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第1章 / だから, 遠い未来も人はアナログに旅をする.


1−1 
「送る」について。
だから、遠い未来も人は旅をする


「アナログならではの温かみ」
「デジタルで撮影する」
「アナログ人間なんで」
「デジタル・トランスフォーメーション(DX)」
 などなど、よく使われる「Analog」と「Digital」––––

 その意味をご存知だろうか?

 アナログな人間や温かさとは一体?––––雰囲気では掴んでいるけど、いざ、その真意を問われると、意外に「???」となってしまう。

 僕が働いているレコードメーカーの社内研修で、若手社員数十名に「デジタル」の意味を尋ねたことがある。残念ながら、正答者は「0」だった。

 よく「ゼロとイチの2進法にするコト」と答える人もいるが、それは「デジタル化」ではなく「符号化(2進法への変換)」に過ぎない。

 これまで、大学/専門学校/企業、あるいは、イベントやセミナーに招かれ、百回近く講義や講演を行なってきたが、テッキーな会社のエンジニアでもない限り、毎回、似たような結果だった。

 現在の音楽業界で働く本質を伝えるために––––あるいは、「DX」の本質を解き明かすために––––「デジタル」という言葉の定義を、まずは共有しておきたい。

 答えは––––「アナログ」=「連続的」
        「デジタル」=「離散的」だ。

 デジタライズ(デジタル化)とは『連続的な量』を『離散的な = 段階に区切った数』で表すことを言う。

 そのフォーマットとして、『0』と『1』のみを使用する2進法が重宝されていることは事実だが、「デジタル」=「ゼロイチにする」というのは的外れな解釈と言わざるを得ない––––少なくとも、真意を捉えていない。

 音楽業界にも、DXにも、欠かせない「デジタライズ」は「今らしいビジネス」の重要ポイントでもあるため、まずは、その正体と性能を明らかにしていく。

 遠い未来も人は旅をするのか?––––を、考察しながら。


Ⅰ/遠い未来も人は旅をするのか?––––という問いに答えるために、
  まずは「送る」ということについての整理から始めたいと思う。


 手紙というアナログな存在は「送る」と手元に残らない。紙に人が書いたレターは、この世にたった一通であり、だからこそ送ってしまえば送り主の元には残らない。

 一方、インターネット上の「送る」は、AがBとCにテキストデータを送ると、オリジナルテキストはAの手元に残ったまま、BとCの元にもほぼ劣化しないコピーが生まれる。結果、同じテキストデータが3つ存在することになる。十人に送れば十個、千人に送れば千個、送り先の数だけ複製を増殖し、芋蔓式に無限のスーパーコピーを生む。

 それが「デジタライズしてインターネット上で送る」の真相だ。
 この不都合な真実は、例えば、一部のアート業界に影を落とした。

 世界には、大きく分けて2種類のアート業界がある。1つは、薄利多売でコピーを売る業界––––出版社やレコードメーカーなどがこちらに分類される。もう1つは、高利単売で唯一のオリジナルを売る業界––––美術商などがこれに当たる。

 たった1回でも出まわれば、世界中に無限のスーパーコピーを産み落とし続ける「デジタライズしてインターネット上で送る」と相性が悪いのは、当然、前者の複製アートを大量生産して販売する方だ。

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Ⅱ/遠い未来も人は旅をするのか?––––という問いに答えるために、
  次は「送る」と「音楽産業」の関係について考えたいと思う。


 学校の授業を思い出してみて欲しい。音楽の時間は、すでにある曲を歌ったり演奏したりすることが多いが、美術の時間は、この世でたった1つの絵画や彫刻を生み出すことに大半が費やされる。

 同じ芸術の授業でも、音楽はコピーを重んじる科目で、美術はオリジナルを創ることを推奨する科目。ここにも色濃く違いが現れている。ちなみに国語も比較的コピー科目と言えるだろう。作文よりも本読みや視写の割合が多い。

 こういった教育による後天性の理由なのか、あるいは先天的な遺伝のせいなのか、不明だが、とにかく、音楽や文学に「コピー」という存在が付き纏うことは確かだ。

 ただし、複製を大量生産して広く流通させるコピーアート産業のビジネスモデルが薄利多売だからと言って、音楽や文学が、権威的に高値を更新し続ける1点モノの美術品より、価値が低いなんてことはありえない。

 そもそも「デジタライズしてインターネット上で送る」ことができるのは「音源」や「文字」などのレコードやドキュメント(いずれも「記録」という意味を持つ)であって、「音楽」や「文学」というアートそのものは、この世にたった1つの「絵画」や「彫刻」と同じくデジタライズなどできない無二の「記憶」に繋がる存在だからだ。

 たとえば、音楽産業の中でも、コンサートは「デジタライズしてインターネット上で送る」ことの煽りをまったく受けなかった。コンサートは、受け手に、人が紙に書く手紙と同じアナログな体験価値を残す。

 きっと、それは「記録」ではなく「記憶」が目的になっているからだ。

(収録された映像ではない)コンサートそのものは、演者やファンの描く様々な「曲線」を、記録し、再現することができない。

 次の日に、同じ曲目をカラオケ伴奏で歌ったとしても「歌声」は異なるし、口パクであったとしても「ダンス」をはじめ「動き」が同じにならない。客の「歓声」や「リアクション」も、毎回、変わるだろう。声(という波形)も、動きも、「連続的で滑らかな曲線」だからだ––––

 直筆の手紙にある文字は、顕微鏡でどれだけ拡大しても不規則で自由自在な「曲線」にあふれているが、デジタルで記録された画像としての文字は、拡大すると「均一の四角(ピクセル)」が連なった「正体(フォーマット)」をさらけ出す。所詮、その正方形を白か黒か濃淡のグレーに塗った集合体としてのカタチに過ぎない。

 絵画や彫刻の実物と同じく2度と同じには描けない「連続的で滑らかな曲線」を無数に内包する手書き文字もまた「離散性を持つ四角の集まり」=「デジタルフォーマット」に当てはめて、完璧に、再現することはできない。どれだけ小さな四角を大量に用意したとしても(高解像度にしても)必ず限界があり、無限を有する曲線のすべやかさは、その有限にギザギザと角張ってしまうからだ。

 絵画、彫刻、音楽、書、どのようなアートも「デジタライズしてインターネット上で送る」ことのできない「再現不可能な連続性」を有している。だからこそ、アートの真価も、値段という「離散性を持つ角張った物差し」ではなく、受け手側に現れる「感動」にこそ見出されるべきだ。言うまでもなく「人の心の動き」も「波長」であり「再現不可能な連続性」を持つ美しい曲線の塊。美術も、音楽も、文学も、映画も「再現不可能な連続性」を体現するからこそ、唯一無二の価値を宿すコトなのだ。

