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第一幕 ニ頁 心、此処ニ不在


「親父!いるんだろう?!」
二度目の誰かが呼んでいる声がした。
ガラガラと玄関の木戸が開く。

鍵も無いのに、其の扉は開かずの扉。
僕は開けない。
誰も開ける必要も無い。
開けるのは妻だけである。

然し、
誰も開けないと信じていた扉が開けられたのだ。
其処で初めて身の危険と言う物を感じたが、それでも僕は動かなかった。

ラジオを止める事もない。
此のラジオから流れるクラッシックの数々を聞いているだけで、僕は幸せなのだ。

現実は儚くも脆い…。
理由無く、幸せは一瞬で壊れる。

そんな硝子で出来たシャボン玉のやうな物だから、大切にしないと、転んだだけで壊れる。

僕の幸せは此の椅子に座り、ラジオを聴く事。

椅子は回るが、声のする方を向かない。
如何せ見えないのであれば、振り向く必要は無い。

「何で要るのに、声の一つも掛けはしないんだ?」
其の声の主は、ドンドンと態とらしい足音を立てキッチンを通過し、畳の上を更に音を立て僕の背後へと近寄ってくる。

「何のご用ですか」

僕はそう訪問者に聞いた。
そう言った瞬間に、今にもぶつかってきそうな声の主の足音はピタリと止まる。

勢い良く急いた所為で、止まっても私の背後には其の息遣いだけが感じられた。

其の息遣いと…ラジオから流れるクラシック音楽だけの時間が長く感じたのは…
此の儘、時よ止まっていてはくれまいかと、願ってしまうからだろうか。

「まさか……会わないうちにボケたんじゃないだろうね?」

そんな言葉が、久々の再会に交わした言葉だ。

「未だ大丈夫だとは思いたいけどな」

そう、僕は返し小さく笑った。
嘲笑った訳では無い。
こんな己に今更、掛ける言葉もあるまいと己を自嘲したのだ。

「だったら、だったら何で!…何で母さんの事、放っておくんだよ」

…行形、何を言い出すかと思えば…そんな事か。

そう思った。
……確かに、そう……思った。

「何の話の事やら」
僕はそう言うと、目を閉じて優し過ぎる曲を聴いていた。
魅入る程の優しい旋律だ。
心は洗われる様であり、目に見えない光を差してくれる。
きっと……今のお前には分からない。
その理由が……。

そんな事…分かっているのだよ。
妻が僕を裏切っている事など。

其れは、人によっては大きな事かも知れない。
然し、僕は其れでも、変わらずに接し、僕を煙たがる態度を露骨に取らない妻を、偉いと思っている程だ。

僕には想像が出来ない……。
介護と言うものをする、妻の側の気持ちなど。
何やら分からないが、計り知れない苦労があるのだと思う。

だから…僕には責める権利など無い。
知らない苦労に、口出しは無用だ。

そんな考え方も、あるのだよ。

……誰もが誰かの思考には介入出来はしない……。
そう、僕は思っている。

「誤魔化すなよっ!全部知っているんだろう?だったら如何して?!」

如何して……だろうな。
久しぶりに聞くお前の声が、どんな言葉を発していようと……将又、どんなに僕を責めようとも、僕は許すだろう。

聞こえたんだ。
聞こえなかった世界に、お前の声が……。

クラシックに混じりて浮かぶ鮮明な、まごう事なき懐かしさに刻まれた物と、寸分変わらない声。
其の音を……ずっと探していたからだろうか……。

「母さんには母さんの事情がある。義治(よしはる)も、もう大人だろう。分かってやりなさい」

……何も……怒りなどと言うものも感じなかった。
冷静で在る、大人の領分だけあれば十分だ。
折角の再会に怒りなど不要である。

人は誰の味方になるか迷った時、如何なる理由でも怒りの無い人を選ぶものだ。
その理由は簡単で、自分が怒りを受けたくないから……。

体だけは大きくなって、未だそんな事も分からないのならば、教えてやるのが親の努め。
僕は僕なりの考え方でしか教える事も叶わない。
だからこそ、義治には、目も耳も正常であるのだから、もっと色んな事を見聞きして生きていて欲しいと願う。

僕にとって無いものを持てと言う事が、如何に身勝手な親のエゴであるかは分からなくもない。
己が経験していない事を望めば、足を掬われた時に、助けてやる事も叶わない。

けれど……見えない程遠くに羽ばたいて欲しいと願ってしまうものなんだ。
手の届かないところに……聞こえぬ場所にいて欲しかった様な、複雑な気持ちだった。

心の波長の様にも感じていた、沢山のクラシック音楽の上下に動くタクトの先が、その時乱れて行くようにも思えたのである。

「分かって貰わなきゃいけないのは、親父の気持の方じゃないかっ!」

義治の表情を見る事は出来ない。
……否、己の息子の顔であるのに、目が見えたところで見るも恐ろしい。
自分の息子を恐れるだなんて如何かしている。

それは義治が来た事で、流れていた己のペース……詰まりは時間や空間が壊されるのが嫌だったのかは分からない。

僕にとって、クラシック音楽とは心の波である。
クラシック音楽の殆どには激しい感情的な部分と、流れる様に美しい静けさが混合する。
僕は其処に身を委ねていたのだ。

何度も感情的になり掛けた。
然し、感情的になったところで……妻を責めたところで自分は如何なる?
見捨てられて、此の世に一人……視界も生活感も無い男と成り果てるのだ。
だから僕は何時も漣を待った。
美しく灘らかな音は、其の濁った僕の心の水を、静かに揺らし洗い流してくれるのだと信じている。

