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小説 名娼明月

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#歴史時代小説

粟盛北光著 「小説 名娼明月」 自序

粟盛北光著 「小説 名娼明月」 自序

 博多を中心としたる筑前一帯ほど、趣味多き歴史的伝説的物語の多いところはない。曰く箱崎文庫、曰く石童丸(いしどうまる)、曰く米一丸(よねいちまる)、曰く何、曰く何と、数え上げたらいくらでもある。
 しかし、およそ女郎明月の物語くらい色彩に富み変化に裕(ゆた)かに、かつ優艶なる物語は、おそらく他にあるまい。
 その備中の武家に生まれて博多柳町の女郎に終わるまでの波瀾曲折ある二十余年の生涯は、実に勇気

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「小説 名娼明月」 第1話:不思議の蓮の花

「小説 名娼明月」 第1話:不思議の蓮の花

 むかし、博多柳町薩摩屋に、明月という女郎があった。
 この女郎、一旦世を諸行無常と悟るや、萬行寺に足繁く詣で、時の住職正海師に就き、浄土真宗弥陀本願の尊き教えを聞き、歓喜感謝の念、小さき胸に湧き溢れ、師恩に報ずる微意として、自分がかねて最も秘蔵愛護し、夢寐の間も忘れ得ざりし仏縁深き錦の帯を正海師に送った。
 そうして、廓(くるわ)の勤めの暇の朝な朝な萬行寺に参詣するのを唯一の慰めとし、もし未明の

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「小説 名娼明月」 第44話:感謝の涙

 意外の差出口に驚いたのは太左衛門である。せっかく絶体絶命の瀬戸際まで漕ぎつけたところで、突然思わぬ邪魔が入ったのであるから腹を立てた。

 「どこのお方かは知らねど、こちらの話に要らざるお世話、話の済むまで暫くご遠慮くだされたし!」

 と睨みつくるを、その男は敢えて口やかましく争おうとはせず、恭(うやうや)しく太左衛門の前に頭を下げた。

 「お咎めの次第、もっともながら、始終のご様子は残らず

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「小説 名娼明月」 第45話:一封の手紙

 急場を思いがけなき人に救われて、蘇生の思いをしたるお秋は、感激の涙を両眼に湛えながら、母の室(へや)に帰った。そうして事の始終を詳(つまび)らかに話すと、阿津満(あづま)も一方(ひとかた)ならず喜んだ。

 「いずれ明朝お目にかかって、ゆっくりお礼を申し述ぶることとしょう。その際、その方がどこの何というお方であるかは判るであろう」

 と、その夜は枕に就き、翌朝朝飯を終わるやいなや、すぐにお秋は

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「小説 名娼明月」 第47話:門演(かどづけ)の身

「小説 名娼明月」 第47話:門演(かどづけ)の身

 長屋の盲女(めくらおんな)から聞いたる三味線門演(かどづけ)のことを、その夜お秋は種々思案してみた。

 「かくまで窮迫した身で、どうして贅沢が云えよう? 飢えたる者は食を撰ぶの隙はない。幸い自分は三味線ならば一通りは弾ける。三味線の門演でも仕事には相違ない。思い切って門演を行(や)ってみよう!」

と、雄々しくも心を極めたが、

「このことが母上に判っては許されまい。よし許されたとしても、却

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「小説 名娼明月」 第49話:阿津満(あづま)の死

「小説 名娼明月」 第49話:阿津満(あづま)の死

 阿津満(あづま)の病勢は、いよいよ募った。十二月五日は雪を以って明けた。真っ白く明け放れた空には、なお小歇(こやみ)なしに綿雪が降る。雪を踏んで寒そうに仕事に出かける長屋の人もいる。
 阿津満は、目をつぶったと思えば開き、開いたと思えばつぶりして、窓の向こうに見える雪を力なくながめていた。
 頭は惘然(ぼんやり)となってくる。そうして眼界にある総ての物が影薄く眼の底に映ってくる。それでいて古郷を

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「小説 名娼明月」 第50話:またも巡礼の旅

「小説 名娼明月」 第50話:またも巡礼の旅

 広き天地の間にただ一人取り残されしお秋は、母を失いし嘆きの涙の裡(うち)から雄々しくも奮い立った。
 今日を限りと思えば、お秋は朝から母の墓に詣でた。草花手向けて墓前に叩頭(ぬかづ)けば、さまざまの思いが一時に胸に罩(こ)み上げてきて、涙は墓前の赤い土を濡らした。さすがに勇ましい決心も、母の墓前にあっては、一個の弱い女である。悲しい思い出の数々、母についての記憶のさまざまが、一緒に雲のように湧い