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Ⅲ/遠い未来も人は旅をするのか?––––という問いに答えるために、
  後半は「送る」と「音楽産業」の関係から見えてきた
  「再現不可能な連続性」について、深く考えていきたい。


「再現不可能な連続性」は「唯一」とも表現できる。一瞬一端の些細やディティールの中にこそ「永遠」という強度に届くかも知れない「普遍的な価値」は宿る––––絵画は、手書きの文字と同じく、2度と描けない = 再現不可能な唯一の曲線をたくさん持っている。それは線という2次元に留まらず、絵の具を塗り重ねた凸凹など立体にまで及ぶ。

 しかし、デジタライズされた音源の波形データに、そのような曖昧な線は一縷もない。ピクセルと同じように「四角」にハメられた数値があるだけだ。

 その遊びの無さによって「デジタライズしてインターネット上で送る」ことが実現し、音源は売れなくなったが、音楽そのものへの需要が低迷したわけではない。窮地に立たされたのは、音楽産業の中でも音源を取り扱うレコードメーカーだけだった。

 レコードメーカーは、画商と違い「薄利多売でスーパーコピーを売る」ビジネスであるにも関わらず、スーパーコピーを簡単にあふれさせる「デジタライズしてインターネット上で送る」という脅威が出現してしまった––––

 ––––僕たちが生きるために、絶対、なくてはならない空気
 ––––塩、魚、電気など多くの生活必需品を産むために必要な海水
 ––––虫好きな子供たちの夏休みに欠かせないカブトムシ(ただし、田舎の山では……)

 これらを売ることのできるビジネススキームはない。世界にあふれるモノは決して商品にはならないのだ。音源は「デジタライズしてインターネット上で送られる」ことで、空気と海水(それから、日光や月光)に次いで「この星にあふれるモノ」になってしまったのではないだろうか。

 それでも、空気は「きれいな空気を吸いましょう」というキャッチコピーで登山ビジネスに活用できるし、降り注ぐ太陽にきらめく海は「海水浴」という夏に欠かせないイベントを生む。カブトムシも都会にさえ持っていけば錬金術さながら––––空気を空気だけで、海水を海水だけで、山中のカブトムシを山中のカブトムシのまま売り買いすることは叶わないが、それを活かしたビジネスはたくさんある。

 人々は、そのとき、一体、何を買っているのだろうか?––––
 ––––僕は「視聴覚以外への訴求力を持つモノゴト」だと考えている。

 現在「デジタライズしてインターネット上で送る」ことができるのは、視聴覚データのみ。味を転送するテレテイストの実装、2次元に落とし込める音の波形や光の3原色とは異なり数百もあると言われる嗅覚レセプターの支配、遠隔で触覚を再現できるハプティクスなど、味、匂い、感触や温度を「デジタライズしてインターネット上で送る」ことのできるテクノロジーは存在しているが、決して、普及はしていない。

 結果、日常的に「デジタライズしてインターネット上に送られる」ことで複製があふれ、ビジネスとして立ち行かなくなっているのは、見聞きするデータのみを扱う市場だ。会員制のレンタルビデオも、お見合いも、出張に関する一部のマーケットも、すべて視聴覚情報のみをやり取りする産業であったがゆえに、会員制の動画配信サービスに、出会い系アプリに、リモート会議に、それぞれ市場を奪われたのだ。

 レコードメーカーも、それらと同じ視聴覚情報のみを扱うマーケットに生きてきた。メイン商材である音源、MV、ライヴ映像には見聞きする情報しかない。手紙やコンサートのような体験価値 =「視聴覚以外の味覚/嗅覚/触覚に訴える何か」を有していない。

 だから「デジタライズしてインターネット上で送る」ことのできない触覚や嗅覚への訴求を体現する付加価値として「握手会への参加権」などが開発された。それは「参加券」という紙(商品)を売っているのではない。体験価値を手にできる「権利」を売っている。

「商品やサービスそのものだけでなく、体験価値にも注目すべき!」や「モノづくりからコトやトキづくりへ!』というフォーカスに対し、視聴覚以外の触覚/嗅覚/味覚を見直すことや、もし、それらの訴求がなければ(多少、無理矢理にでも)付加することは、かなり有用な具体策になるはずだ。

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Ⅳ/遠い未来も人は旅をするのか? という問いに答えるために、
  新たな問いを1つ。もし、いつか「どこでもドア」が普及したら、
  旅客鉄道はなくなるだろうか?


 目的地を思い浮かべながら玄関のドアを開ければ、一瞬で、通勤通学も済んで、海外渡航まで叶ってしまう「ひみつ道具」が実現した時代、扉という扉が願う場所へ繋がっているのに、わざわざ電車に乗る人などいるだろうか?

 ––––答えは明白で、鉄道は絶対になくならないし、乗りたい人も必ずいる。

 そんな未来、新婚旅行にパリを選ぶ人はいなくなるだろう。修学旅行で台湾に行く学校もなくなる。なぜなら、ルーブルは毎週末、美術鑑賞に行く心理的隣町であり、士林夜市も普段から行きつけの屋台が並ぶ時間的近所だから。

「どこでもドア」による2者間の距離を切って貼ったようなチートな移動(ワープ)が普及した時代、旅行における価値は、むしろ国内をゆっくりと列車で移動するような「地続きの体験」=「ひと繋がりの(アナログな)トキ」に見出されるはずだ。当然、鉄道会社の運営方針も変更を余儀なくされる。社会における役割が「日常的な移動手段の提供」から「非日常的な移動時間の演出」に変わるからだ。

 これまで重視されてきた競争力「スピード」のプライオリティは下がり、鉄道での移動は「可能な限り省略すべき只のプロセス」ではなく「許されるなら相応しい時間を擁すべき体験」= 旅の大切な一部であるという気付きから、「移動」が、本来、持っていた「魅力」に「回帰的なフォーカス」が当たるだろう。たとえば、省かれる傾向にあった「食堂車」や、空気抵抗など性能に関わるものではない「目に楽しく心に優しいデザイン」など。

 事実、音速を超える航空機が実現した現在でも、世界を1周するなら低速でひと繋がりの海を渡っていく豪華客船が好まれる理由はそこにある。「どこでもドア」の普及でなくなるとすれば、残念ながら旅客飛行機の方だ。

