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言葉のハンマー



『どこに行っても一緒やぞ。甘えんな。』


大嫌いだった上司も、好きだった先輩も、父も、僕に同じ言葉を叩きつける。


・・・


社会は戦争だ。スタートラインには大勢の人間がいるが、如何にして先輩上司に気に入られるか。その次は如何に同僚より要領よく成長できるか。如何に取引先に気に入ってもらえるか。如何にいろんな人に気に入ってもらえるか。そしてまた成長できるか。

どこまで行っても上には上がいて、周りを蹴落とす世渡り上手な人が上に行ける。

僕はそれがどうにも納得できなくて、上司や父に話をしたことがある。すると、冒頭のセリフが返ってきたのだ。そりゃそうだ。仕事内容なんて関係ない。どこの世界でも、コミュ力が高くて要領のいい奴が大きく強くなっていく。そういう風に社会はできている。

強い人が社会を作るんだから、本質的なところはどこに行っても変わらない。何が正しくて、何が正義か。そんなものは強い人が決める。世の中は弱い人たちに優しくできていない。


肉体的にハンデを抱えているような人たちにとっては少しづつ生きやすいように改善されていっているかもしれない。ただし心は違う。そんな見えないものがいくら何かを主張しても、どこにも届かない。
理不尽とかパワハラとか、そんな言葉がいくら流行ったところで結局弱い人にとって生きやすい世の中にはなっていないのだ。むしろ、それらの言葉を盾にしていると、一部の人から疎まれることもあるだろう。

僕はありがたいことに肉体的に悪いところはどこにもない。五体満足だ。でも心は強くない。だから、僕は強い人にはなれないし、何かを主張したところで全て“甘え”で片付けられてしまう。


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“甘え”という言葉は、音の響きはかわいいのに、どうしようもなく重い一撃で、理不尽に相手の全てをねじ伏せる。なのにみんな息をするようにこの言葉を投げかける。

この言葉一言が相手の心にどれだけのしかかり、どれだけのプレッシャーになるかを考えたことがないのだろうか。あるいは、自分も耐えて頑張ってきたのだから誰でも同じように乗り越えられるとでも思っているのだろうか。

僕が悩みや辛い話を年上の人にすると、『俺がお前ぐらいの時はもっと大変でもっと上が理不尽で・・・』と、その人の不幸自慢や武勇伝に話がすり替わる。違うそうじゃないんだ。『お前のほうがまだマシなんだよ』って言われても、僕は余計に自身を無くすだけだ。だって、あなたが生きてきたときよりラクなのにそれでもこんな体たらくって言われてるようなものでしょう?


こんな話をしている時点で僕が甘えているのはわかっている。自分の中の物差しをなんとか押し通そうとするだけの子供だ。自分より強い人の物差しに合わせることも覚えないといけないのだろう。学生気分が抜けていないとよく言われた。上司には全て見えていたのだ。むかつくけれど。僕は大人として、まだ1人で立つことすらできなかった。

“自分らしさ”という言葉すら、僕のような不器用で弱い人たちがなんとか自分を保つために生み出した“甘え”なのではないかとすら思う。


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思考回路と性格を変えるのは生半可なことではない。それでも、強い人たちに立ち向かわなければならない。家から一歩外に出たら、自分の理想も心の叫びもゴミクズ同然。靴底についた犬のフンみたいなものだ。僕がいくらネガティブで引っ込み思案でも、社会には何の関係もない。結果だけが全てだ。


単純明快で残酷な世界だ。でも、単純だからこそ、結果までの道のりはいろいろあってもいいんじゃないかとどうしても考えてしまう。人当たりのよさでほとんど評価されるのは納得がいかない。理想も叫びもゴミクズだとしても、主張し続けなければそれこそ本当に陽の目を見ることはない。


弱くても、戦わなくてはならない。言葉のハンマーにぶん殴られても、立ち上がらなければならない。そして、自分の武器を探し続けなければならない。相手のほうが腕力が強ければ、耳に噛みついてやればいいのだ。相手がナイフの達人なら、こちらは拳銃を使えばいいのだ。どこかに戦える方法が必ずあると信じている。戦っているうちにもしかしたら、自分が強い人になれる場が見つかるかもしれないしね。



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