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「小説 名娼明月」 第43話:絶体絶命

 太左衛門は、辞するお秋を無理に自分の真向こうに坐らして、

 「まず一杯!」

 と杯を献(さ)した。
 一人立ち、二人立ちして、四人の女中が一人もいなくなったのを、すぐと感づいたお秋は、どうかしてこの坐を立つに足るべき辞抦(じへい)を考えた。しかし、今来て今立つわけにもいかぬ。
 杯を無理に押し付けらるれば、三度に一度は受けねばならぬ。
 お秋は、飲めぬ酒を飲みし苦しさに、ほんのりと紅潮(くれないさ)せし顔に袖を当つるを、太左衛門は惚れ惚れと、我を忘れて眺め入った。
 お秋が何気なく自分の顔から袖を離すと、太左衛門の眼は充血して赤くなっている。その赤い二個(ふたつ)の眼は、お秋の顔に注がれて、燃えるばかりに輝いている。その眼を見て、覚えずお秋が戦慄を感じて視線を避けんとする一刹那、太左衛門は飛ぶように寄り添うてお秋の手を握った。太左衛門の火のような眼、燃ゆるような顔、お秋は我を忘れて太左衛門の手を振り払い、

 「何を戯れたまうぞや?!」

 と云って飛び退き、立ち上がらんとするを、太左衛門は隙なく、袖を押えて引き据え、一歩もお秋を動かさぬ。

 「酔うて戯れるのではない。これまで見も知らぬ貴女方(あなたがた)母娘に対し、かくまでお世話いたすも、この望みあればこそである。
 また何の縁(ゆかり)もなき旅の空にて、かほどの世話を受くる貴女方においても、それだけの覚悟はあるべきはず。
 妾(めかけ)となるが厭とあれば、本妻にいたすべし。かくまで思い詰めたる男の一念、これを諾(き)かずとならば、そなたを女郎に売りても、これまで二人のために費やせし金を取らざれば、男が立たぬ訳、その金払うか、我が意に従うか、さあその返事はいかに?」

 と詰めて寄る。

 看病に疲れ、気苦労に疲れたお秋は、視線を憤怒の形相恐ろしき太左衛門の顔から、膝の上なる自分の手の指に落として、はらはらと涙を落とした。
 これを母の耳に入れては、またも母の病を募らせるばかりである。払うべき金はないし、操(みさお)を売るのは命に替えてもできないことである。
 最前の法は、故郷の田地を金に替えて、太左衛門に払うの外はないと思って、お秋は、

 「自分の故郷に数町の田地があるから、急にこれから故郷の備中に使いを立てるから、ここ暫くの猶予をしてください!」

 太左衛門の前に両手を突き涙を垂れて願ってはみれど、太左衛門は、

 「そう云っておいて、逃げる魂胆に相違ない!」

 と云って、なかなかに諾(き)かぬ。
 お秋は絶体絶命である。

 「病人抱えたる弱き女の身に付け込んで、無理非道を迫るとは、何たることぞ!」

 と憤ってもみた。かつてこの前の宿の主人(あるじ)より責められしにも優るこの苦悩。病みたる母さえなくば、自刃しても相果つべきにと、胸を押えて悩む姿を眺めて、太左衛門は、なお責め足らじと言葉を続け、

 「金を払えず妾にもなれずとならば、騙児(かたり)として代官所へ訴え出ずべきほどに、覚悟召され!」

 とばかり、太左衛門は再びお秋の手を握り、引き立てんと敦圉(いきま)く。

 お秋は、

 「どうぞ、今暫くのご猶予を!」

 と語らん言葉もなくて泣き沈む、ちょうどその時、

 「その金は私が払いましょう!」

 と言って、後の襖(ふすま)押し開け現れ出でた男がある。
 見れば四五日前から、この亀屋の奥二階に滞在している男である。年の頃は五十二三、肉付きよき体格の、どことなく品格があって挙措(たちい)から物言いまで落ち着いたものである。

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