬが、私ども母娘の身の上を憐れと思し召して、太左衛門様への借金をお払いくださるとのお言葉、ご親切は身に滲みて有難うは存じまするが、何の縁(ゆかり)もなき私どもが、あなたさまよりお金をお借りする謂われもござりませぬ。何はともあれ、太左衛門様に、暫くのご猶予をお願いいたすより外(ほか)に路(みち)はありませぬ」

 と、お秋は再び顔を太左衛門に向けて頼み込まんとする。
 その男は、お秋の落着いたる物言い、しっかりしたる態度に感心してしまった。

 「まことの親切からと思い込んで立替えてもらったその金のために、今の苦悩を見らるる貴女として、私をお疑いあるは、ごもっとも至極なれど、私が貴女のために今立替える金を、よしお払いくださらずとも、わたくしは決して貴女を妾にするとも、女郎に売るとも申しませぬ。もしまた後日是非にその金をお払いくださるとならば、半年でも一年でも、その古郷の田地を売り払われし上にて、よろしゅうござりまする」

 と、どこまでも真心罩(こ)めし言葉に、お秋はそれまで断ることはできなかった。
 かつまた、その人の言葉を信用するに従って安心もできた。

 「それほどに私どものために可哀想と思し召しくださるご親切、この上にお断り申すは、かえって失礼に当たりまする。古郷の田地を売るまでお待ちくださるとならば、私ども母娘にとりて、このくらい仕合せなことはござりませぬ。お陰さまにて、この急場も助かりまする」

 と、お秋は、嬉し涙に暮れた。
 糞忌々しいのは太左衛門である。せっかく手に入れかかった玉も、この男のために取り逃さねばならぬ。残念ではあれど、金を支払う以上、それも是非ない。
 母娘のために太左衛門よりこれまで立替えし金の総計、太左衛門自身の云うところでは、尠(すくな)くはなけれど、ここにおいて、太左衛門は大いに面目玉を潰して、この宿を立ち去った。
 お秋は、何と言ってこの厚恩に報いよう、感極まって、暫しが間は、その男の前に下げた頭が上がらなかったのも無理はない。

 「絶体絶命のところをお助けくださいまして、お礼の申しようもござりませぬ! 母と相談の上、明日早速古郷へ飛脚を差立て、田地を売り払いましょう。ついては、貴方も旅のお方なれば、その飛脚がこちらに帰って来るまで、この宿にご滞在なされまするや如何(いか)に?」

 とお秋が尋ぬるを、その男は慌てて遮った。

 「その儀ならば、ご心配なされまするな! いかにも私は旅の者にて、明日帰郷いたすべけれど、また遠からず参りまするはずなれば、その節お目にかかるべし。古郷の田地売払いのこと、貴方ご自身が帰郷されるものならばとにかく、人を使いに立てられては、またいかなる間違い起こるやも知れぬゆえ、それは先の日に延ばし、明日よりいずれへか移り、お母御の看病かたがた、生計の道を求めたまえ。なおいろいろと申し上げたきことあれど、明朝改めてお話申しましょう」

 と云い残して、急ぎ立ち上がり、自室に帰りゆく後姿を、お秋は手を合わさんばかりに感謝して、しみじみと見送った。

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