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『就活生、神になる。』① 敗軍の将、兵を語る

◆まえがき ~本編に入る前に~

 今回から『就活生、神になる。』のタイトルで連載を開始する「隣の芝生」と申します。一部、過去に全8回で連載した『起立性調節障害に負けないために…』と内容が重複するところもございますが、今回は就職活動に軸足を置いた記事となっております。これから就活を控える学生の方や、転職活動が控えている方々に、なるべく有益な物になるように心掛けて記事を進めて参ります。

 初回のみ2月下旬投稿。3月中旬以降から、週1回ペースでの連載を予定しているため、フォロー頂けると毎度確実に最新回をお読み頂けます。いいねもくださると嬉しいです。どうぞ最後までお付き合いください。一回あたりの文章が長いため、章ごとに見出しを付けてあります。ブックマークするなどして、小分けにしてお読み頂けると嬉しいです。初回だけ特に長めです。


 また、途中で面接の内容などについても触れることがございますが、内容に触れる場合は、会社名が特定できない形での記載を心掛けます。回数こそ少ないですが、自分が珍しく全く喋れず、内容自体をあまり覚えてない会社のみ、社名を出す可能性がございます。予めご承知おきを。それではどうぞ。





■第1章 就活生、神になる。

 私は、小学生の頃から、企業活動や経営戦略などに興味を持っていて、高校では毎日図書館に日経新聞を読みに行くようなちょっと変わったヤツだった。大学でも一貫して経済・経営・商学系の学部に進み、登校日は大学の図書館で欠かさず日経新聞を読むことで、経済に対するアンテナは常に張っておいた。講義では、きちんとGPAが3.0以上確保できるように努めていた。まぁ毎日新聞を読んだとてガクチカにはならぬし、GPA3.0が特別エラい数字な訳でもないが、生真面目さの裏付けくらいにはなろう。志望先はもちろん、金融系の事務職である。


 そんな私にも、いよいよ就職活動の本選考のエントリー時期が迫っていた。コロナ禍真っ只中の大学3年生の夏には、オンライン開催のサマーインターンに複数社参加し、着々と就職活動の準備を進めていたつもりだ。

 自分の在籍学部の進路実績を見ても、メガバンクや地銀大手を含め、相当の人数が問題なく金融系の企業に就職しているところを見ると、決して高望みでは無いと思っていた。流行りのMBTIは「ENTJ」型と、一般的に最も就活に強いと"されている"タイプである。


 しかし、この男は結果的に、新卒時に55社以上を受験して、一社も引っ掛からなかった。三次面接あたりまでは難なく進むこともしばしばあったが、とにかくご縁が無かった。既卒になってからも30社以上は受験している。


 正直に言えば、新卒末期の55社を越えるまでは、律儀に出願した会社と落ちた会社の数を正確にカウントしていたのだが、途中でそれも辞めた。自分の頑張りの跡を残すという意味でこまめに記載していたが、あまりにも虚しい作業であり、生産性が無いことに気付いたからだ。

 今回から、そんな男の奇妙な就職活動体験記をつらつらと書き進めて行きたいと思う。個人面接・集団面接・グルディス・小論文・SPI・玉手箱・SCOA・EF1-Gなど、ありとあらゆる試験形態を潜り抜け、大学の就活支援室・エージェント・大規模合同イベント・インターン・ハローワークなどあらゆる使える物は全て使った。途中で折れることなく、気を強く持ち、80戦以上した男の独り言に、どうか最後までお付き合いして欲しい。




■第2章 この男、理由アリ品につき。

 これを読まれている読者の中には、「なんせ80社も落ちるのだから、何らかの原因が隣の芝生にあるのでは?」と思われるであろう。結論から言えば、「ある」と答えざるを得ない。


 ただ、それはおそらくコミュニケーション能力ではない。もちろん、志望度が特に高い企業で、緊張のあまり言葉が上手く出なくなったみたいなことは実際にあった。しかし、それは80社以上のうち片手で数えられる程度であり、基本的に面接官からは、「理路整然とお話される」や「非常に話慣れている」と、フィードバックでお褒め頂くことが多かった。

