相対性への無関心こそが心の平穏への近道

思ったことの羅列です。2019/01/11.Sat スマホPCメモ

規範意識や完璧意識強くて自分で自分の首絞めている子みるとはがゆい。自分を投影してしまってるんかな

別に全大人が自分より優れてるとは思わんけど、自分よりは長く生きてる分、いろんなことを経験する時間も十分にあったやろうから、今自分が経験してることこれからすることを、すでに過去に経験して乗り越えてると思うと積み重なりが多い分、わたしより”大人”なんやろうなとは思う

新しい人としゃべるたびで、早口で焦ってるみたいって言われるけど、ゆっくり簡潔にしゃべって相手にしっかり理解してもらうことより、とりあ思ってること考えてること全部放出することのほうが私にとっては大事やから、
相手を置いてけぼりにしてるかどうかとか気にして、話し方改善しようとかそこまで思わん。くそ独りよがりやし、それは言葉のキャッチボールではない会話ではないって思われるやろうけど、ほんま仰る通りです。

内心の自由は誰にも侵害できない

年上から諭されるの嫌いやけど、でも自分も確かに自分より年下の子が自分が似たような経験してるの間近みたら、まぁそのうちきっと落としどころ見つけられるよ~てきなことを言いそうになってしまう。そう思うと、あの時、粗削りさとかその無鉄砲さにさえ気付かずぶちまけてたこととかも何もかも恥ずかしく感じる。でも、たぶんおもいっきり無鉄砲にはじけるようにぶつけたほうが、時すでにそこを越えられた人の目について、有効なアドイスとかももらえて早く通過できそうやから、やっぱり粗削りさを爆発させながらフラストレーションや悩みを吐き出すことが次の段階への移行を早くさせてくれるのかも

前に立ってリーダーシップについて語ってるだけで、強者ポテンシャルマックスに見える。ダメージ受ける。

たぶん平和構築の分野に関わりたいのは、そこには戦争は絶対悪という価値観を押し付けても違和感がないからだと思う。短期で感情的な私は扇動的なニュースがモチベになる。

今することは一生懸命迷うこと

「思いやり」には実態がない、輪郭がない、存在するのかすら疑わしい。

事実を正視。10代の僕らは事実を正視することができない

相対性への無関心が心の平穏をもたらしてくれる説。いくら能力を向上させても、外見を磨いても、世界で一番になる人は一人しかおらんから、その他の残り全員はどんなに頑張っても常に誰かよりも劣っているということになる。いくらいろんな尺度を作っても全員が一番になれるわけじゃない。一生懸命上位に上り詰めようともがくことではなく、そもそも比較しない状況を作ることがベスト

行動変容に結びつけるのが目的のプレゼン。簡潔に結論ファーストでわかりやすくしゃべれという。特にビジネスの分野。確かに根拠の正当性が納得度合いに影響はするけど、一般の人って、自分が高校生の頃を思い出したらそうだったように、データの解釈の仕方の論理性だとか、情報元の正当性とかそこまで気にしてなくて、インパクトあったりなるほどなぁおもしろいなぁてなんとなく思えたらそんでいい。しかも聞き手が発表者と同じ専門知識有してるわけでもなければ、理解力も様々やから余計にわかりやすいことが求められる。

一方、大学の教授のパワポ資料は文字だらけのことが多い。専門知識の付与だとか、その情報の出どころの正当性をしめすことが目的だから。別に生徒の好奇心をわざわざくすぐるように仕向ける必要もそこまでないし。相手を説得させることではなく、情報を与えることが大事。

生徒のプレゼンは、何が文献の内容、誰かが言ったことで何が自分の意見なのかをしっかり区別して明記することが大事。

私の大学、国立大学とはいえ、大して賢くもないし、かといってばかでもないから、ここを第一志望にして全力で努力して入った人は、バカではないという側面を見て自信を持ったり、一方上から落ちてきた人や自己肯定感の低い人は、かしこくないという側面をみてネガる人が多い気がする

私なんぞにご支援いただける方がこの地球上におりましたら、もう控えめに言ってあげみざわエクスプローションします。