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「小説 名娼明月」 第40話:主人(あるじ)の強(こわ)談判

 宿の主人(あるじ)は足音高く入り来たり、お秋の前に膝突き合わせて坐った。顔色が変わって気色(けしき)ばんでいる。

 「自分の口から頼んでおきながら、客嫌いをして逃げるとは、何事であるぞ! 他の者ならば格別、あの人に腹立てられては、さしずめ我々夫婦の活計(くらし)に差し支える! 今から、素直にあの人の意に従えばよし、さもなければ、宿料薬代を耳を揃えて払い、今より病人もろとも宿を出て行ってもらいたい!」

 と声高らかの聞こえよがしに語る調子に、阿津満は目を醒まして、見れば宿の主人が顔色変えてお秋に詰め寄っている。事の次第の判らぬ阿津満は、

 「娘がまた何の粗匆(そそう)をしでかしたことであろうか?」

 と驚いて頭を擡(もた)げた。

 「どういう過ちをしたかは存ぜねど、万事娘の不束(ふつつか)から起こる事。なにとぞ、私に免じてお許しくだされ!」

 と折入って頼むを、主人はますます乗り気になって怒鳴りたて、事の概略(あらまし)を勢い込んで話して聞かせた。驚き余って阿津満は、涙に濡れしお秋の顔を睜(みつ)めた。
 このさい、お秋は自分の潔白なる心事を母に対して言い開きせねばならぬ。主人の語り終わるを待って、お秋が言い開きせんとするを、阿津満は押し留め、主人に向かって詫び入った。

 「それと申すも、もとは娘の不所存からのこと。生死こそ詳(つまびら)かならね、親の許せし良人(おっと)のある身の、いかに貧苦に迫ればとて、人に身を任せんとするは何事ぞ!」

 と、阿津満はお秋に、さる不所存のあろうとは露ほどにも信ぜぬながら、主人の手前、声引き立てて叱りつけた。
 阿津満はお秋を深く信じている。自分の病気以来、お秋が夜の目も合わさずに介抱してくれた孝心は、阿津満が手を合わせんばかりに感謝しているところである。今宿の主人が何と言おうとも、そのために少しもお秋を疑おうとはせぬ。疑わぬばかりではない。自分の薬代尽き、宿料の払い閊(つか)えて、この宿に厄介掛くるを気の毒に思い、かつは自分をして充分の養生をさせんがために、お秋が針仕事でもして少しの金でも得たいと思い、主婦にその世話を頼んだことを、主婦の早合点から、この間違いとなったことは、阿津満の万々承知しているところである。されば今、自分の枕元に泣き臥しているお秋の可哀想な姿を見れば、すぐに掻き抱いて慰めてやりたいと思えど、主人の手前がある。
 主人はさっきから調子に乗って、怒鳴りたいだけを怒鳴り、言いたい限りを言った。しかし、お秋の弁疏(いいわけ)を聞き、お秋の嘆きを見、お秋の平生を思い合わせて見れば、どうやらお秋の言うことが真実(ほんとう)のようである。自分の女房が早呑込みしたことから起こった間違いと思われる。と、心の鎮まるに従って、事の真相が漸次(だんだん)と判ってはきたが、

 「女房の過失(あやまち)は、あの人への弁解(いいわけ)の資料(たね)とはならぬ。してみれば、これはあくまで、お秋が檀那取りを頼んだもとの極(き)めて責め立てるより他に路(みち)はない!」

 と、主人は心を決し、

 「これまで貴女方(あなたがた)お二人に実意(まごころ)尽くせしことは、忘れもいたされまい。頼まぬものを勝手に世話したとおっしゃるならば、それもよし。もはやこの上、とやかく論争(あげつ)らうべき必要もなければ、こちらより立て替えおきし薬代に宿料を併せ、五貫六百三十二文、ただいま払い済まして立退きくだされ!」

 と、意地悪く攻め付くるを、阿津満は布団の上に両手を突き、

 「貴方の仰せ、さらさらご無理とは存じ申さねど、見らるるとおりの母娘が窮状(ありさま)、出て行けとならば出てもまいりましょうなれど、五貫何百と云う金が、どこから出るわけがありましょう!」

 と、涙ながらに詫び入った。

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