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「小説 名娼明月」 第52話:博多に来たる

 金吾は禅寺に滞在して、ひそかに参詣の家老や供の者に目を付けること三月、監物に似寄った者の影も見えぬに失望していると、ある日、龍造寺家の家老の一人が詣って来た。和尚とは昵懇(じっこん)の間柄である。
 和尚は例によって菓子など薦めて待遇(もてな)しながら、金吾のことを打ち明け、矢倉監物のことを尋ねてみた。訊かれて家老は、先ごろ、矢島監物太郎と名乗る中国浪人が仕えを求めて、この城下に来たことを思い出し、あるいは、その矢倉監物が変名せし者なるやもしれずと思い、その浪人が仕えを断られたる憤りの余り、鹿児島へ向け立去ったことを物語った。
 和尚は、さてと驚き、すぐこの話を金吾に取次ぐと、金吾も驚いた。よって和尚は、早速その家老の手を以って、当時その浪人と面接したという者について、浪人の人相風体を訊いてみた。いかにも監物と寸分の違いもない。
 
 「さては監物、すでに鹿児島に落ち延びたと見えたり。愚図ついては再び監物の行衛(ゆくえ)を見失う怖れがある。今は一日も早く監物の後を追わねばならぬ!」

 と、金吾は、厚く和尚の厚意を謝し、再会を約して鹿児島に向けて、肥前の国を立った。
 金吾は鹿児島に至り、薩摩一円を捜し廻ること三月、種々の手蔓(てずる)を求めて、残りなく探ったけれども、一人も中国浪人の入ってきた形跡はない。
 
 「薩摩でないとすれば、肥後ではあるまいか?」

 と思い、秋風の立つ頃より肥後に入り、熊本はもとより、宇土、八代、玖摩(くま)の城下を残りなく漁(あさ)り散らしてみたけれども、少しもその甲斐がない。
 窮したあまり、金吾が、ある占い者に監物の行衛を判じさせたところが、

 「それは大隅と日向の堺におる」

 と、誠しやかに説明した。
 窮すれば少しの物にも手依(たよ)りたくなる。今の金吾には、つまらぬ易断(えきだん)にさえ心を動かさねばならぬようになっていた。
 金吾は言わるるままに、天正二年の二月に肥後を去って、大隅日向の国境(くにざかい)に至り、今度は一つ気永く、ゆるゆると捜してみようというので、延岡の城下は言うに及ばず、財部(たからべ)、佐土原(さどわら)、飫肥(おび)の田舎までも捜してみたが、相変わらず敵(かたき)には巡り合わぬ。
 金吾はこれより、さらに大隅に転じ、豊後に廻り、再び肥後に戻ってみたが、やはり駄目である。
 ここに已むなく、元の肥前龍造寺城下に引返し、再びかの禅寺に和尚を尋ねたところが、和尚はもう、過ぐる秋に亡くなったと云って、見知らぬ住職がその後を継いでいた。
 和尚は金吾にとっては、九州にただ一人の知辺(しるべ)であった。しかもそれが亡父の友人であるところから、他人とも思われぬほどであった。薩摩の旅の憂さや苦労をこの人に語ろうと思って尋ねて来れば、もはやこの世の人ではないのである。金吾はここにおいて、元気も精気も抜けて頽然(がっかり)となった。
 金吾が半年したらば国に帰ると誓って古郷を出てから、すでに三年余りとなる。お秋母娘を思わぬではない。さぞ母娘が首を長くして自分の帰りを俟っているであろう、と思えば、実に気の毒である。けれども、亡父の仇を討たで帰るのは、武士たる者のこの上なき恥辱である。たとえ約束には違っても、仇を討った上でなければ帰ることはできぬ。
 
 「それにしても、いよいよ監物が九州におらぬとすれば、今度は四国中国を捜さねばならぬ。その前、一応筑前地方を探らねばならぬ」

 というので、金吾は淋しい秋風に送られて、博多まで来た。

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