 そんなはるか未来、鉄道会社が大切にすべきことも「デジタライズしてインターネット上で送る」=「ワープする」ことでは得られない「トキ」づくりに違いない。

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Ⅴ/遠い未来も人は旅をするのか? という問いに答えるために、
  再生 = 生き返るにまつわる「怖い話」をして、終わりたい。


 音楽を「PLAY」することを、日本語では「再生」と表現する。
 これは「再び生む」という、かなり厳格な定義を持っている。

 音楽を「デジタライズしてインターネット上で送る」とき、まず行われるのは、シームレスな連続量を持つ音波を「①1秒間に何回」「②どれくらい細かい目盛り」で計測するか? を定めることだ。

 それは、デジタル写真における「ピクセル」のような概念––––各時点の波の大きさを示す「①標本化」と、その細やかさ =「②量子化」からなる2次元の棒グラフのようなもので「波のカタチの近影」を取得していく。音波という量を、緯度/経度のような2つの数値の組み合わせである「不完全な(隙間=離散性のある)連続」で表すのだ。

アナログ = 連続的な量を、デジタル = 離散的な数で、表す
離散させる段階 =「解像度」が高ければ高いほど、アナログに近づく

 このプロセスを(音の)デジタライズと呼ぶ。

 たとえば、CDは、①44.1kHz/②16bitという細かさだが、①96kHz/②36bitという高音質フォーマットでは、1秒間に96,000回、2の36乗 = 68,719,476,736段階もある目盛りで音の波形を近似値化(各時点における波の頂点の羅列で近影化)していく。

 4つの辺と頂点しか持たない正方形は角張っているが、「定規とコンパスで作図可能なことが証明されている正素数角形のうち最大の辺数を持つと予想されている正65537角形」は、もはや「円」と見分けが付かない。同じく、正方形であるピクセルも数億個集まれば、美しい曲線のフリをするハイレゾ写真と化す––––

 ––––本来、とんでもない色彩に満ちている地球を宇宙から眺めたとき、「青い星」や「水の惑星」と総合してしまうように、人は細かな直線や角形の集合を滑らかな曲線や真円と錯視する。68,719,476,736×96,000のマス目で表されるジグザグな波形も、アナログで滑らかな曲線を描く本来の音波と聞き分けが付かないことは想像に容易いだろう。

 デジタル音楽プレイヤーは、1秒間に何万何千回も届く「音波の近影である棒グラフの各頂点の位置情報」から波形を再構築していく。そして「音」として再び生成 =「再生」する––––そのとき、スピーカーやイヤフォンという物理的な音波への変換装置(離散的(※)なデジタルデータから連続性を持つアナログへのコンバーター)が必要になる。

※ 離散的:近似値に過ぎない棒グラフ = 点の集まり(直線)/ 対して、連続性とは、滑らかな曲線を持つ波を指す。

 いかに「インターネット上で送る」仕組みがデジタルで最新かつ軽やかなコトに変遷しようとも、人が最終的に音として聞くためには、昔ながらの方法で物理的に空気を振動させ、エネルギーを持つアナログな音波を以て鼓膜を揺らすしかない。

 コンピューターだけあっても、スピーカーが付いていなければ、あるいは、イヤフォンが刺さっていなければ、音楽は決して再生されない。そして、聞き手の感情というアナログな波長と交わらなければ、アートの真価たるさらに複雑な曲線運動も生まれないのだ。

「デジタライズしてインターネット上で送られる」ことで、世界中に、録音した音楽 = 音源の「永久不変で固定的な近似値の記録(音源を何度でも同じように再現できるコード)のスーパーコピー」が無数にありふれたとしても、音波と個々人の感情を通じてアナログに再生され続ける限り、音楽から得る体験やエモみは「再現不可能な連続性」を持って記憶されていくはずだ。

 再生は、再現ではない。

 ただの2次元複製から立体的に鼓膜と心が揺さぶられる体験––––それこそアートが、毎回、新たに生き返ってくるのを、僕は、感じる。

 再現不可能な連続性によって、
「音楽は、何度だって、生まれ変わっている」
 そう、震えたいのだ。

 一瞬一端の些細、日常の機微の中にこそ、
「永遠」という強度に届くかも知れない普遍的な価値は瞬く。

 ––––いずれ、生物に関しても「デジタライズしてインターネット上で送る」ための波形のようなマテリアル(ある人物を何度でも同じように再現できるコード)と、それを近影化する「96kHz/36bit」のようなフォーマットが設定され、自由自在にワープできる時代が到来するかも知れない。

 そのとき、スピーカーのような、アナログな物理量として「生物」という「再現不可能な連続性を持って生きている曲線物」を再生するシステムがなければ、ただの数値の転送に過ぎなくなる。

 そういった再生装置すら完成した未来を想像するとき––––

 人々の多くは、生物の転送を「手紙」のように捉えているかも知れないが、やはり、それも「再び生成するためのプロセスで無数のスーパーコピーを産み落とし続けるシステム」になるのではないだろうか。

 ドラえもんの「どこでもドア」ではなく、
 パーマンの「コピーロボット」のような、
 イメージ––––

 ––––軽やかな数字の羅列でしかないデジタルデータから二重螺旋の設計図を読み取り、材料である炭素、酸素、水素、窒素、カルシウム、リン、カリウムなどの原子を編んで、世界に「曲線的な物理量」=「肉体」として再構築する。その結果「もう1人の自身」が生まれ、僕はワープするたび音源と同じように「新たなボクのコード」を芋蔓式に産んでしまう。

 それは「元の自分」と同じ存在意義を持つだろうか。

「レコードやドキュメント(記録)」から、何度も、生まれ、変わっていく「分身した自分」という存在を、神は––––我々、人間は––––僕は––––許すだろうか?

 その予測を自分なりに認めたエピローグを––––

 ここまでお伝えした「生物を送る」は、物体の転送についてのみのコト。
「記録」ではなく「記憶」=「意識」を持つ人物の転送を考えるときには、
「肉体の転送」とは別に「精神の転送」も深慮すべきだ。

 もし、はるか未来、人の「オリジン」を物理的な肉体転送システムのみでワープさせると、その先で再生される「コピーズ」であるヒトは、脳の中身がまったく伴わない生まれたての赤ん坊みたいな、良く言えば「真っさら」/悪く言えば「空っぽ」の存在で産み落とされるはずだ。

 ワープした先でも変わらず「自分」で在るためには、脳が司る機能を支える運動のマテリアル解析を行い、それを量子化&標本化して記録した「自分という精神」も「自身という肉体」と一緒に転送せねば、まるで3Dプリンターで複製した初期化PCのような「自分のない分身」が生まれ続けるだけ––––

 スピーカーの付いたプレイヤーもないのに音源データだけがテレポーテーションしてきても、音楽が再生されないのと同じように––––そのような存在もまた「プレイヤー(俳優)」と呼ばれるのかも知れない。「ワープ」と「クローンの大量生産」という一見まったく異なるテクノロジーは、同じ場所にあるのかも知れないのだ。

 記録から、何度も、生まれ、変わっていくしかない「分身(クローン)」を「自分」のままワープさせたいなら、並行して「精神」=「心」を送るシステムも必要になる。

 感情や理性など不可解で複雑なコンテキストを持つホモ・サピエンスの転送は最高難易度とされるはずだ。意識だけでなく思考も含めた想像を絶する大容量の「再現不可能な連続性」を持つ記憶を、離散的な近似値 = デジタルデータとして送るためのフォーマット開発––––それは、最終的に「デジタライズの不都合」に行き着くはず……

 どこを離散すべきか? = どこを切り離さなければ、僕たちは人でいられるのか?
 そんな狂気––––僕たちは、何を連続させて人と為りを内外に顕在できているのか?

「精神」という神と「自分」たちへの冒涜。
 前人未到のままにすべき禁域とは、どこなのか?––––

 ––––点在か線的か波状なのかも分からない脳の「再現不可能な連続性」をそのままのカタチで記録し、外部からの干渉やディテリオレーション(※ アナログ信号はデジタル信号に比べてノイズや歪みの影響を受けやすい上、「ジェネレーションロス(コピーするたび質の劣化)」を起こす)を回避するためアナログ伝送も選べず––––とどのつまり、ヴァイナル(アナログレコード)のようなフィジカル記録媒体で物流させるしかないという結論へ導かれるはずだ。

 当然、その運搬速度は、人その物 =「自身」が移動するスピードと変わりなくなってしまう。そして、肉体だけを高速ワープさせても外部記憶媒体に入った精神が届かねば、それは「自身」であっても「自分」ではない……

 だったら、胸に心を宿し、君が行け。肉体と精神を分かつことなく、己で行こう。

 きっと、遠い未来も、人は、再現不可能な連続性をもって、
 永遠を、ちっぽけに、旅し続けるのではないだろうか?


1−2 
すでに起こった未来


 この世界の未来を正確に予測することなど、誰にも、当然、僕にもできないが、「音楽業界の今の一部」が「他の業界の一部にとっての未来」かも知れないと思うことがある。

 つまり、ある業種にとっての未来は、別の業界からすれば「経験済みの過去」である場合がある。つまり「すでに起こった未来」と言える部分があったりする。

 レコードメーカーで働いてきた僕は、運良く変化の先端に立たせてもらった(もしくは、運悪くそんな環境に身を置いた)ことで、ある分野では「すでに起こった未来」をほんの少しだけ垣間見た可能性がある(もちろん、逆も然りだ)。

 未来視能力が高いなどと言うつもりはなく、単純にそんな中でビジネスマンとして育ったというだけのこと。(他業種からすれば)未来予測ではなく擬似経験でしかないが、この本には、その視点から見た「未来に向けた本質の一部かも知れないコト」を書いていこうと思う。

 地域間ではなく業界間のタイムマシン戦略––––

 その精度を上げるために「今」の音楽業界からなるべく遠くに立つ必要があった。だから、僕は、2つのタイムトリップをして、それを記すことにした。1つが「はるか未来の鉄道会社の話(SFプロトタイピング)」で、もう1つは、次に書く「過去の音楽業界の話(歴史)」だ。

 僕たちが使う音源制作ソフトウェアで、音の波形を拡大していくと(近くで見ると)、細かく上に上がったり下に下がったりを繰り返している。でも、それを縮小していくと(なるべく遠ざかると)、その上下が大きな下降線もしくは大きな上昇線の一部に過ぎないことが分かってくる。音波の細かな上下は、ディレクター(業界側)である僕にとっては、音質・音色・ノイズ除去などにおいて重要だが、それで、人は感動しない(市場は動かない)。ビジネスがスケールすることもない。

 楽曲のメロディや歌詞は、遠くから見た滑らかな波形(曲線)にしか現れない。リスナーがサビへの期待感を得るのも、その直前にある巨視的な上昇あるいは下降線だ。

 言うまでもなく、遠い未来を想像するときも、届く限り最古の歴史まで遡るべきだ。

 現時点までの過去の流れを知らなければ、その先の流れを予測することなどできるわけがない。なるべく遠くから、滑らかで、巨大な波を見ないといけない。だって、これは、目先の目論見には、まったく役に立たない本なのだ。

 その代わりに、青々とした(悪くいえば青くさい)希望と挫折を、あえて詰め込んでいる。レコードメーカーという新興音楽産業のディレクター(方向を決める人間)が書く本なんて、それが限界だ。

 それでも、19世紀の録音の発明から続くごく短い波と、15世紀の印刷の発明から続く少し長い波では、今が、どれくらいの角度を持った下向きか上向きなのか、その捉え方がまったく異なってくる。

 ルネサンスから続く滑らかな波で、少なくとも今の音楽業界は、第1波の緩やかな上昇に過ぎないのかも知れない。それは、巨視的には平坦に近いが、その波の上に乗っかっている現在進行形の僕には、ジェットコースターのような急勾配のアップダウンでもあった。

 ぶっちゃけ、ずっと、吐きそうだった(苦笑)。

 でも、だからこそ、ほんの少し、正直な価値がある。


1−3
「音楽」と「音源」 - 音楽業界の歴史


 音楽産業は、印刷から始まった。

 音楽を、音そのもので記録し、遠方に届けたり、後世に残したりできるようになったのは最近のことで、長らく音楽を記録できる唯一の方法は「楽譜」だった。ただし、音楽は、文学とは異なり、良くも悪くも演奏した瞬間に消えていくリアルタイム(ライヴ)な芸術だ。写真や映像のない時代、ダンスもまたそのような「物理的には一過性(だからこそ精神的な永遠性)を持つアート」であり、映画はそもそも存在しなかった。

 しかし、「遠い未来も人はアナログに旅をする」で詳しく述べた通り、固定され再現性のある記録だとしても、可変的でその場限りの儚い実演だとしても、あらゆる芸術は、人間を通して、可視化・可聴化など、脳ではなく心と呼ばれる部分で具現化されるたび生まれ変わる––––だからこそ普遍性を持つ––––「永遠は一瞬に宿る」というのは、全芸術に通ずるファンタジーではない現実だ。この点は、あらかじめ、きちんと断っておきたい。

