見出し画像

歴史に「正解」を求める気持ちこそが危険極まりない件

▼いま流通している歴史観は、その社会の価値観を映す場合がある。そのからくりを炙(あぶ)り出す優れたインタビューが、2019年5月23日付の日本経済新聞に載っていた。

歴史学者の呉座勇一氏。「令和の知をひらく」シリーズの4回目で、見出しは

〈絶対の正解 求める危うさ〉

▼え? 「正解」を求めるのが当たり前じゃない? と思った人は、要注意。筆者もそうでした。呉座氏いわく、

〈大学で教えていると学生から「習ったことと違う」「なぜ高校で新しい知見を教えてくれないのか」という声が上がる。だが問題の根本はそこではない。「正解を知りたい」という気持ちこそが危険だと感じる。〉

▼「正解を知りたい」って、当たり前じゃないか、と思う人、多いのではないかと思う。その心の動きこそが危ないんだ、と呉座氏は言う。

わざわざこういう指摘をする必要がある、というところに、いまの社会観、価値観が炙り出されている。インタビュアーは桂星子記者。話したほうも偉いし、聞き出したほうも偉い。

〈歴史に限らず「唯一絶対の正解があり、そこに必ずたどり着ける」と考える人は多いが、現在の複雑な社会で、簡単に結論の出る問題はない。性急に答えを欲しがり、飛びつくのはポピュリズムだ。

新しい時代を生きる上で重要なのは「これが真実」「こうすればうまくいく」という答えらしきものに乗せられることなく、情報を評価するスキルではないか。〉

▼テレビドラマの「クロコーチ」で長瀬智也氏演じる主人公が、剛力彩芽氏演じる部下に対して、ニヤリとして「ほしがるねえ」と言う場面が何度もあったが、「ほしがる」人が増えているわけだ。

正解を「ほしがる」人は、刑事司法には必要だ。証拠がないと立件できないから。しかし、「教科書が教えない」式の歴史探究を「ほしがる」人々が暴走すると、社会には百害あって一利なしである。

〈ネットを通じ、情報の入手自体は簡単になった。それをいかに分析し、価値あるものを選び出していくか。歴史学の根幹はこの「史料批判」にある。

▼「絶対の正解」を「ほしがる」人は、以下のような「歴史を学ぶ意義」に無関心なのかもしれない。「現代の相対化」と「変わらない部分を知る」ということ。

この二つの往復運動に興味のない人と、「絶対の正解」を「ほしがる」人との間の相関関係、因果関係に興味がある。

〈歴史を学ぶ意義は大きく2つある。1つは現代の相対化だ。(中略)異なる常識で動いていた社会を知ることが、我々の価値観を疑ったり「絶対に変えてはいけないものなのか」と問いかけたりするきっかけになる。(中略)

もう1つは、社会の仕組みが異なっても変わらない部分を知ること。親子や兄弟の絆、宗教的観念などは、時代を超えて今につながるものがある。〉

それが、〈目的意識が先に立つと、歴史を見る目がゆがむ〉のである。〈自らの見たいものを過去に投影し、事実でないものを教訓にしてしまう。

とすると、現代社会は「目的意識が強すぎる社会」なのだろうか。反知性主義、フィルターバブル、サイバーカスケード、えとせとら。マスメディアにまつわる最近流行りのことばの多くが、「目的意識」の「過剰な強化」にリンクしている。

▼歴史の複雑な事情を複雑なまま書いても読みものにならない。だからといって「単純明快」な歴史を「ほしがる」人に阿(おもね)るのは学問の死である。

正解がわからなくても「これはあり得ない」ということはある〉という学問の知恵は、「絶対の正解」を「ほしがる」人々、「絶対の正解」を得て自慰(じい)に耽(ふけ)りたがる人々にとっては、なんの価値のない雑音にすぎない。

〈私が専門としている日本の中世は、権力の軸が見えづらい、多極的な社会だ。現代に通じるものがある。見通しが立たない時代こそ、リアルタイムの動きばかり追っていると、変化の波に翻弄されてしまう。歴史を振り返り、長期的な視野に立つことが大切だ。〉

呉座氏の名作『応仁の乱』(中公新書)を読むと、上記で自ら語ったハードルを見事にクリアした成果であることがわかる。

筆者は、「絶対の正解」を求める歴史書よりも、『応仁の乱』式の知恵の塊(かたまり)のほうを好む。

(2019年6月2日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?