好きなものは最後に、という生き方。
食事の際、好きなものを最後にとっておく人がいる。
僕も最後の一口は、好きなもので終わりたい派だ。その方が、食後の余韻がいい。
ショートケーキで言えば、いちごは最後に食べる。みたいな。
でも極端な人は、皿の上のそこまで好きじゃないものをすべて完食してから、好きなものに取り掛かるらしい。
なんという徹底ぶりだろう。
そういう人は、ショートケーキもすべて分解して、別々に食べていくにちがいない。(いちごだけ買えばいいじゃん、という問題ではない)
そういう人は、たぶん一日のおわりに自分の好きなことをして、眠りにつくのだろう。
それなら、嫌なことやつらいことがあっても、いい一日だったという余韻に浸って、いい夢を見ることができるというわけだ。
終わりよければ全てよし、の精神。
月や年という長い目でみても、同じ法則が当てはまるかもしれない。
ではその法則はどこまで適用されるのだろう?
3年?
5年?
あるいは30代、40代という区切りだろうか。
もしもこれが人生という一つの単位にも、当てはめられるとしたら、けっこう大変なことになる。
だって、人生の大半はやりたくないことを我慢してやり続け、最期になって、自分の好きなことをする。ということだ。
想像するだけで、並大抵のことではないのがわかる。
僕なんかは浅はかな人間なので、死ぬ瞬間にやりたいことなんていくつもない。
彼女とゲームをしながら、あるいは机に向かって文字を書きつけているときに、ぱたりと死にたい。
ステージクリアの喜びで、互いにハイタッチしたときの衝撃で心臓が止まる、みたいな。
よく考えてみれば、それは今やっていることなのだが。(心臓はまだ元気だ)
老後になってそんな趣味をみつけるというのも、一苦労だと思う。
新しいことは、今より憶えられなくなるはずだし、体も不自由だろう。
そう考えると、スポーツなんかを楽しめるのは若いうちだけか。たぶん僕は視力からやられるだろうな。今だって充分に、目が悪いひとに分類される。
と、そんなことを考えているが、そもそも僕に老後というものがある保証はない。
この記事を書いている、まさにその瞬間に死ぬことだってあるのだ。
ショートケーキのいちごも、まだ皿に残っている。
そんなのは、少し味気ない。
今この瞬間に人生が終わっても、「いい人生だった」と言えるだろうか。
……今日はいちごを食べる日にしよう。
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