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夢十夜と無門関。

 夏目漱石「夢十夜」の第二夜。次のような一節がある。
「趙州曰く無と。無とは何だ。糞坊主めと歯噛をした」
新潮文庫版で読んだのだが、この部分の注解には、「無門関」の第一則を参考するように書かれている。
 「無門関」は岩波文庫(西村恵信[訳注])に入っていて、漢文の書き下し文のあとに、口語訳が載っている。無門関第一則の口語訳を引用してみる。

或る僧が趙州和尚に向かって、『狗(犬)にも仏性がありますか』と問うた。趙州は『無い』と答えられた。
無門は言う、「禅に参じようと思うなら、何としても禅を伝えた祖師たちが設けた関門を透過しなければなるまい。素晴らしい悟りは一度徹底的に意識を無くすることが必要である。祖師の関門も透らず、意識も絶滅できないようなのは、すべて草木に憑りつく精霊のようなものだ。さて、それでは祖師の関門というものは一体どのようなものであるか。ここに提示された一箇の『無』の字こそ、まさに宗門に於いて最も大切な関門の一つにほかならない。(中略) 
さて諸君はどのようにしてこの無の字をひっ提げるか。ともあれ持てる力を総動員して、この無の字と取り組んでみよ。もし絶え間なく続けるならば、あるとき、小さな種火を近づけただけで仏法のともしびが一時にパッと燃えあがることだろう」。

「無門関」(西村恵信[訳注])、岩波文庫pp.25-26

「犬に仏性はあるか?」のような問いは、「公案(あるいは禅問答)」と呼ばれる。
無門関には、全部で48の公案が集められている。「禅問答」という言葉は「水掛け論」みたいなネガティブな文脈で使われることが多いが、大喜利のような気持ちで読むと意外と面白いと思う。

例えば第十四則「南泉斬猫」はどう解釈すればよいだろうか?正解があるわけではないが、次のような公案(問題)。

南泉和尚は、たまたま東西の禅堂に起居している門人たちが、一匹の猫をめぐってトラブルを起こしているところに出くわされた。彼は直ちにその猫をつまみ上げると、『さあお前たち、何とか言ってみよ。うまく言えたらこの猫を救うことが出来るのだが、それが出来なければ、この猫を斬り捨ててくれようぞ』と言われた。皆は何も言うことが出来なかった。南泉は仕方なく猫を斬り捨ててしまった。晩になって、高弟の趙州が外から道場へ帰ってきたので、南泉はこの出来事を趙州に話された。話を聞くと趙州は、履いていた草履を脱いで自分の頭に載せて部屋を出ていってしまった。南泉は、『お前があの場にいてくれたら、文句なしにあの猫を救うことができたものを』と言われた。
無門は言う、「何はともあれ、趙州が草履を頭に載せた意味は何であるか言ってみよ。もしそこのところをきちんと示すような一語が吐けるねら、南泉のやった酷い仕打ちもまんざら無駄にはならぬであろう。しかし、もしそれができぬとなれば、これは危ないことだ」。
(前掲書pp.71-72)





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