ともやの思考整理日記

博士(工学)取得の28歳。探究学習コミュニティ「探究横丁オンライン」の運営助手。出身地…

ともやの思考整理日記

博士(工学)取得の28歳。探究学習コミュニティ「探究横丁オンライン」の運営助手。出身地域の子育てコミュニティに所属する子・青年たちの相互成長の支援者。本業はエネルギーシステムの安全・リスクの研究者。趣味はピアノと整理整頓。過去の記事一覧(https://x.gd/aKyL5

最近の記事

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新しい環境も徹底的に合理化したいのです。

今月から新居に移動した。1年ぶり2度目の一人暮らしで、私は相変わらずのミニマリストぶりを発揮している。 1Kの部屋に住んでいるが、その部屋の中にはほぼ作業用デスクと布団しかない。厳密に言えば、細々した洋服をしまうための小規模な引き出しや段ボールは部屋に出ているが、それも部屋についているクローゼットにしまい込めば入り切ってしまうサイズだ。 そして、自分の生活そのものをなるべく合理化できるように様々な工夫をしている。着る服は上下の組み合わせを決めて着まわすだけにし、1日3食食

    • 何もしなくてもいいのです。

      「やりたいことをやれ」という謎の圧力をどこからか感じているような気がする。 本当は誰もそんなことを言ってはいないのだけど、幻聴なのだろうか。 いや、そんなこともないかもしれない。今の私の本業は研究者という仕事で、基本的に多くの大学研究者は自分自身の内発的動機をもとに何を探究するかを決めて日々取り組んでいるはずだ。そして、もしこれからも研究者として生きていくならば、その内発的動機や軸となることを適切に言語化しておくことが必要だ。 しかし、今の私はどうやらこれを圧力に感じて

      • いまさらInstagramを始めたのです。

        2週間前からしれっとnoteの毎日投稿をやめて、最近はInstagramの毎日投稿を試している。私の周りの関係者にInstagramをやっている方が増えてきて、私もInstagram内での存在感を出していった方がいいのではないか、と思ってきたからだ。 これまでInstagramには苦手意識があった。というのも、私が普段写真を全く撮らない人間なので、発信もしなければ、そもそもInstagramを開く回数も少ないという状況だったのだ。 そこで、どういう形の発信だったらできるだ

        • 謎の抑圧を感じているのです。

          突然だが、謎の抑圧を感じているのでたまには言葉にして吐き出そうと思う。 もっと目の前の物事に楽しみながら取り組みたい!!! なぜこんなに苦痛を感じながらやらなきゃいけないのだろうか。 なぜこんなにも抑圧を感じているのか。 別に誰も自分のことを型に押し込めようとしているわけではない。 自由が保障されているはずだ。 それなのになぜ、こんな心持ちになってしまうのか。 今の自分は、自分の脳内で自身を否定する幻聴に支配されたり、周りの目や評判や体裁や世間体を気にして、自分自身に自

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        新しい環境も徹底的に合理化したいのです。

          やはり「嫌われる勇気」が必要なのです。

          ここにきて、また私の中でアドラー心理学の重要性が見直されている。 とにかく様々なきっかけで自己否定に陥りがちな私にとって、アドラー心理学的な物事の捉え方を意識することはやはり重要だと思っているのだ。 アドラー心理学に関するベストセラーと言えば「嫌われる勇気」が有名だ。 このタイトルは確かに言い得て妙だと思う。アドラー心理学の根本思想をストレートに言い表した言葉のように感じる。 自己否定をやめるには、そんな否定しがちな自分をも受け入れることから始める必要がある。 私に

          やはり「嫌われる勇気」が必要なのです。

          哲学対話に参加してみたのです。

          少し大きめの人数での「哲学対話」イベントに参加してきた。 哲学対話とは、いくつかのルールを守りつつ、ある特定のテーマについて小集団でそれぞれの考えを出し合って対話していくものだ。 ここでのルールとは、発言内容を制限する意図のものではなく、1人ひとりの発言しやすい環境づくりを行うために必要なものだ。例えば、「その人が話し終わるまではしっかり耳を傾ける」「人それぞれ、という結論に落ち着かないようにする」「自分の言葉で話す」などだ。 今回は20人くらいが参加したイベントだった

          哲学対話に参加してみたのです。

          時間の「投資」分が減っている気がするのです。

          自分自身が今すごく脆弱な状態にあるような気がしている。脆弱という表現が適切かどうかわからないが、目の前の刹那的な、性急な要求ばかりを満たしながら生きているように感じる。 確かにそれも1つの生き方ではあるのだが、本当はもっと有意義な要求を満たしながら生きていけた方が、より豊かな人生が送れるような気もするのだ。 何かそういうものに憑りつかれてしまったような感じもする。いわゆる、SNSのイイネから得られる承認による快楽とか、手近な人助けをすることから得られる貢献感による快楽とか

          時間の「投資」分が減っている気がするのです。

          「ネタがない」ことをネタに私っぽい文章をAIに書いてもらったのです。

          最近、文章を書くためのネタが尽きてしまったことに、少し焦りを感じている。以前は、頭の中に次々とアイデアが浮かび、それをすぐに書き留めてブログに綴ることができていた。しかし、ここ数日間、ふと気がつくと、何を書こうかと考えても、全くアイデアが浮かばないのだ。 私にとって文章を書くことは、日常の出来事や感じたことを整理し、自分自身を振り返る貴重な時間だ。それが今、なぜこんなにも難しく感じるのか不思議で仕方がない。書くためのネタがないという状況は、まるで森の中で道に迷い、どちらに進