 これは自分から言うのは烏滸がましいが、学歴フィルターでもない。旧帝や一橋などと言った総合商社や外資にバンバン入るような一流大学を出た訳ではないが、最低でも書類で門前払いされない業種の方が多い大学は出ている。その証拠に、実際に自分で書類提出した会社の体感9割近くで、ESがきちんと通っている。


 では、何に大きな原因があるかと言えば、大きな病歴とそれに伴う休学歴、さらにはコロナ禍によって拍車を掛けたガクチカの希薄さにある。


 これは、以前に小生が連載した『起立性調節障害に負けないために…』の方に詳細があるので、ここでは掻い摘んで説明したい。数少ない自慢できるところもあるので、気持ちよく喋らせて欲しい。



■第3章 無為に終わった学生生活

 私が小学生の時に、半ば記念受験に近い中学受験をしたことで、学力上位層の厚みを知った私は、高校受験では周りのレベルが高い塾に在籍し、自らを高め、少しでも良い進路が取れるように必死に勉強したのだ。ほぼ毎日、タリーズのブラックコーヒーを飲み、夜の22時まで勉強し、少し離れた家に帰るという生活である。


 最後まで数学の芽こそ出なかったが、残り4教科はみるみるうちに実力が付き、全国模試で地域の"御三家"と呼ばれる県立高校や、早慶の附属高を8割合格ラインの滑り止めにできる勢いにまで達した。英語に至っては、塾内1位や満点完封を連続して獲得するほど、安定感を付けていた。


 同時に、中学2年生以降は対人関係に悩んでいた。これも『起立性調節障害に負けないために…』の方で詳細についてはご説明したものである。学年イチの変わり物であり、周囲から意図的に避けられていたような人物に、恐ろしく気に入られてしまったのだ。私は「イジメは何があっても良くない」という正義感を持っているが故に、特に彼を遠ざけることもなく、ニュートラルに接していた。しかし、周囲からは避けられている彼にとっては、話しかけられる相手は私しかおらず、授業中・休み時間構わず、ベットリと付いてくるようになってしまったのだ。


 ただ付いてきて楽しませてくれるのであれば良いのだが、実態はそうではない。彼は彼自信がワキガであることを自覚した上で、無理矢理臭いを嗅がせてきたり、授業中でも構わず、私が反応するまで一発ギャグを連呼してきたりと散々である。常識の範囲内で注意しても全く効かない。先生に相談しても、「隣の芝生くんだけが頼りだから面倒見てやってくれ」の一点張り。

 挙句の果てに、私が友達と構想していた休日の小旅行の計画を、参加メンバーの会話から盗み聞きして、無許可で勝手に集合場所に乗り込んできた始末である。これには、いくら気が長い私も堪忍袋の緒が切れて、長時間に渡って説教をした。この後、彼は学校から姿を消し、私も受験勉強も相まった極度のストレスで体調を崩してしまった。


 症状としては、朝にスッキリ起きられない、起きたとて頭痛・腹痛・吐き気が激しく、長時間立っているとフラフラするなど、学生生活を送るには致命的な物ばかりであった。これが1日や1週間で治れば良かったのだが、そうは行かなかった。


 診断は「起立性調節障害」。軽度の物であれば、生活習慣の改善やストレス源から距離を置くなどして、短期間に治る場合もあるようだが、私は重度に分類されるものであった。既に不登校にならざるを得なかった私は、約1年近く定時に学校に行っておらず、良くても夕方登校となっていた。


 このような状況になってしまうと、中学の先生方の反応もシビアである。通知表には評定不能項目が増えた。最終的に、中学から受験可能校として提示された候補は、いわゆる勉強が完璧に苦手な子でも入れる学校か、通信制・定時制のみとなっていた。これらの学校がどうとかを申し上げるつもりはないが、最低でも、つい半年前くらい前まで、塾の成績で早慶附属を滑り止めラインまで持って行けていた私からすれば、非常に不本意なサジェストであったことは言うまでもない。