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「小説 名娼明月」 第51話:禅寺の奇遇

「小説 名娼明月」 第51話:禅寺の奇遇

 今日は陽春三月の下旬である。龍造寺城下外れの、ある禅寺には、桃の花が盛りで、朝からたくさんの見物人が続いた。
 敵(かたき)の詮議に疲れた金吾は、この桃を見る気になって、昼過ぎより出かけた。なるほど、花は真っ盛りである。花間を逍遥する男女、草の上に坐して花を眺むる老若等、花に酔って一帯がいかにも陽気である。
 金吾が一渡り花を眺めて寺近く来ると、寺の縁先に坐して花見の群衆をおもしろそうに眺めいる

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「小説 名娼明月」 第52話:博多に来たる

「小説 名娼明月」 第52話:博多に来たる

 金吾は禅寺に滞在して、ひそかに参詣の家老や供の者に目を付けること三月、監物に似寄った者の影も見えぬに失望していると、ある日、龍造寺家の家老の一人が詣って来た。和尚とは昵懇(じっこん)の間柄である。
 和尚は例によって菓子など薦めて待遇(もてな)しながら、金吾のことを打ち明け、矢倉監物のことを尋ねてみた。訊かれて家老は、先ごろ、矢島監物太郎と名乗る中国浪人が仕えを求めて、この城下に来たことを思い出

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「小説 名娼明月」 第53話:夢に天女現わる

「小説 名娼明月」 第53話:夢に天女現わる

 金吾はしばらく足を博多の地に留めて監物を捜し廻ってみたが、それでも手係りがない。その年の十一月の末から旅の疲れが出て病の床に臥し、枕の上がらぬこと三十余日。十二月の末からようやく起き上がりはしたが、躯の衰弱疲労が甚だしいため旅に出ることができず、空しく火鉢の側に坐って、時の流るるのを恨んでいるうちに、新陽また巡って、天正四年の春を迎えた。

◇◇◇◇

 小倉で母を葬り、良人金吾を尋ねて巡礼の旅

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「小説 名娼明月」 第54話:蜀江(しょっこう)の錦帯(にしき)

「小説 名娼明月」 第54話:蜀江(しょっこう)の錦帯(にしき)

 驚きのあまり立上がる機勢(はずみ)に、ばたりと倒れて、お秋の夢は覚めた。
 目を開けてみれば、もう金色の光もなければ、紫の雲もない。そうして、もとより天女の姿も見えぬ。やはり、元のままの暗い廻廊である。
 暁(あけ)近い寒さは、切るばかりに躯に迫る。お秋は、まだ夢と現(うつつ)の間を徘徊(さまよ)うておる。さては、現と思いし今のあれが、全くの夢でありしかと、お秋は倒れしままに起きも得ぬ。実に、考

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「小説 名娼明月」 第55話:怪しき馬士(まご)

「小説 名娼明月」 第55話:怪しき馬士(まご)

 金吾は病気の疲れに堪えかねて、今宿の駅(しゅく)まで馬に乗ることとした。馬士(まご)は、眼丸く鼻太き、五十余りの老爺(じい)である。白髪交りの髪を蓬々(ぼうぼう)と伸ぶに任せ、皮膚の色赤黒くして、歯は乱杙(らんぐい)である。馬を叱りながら啣(くわ)え煙管(きせる)をして行くうちに、馬上の金吾に話しかけ、

 「お客様のお国はいずれで、いづこに行かれまするか?」

 と尋ねた。
 金吾は、もとよ

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「小説 名娼明月」 第56話:山賊の家

 座敷からは夜ながら、北の方、海一帯が目の下に見渡される。漁火は以前にも増して鮮やかに見られる。金吾の満足はこの上もない。
 やがて先の馬士(まご)の親爺も、足を濯(そそ)いで上がってきた。金吾の気を外らさぬためであろう。いろいろの話などして聞かせて待遇(もてな)すうちに、濁酒が運ばれ、ついで飯も運ばれた。
 馬士は、しきりに金吾に酒を薦める。病気上がりの体に障ってはならぬからと言って金吾が断るの

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「小説 名娼明月」 第58話:吶喊(とき)の声

「小説 名娼明月」 第58話:吶喊(とき)の声

 強からずといえども、敵は山賊の十余人である。阿修羅のごとく斬り廻り、監物を斬り倒し、管六の首を刎ねておるうちに、金吾も全身に十余箇所の手傷を負うて、頭から足まで血が滴っておる。なお斬りまくり、追いまくるうちに、数個の敵の屍体は、樹の根や岩の間に横たわった。ただ自分が一人、一面の血潮の中に、血刀(ちがたな)提げて突っ立ちたる金吾は、目差す敵を討ち果たせし喜びと、敵から受けし深傷(ふかで)とのために

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