          「ネタがない」ことをネタに私っぽい文章をAIに書いてもらったのです。

          努力しないための言い訳をしているだけなのです。

          行動のためのエネルギーが湧かないとかなんとかって何度も書いているけれども、それって結局、努力しないための言い訳をしてるだけだなーと思う。 自分がこれまで自分自身の元々持っていた能力や素質に頼って生きてきて、何か特定の力やスキルを伸ばすために意識的に地道な努力を重ねてきた経験が無いからいけないのだと思う。 もっと早いうちに壁にぶつかっておけば、もっと早い段階から努力の必要性を心の底から理解し、腹落ちした状態で人生を生きていけたのかもしれないけど、もう28歳になってしまった。

          努力しないための言い訳をしているだけなのです。

          教育を目的にした活動に向かうバランスが難しいのです。

          地域の子どもたちを連れて行くキャンプから帰ってきた。 今年は例年より人数が少なかったにも関わらず、トラブルはいつも以上に多かった。事前の細々したトラブルもそうだし、重要な役割を担っていた人が、大きめのケガをしたり、直前の体調不良で急に参加できなくなったり。 結果的に私の(実行委員長としての)負荷も高まる形になったが、それはそれで、何年も実行委員長の役割を務めてきた「慣れ感」のせいで、もはやこの状況に対応するくらい頭を使わないと清々しい疲れにはならないのだな、ということが実

          教育を目的にした活動に向かうバランスが難しいのです。

          貢献の仕方の違いによって別の顔が生まれるのです。

          昨今では家庭や学校・職場以外の第3の居場所、いわゆるサードプレイスの重要性が語られるようになってきたが、私はたまたま幼い頃からそういうサードプレイスに慣れ親しんできた。家庭や学校・職場とは全く関係のないコミュニティの中に自分がいる、ということが普通の生活をしてきたのだ。 もしそうでなかったら、と想像すると、自分はもっと狭い世界で生きていただろうし、もっと思想は貧困だっただろうし、もっと無難な生き方を選んでいただろう。 自分と感覚が異なる人が多いコミュニティの中で過ごすこと

          貢献の仕方の違いによって別の顔が生まれるのです。

          大学研究室での教育は報われにくいのです。

          私のようなぺーぺーの大学研究員の立場で言えることでは全くないのだが、研究を通した大学教育ってなかなか報われにくいよなぁと思ったりする。 理工系の学科の場合、多くの学生は学部3年・4年次あたりにいわゆる研究室やゼミに所属して卒業研究に取り組み、卒業論文を書いた上で就職するか、修士課程に進む。そして、修士課程の2年間でまた修士論文を書いて、その多くは就職していく。 学生の立場からすれば至極当たり前のことなのだが、大学教員の立場からすると、ある意味では、せっかく数年間かけて育て

          大学研究室での教育は報われにくいのです。

          意味がなくても本気でやった方がいいのです。

          今年も地域の子どもたちを連れて行く夏のキャンプが近づいてきた。 毎年4月から準備を重ねているが、なんだかんだいつもあっという間に当日を迎えて、あっという間に終わっていく気がする。 どんなイベントごとも、たとえ準備に長い時間をかけたとしても、その期間に比べればイベントはその当日のたった一瞬だけだ。 そのたった一瞬に対して、どれだけ長い時間をかけられるか。 どれだけ頭を使えるか。 どれだけ本気になれるか。 何かのイベントを企画して取り組むときには、常にこの問題がついて回る

          意味がなくても本気でやった方がいいのです。

          自分を放っておいてもついやってしまうことがヒントなのです。

          定期的に私がこのnoteに書いては悲しい思いをしているのが、私という人間の行動エネルギーの源泉についてだ。 もし自分の行動エネルギーの源泉を適切に言語化することができれば、それをうまく活かしながら自分の行動を制御し、より良い方向に自分の力を振り向けることができる。その行動エネルギーが最も発現する環境を選んでそこに自分の身を置き、その力を借りて人生を歩んでいくことができる。その方が、結果的により良い形で世の中に価値をもたらすことができそうだ。 しかし、「悲しい思いをしている

          自分を放っておいてもついやってしまうことがヒントなのです。

          猛暑とのうまい付き合い方を模索中なのです。

          猛暑が続いている。 私は職場までギリギリ歩いていける距離に居を構えているので、毎日日差しの中を20分以上歩いて通勤している。それなりに朝早い時間であっても、この時期では到底関係ないほど強い日差しがあるので、職場に着いた時点では相当汗だくである。 それを覚悟し許容した上でこの位置の家を選んだので、別に特に文句があるわけではない。ただ「暑い」というだけの話だ。 最近、会う人会う人に「日焼けした?」と言われて、特に長時間外に出かけた実感はないので、おそらくこの通勤中の歩行が日

          猛暑とのうまい付き合い方を模索中なのです。

          久しぶりの感覚なのです。

          6月から毎日更新に戻したことによって、「あぁ、書くネタがないなぁー」というこの久しぶりの感覚に陥っている。 書くネタがないときに取りがちな常套手段の1つが、「書くことがない」ということ自体をネタにした文章を書くことだ。これまでも何回かそういう文章を書いてきた。 当然中身はない。毎日更新を継続するための、とある1日分をつなぐためだけのただの駄文だ。 それでも、2年間毎日更新を継続したとか、合計1000記事突破したとか、そういう数値的な蓄積を嘘でないものにするためには必要だ

          久しぶりの感覚なのです。