 中学からは「我々が指定した高校を受けなければ、内申書や必要書類を高校側に出さない」と圧力が掛かり、本来であれば問題なく受かったであろう当初の志望校は全て断念せざるを得なかった。ただ、ここで諦めるほど私もヤワではない。この指示は、裏を返せば、中学から指定を受けた日以外に進学校があれば、交渉の腕次第で受験できるということだ。


 この後、両親と共に、病気のある子供でも受け入れ可能で、中学の指定先と受験日が被っておらず、進学実績が担保されている高校を必死に探し、なんとか合格することができた。


 この合格発表の後、例の如く中学校に夕方登校したところ、副校長やら学年主任やらがワラワラと集まり、「キミなら受かると思っていたよ!」と手の平を返して握手を求めて来たのを、いまでも鮮明に覚えている。


 自分は学歴至上主義者ではない(ただ努力の証のうちの一つとして考えてはいる)ので、あまりこういう事は申し上げたくないが、最終的に発表された進路先の資料を見ると、学年300人程度に対して上から15人目くらいの席次を取れたようだった。そのため、塾で成績を完全に無視した挙げ句、本人にとっては不本意な合格を、勝手に奇跡だと思い込んだ先生方が、態度を一変させたようであった。


 ただ、高校に無事に入れたとて、いきなり通えるようにはならないのが、この病気の恐ろしいところである。深刻な体調不良が突如改善することなく、単位だけがボロボロと落ちていく。結果的に、学年主任・担任・両親・本人の四者面談となり、なんとか交渉によって1年休学を取り付けた。この交渉の場では、理論派の担任が、「過去にこのような大病で休学して、戻ってきた生徒は誰一人としていない」と面と向かって言い放ったが、翌年から下級生に混じって"新1年生"として再スタートを切ることになった。


★3-2.反省を糧にして…

 ここでは友達にも恵まれ、珈琲を飲んでガツガツ勉強することもしなかった。そのため、全国模試でトップを取るようなことは一切無く、センスがないことがわかっている数学は端っから戦略的に捨てた。受験間際まで、友達とスマホ片手に麻雀や大富豪を遊び、帰ったら夕ご飯を食べて寝るような至って健康的な生活をしていた。センター試験の2日前にインフルエンザに罹り、国公立を逃すというアクシデントはあったものの、ある程度満足の行く大学に現役で進学することができた。

 自分の信奉する肩書きなどのデータ一つで、態度を大きく変える大人の対応は、就職活動における一部の人事の方々(後の章で紹介)にも通ずる物があると言わざるを得ない。中学生の段階で、これを先に経験できたことが、敗戦続きの就職活動においても、心を折らなかった大きな要因になったと思われる。決して無駄な経験ではなかった。


 大学に入った頃には、既に普通の人とあまり変わらない生活ができるようになっていたが、やはり朝早い時間や寝不足には少し弱く、極端な車酔いの症状だけは残った。大学は高校よりも地理的に遠かったため、まずは生活に馴らすという意味で、軽めの文化系サークルにだけ入った。


 比較的声を褒められることが多いので、声を使うサークルである。体育会系への入部も少しは考えたが、練習場所がキャンパス以上に家から遠くなり、そもそも病気をしてあまり基礎体力が無い状態から、いきなりスポーツ推薦組と一緒に渡り合って練習するのは厳しいと思ったため、この段階で見送ったのだ。いま流行りの言葉で言えば"危機感の欠如"かも知れない。だがこの道しかなかった。

 生活に慣れてきた夏頃に、塾講師のアルバイトも行うようになった。ここで初めて勉強に乗り気でない子と対峙することになり、ご子息を第一に思われる親御さんへのご説明の機会などもあったので、説明力に関しては鍛え上げられたと思う。


 自分は経済や経営を純粋に学びたくて学部選択をしたので、1年生のうちからプレゼミに入ることも怠らなかった。受験したのは経済地理学系。応募者は定員の2~3倍程度いたが、筆記試験が地理の応用問題であったため、オタクである私には有利に働いたのだ。教授に顔を売り、資料読み込みや実地調査などでプレゼンを行い、きちんとS評価も頂けた。




■第4章 職業人としての大きな足枷

 これだけ聞いていると、至って順風満帆な学生生活のように思われるかも知れないが、1年生の末から大きく情勢が変化する。新型コロナウイルスの流行に伴い、行動が大きく制限されたことだ。

