エッセイ | 時間の哲学
だんだんと紅葉がきれいになってきた。黄葉もきれいだ。
「こうよう」と聞くと「紅葉」。もみじ🍁をイメージすることが多いが、銀杏の黄葉🟡も、負けず劣らずいいものだなぁと思った。
晴れた日の夕焼け🌇は、季節にかかわらず綺麗だが、秋の夕焼けは何となくいい感じ。
葉の色や夕焼けを見ていると、一瞬時間を忘れるが、その後に時間の流れの不思議に心がとらわれる。
「時間」とはふしぎなものだ。みな、時間の意味を知っている。しかし、時間の意味を深追いすると、何もわからないような気持ちになる。
時間というものは、ハイデガーに代表されるように、哲学的には大きなテーマだ。誰々の「時間の哲学」は、各々の哲学者の著作を読めばいいのだが、この記事では、自分の頭で哲学してみたい。
その方法として「究明」という方法で考える。
時間という言葉から連想することを枚挙して、「時間」(『とき』)の本質に迫りたい。
・時が「流れる」
・時が「過ぎ去る」
・時間が「長い」
・時間が「ない」
・時間が「止まる」
・時間「配分」
・時が「めぐる」
・時間を「計る」
・時間を「忘れる」
・時間=距離÷速さ
とりあえず、このくらいでいいだろう。
時が流れる
「時が流れる」という言葉に違和感を持つことはないが、時間そのものが、川の水のように流れている現場を見たことがない。なのに、「流れ」という「比喩」が不自然だと感じないのはなんでだろう?
思うに「変化あるいは変化をもたらすこと」が似ているのだろう。
「時が過ぎ去る」。
「過ぎ去る」ということは、時間は「一回性」あるいは「不可逆性」があるということだろう。
「長さ」「配分」「計る」
時間が長い、あるいは、時間が短い、と言ったりする。しかし、道のり(距離)のように、メジャーで計ることができるものではない。しかしながら、あたかも、物の長さの場合と同じように、計測したり、配分したりすることができる。
計測できる、ということは、万人に共通な何らかの尺度をもち、普遍性をもつということだろう。そして、分割することもできる。
「時がめぐる」
「時の流れ」は、数直線上に時系列順に並ぶようなイメージだが、「めぐる」というと、なにかの周りを回るようなイメージ。
数直線に並ぶ時間とは、
入学→1年生→2年生→・・・→卒業
のような時間。
めぐる時間とは
春→夏→秋→冬→春→夏→秋→冬→・・
のような時間。
・・・とこんな感じで、時間について考える。
直感的にはわかっても、言葉にすると、どう表現しても違和感がある。
仮に、時間について「わかった」と思っても、実用性はないと思うが、「時間」という言葉で人々が共通に理解できるものが、何かあるに違いない。
記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします