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いま、死んだら。

細い道路の向こう側から、車がやってきた。

そういうとき考えることがある。

あの車が僕の方に突っ込んできたらどうなるのだろう。

あるいは書店で働いているとき。

高いところで作業をしている最中に、体重を預けていた脚立が壊れて落ちてしまったら。

本当にたまにだけど、僕はそうして自分が死んでしまう想像をする。

死の先には何があるのだろう。

真っ暗闇でなにもないのか。それとも霊体になって、この世をさまよい続けることになるのか。

そうなるに足る未練があるか、と自問しても、よくわからなかった。


もちろん僕だって死にたいわけではない。

まだ彼女と話したいこともいっぱいあるし、やりたいことも残ってる。

ただそれらすべてを未練としてしまうのなら、この世は幽霊だらけになるはずだった。

夜な夜な半透明な膝を突き合わせて、お互い生前に残してきたものについて語り合う。

それはそれで楽しそうだった。


もう一つ。僕が死んだら、僕の書いたものがどう読まれるのかが気になった。

死者の書いたもの、というのはいつの時代も何かしらの付加価値がついている気がする。

noteに存在する、もう更新されていないアカウントの記事をたまに読む。

最終更新、3年前。みたいな。

こういうものも、普通とはなにか違う雰囲気をまとっている。

noteから去ってしまった人の記事、として。

例えば僕が深夜のマクドナルドの店先で『モスバーガー、サイコー!!』と叫びながら自爆テロを決行したとする。

そしたら今まで僕が書いたものすべてが、モスバーガーとマクドナルドの対立を念頭に読まれることだろう。

心理学や哲学についてメモしてあることも、チーズバーガーやフィレオフィッシュへの憎悪として捉えられるかもしれない。

先に言っておくが、そんなことは決してない。マックもモスもバーガーキングも好きだ。


結局なにが言いたいかというと、僕がいつどんな死に方をしたとしても、読む人に何か感じてもらえる文が書きたいな、ということだ。

この一文が最後になる可能性だってあるから。


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