 幸いにもバイトについては、オンライン授業に変更するなどの対応を行った関係で、収入やガクチカを減らさずに済んだが、大学の授業も例外ではなく、こちらもオンライン授業に全て切り替わってしまった。


 サークルについても、入学当初は想定もできなかったコロナ禍で呆気なく解散してしまった。というのも、サークルでガクチカを作りたい下級生は解散に反対したものの、ガクチカを作りきった上級生によって、過半数が「解散」になるまで存廃に関する投票を繰り返すという、実に"民主的"な方法によって解散してしまったのだ。根負けという表現が適切か。


  ゼミ試験が控えてた時期の半年以上前にコロナ禍に入った関係で、ゼミに関する情勢が大きく変わったのだ。まず、プレゼミでは通用した予備知識を問う筆記試験が完全に無くなり、インターネットで調査可能な課題や、中高での経歴に質問の内容が切り替わったのだ。


 これでは、真面目に授業に出席してきた、あるいは趣味として積み上げてきた「経済・経営、あるいは地理に興味があり、ある程度の予備知識を備えている」という強みが完全に活かせなくなってしまった。それどころか、真空地帯の中高での経験を問われるという不利な構図に持っていかれてしまった。


 また、人気ゼミの潮流も、コロナ禍で一気に変わることとなった。私のゼミ受験戦略として、一次募集では、倍率が高く人気の国際経済系のゼミ(5倍程度)を受験し、もしここで失敗したら、二次募集で先述のプレゼミで顔を売った、例年人気薄の経済地理学系(二次募集ベースで例年1.5倍程度)のゼミを受験する方向で動いた。しかし、これが大きな誤算であった。

 一次募集で国際経済系のゼミに落選した私は、二次募集で定石通り、経済地理学系のゼミを受験したが、応募締め切り後の志願者数発表で、突如倍率が5倍以上に跳ね上がっていることに気付く。何事かと思い調べたところ、このゼミは、旅行などが大きく制限されたコロナ禍でありながら、実地調査を行うフィールドワークを継続的に行っていたこと。


 純粋に経済と地理に興味があった私は、そんなことにある意味"無頓着"であったが、「実地調査」という名の旅行目当ての人間が一次募集の段階で既に多く集まった関係で定員充足が早く、二次募集の枠が狭まった状態で、さらに多くの人が集まったという構図のようだった。


 おまけに、必要書類の提出のため、ゼミ側とメールで連絡を取ってみたところ、最終選考までは顔を売っておいた教授が選考に関わることはなく、ゼミ生によって判断されるということを知った。プレゼミに合格して真面目に頑張ったことなどをアピールしたが、この選考に私は書類で落選した。

 結局、ゼミの三次募集の実施はなく、意図せずノンゼミ・ノンサークルが確定してしまった。中学時代は空白、高校は1年伸びてしまっている。おまけに、複数の諸事情が絡んでコロナ禍に不用意な行動ができない。


 コロナ期間中は、塾講師のアルバイトで生徒たちに指導する上で、ある程度自分なりに指導力を付けようと思い、TOEICの勉強に励んだ。大学生・社会人の上位7%前後のスコアは獲得した。商社勤めであれば足切りスレスレラインだろうが、一般企業であれば十分武器として使える水準である。オンライン参加が可能なインターンにも、2年生のうちから積極的に参加した。ただ、選考に直結するインターンではなく、実際に恩恵もなかった。


逆に言えばできたことはそれくらいである。


 中学生時代に塾内全国1位や満点を取るほど頑張っていた話をガクチカにできれば良かったが、結果的に中学から志望校受験を全て差し止められて、全国的に名の通った学校ではなく、"地域では通じる"くらいの所で落ち着いてしまった関係で、全く説得力の無い話になってしまった。


