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どこに行くか、だれと行くか。

昨日は友人Kと『ゴジラ-1.0』を観にいった。

素晴らしい映画だった。

その帰りに、Kと食事にいった。

神木隆之介くんが演じる、敷島浩一という人物像がどれだけ親しみやすいキャラかについて語り合った。

Kは高校のころからのつきあいだった。

彼とは定期的にこうして映画を観ては、それについて語らう仲だった。

「変わってるって言われるんだけど……」

そのとき、そう前置きして彼が話しはじめたことがあった。

「どこかに行きたいと思ったら、相手をあんまり選ばないんだよね、おれ」

どうやら、Kが言うには『どこに行くか』が最優先の目的であるらしい。

『だれと行くか』ではなく。

例えばKが僕と、ディズニーランドに行く予定をたてるとき。

そういうときにKは「ディズニーランドに行きたい」とまず考え、誰を誘うか考えるそうだ。

たしかに僕には、あんまり馴染みのない考えかただった。


だれかとどこかに行くというとき、僕の場合はたいてい『誰と行くか』のほうを先に考えるな、と思った。

Kはもちろん、彼女や他の友人から、弟妹、一度会っただけの知り合いまで。

それは主体性のない態度だ、と言う人もいるかもしれない。

もっと自分の行きたい場所や、やりたいことをはっきりさせるべきだ、と。


しかし、これには断固として反論ができる。

僕には『行きたい場所』なんかなかった。

というより家にいたかった。

映画も飲食も、可能な限り自分の部屋から出ることなく享受したかった。

僕には『やりたいこと』なんかなかった。

というよりもう終わっていた。

午前中に執筆作業をし、夜に少しゲームや海外ドラマをたしなめられればそれで満足してしまった。

そしてそれは、他人の『行きたい場所』や『やりたいこと』を妨げる要素にはならなかった。

むしろその人たちがいなければ、僕は一生をタニシのように部屋に閉じこもって過ごすことになり、あらゆる刺激から隔離された無菌室でひたすら自分と語り明かす日々が待っている。

それはすごく寂しいことだった。

だから僕は相手の行きたいところに行き、やりたいことに付き合えることに、ある種の充実感をおぼえるのだった。

あ、ちなみにディズニーランドには行ったことがありません。シーにも。

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