 ––––話を音楽産業の歴史に戻す––––それは、印刷から始まったのだ。15世紀、時はルネサンス。ヨーロッパでは、ヨハネス・グーテンベルクの発明した「活版印刷」によって、楽譜の複製販売が急激に普及していく。

 著名な作曲家や人気楽曲の楽譜を印刷(コピー)し、それを貸与もしくは販売するための「流通網」と、作家への「利益分配(権利処理)」を司るシステムが整備された。今も、著作権のことを「出版権(Publishing)」と呼び、それを管理する会社を「音楽出版社(Music Publisher)」と呼ぶのは、その当時の名残だ。「CD」がメイン商材となったあとも「レコード」メーカーと名乗り続けたのと同じことだ––––

 ––––17世紀に入っても、西洋の音楽文化における中心は、アメリカでもイギリスでもなく、グーテンベルクのいたイタリアだった。特に、富裕層市民の多いヴェネツィアでは、オペラ劇場が並び建ち、モンテヴェルディ(制限が多く表現の幅を狭めていた古代ギリシアに由来するルネサンス音楽の殻を打ち破った作曲家)などが活躍した。

 世界最古の「オペラ」とも言われる彼の作品「オルフェオ」では、すでに16世紀に誕生していたヴァイオリンやトロンボーンなど、弦楽器や金管楽器が伴奏に使用されている。当時、画期的だったその手法は、オーケストラの原型のようでもあり、次に重要な「バロック」へと繋がる「通奏低音」などを成熟させていく。同時期、教皇庁のあるローマでも、貴族を中心に器楽が充実していった。とにもかくにも、音楽文化の中心はイタリアという時代であった。

 18世紀初頭、やはりイタリア人であるクリストフォリによって、ピアノの前身楽器であるチェンバロが発明される。それをわずか3歳で弾きはじめた天才が、ヴォルフガング・アマデウス––––つまり、モーツァルトだ。彼は、作曲家やピアノ奏者としても有名だが、ビジネスマンとしても非常に優秀だった。音楽会を開き、自身が作曲した楽譜を音楽出版社に売って多額の収入を得ていた彼は、コンサートと音楽(の複製)流通で生計を立てる現代的なミュージシャンのパイオニアとも言える。

 その背景には、市民革命の影響による「特権階級からの解脱」という意識があったはずだ。芸術家の幸せは、パトロン(王族や貴族)のお抱えとして生きることではなく、自身の創作力、演奏力、そして、集客力で、独立したフリーランスの音楽家として、言葉通り、自由を体現することへと移行した。

 そんな音楽家たちの活動を支えた印刷ビジネスの発展と普及に伴い、楽譜における「フォーマット(記号デザインなど)」や「メソッド(演奏時の解釈)」なども飛躍的に進化していく。それまでは作曲家の近く––––その目が届く範囲(監修の下)で演奏されるだけだった楽曲が、遠方でも自由に演奏されるようになったことは、モーツァルトのように作曲家としての名誉や利益の拡充というメリットを生む一方、それまでは想像もしなかった弊害も産み落とした。

 たとえば、モーツァルトに憧れ、次世代のスーパースターとなったベートーヴェンは、自分の作品が適当なテンポで演奏されることを嫌い、これまたヨハン(ヨハネスと同源)を冠するメルツェルがでっち上げた(発明と偽り、盗用)したメトロノームを世界で初めて採用した。それ以降、BPM(Beats Per Minutesの略:1分間の拍数を共有することでテンポを画一化できる)が、世界共通のマナーやシステムとして普及していく。

 ちなみに、トロンボーンを、初めて交響曲に採用したのもベートーヴェンだ。教会で演奏される神聖な楽器を、娯楽である交響曲に使用することは、画期的であり、ある種の冒涜でもあった。が、市民はそれを熱烈に歓迎した。

 そこには、市民革命に加え、もう1つの革命の影響が強くあった。

 時代は18世紀––––産業革命だ。イギリスは音楽「文化」の中心ではなかったが、音楽「産業」の中心になりつつあった。チェンバロはイタリアで発明されたが、それを進化させたのはイギリスの技術力だったし、ベートーヴェンもイギリス製のピアノを愛用し、スライド式であるトロンボーンを除く金管楽器の半音階演奏を可能にしたバルブも、アイルランド人のチャールズ・クラゲットがイギリスで特許が取得した発明だ。

 このようなフォーマットや技術の普及は、じんわりと拡散を続け、キリスト教、古くはピタゴラスの音律に根ざした西洋の音楽文化をグローバルな統一規格として全世界に敷いていった。これは、悪く言えば、多様性の喪失だ。

 現代の日本でも、音楽産業を支えているのは、古来の「雅楽」ではなく、明治以降の「洋楽」だ。「邦楽」と呼ばれるほとんどは、基本的には西洋マナーをベースとしている。その起源は西洋的な「楽譜(※)」の到来にあると言っても過言ではない。

※ ちなみに「音符」の起こりは紀元前のシュメール文明といわれており、叙情詩「ギルガメッシュ」の粘土版の一部に記されている。現存する最古の楽譜は古代ギリシャのもので文字や記号が使われていた。現在の横線と音符の組み合わせが普及したことにはキリスト教が大きく関わっている。つまり、イエスの生誕後 = 紀元後ということだ。

 このようにして生まれ、世界に広がった音楽産業は、その後も、テクノロジーの発展と共に歩んでいくが、それから500年近くは、楽譜の出版とコンサート(ライヴ)産業であり、音楽そのものを販売したり流通するようなビジネスは存在しなかった。

 ––––20世紀初頭、ココ・シャネルが帽子屋を開業した頃、「Collective Genius(集合天才)」の生みの親であるエジソンらによって発明された「録音技術」が普及し、楽譜ではなく音楽(正確には音楽を録音した音源)を流通させるため、音声を記録した物 = レコードをコピーして販売する「レコードメーカー(音源流通ビジネス)」という業態が生まれた。

【 アジャイル開発やティール組織の根底に据えるべき「集合天才」とは? 】

 それから、ちょうど百年後の21世紀初頭––––「なぜ、音楽は売れなくなったのか?」というふうな「音楽業界の衰退」を描いた本や記事をやたらと目にする時期があった。しかし、そもそも、こういったタイトルを付けた時点で的外れもいいところだし、事実、音楽ビジネスは、今なお右肩上がりの成長産業であり、数十万年の人類史からすれば、たった数百年程度の新興産業に過ぎない––––売れなくなったのは「音源」だけだ。

 さらなる勘違いを助長したのは、音源が売れなくなった発端を、インターネットの登場をベースに、圧縮技術の向上(例:mp3)とP2Pサービス(ナップスターやWinny)と結び付けて、20世紀後半から21世紀初頭に置いたことだ。

 これも、明確に、大きな間違いだ。

「音源」が売れなくなったのは、
 音源流通ビジネスが生まれてたったの20年後––––1920年代。

 そのときの脅威は、mp3でもP2PサービスでもなくBroadcast––––
「ラジオ放送」だった。

 無料で聴けるコト、さらには、カーラジオという音楽をモバイルできるコトの出現によって、従来のコンサートとは異なり、好きな時間に、個人で、ゆっくりと音楽鑑賞を楽しむコトを提供するだけの音源流通ビジネスは、一気に陳腐化していく。

 もちろん、その危機を乗り越えられたから、現代にもレコードメーカーが残っているわけで、もし、そのとき、放送というビジネスモデルに完全に屈していれば、世界中のあらゆるレコードメーカーは、すべて放送局の子会社として残存する––––そんな世界線もあったのだ(しかも、そんなに低くない確率で……)。

 実際には、そうならず、音源流通を司るレコードメーカーは、意外な発想を持つプロダクトが起こしてくれたムーヴメント(次章の「変化に対する反応速度は狙って出せる」で詳しく述べる)によって救われた。それに用いられたテクノロジーやシステムは、当時、すでに存在していたモノで、最先端というわけではなかったのも興味深い。

 それから1世紀もの間、レコードメーカーは、次々と生まれる新たなテクノロジーから、良くも悪くも真っ先に影響を受ける環境にあり続け、今日に至る。正しくは、その時々の最先端技術が生む新しいコトによって、最新の脅威に晒され続けてきたのだ。その1つが、インターネットをベースに、音源圧縮技術の向上とP2PサービスによるCDの販売不振であったことは間違いないが、それは、決して、音源が売れなくなったきっかけや原初ではない。

 今ではまったく信じられないが……僕がレコードメーカーに入社した当時「21世紀初頭の音楽業界」では、新たな高音質メディア(Super Audio CD や DVD Audioなど)が華々しく登場すれば、再び、音楽市場は活性化する! という「神話」が実しやかに信仰されていた。

 CDが登場した際、市場規模が飛躍的に成長した90年代音楽バブルの経験にほだされた浅はかな幻想だったが、当時の僕も、他に漏れず、テクノロジーが生んでくれる良い影響は「高音質なモノ」で、それにこそ価値があるのだと盲信していた(正しくは、ちょうど異常な音楽バブルが弾け、斜陽となりはじめたレコードメーカーの一員として、縋るような想いでいた)。

 が、今は、「高性能」や「最新」のテクノロジーと「上質」な体験価値は、必ずしも比例しないと思っている。挫折と屈辱の歴史は、のちほど詳しく述べる「モノづくりからコトづくりへと言われるトレンドの本質」や「テクノロジーによる恩恵は○○○○○なコトにある」など、改善すべき道をきちんと示してくれた。

 予測不能な嵐の中、常に船首でアゲインストの矢面に立たされてきた音楽業界は、そのたびに脅威(悲しみ)をチャンス(情熱)に変換して、生存してきた。事実、現在のラジオ(で音源がオンエアされてカスタマーに無料で聴かれるコト)は、音楽業界にとって、切ない脅威ではなく、歓迎すべきプロモーションやマネタイズの機会となっている。


1−4
「音楽が売れなくなった」という嘘と本当のところ


① 画商は、ピカソの絵が贋作であれば、それがどれだけ精巧なスーパーコピーだとしても、価値を著しく下げるしかない。一方、レコードメーカーの商品は、コピーでも価値は下がらず、むしろ、コピーの方を売っている。どんな天才アーティストの音源でも、ピカソの絵画の贋作をつくるより、はるかに、容易にスーパーコピーをつくれてしまう。本や新聞などの出版社も同じで、作家の手書き原稿を百億円で売るような文化は一般的ではない。レコードメーカーは、「高利単売」ではなく、「薄利多売」を前提とした無形(非物質的な)商品を扱う権利ビジネスをしている。

②「インターネットでの送る」は、これまで我々が経験してきた「送る」という概念とはまったくの別物だ。インターネットで送るという行為には、「デジタライズ」が必要不可欠で、「デジタライズしてインターネット上で送る」というのは、同時に、世界中に、簡単に、無限に、複製を生み出すという副作用を持っている。従来のアナログな方法で誰かに手紙を送ったとき、その原本が手元に残ることはない。電話で話した内容も、録音という意図的な複製行動(手紙であればメモ)をわざわざしなければ、やはり、手元にオリジナルは残らない。ただし、誰かに送った電子メールのオリジナル(のデータ)は、必ず、送り手側の手元にも残る。あるファイルをインターネットを介して10人に送れば、世界に1個のオリジナル + 10個のスーパーコピーが生まれる。今、僕がPCで書いているこのテキストも、インターネット上にアップすれば、瞬く間に、世界中に無数の複製を生み出す可能性(バズなど)と危険性(炎上など)を孕んでいる。

③ インターネット普及後の現代社会において、視聴覚情報とそれ以外(嗅覚・味覚・触覚)の感覚情報との間には大きな隔たりがある。前者(視聴覚情報)は、「デジタライズしてインターネット上で送る」ことが普及しており、後者(視聴覚情報以外)は、技術的にも文化的にも、それが普及していない =「デジタライズしてインターネット上で送る」コトができない。

① 音源流通業は複製を売っている

② インターネットでの送るは同時に容易に複製を生む

③ 視聴覚情報のみを持つ商品はインターネットで送ることが可能
(誰でも、容易に、世界中に複製を頒布できる状態にある)

 レコードメーカーという流通業は、録音された音源と歌詞、撮影されたミュージックビデオやライヴ映像など、メディアに固定した「視聴覚情報」の企画・制作・宣伝・販売でビジネスをしていた。

 しかし、「精巧な複製」というコアコンピタンス(真似できない核となる競争力)は、「デジタライズしてインターネット上で送る」=「世界中に容易くスーパーコピーをばら撒く」コトが普及した現在、誰にでもできるようになった(コモディティ化 = 陳腐化してしまった)––––

 つまり、売れなくなったのは「音楽」ではなく「音源」だし––––インターネットの普及によって、その音源の物流(CDという物質による流通)が必要とされなくなったレコードメーカーにおいて、デジタライズして流通する副作用(複製機能)が、コピーを売るというビジネスモデルを陳腐化させ、結果、新たな価値が求められている。


1−5 
どこでもドアが発明された! 
鉄道会社はなくなるだろうか?


