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夏目漱石 | こころ | 銀杏が覆う世界




「こころ」再読


 先々週、先週と、夏目漱石「こころ」を再読した。高校生のときに読んで以来だった。

 高校生のときの国語の教科書に掲載されていたから、新潮文庫を買って全体を読んだ記憶がある。
(※今見ると、古いから黄ばんでいるし、文字も小さい😊旧版の新潮文庫※)

 だいたいのストーリーは覚えているから、今回は細部の表現に注意しつつ、気になった箇所に青鉛筆で線を引きながら通読した。


表象としての銀杏


 今回最初に私が気になったのは、「上 先生と私」の「五」に出てくるパラグラフだった。


墓地の区切り目に、大きな銀杏が一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高い梢を見上げて、「もう少しすると、綺麗ですよ。この木がすっかり黄葉して、ここいらの地面は金色の落葉で埋まるようになります」と云った。先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった。


 このパラグラフから、さらに数ページ先には、次のように書かれている。


先生と話していた私は、不図先生がわざわざ注意してくれた銀杏の大樹を眼の前に想い浮かべた。勘定して見ると、先生が毎月例として墓参に行く日が、それから丁度三日目に当っていた。その三日目は私の課業が午で終る楽な日であった。私は先生に向ってこう云った。
「先生雑司ヶ谷の銀杏はもう散ってしまったでしょうか」
「まだ空坊主にはならないでしょう」


無駄な表現はないはず


 なんとなく印象に残って線を引いた。別に銀杏の話がなくても、ストーリーの流れ自体が大きく変わるわけではないだろう。しかし、漱石が無駄な描写をするはずがないような気がして、なぜここで漱石が銀杏の話を書き込んだのか、自分なり考えてみた。

 おそらくだが、空を隠すような、1本の銀杏の大樹とは、のちに登場する「K」の表象なのではないだろうか?

 「銀杏の大樹=K」だとすれば、「空を隠す」とは、「Kが先生の視界を今も覆い隠していること」を暗示しているように思える。また、「まだ空坊主にはならないでしょう」という先生の言葉は、「今すぐに自殺するわけではないが、早晩、銀杏の葉のように落ちていく」ことを暗示しているように、私には思えた。

 「この木がすっかり黄葉して、ここいらの地面は金色の落葉で埋まるようになります

 銀杏の葉は、もともと緑色。秋になって黄色の葉が地面を覆う。銀杏の緑の葉に先生の過去を、黄色の葉に先生の現在の気持ちを投影しているのではないか?
黄色と言わずに「金色の落葉」と表現していることも気になった。

 先生はまだ、自分の過去を美化しているようにも読めた。本文には書かれていないけれども、黄葉した銀杏の落葉が地面を覆う頃には、銀杏独特の臭気が漂っていることだろう。
 先生が心血を注いで書いた「遺書」と「金色の落葉」とのイメージは、私にはダブって見えた。地面に落ちた銀杏の葉は、あとになって私の元に届く先生の遺書を暗示する伏線なのではないか?

 先生が生きた証として書いたという意味において、先生の遺書は「金色」だが、それと同時に、遺書を読み進めるうちに文字から臭気が漂ってくる。

 普通に読めば、不自然なほど長い長い先生の遺書は、臭気を発散しながら地面を覆う黄葉した銀杏の葉のようだ。


優れた小説はすべて推理小説だ


 優れた小説だけに限ったことではないかもしれないが、古典的名著には推理小説的な要素がある。

 「なんで?」とか「このつづきは?」という気持ちを読者に惹起するのは、謎解き的な要素だ。最後まで読者を引っ張っていく力とも言える。

 一読した時には無駄に思える断片も、必ず全体にも通ずる意味がある。魂は細部に宿る(The whole resides in its part.)。

 小説家ではないけれども、経済史家の内田義彦さんは、名著を読む要諦は「断片、断片です」と言っている。本全体を読むことはもちろん大切なのだけれども、身につまされるような断片を読み込むことの大切さを説いている。私も今頃になって、そう思うようになった。

 名著には無駄がないという気持ちで読めば、いっけん無駄に思える断片にも、著者の謦咳を聞くことができるのではないか?どんな断片にも、著者の思いが込められているはずだ。

 小説で言えば、ストーリーとは直接関係なさそうな、単なる風景と見えるような断片にも、著者の魂が宿っている。そのような意味で、優れた小説はすべて推理小説である、と言っても過言ではあるまい。


「こころ」を貫く死


 「こころ」の中には、「死」が何度か登場する。
 「こころ」を初めて読んだ時には、Kの死のインパクトが強かったけれども、今回再読した時には、(ストーリーはだいたい頭に入っているせいか)Kの死は、私の目には前面に現れて来なかった。

 今回読んでみて考えたのは、明治天皇の崩御、先生の死、これから死んでいく主人公の父親の死が、主人公にどのような意味を持っているのかということだった。

 「こころ」という小説を主人公の教養小説(ビルデゥングスロマン)として読むと、それぞれの死がどのような意味をもつのかと考えた。

 明治天皇の崩御は「神の死」、先生の死は「(主人公の)精神的主柱の死」、主人公の父親の死は「(現世的・生物学上の)実体の死」という意味がありそうだ。

 ここでも私の脳裏には、銀杏の落葉のイメージが重なった。
 
 銀杏の黄葉は、毎年見る光景である。大きな銀杏の木は、もちろん去年見ても今年見ても同じ木だ。しかし、繰り返される黄葉を見ると、輪廻の時間に覆われているように感じる。1人の人間の時間は、数直線上を「誕生」から「死」まで時系列的に進んでいくものだが、繰り返される「人類の死」には、円環のような輪廻的な時間を私は感じる。

 人類はみな、同じような過ちを繰り返しながら、繰り返し誕生して繰り返し死んでいく。あたかもそれは、毎年緑色の葉をまとい、時期が来れば黄色になって、落ちて、臭気を漂わせながら地面を覆い尽くす銀杏の葉のようなものだ。


名著はそれを読む読者の「こころ」を反映する


 名著というものは、それを読む時期によって、読者に異なった様相を見せることが多い。

 一度目に読んだ時の印象と二度目に読んだ時の印象が異なるということがある。読者としての精神的成長を反映しているのかもしれない(そう思いたい😊)。


 最初に読んで面白かったから、再読してみたらつまらなくて「なんでこの本に昔はハマったんだろう?」と思うこともあるけれども、その本を読んだその当時の年齢でしか受け取れない感受性が影響するのかもしれない。


 いずれにせよ、名著は読者の「こころ」を映し出す鏡のような性格をもつものなのだろう。
 夏目漱石の「こころ」は、しばらく時間が経過してから読めば、また違う作品の側面を発見できそうだ。

 また銀杏の葉が地面を覆う頃に読み返してみよう。


おまけ😊 | これまで夏目漱石について書いた記事のまとめ


こうして改めて振り返ってみると、私は夏目漱石の作品の中では、いちばん「夢十夜」が好きなようだ。
特に「夢十夜」の「第六夜」がいちばんのお気にいり💝。


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