 強いて挙げられる強みとすれば、何事も真面目に取り組む姿勢と、読み書きにおける多少の語学力である。これだけをもって就活に挑むこととなった。




■第5章 限られる"志望"業種

 ここからは業種選定の話に移りたい。既にお分かり頂ける通り、私は体質的に人並み外れて弱い。中学・高校時代に患った「起立性調節障害」は、頭痛・腹痛・吐き気・フラつきなどの、就労面で悪さをする諸症状は完治したものの、強烈な車酔いの症状だけは残った。座高の低い車や、日本車に多い特有の臭いがするタイプの車だと、自分でドアを締めて、静止状態でシートベルトを締めるだけで酔ってしまう程である。

 海外製の電気自動車や、オープンカーなど、ごく一部に酔わない車種もあるのだが、教習所の車はそうではない。私は自動車免許を諦めざるを得なかった。

 さらに、海外赴任や地方転勤も普通の人以上に注意を払わなければならない。私は、起立性調節障害と同時に、過敏性腸症候群の診断も受けており、そちらは現在の就労自体には全く問題にはならないものの、まだ症状が残っている部分があって、お手洗いが街に少ないと生活が厳しい時もあるのだ。重い起立性調節障害と併発していた中学~高校の時は、お出かけ先の名古屋の商業施設のお手洗いが、隔階設置だっただけで青ざめるほどであった。

 故にそういった誰でも入れるお手洗いが少ない地方部転勤や、テロ対策の観点から公共施設すら意図的に設置しない国も多い海外派遣は、あまり現実的ではなかった。特に、薬を入手できない海外はご法度である。せっかく身に付けた語学力も、これでは何の役にも立たない。


 また、地域密着で転勤がほぼ存在しないという好条件、かつ昔は趣味だったことも相まって、電鉄会社の受験も検討はした。この仕事自体は個人的に一度はやってみたかった物だが、いかんせん起立性調節障害を患った人間と、体質的に極めて相性が悪いのだ。

 起立性調節障害は、極端に朝早く起きたり、夜遅くまで起きていると、体に極度の負荷が掛かり調子を崩しやすくなる病気である。故に、治療法の一つとして、一般の人以上に厳格な規則正しい生活が強く求められる


 しかし、電鉄会社に勤めるためには、事務職採用でも、駅員や車掌経験を避けて通ることはできない。初電より前に起床、終電より後に就寝は当たり前であり、生活リズムは確実に崩れる。それに、人命を預かっている関係から、初電や終電でも、日中と変わらない注意力が求められる。おまけに、乗務中は確実にお手洗いには行けない。実際に電鉄会社に勤めている友人にも、「体質的にキミにはお勧めできない」と言われてしまった。

 

 これが故に、志望業種から車が必須の営業職や、電鉄会社などは外さざるを得なかった。結果的に私が選んだのは「金融系の事務職」。それも外回りの営業が関与しない会社である。小学生の頃から、経済や経営に関する話が大好きな変わり者だったので、あまり抵抗無く割り切ることができたが、それでも職業選択に大きな足枷があったのは言うまでもない。これでは"志望"業種ではなく、"現実的に働き続けられる"業種の選定である。本人としては金融系の職種はある程度乗り気であったが、ある意味"消去法的"な選択であったことも否定はできない。


 ここから、私の2年以上に渡る波乱の就職活動が幕を開けるのであった。



(第1回 本編終了)


いかがでしたでしょうか。今回は『起立性調節障害に負けないために…』と重複する部分が多かったので、掻い摘んだ上で長めのイントロダクション1回とさせて頂きました。


 フライングで第一回を更新したため、次回更新は3月中頃以降となる予定です。続きを読みたい方は、よろしければフォロー、noteアカウントをお持ちでない方はブックマークをお願いします。次回からは、SPIや玉手箱、SCOAなどと言った試験のお話や、面接で聞かれたことなど、本格的な就活体験記として書き進めて参ります。


 これから就活を控える方は不安で一杯でしょうから、仮にでも80戦した私が回答できる範囲でしたら、コメント欄で質問など受け付けます。興味深い題材で、自分にも経験があれば記事に格上げするかも知れません。お気軽にどうぞ。


 長いシリーズになりますので、ぜひともフォローをよろしくお願いいたします。読了された方の目安として、「いいね」も頂けると幸いです。アカウント無くても押せますのでなにとぞ。


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