 目的地に着くという結果は変わらないが「どこでもドア」の出現によって、移動プロセスと、それに要する時間は、著しく省略される。世界のほとんどがそれを歓迎するだろう。

 それでも、鉄道会社はなくならない。

「場合」によって、移動というプロセスに費やす時間は、省略されるべきコトやトキではなくなるからだ。元々、鉄道で行う移動には「ただの過程」ではなく、五感で楽しむ「唯一の体験」という側面がある。最たる「場合」が「旅」だ––––

 以下は、常に、必ず、省略すべきことだろうか?(ちなみに、鉄道列車に比べ、航空機は、著しい省略や時短を実現しているが、以下の多くが、トレードオフかつ副次的に、省略あるいは時短されている)

▶︎ 車窓を過ぎる美しい、あるいは、珍しい景色––––––––––(視覚)
▶︎ 線路を転がる車輪の音や、同乗者との会話––––––––––––(聴覚)
▶︎ 自然や文化(人工物)が織りなす土地ごとの香り––––––(嗅覚)
▶︎ 口にする食事や飲み物––––––––––––––––––––––––––––––(味覚)
▶︎ 頬を撫ぜる風や移ろう気温、ときには降る雨でさえ––––(触覚)

モビリティ業界が「移動時間の短縮というコト」のみを競争力とする単純な構造であるなら、飛行機が普及した現代において、海外に渡航する際の船舶を使ったモビリティ市場はとっくに消滅しているはずだ。しかし、実際、豪華客船というマーケットはなくなっていない。貨物用のタンカーではない客船フェリーは、今も、多くの人々を乗せ、何十日とかけて世界を旅している。

 長距離を安全に移動するサービスを提供する業界で、「航空」が普及し、移動速度という面で「航海」の競争力が著しく陳腐化しても––––客船事業は、「移動手段」ではなく「移動を兼ねたホテル兼アミューズメント施設」というパラダイムシフトを起こし、目的地に安全に時刻通りに着くだけではない「旅(プロセス)」に重きを置いたサービスの質を向上させたのだ。

 豪華客船の「豪華」は「高価」と同義であり、淡白な船内を(インダストリアルな視点では)無駄であふれさせた。でも、その無駄こそ、余裕であり、アートであり、人間らしさなのだ。

 同じく「どこでもドア」がある時代の「鉄道会社」のマーケティング戦略においても、瞬間テレポーテーション技術の登場以前とはまったく異なる志向が必要になるだろう。

 移動時間やプロセスの短縮(移動速度の向上)という原理的と思われた「ものさし」は、どこでもドアに勝てるわけがないのだから捨て去るしかなく、むしろ、長時間かけて移動するための回帰的な(長距離の移動はすべて旅だった昔に戻ったつもりの目線で)魅力をデザインする情熱に駆られる。

 あえて、無駄を選び、ゆっくりを選び、工業ではなく人間に立ち戻った真心が必要になる。

 鉄道会社の社会における役割も「日常的な移動手段の提供」から「非日常的な移動過程の演出」に変わり、削減対象となってきた「食堂車」や余計だと思い込んでいた「お洒落な制服」など、主眼ではなく副次に過ぎなかったコト(ホスピタリティやアートに近い体験価値の創出)に、再び、フォーカスが当たる。たとえば、空気抵抗の少ない流線型のフォルムよりも、どんな色で塗るべきかの議論に時間を費やすかも知れない。

 そんな未来の鉄道会社は「移動の演出企業」あるいは「移動体験を創出する企業」として、回帰的で新たな旅というビジネスを中心に生存していくだろう。料金設定に関しても、なるべく安く提供する移動手段ではなく、高い価格に見合う移動体験を生み出す企業努力を重ねるはずだ。求める人材もより多彩になり、社内は自然と多様性に満ちあふれ、多種多様な他業界とのコラボレーションも増えるだろう。

 想像してみて欲しい。

 非日常を求めて海外を旅するとき、数千円の日常的なサービスよりも、数万円しても非日常的なサービスを享受したいという想いで過ごすことの方が圧倒的に多いはずだ。リーズナブルという経済観念は、ビジネスにおいて常に至上ではない。観光においては、音楽業界のファンダムと同じく、むしろ、高くてもいいから良いものをという志向性が普通にある。

 ––––そして、現代のレコードメーカーは、
   すでに、音源流通版「どこでもドア」がある時代に
   突入している––––

 人々にとって、音楽を聴くコトは、あまりに日常的な体験だ––––蛇口をひねれば水道水が出るのと同じくらい(もしかすると、それ以上に)音楽を聴くコトが手軽な現代––––

 たとえば、コンビニ弁当を食べるにしても、身支度を整えて、公共の場を移動し、店側の思惑たっぷりな本棚の横を通り(ときには、空腹を満たすことのない雑誌を買い)、多くの品物から食べたい商品を選ぶなど、意外に多くのプロセスを経なければ実現できない。選択したあとも、レジで支払いを済ませ、電子レンジで温めてもらい、家路を急いで、やっと日常的な食事にありつける。

 買ってきたインスタントラーメンを食べるときも、多くの手間が必要だ。まずは清潔な飲料水を手に入れる必要があるし、それを沸かすためのガスや電気といったインフラとリカーリング契約をしておかなければならない。調理できる最低限の環境を整えた上で、先に入れる粉末スープや後入れの揚げ物などいくつかの作法に則り、やっとインスタント(即席 = すぐさま)と名乗る食事が完成する。

 一方、デジタル流通の音楽(音源)を聴くコトは、もっと手軽で、もっとインスタントで、悪く言えば、陳腐な体験に成り下がっている––––

 家のベッドに寝そべったまま––––水道と同じく必需インフラであるWi-Fiに接続し(と言っても、台所まで行って、蛇口をひねる必要も、コンロに点火する必要もなく、常時、自動接続設定にしている場合がほとんどだろうし)––––枕元のスマホを数回クリックしたりスワイプするだけで、お目当ての楽曲に辿り着ける。

 しかも、人気のある曲であればあるほど(アルバム曲ではなくシングル曲であれば)、YouTubeにミュージックビデオが無料で公開されているし、水道・ガス・電気のように見聞きした分のリカーリング料金を支払う必要もない––––ラジオやテレビを付ければ、今度は、そこからも(人気があればあるほど)無料で放送されているわけで––––音楽を見聞きする体験の提供は、ビジネス上のコアコンピタンスとして、もはや、のべつまくなし陳腐化しているのは間違いない。