そうだ……。漣で在れば良い。

「母さんには母さんの考えや生き方がある。父さんにだってそんなものぐらいは在る。そんな事よりも、孫の話をしてくれないか」

そうだ。
こんな些細な波も、大きな人生という海原の一瞬にしか過ぎない。
大きな波の後には小さな波が来る。
そう言うものだと決まっているかの様に……。

「介護保険で入った金……母さん、此の儘……使い果たす気でいるよ。
何時も来ては言うんだ。
何か足りない物はないか、何でも困ったら言ってと。
……雛子(ひなこ)の前では、何時もそう言っては贅沢をさせる。
お陰で雛子はどんんどん我儘になって行くよ。
……当たり前の様に、妻の叶恵(かなえ)の前でも、平気でボーイフレンドを呼ぶんだ。
まるで、自分の夫の様に周りにも言い張っているよ!」

義治はそんな事で怒っていたらしい。

「外に出れば父さんには母さんの気配すら感じる事は出来ないんだ。
確かに、保険が入る時に限って化粧の匂いをさせて出掛けていたよ。
けれどな……義治。
……其れを一々何処に行くのかと聞いたところで、何になる?
……父さんは目が見えないんだ。
確認する事も出来ないし、止めようとも思わないよ。
十分に不自由無い生活をさせて貰っているんだ。
此の家の何処にいても父さんは不自由一つ感じた事は無い。
まぁ、落ち着いて……。母さんの愚痴なら幾らでも聞いてやる。
時間だけはあるからね」

「いい加減に目を覚ませよっ!」

視力の無い僕に、目を覚ませと……あの時、確かに義治は言い放ったのだ。

怒号などではなく、他になんの音も介入させない程……真っ直ぐで澄んだ声だった。

そしてガチャッと何か聞きなれない音がした……。
其の音と同時にラジオの音が止まった……。

視力を失ってから、毎日欠かす事なく流れていたクラシック音楽が消えたのだ……。

漣は次第に何かに変わって行く。

慣れた筈の一定のリズムを刻んで来た筈の心が、騒めいてならない。

「何をするっ!」

僕は事もあろうか、折角会えた息子に、怒鳴ってしまった。

そんな筈じゃない!

僕は冷静で漣の様に生きられるだけで幸せだったのだ。
こんな安っぽい感情などと言うもので、家族を壊してしまう様な愚者にだけはなりたくは無い。

目を閉じて、聞こえない……。

其れでも幸せだと、微かにでも笑えれば其れで良かった筈じゃあないか。

慌てて自分に問うて軌道修正する方法を考え、再び何故かラジオのスイッチを必死で手探りで探した。

「父さん……其のラジオ……母さんがちゃんと父さんにも介護保険を使っていたら、もっと見えなくてもチャンネルをボタン式で変えられるラジオを買えた筈なんだよ。
とっくに会話が沢山あって、色んな音や声の在る世界を選べた筈なんだ。

頼むから……親父。
もう、ラジオに逃げるの……止めてくれよ。

目が見えなくても、自分を恥じる理由にはならないじゃないか。
母さんにちゃんと言えない方が、よっぽど情けないと思わないのか?

さっきから綺麗言ばかり並べているけれど、違うよ。
醜くても母さんは母さんだろう?
ちゃんと、見て……聞いてやってくれないか」

そんな事を義治は言うのだ。

そうだ……。
何も聞こえず……何も見えない間に、義治も人の親として立派に成長したのだ。
此れはもう、大人の男と男の話だ。
そう思って聞いてやるべきだ。

子供の成長を感じて喜ばない親が何処にいると言うのだ。
僕は喜んで良いのだ。
立派に意見を述べる事が出来る様になった義治を、誇りに思って……。

なのに何故……僕は……。

「分かった様な口を聞くなっ!」

そんな事を言ってしまったのだろう。

視力の無い今、僕にとって大事な耳と口。
残された大切なもので、誰よりも会いたかった大切な者を傷付けてしまうとは……。

またもや、つい思ってしまった。
罰当たりな事に……今度は口さえも無かったらと、そんな事を……。
たった一瞬の迷い……そう思いたい……。

「あんたよりは、あんたの事が見えてるよ!」

義治はそう叫ぶ様に言うと、ラジオを必死でまた着けようとする僕の肩を鷲掴み、椅子ごと半ば強引に回し、自分の方を振り向かせた。

乱暴な言動だった。
漣の上を壊す様にバシャバシャと跳ねる鳥の様に。

それでも確かに気付いていたのだ。
僕が知らない僕の事を、しかと其の目が見ていたに違いない。

「なぁ……親父。……じゃあ……さっきから

何で泣いているんだよ……」

漣に落ち……其の静かな揺らぎを壊したのは、義治でも他の誰でもない。

……己が落とした……”感情”と言う名の涙であった。


義治の声が
音と成り漣を変えた
我が心の音を見渡せる程の一陣の風は
まるで……
忘れ掛けた鈍色の季節の旋律を奏でる

もう一度…アンコールに立ち上がる
輝きしあの君と生きた夏


お賽銭箱と言う名の実は骸骨の手が出てくるびっくり箱。 著者の執筆の酒代か当てになる。若しくは珈琲代。 なんてなぁ〜要らないよ。大事なお金なんだ。自分の為に投資しなね。 今を良くする為、未来を良くする為に…てな。 如何してもなら、薔薇買って写メって皆で癒されるかな。