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傾向として、映画のほうが主人公にフォーカスされやすく、ドラマのほうが群像的に描かれることのほうが多いように見える。そういう意味で、映画のほうが「小説」的であり、ドラマのほうが「戯曲」的であるのかもしれない。

 榛名湖へ行く前から見ている『BEEF』(ネットフリックス)には多数のキャラクターが登場しそれらが絡みあう。

 ネットフリックスへのサブスクライブをきっかけに映画よりもドラマを見ることが多くなった。ドラマは、映画よりも尺が長いし途中で離脱することが容易であるために、視聴者の興味関心を引きこむ必要がある。

 そういう実際的な必要に応じてか、ドラマは主人公にフォーカスしきらずにその周縁にいるキャラクターにも、視聴者が感情移入できるように設計されている。つまり、主人公のことがあまり好きになれなくてもその周縁にいるキャラクターのうちの誰か、を好きになれれば視聴者がそのドラマを見る意味と価値が生じる。これは現代的な「推し」という観点にも通じるが、僕には相変わらず他者を「推す」ということが未だに実感できないままであるため、この観点からドラマを分析することは誰かに任せてみたいと思う。



 もちろん、映画もさまざま、ドラマもさまざまであるが、傾向として、映画のほうが主人公にフォーカスされやすく、ドラマのほうが群像的に描かれることのほうが多いように見える。そういう意味で、映画のほうが「小説」的であり、ドラマのほうが「戯曲」的であるのかもしれない。

 僕が2022年につくった『斗起夫 -2031年、東京、都市についての物語-』という舞台は、最初『斗起夫』という題の小説を書いてからそれを戯曲『斗起夫 -2031年、東京、都市についての物語-』に編纂した。

 過去に小説を戯曲にする作業は何度か経験していて、それはそれで毎回、納得のいく作品を作れているだけど、自分で書いた小説を戯曲にしたのはこのときが初めてだった。

 そして、この初めての経験は案外難しいものだった。


「いったいなにが難しいのかというと、カット(切りとり)するのが難しい」


 と当時の僕はエッセーに書き遺している。

 でも、まあ、今の自分からしてみると小説を戯曲にすることを「カット(切りとり)」と表現している時点で誤っているとは思うのだ。

「小説を戯曲にすること」には、確かに「カット(切りとり)」の要素もあるがそれだけではないと思う。小説に足らないものを補完してあげつつ、原作(小説)とは異なるまた新しいものをつくろうとする気概がなければならない。少なくとも、その気概が、当時の僕にはなかった。

「できることなら、この小説をこのまま上演したい」

 と僕は言った。でも、「この小説をこのまま」と思っているならば、小説のまま発表しわざわざ舞台にして上演する必要なんてないんじゃないか。

 翌年の作品『太陽と鉄と毛抜』も小説として書いてから戯曲にしたものだけれど、あれを書いているときには純粋に小説を書いているというよりは「演劇のための」小説を書いているという意識が強かった。そのために、戯曲にするのはそれほど労苦ではなかった。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。