 このように、デジタル音源流通には、どこでもドアを使った瞬間移動と同じく、演出に利用できるプロセスがほとんど見当たらない。鉄道や客船ほどのプロセスやスペースを持ち合わせていないのだ。現在のレコードメーカーは、さながら––––機内にまったく余裕がないため––––コンビニのような演出プロセスさえ持てない(どこでもドアがある時代の)航空会社だ。

 コンビニ弁当には、その場に行くまでどんな商品があるのか分からない「楽しみ」と「リスク」がある。良くも悪くもネット検索しづらい構造になっており、目的買いではなく「選ぶ」というイベントが発生するし、本棚の前を歩かせるというプロセス(動線)も有している。

 そんな幅や余白を持ちづらい「ベッドの上でスマホからポンッで聞ける音源流通」において、どんなパラダイムシフトが起こり、どんなマーケティング戦略やビジネスモデルが必要とされていったのか?––––「遠い未来の鉄道会社における旅」=「回帰的でありながら新たな価値」や、近所に今あるコンビニ弁当における本棚(演出できる幅)に当たるコトは、レコードメーカーに置き換えたとき、一体、どのようなコトやトキ(体験の創出)なのか?

 それらを紐解くことは、今後、DX(デジタライズしてインターネット上で送るコトを活用する状態)によって、顧客の利便性向上の裏でリスクを孕みはじめている他業種にとって「これから起こる未来」へのインスピレーションになるはずだ。

 ヒントは、航空会社のファーストクラスだ。航空をモビリティ業界という視点のみで見ると、もっとも不要なのはファーストクラスという無駄だ。しかし、実際には、それ専用のロビーや、料理など、到底、移動やその速度とは無縁のサービスに注力している。

 ファーストクラスというビジネスは、「モビリティ(移動)サービス」を売っているわけではない。キャビンアテンダントがスチュワーデスと呼ばれていた時代––––多くの女性がその職業に憧れていたのは、航空業界を、サービス業ではなく、自分が女優になれる演出業と捉えていたからだ。

 こういったコトは、すべてレコードメーカーの素晴らしいインスピレーションになった––––

 新たな価値とは––––

・主目的(鉄道・客船・航空であれば移動、レコードメーカーであれば音源流通)ではないコト

・視聴覚情報以外であるコト(奇しくもデジタライズできないコトと言い換えられるコト)

・安くて良いモノではなく、高額でもっと良いコト = 高ければ高いほど良くなるコト(第2章に書く「反脆い」コト)=ロイヤルカスタマー・ビジネスであるコト

・働く人も、それを享受する人も、かつてのスチュワーデスのように物語るコトができるコト(非日常で役割を与えられるような時間・夢の世界であるようなコト)

 であり、そのためには、○○○○○・マーケティングは必須であり、この「○○○○○」という、曖昧な言葉を、きちんと定義付け(多くの業界で使えるメソッド化)するために、第2〜3章では––––

① 音楽を享受する現代的な顧客がどのような五感プロセスを持っているのか?

② そのトキを上質な体験へと昇華させる○○○○○なコトとは、何だったか?


 ––––を、セットにして、音楽業界の歴史から事実的に炙り出していきたいと思う。


【 第 2 章 以 降 の 目 次 】

第2章 悪くなれば, 悪くなるほど, 良くなる存在.
2−1「脆い」の正しい反意語
2−2 最高/最大/最新のテクノロジーは必ずしも体験の上質さと比例しない
2−3「音楽」と「文学」におけるデジタライズの違い
2−4 変化に対する反応速度は狙って出せる

第3章 ○○○○○ - 誰がそれを行うべきか?
3−1 新たな価値❶:回帰的だが新たな価値
3−2 新たな価値❶ を別視点から考察する
3−3 新たな価値❷:ENTER-TECHという最先端価値
3−4 新たな価値❷ を別視点から考察する
3−5 ○○○○○・マーケティング
3−6 音楽業界は、なぜ、変化が激しい(変化に脆い)のか?
3−7 音楽だから(だけが)不利なコトは、
           音楽だから(だけが)できるコト

第4章 古い記録が新たな記憶を創る魔法.
4−1 オープンソースの時代
4−2 古いモノを新しいコトにする魔法
4−3 コンテンツというのもマテリアルな用語なのかも知れない
4−4 新世界

第5章 未来は常に始まっている.
5−1 VUCAや突然変異を歓迎する性質
5−2 多重世界の在り処
5−3 コンテンツをデッドさせるかも知れないコンテクスト

第6章 昔から世界の約半分は想造で出来ていて,
    未来の世界の半分以上は想造で出来ていく.
6−1 プリミティヴな夢は4種類
6−2 昔から世界の約半分は想像で出来ている
6−3 原始的なアートと記録に関するパラダイムシフトの歴史
6−4 未来の世界の半分以上は想造で出来ていく
6−5 非物質化する社会が解く呪い

第7章 新たな法治を行うのは誰か?
7−1 何度でも巻き戻しが効く可逆的未来
7−2 進化と問題という双子
7−3 違法な行政と正しい無法者
7−4 新たな法治
7−5 2つの “超” 現実


【 マ ガ ジ ン 】

(人間に限って)世界の半分以上は「想像による創造」で出来ている。

鳥は自由に国境を飛び越えていく
人がそう呼ばれる「幻」の「壁」を越えられないのは
物質的な高さではなく、精神的に没入する深さのせい

某レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら、クリエティヴ・ディレクターとして、アート/広告/建築/人工知能/地域創生/ファッション/メタバースなど多種多様な業界で仕事してきたボクが、古くは『神話時代』から『ルネサンス』を経て『どこでもドアが普及した遠い未来』まで、史実とSF、考察と予測、観測と希望を交え、プロトタイピングしていく。

音楽業界を目指す人はもちろん、「DX」と「xR」の(良くも悪くもな)歴史(レファレンス)と未来(将来性)を知りたいあらゆる人向け。

 本当のタイトルは––––

「本当の商品には付録を読み終わるまではできれば触れないで欲しくって、
 付録の最後のページを先に読んで音楽を聴くのもできればやめて欲しい。
 また、この商品に収録されている音楽は誰のどの曲なのか非公開だから、
 音楽に関することをインターネット上で世界中に晒すなんてことは……」


【 自 己 紹 介 】

【 プ ロ ロ ー グ 】



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