ともやの思考整理日記

博士(工学)取得の28歳。探究学習コミュニティ「探究横丁」の運営|誰かの「やってみたい…

ともやの思考整理日記

博士(工学)取得の28歳。探究学習コミュニティ「探究横丁」の運営|誰かの「やってみたい!」をサポートするのが好き|MBTI診断:擁護者| 特技:物事の体系化と整理整頓|趣味:ピアノ|本業:新エネルギーの安全・リスクの研究|過去の記事一覧(https://x.gd/aKyL5

最近の記事

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私は暇人になりたいのです。

この数年間、なんだか人生そのものに身が入らない、という生活を続けていた。博士課程を修了して助教として勤め始めたものの、仕事としての作業はするが、なんだか研究のやる気も出ず、よくわからない気分がずっと続いていた。 しかしその間、決して何もしなかったわけではない。その気持ち悪さの正体は一体何なのだろうかと考えて、自分にとって新しい経験をしたり、新しい考え方を取り入れたりしながら、考えて考えて苦しみのたうち回り、それでも必死で考えて考え抜いた。 そして、ここにきてようやく1つの

    • どうしても早起きできなくなるのです。

      寒い時期になってきた。 本当は早起きして何かしら活動したいところだけど、なかなか起き上がれないのが常だ。 私はこの3年ほど、冬の時期になると春から夏秋にかけて継続してきた朝のルーティンを失うことを繰り返している。それをなんとかしようと色々な施策を取ったこともあるが、見事に全て失敗してきた。 3年間やって3度再現性があるということは、おそらく根本原因にアプローチできていないということだろう。 なぜ私は、小中学生の頃は夏でも冬でも関係なく、律儀に早起き(というか、起床時間

      • 知らない飲食店に入る心地良さを覚えたのです。

        昔は何か新しいことを始めるのに腰が重く、なかなかすぐに行動できないタイプだった。 ここ数年はそれを改善するために、小さい意思決定において少しでも新しいものを選択する癖をつけようと努力している。 その一環が、各地のカフェや飲食店の選択である。 外出先で昼食を食べたり、少し空き時間ができてPC作業をするときなど、少し時間に余裕があるときはなるべく、どこにでもあるチェーン店ではなく、その地域にしかないローカル店や、地元の方が経営しているこじんまりとしたお店に入るようにしている

        • 波風立てずに生きていきがちなのです。

          波風立てないで生きていきたい、と思ったりする。 それは、私が個人的特性として調和を志向する人間だからだ。 これについて改めて書いてみようと思ったのは、そういう自己分析的な問いがないところで、「あ、今自分はこういう行動をとった、ということはやはり調和を大事にしているのだろう」とふと思い当たったからだ。 もし仮に「もっと波風立てても良いのだ」と言われたとしても、波風立てないで生きていくと思う。逆に「波風立てて生きていかねばならない」と言われたら、とても生きづらいと思う。

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        私は暇人になりたいのです。

          資金提供も大事な仕事なのです。

          とある繋がりで、ある研究開発法人に総合職として来年の4月から就職することになった子と話す機会があった。 こうした研究開発法人は、研究組織を持ち自ら研究成果を挙げる場合もあれば、大学研究者をはじめとする研究者たちに研究資金を提供し、関連する何らかの研究成果を出してもらう立場になる場合もある。我々研究者は、そうした研究資金を提供してくださる方々がいるから、研究を継続できるのである。 その学生は専門職ではなく、総合職就職らしいので、直接的に研究開発に携わるわけではないらしいのだ

          資金提供も大事な仕事なのです。

          冷めた心が少しだけ温められたのです。

          先日、同じ大学の近い組織に所属する同い年くらいの若手研究者どうし4名で食事をする機会があった。そのうちの1人がベトナム出身の先生で、彼が自宅に招いてベトナム料理を振る舞ってくれるというのだ。 私と他の2名で彼のお宅にお邪魔すると、部屋には山盛りになった牛・豚・鶏肉と、米粉でできた麺とスープなどがところ狭しと並んでいた。 その食事を頂きながら、私は少し懐かしい気持ちになっていた。というのも、実は私が初めて行った海外がベトナムだったからだ。 大学4年の頃、研究室のゼミ合宿と

          冷めた心が少しだけ温められたのです。

          広い空間の中で思考したいのです。

          先日ふいに遠出がしたい気分になって、新幹線に乗って出かけた。 いつも新幹線に乗るとき私は、いつも決まって、進行方向に向かって車両の後方の席を選ぶ。 これまでは何となくそちらの方が好きだなと思って選んでいたのだが、席に座ってぼんやりと考えているときに、その理由に思い至った。 それは、おそらく自分の視界に入る領域が空間的に広いから、というものだ。 車両の前方に座った場合、自分の視界には自分より前方の席と壁やドアが迫ってくる。この感覚を想像してみると、私にとってはかなり圧迫

          広い空間の中で思考したいのです。

          理解されないけど自分だけ好きなことがあるのです。

          皆には理解されないだろうけど、自分だけが好きなことって、あるんだろうなぁと思う。どうせ理解されないのだからと思って言わないことがほとんどだから、それが本当に自分だけなのかどうかもわからないけど。 ギリ言えなくもない内容だけど、特に言うほどでもないことほど、その判定がつかない。 この際だから、私の例をいくつか挙げてみようと思う。 ①マクドナルドのドリンクの蓋などについている、中身が何かを示すためにペコッと凹ませるアレ(名前がわからない)を、そのペコッという感覚が好きでつい

