見出し画像

「小説 名娼明月」 第41話:恐ろしい親切

 母娘が手を付き涙を流しての詫びも、主人(あるじ)には諾(き)かぬ。

 「ここのところは、どうあっても、五貫六百の金を拵(こしら)えて立退いてもらわねばならぬ! どうしても金ができぬとなれば、お秋さんの身は下関あたりへ売ってでも計算は済ましてもらいたい!」

 と言葉荒々しく責めつくる主人の無情乱暴を、お秋は、あわれ母さえなくば、この憎々しい主人を人刺しに刺殺さんとまで思ったほどであった。
 主人夫婦が「檀那」と崇むる彼の商人は、名を太左衛門と云って、この地方には名高い素封家(ものもち)である。狡猾で奸佞(かんねい)で、皆の嫌われ者ではあれど、金があるところから表向きに楯突く者もないから、本人大威張りである。
 今この宿の主婦(おかみ)からの、かくかくの女ありとの知らせによって馳せ参じ、当の女と逢ってみれば、なるほど聞きしに優る美しさ。大喜びのホクホク者で、ちょっと触ってみれば、これはまた、意外の意外の撥ね方に、太左衛門は面喰らい、かつ腹を立て、自分が主人夫婦に金を貸しおるを幸い、恩着せて夫婦に当たり散らした。無理にも主人夫婦の口から、お秋を意に従わせんと思ったからである。
 しかるに、主人は座を立って、お秋の部屋に行ったまま復(かえ)って来ぬ。奥の方に当たって、何やら争う声は、確かに主人がお秋母娘を責め立てているものと見えると、太左衛門は、そっと座を立って、その部屋の壁に窺(うかが)い寄れば、お秋母娘に主人から立退きを迫られて、退(の)っ引きならぬ窮場に立っている。憂いに沈んで差し俯(うつむ)けるお秋の艶(あで)やかさ、太左衛門は、かかる美人を生まれて初めて見たとさえ思うのである。
 それにつけても強情なる母娘の言い条、かくてに大抵の手段では難しい。けれども母娘は、今苦しい破目に立って、一歩も動けぬ。

 「この際、こちらから金を払ってやり、優しく恩を着せておいて、後から義理攻めに攻めるならば、いくら強情なあの女でも、よもや靡(なび)かぬことはあるまい!」

 と太左衛門は、悪人相当の智慧を絞って、独り窃かにほくそ笑み、唐紙を押し開け、母娘の涙伏しているところに入っていった。
 かくと見て驚く主人には目もくれず、阿津満に対して初対面の挨拶を述べた。

 「お両人(ふたり)さんのご難儀の次第は、残らず隣の室(へや)から、この太左衛門が聞きました。この主人夫婦こそ不届至極! お秋どのより頼まれもせぬことを勝手に言い来たりて私を欺き、なお飽き足らでお両人(ふたり)に難題を吹っ掛け、身売りまでも迫るような横着さ! 私はお両人(ふたり)のお身の上が不憫でなりませぬ。
 もう決してご心配には及びませぬ。その五貫何百とか申す金は、さっそく私の手より主人に払い渡し、なお二人をこれからすぐに他の宿屋へご案内いたし、お袋のご病気ご平癒までは、及ばずながらお力ともなり、ご相談にも乗りましょう。
 それは最初の行きがかりから考えたまわば、私が何か他に望みありて恩義を着するものとお疑心を挟みたまうも無理でなけれど、決して、さる悪心は持ちませぬ。ただお秋どののご孝心に感じ、お二人のお身の上をお気の毒に思い、お救い申すのでござりまするゆえ、何の気兼ねもご遠慮も及びませぬ」

 と太左衛門は即座に、阿津満母娘の宿料及び薬代の立替を主人に払って、

 「さあ、他の宿屋にご案内いたしましょう」

 と立ちかかった。
 阿津満は、太左衛門の心黒いことを見抜き、また後日どんな難題をかけられるやも知れずと思ったから、大抵には断ってみたけれども、太左衛門は、どうあっても諾(き)き入れぬ。
 かつこの場合、母娘の者にとりては、主人から迫られる責苦(せめく)を逃れたさの心が一杯であったから、その商人の薦めに従って、此宿(ここ)を立った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?