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文系・理系の分類は本質的でないのです。

日本では多くの学問分野を「文系」と「理系」に分類する風習があるが、私はこれはあまり本質的な分類ではないと思っている。

というのも、「文系」「理系」の中にそれぞれ分類されているような種々の学問分野たちについて、もっとよい分類の仕方があるのではないか、と思うからだ。

ここでは議論をシンプルにするために、一旦「国語」「数学」「理科」「社会」の4教科に絞って考えてみることにする。

日本においては一般的に、文系科目の中に国語と社会が、理系科目の中に数学と理科が分類されると認識されているだろう。しかし、少し見方を変えると、必ずしもこの考え方を取らない、新しい分類を考えることができる。

例えば、数学という分野について考えてみよう。

数学という学問は、その本質は「論理学」である。ある特定の公理系を定義した上で、そこからは全て形式論理的に世界が形作られるものだ。これはある意味では現実世界とは乖離した、人間の思考のみに存在する抽象的なものである。(一般的に数学が嫌われがちなポイントが、こうした抽象論にならざるを得ないところにある気もしている。)

では、その数学がどんなときに現実世界の役に立つか?と問うと、理科の分野を考えるときに役に立ちそうだということは、多くの人々にも納得してもらえそうだ。例えば物理の世界でいえば、物体の運動を予測するときには「運動方程式」と呼ばれる数式が活用できる。これは、実際には複雑な現実世界での現象のうち、物体の運動を支配している特に重要な要素(物体の質量・物体の持つ加速度・物体に加わる力)を抜き出し、その関係性を定式化したものだ。

このように、論理に基づく抽象論である数学は、何らかの目的(上記の例では「物体の運動の予測」)を達成するための道具(理論を記述するための道具)として捉えることもできるのだ。

次に、理科という分野について考えてみよう。

理科(もう少し広い言葉で捉えるとしたら「自然科学」)の目的は、この世界における自然現象が、なぜどのように起きているのかを解明しその真理に迫ること、そして解明されたメカニズムを適切に利用して人間社会をより豊かにしていくこと、にあると考えられる。

このとき、自然科学の方法論として用いられるのは、「現象の観察→仮説の設定→実験による検証→仮説の証明or修正」というプロセスである。つまり、自然科学の根本にあるのは「現象の観察」である。自然界における様々な自然現象をまずはつぶさに観察し、それがどのように起きているのかを考えるところから自然科学はスタートする。

そのように考えると、理科という分野の本質には「観察学」とでも言える要素がありそうだ、ということに気づく。

では、社会という分野についてはどうだろうか。

政治、経済、法律、組織、集団心理などなど、社会という分野を一口に語るのは非常に難しいくらい多岐にわたるテーマがあるにしろ、それが対象にしているのは主に「人間社会」である。その目的は、この人間社会がどのように運営されているのか、そしてどのような運営方法を取ればみんなで幸せに生きていくことができるのか、を考えることだ。

そして実は、これらを達成するために取られる方法論は、多くの場合「(自然)科学的方法論」であることが多い。すなわち、人間社会において生じる現象を観察し、その傾向から仮説を立て、種々の社会学理論を構築していくのである。

そのように考えると、実は理科と社会は、「観察学」という点で大きな共通点を持つことがわかる。対象は自然現象と人間社会でそれぞれ異なるにしろ、現象の観察から出発して科学的方法論によって目的を達成する点では全く同じだ。

ちなみに、社会学の分野において数学によって記述される理論も当然あるわけで、その観点からしても冒頭の文系・理系という分類は必ずしも妥当ではないと言えるだろう。

では、国語という分野は一体どういう位置付けになるだろうか?

ちなみに、国語で学ぶ内容が「日本国の中で使われる日本語」という意味であると考えると、「国語」をより一般的に言い換えるとすれば「言語」になるだろうか(アメリカで「国語」といえば「英語」のことになるだろう)。

この「言語」を学ぶ国語という分野についてもう少し解像度を上げてみると、私の考えでは大きく2つに分けられるのではないかと思う。それは、詩や小説などを通して学ぶ「味わうための鑑賞言語」と、文章を論理的に読み書きすることを通して学ぶ「他者と適切なコミュニケーションを取るための論理言語」の2つだ。私が小中学校の頃の国語の授業を思い出して未だに納得がいかないのは、これらが一緒くたにされて同じ教科に分類されていることだ。

前者の「鑑賞言語」については、多様な文学作品に触れることによって、登場人物の感情に寄り添ったり、言外にある作者の思いを感じ取ったりする力を養うにおいて重要な取り組みだ。

一方で、後者の「論理言語」についてはそれとは別軸の重要性がある。それは、これまでに述べてきた理科、社会といった種々の分野が、言語を論理的に適切に運用することによって初めて可能になる分野だからだ。

人間の多くは、言語を通して過去の知見を学び(誰かが書いた文章を通してコミュニケーションを取り)、各種の分野を習得する。つまり、論理的に記述された言語を適切に運用することができなければ、種々の分野について正しく学び、その分野を深めることはできない。

したがって、国語の一分野である「論理言語」は、種々の分野を記述するための道具であり、それは「論理学」そのものである。

そしてこの点で、冒頭で述べた数学との共通性が出てくる。つまり、「論理言語」と「数学」はそれぞれ、自然言語(我々が一般に使っていることば)と数式を使って「論理」を記述する「論理学」なのである。

以上の議論を踏まえて、国語、数学、理科、社会を改めて分類してみると、以下のようになる。

・国語(論理言語)、数学:論理学
・理科、社会:観察学

こうして、各分野で本当に取り組んでいることが一体何なのかということをしっかりと考えてみると、自然現象や人間社会を観察してそのメカニズムを解明しようとする「観察学」と、それらを論理的に記述しようとする(道具としての)「論理学」とに分類することができるのではないか、と思う。

よく「文系だから理系科目は苦手だ」とか、その逆の意味の言葉とかを聞く機会も多いが、こうして分類のしかたを変えることによって、文系も理系も実はやっていることは同じだったことに気づく可能性もあるのだ。

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