          理解されないけど自分だけ好きなことがあるのです。

          継続的な取組の威力は大きいのです。

          毎日何かを継続することって、すごいことだし、すごく大事なことだなと思っている。 この「毎日コツコツ力」とでも言える力(本来は力や素質ではなく、それが可能なような環境をうまく作り出す技術だと思うが)は、短期間で目立った成果を生むことはないが、長い目で見たときに大きな威力を発揮するはずだと思う。 その継続的な取組によって自分自身が何かを得ることができるということを自分で実感してきたし、ただ継続しているという事実を伝えたときも周りの人たちの反応が良いことが多い。 地元地域での

          継続的な取組の威力は大きいのです。

          研究についてのボヤキを許してほしいのです。

          研究者として仕事をする立場として思っているボヤキを、的外れな可能性もあるがちょっとだけ書かせてほしい。 一般に研究者とは、自らの知的好奇心に従って知や真理を探究しながら、人類社会にとっての何らかの新しい知見をもたらすことが期待される存在である。 この定義のようなもの自体に対しての異論はないのだが、私のようなひねくれた人間としては、この定義を聞いたときに、妙な不納得感を覚えてしまう。 それは、アウトプットとして、常に「何か新しいもの」を要求されているような気がしてしまうか

          研究についてのボヤキを許してほしいのです。

          適切に心の整理をしたいのです。

          不思議だ。 人間は、自分が向かいたい人生の目的地も、そこに向かうための正攻法もある程度決まっているというのに、それを実行できないことがある。それは、本当に自分の心に正直になって決めた目的地であっても、先人たちから学んだ有力な正攻法であっても、である。どこかで心の整理がついていないからこそ、実行に移すことができないのだ。 その根本的な要因は何か。 おそらく、自己肯定感が低いからだ。自分に自信がないからだ。 これまでの私は、特にやりたいことがない状態で生きてきた。何となく

          適切に心の整理をしたいのです。

          公教育の課題をシステム思考で捉えてみたいのです。

          昨日、教育についての話を書いたが、教育に関するさまざまな問題を分析するのに、「システム思考」を使うことができないだろうか、ということを少し考えた。 「システム思考」とは、社会に存在してそれぞれ相互依存性のある要素どうしの関係性に注目して、それらのつながり全体(システム)を見ながら、各要素の動きによって全体がどのような影響を受けるかを分析するツールである(これは定義ではなく、私なりの考えである)。 なぜシステム思考を用いるのかと言えば、公教育というものが、社会におけるさまざ

          公教育の課題をシステム思考で捉えてみたいのです。

          皆の取組を有機的に繋げたいのです。

          急な話ではあるが、最近、日本の公教育などの変革に携わる面白い活動をしている人たちが自由に繋がり、その活動が促進されるように、新しいプラットフォームをつくろうという話が身近で出た。 全くの構想段階だし、まだ何も実態が無いので具体的な話はできないが、そのやろうとしていること自体は面白いなと思っているので、もし何かお役に立てることがあれば私にもお力添えさせていただきたい、と思っているところだ。 そのプラットフォームを立ち上げようとしている方とお話する中で、現在の日本の公教育やそ

          皆の取組を有機的に繋げたいのです。

          私がやらなくても他の誰かがやるのです。

          先日、高校時代の親友と会った。彼の誕生日が近かったので、2人で飲みに行ったのだ。 というのは実は半分言い訳で、本当は私が最近考えていることについて、彼の意見が聞きたいと思ったからだ。(私が誰かを食事に誘うことはめったにない。それでもなお誘うというときは、私が相当何かの話を聞いてほしいか、相手の意見が聞きたいときだ。それを相手の誕生日を言い訳に行うとはなんて無礼な奴だ、と自分でも思うが、私は何かしら理由が無いと人を食事に誘えないくらい人を頼るのが苦手である。) そこではお互

          私がやらなくても他の誰かがやるのです。

          また毎日更新してもいい気がしているのです。

          昨日今日と久しぶりにnoteを更新した。 なんだか、また改めて毎日ブログを復活しようか、という気持ちになっている。 こういう気持ちになるときがどういうときか、というと、やはり何か新しいインプットをしたときにそう思うのではないか、と思う。 なぜこうして文章でアウトプットすることができるのかというと、それが可能になるようなインプットがあるからだ。そのインプットとは、情報でもいいし、経験でもいいし、何でもいいのだが、必ずそれが思考のキッカケになることが必要だ。 この「思考の

          また毎日更新してもいい気がしているのです。

          決めることを自分に許したいのです。

          私は現時点で28歳である。 しかし、もう間もなくの誕生日を迎えれば、29歳になる。 いつの間にかこんな年齢になっていることに驚く。この感覚は今後一生消えず、毎年毎年思い続けるのだろうな、と想像する。 子どもの頃に想像していた30歳になれているだろうか。いや、そもそも子どもの頃には自分の20歳の状態すらまともに想像できていないから、30代のことなどもっての外だ。 30歳を迎えようとするにあたって、自分がいかにまだ子どもであるかを痛感すると、なかなかにしんどいところがある

          決めることを自分に許したいのです。