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第6章 / 昔から世界の約半分は想造で出来ていて, 未来の世界の半分以上は想造で出来ていく.

6−1 
昔から世界の約半分は想像で出来ている


 世界のもしかして半分以上は想造で出来ている?

Ⅰ/世界のもしかして半分以上は想造で出来ていることを証明するために、
  まずは「想造」という造語についての定義から始めたいと思う。

 僕は、「魔法」を、実際、目にしたという人に会ったことがない。

 それなのに「魔法みたい」という言葉も「夢と魔法の国」も、きちんと成立している。この「魔法」というモノこそ「創造による捏造」が産んだ「認識に過ぎない存在」の最高傑作だと思っている。

 自然摂理上にも物理的にも実在しない––––つまり、現実には無いのに、人間社会においてのみ存在するかのように扱われるモノ––––

 ––––それは、天まで届く険しい山や底の見えない深い谷など物理的な障害のない平地に引かれている「物としては存在しない線状の幻」が「国境」と知った瞬間、踏み越えられなくなるのと同様な「既成概念」として機能している。

 このような無いモノを存在させてしまう「想像による創造(ともすれば捏造)」を、僕は「想造」と名付けた。

 人間が他の動物と異なる点は「イマジネーション(想像力)」を持っていること。人間以外の動物は想像しないのか/できないのかはさておき、少なくとも人間のように想造を頼ったりしない。

 人以外の生物がサバイバルする自然界 = 物理的な世界には、想造の入り込む余地などないからだ。彼らは(生物学的に/健康面で)食べて害のある植物と無害の植物を本能的に分別することはあっても、精神的に(理性や感情によって)食用の植物と飾るための鑑賞植物を分別するようなことはしない。

 人間以外は、物理的に移動できるのであれば、メリットのある場所へ自由に移動する。温度が適していたり、食べ物が豊富にあり、生存競争の少ない方へと移動を繰り返す。

 物理的には何の障害もないのにそこに国境という幻覚を見て(想造して)それを越えられないのは人間だけだ。渡り鳥は、パスポートの有無など気にもしない。飛べない鳥や小さな蟻でさえも「国境」を事も無げに行き来する。

 想造は、人間界 = 人間社会においてのみ現実世界を凌駕し、人間だけが想造に依存して生活している。

 紙や布を食う虫は、大量生産されたケツを拭く紙でも、高額の紙幣でも、ピカソのスケッチブックでも、生きる糧 = 栄養になるのであれば、そのすべてに平等にかじりつくだろう。人間には価値の異なるその3つの紙も、物理的には等しく「ただの紙(草食動物にとっては食べ物」だからだ。

 しかし、人間社会においては、その3つの紙には別々の「神」が宿る。


「想像」: 心に思い描く。

「創造」: 最初につくること = ゼロからイチを生み出す。(少し哲学的な表現をすると)まだ無かった物事に存在感を与える。ただし、物理的/精神的を問わず。

「想造」: 心に思い描くコトによってはじめて存在するコト = 心に思い描くことを起点に、これまでこの世になかった物事を精神的、延いては、物理的に生み出す(捏造する)。

【 Invention:捏造 と Innovation:革新 】


 想像(Imagine)によって
 創造(Create)する––––

 火や道具、手指の器用さ、文明や科学技術によって、想造は心の中から外へと飛び出し、拡張可能範囲は人間社会のみならず自然界にまで及ぶようになった。

 山も谷も川も海もない国境に、万里の長城やベルリンの壁を建造するのが人間らしさだ。神が紙を創造するのではなく、紙に神を想造する––––それが人間なのだ。

 - - - - -

Ⅱ/世界のもしかして半分以上は想造で出来ていることを証明するために、
  「DXとは何か?」について、共通認識を持ちたいと思う。

 鼻を噛む紙と、ノートの紙は、人にとっては違う物だ。

 前者は、物質を拭うという目的のために必ず物質である必要がある。後者は、情報を残しておく(記録する)という目的さえ果たせれば必ずしも物質である必要はない。

 アート/国境/お金––––これらも、やはり、人間のみが信じているモノゴトであり、物理法則や自然摂理の盤上になく、想像によって創造された––––物質である必要がないモノゴトだ。

 こういった想造に「没入」するのは、人類史上最長のトレンド––––

Q.どれくらい長く続いているの?

A.= 人間社会史(少なくとも)

 想造に没入する社会のヒストリーは、仮想現実(バーチャル・リアリティ)の歴史と言っても過言ではなく、VRをはじめとするxRというのは20世紀に登場したテクノロジーの名前ではなく、太古から人類と共にある発想のことを指す。

 それは、おおよそ––––

⓪ リアリティ(現実)
① バーチャル(仮想)
② AR:拡張現実(想造)
③ MR:複合現実(没入)
④ VR:仮想現実(X:ここに入るキーワードをが重要)

 という流れで、自然摂理(物理)=「⓪地点である現実」を人間にだけ都合よく浸食していった(そして、後述する通り、人類をも、その不都合に飲み込んでしまった)。

「魔法」と「アート」を例に、⓪から④の「侵食プロセス」を紹介しながら、「神」という存在にも触れ、④における「X」には、どんな言葉が入るのか? そして、その先にある⑤という段階が犯す罪について考えていきたいと思う。


【段階の整理】

⓪ リアリティ(現実):
想像したコトが現実の内外に存在しない状態

① バーチャル(仮想):
想像したコトが現実の外にのみ存在する状態

② AR:拡張現実(想造):
想造したコトを現実に物として実在させる状態

③ MR:複合現実(没入):
②で、拡張された現実を当たり前に受容しようとする状態

④ VR:仮想現実( X ):
現実の外にのみ存在する想造に飛び込むことを指すが……


・ 魔 法 の 浸 食 プ ロ セ ス

⓪ リアリティ段階の魔法の扱い:

魔法のような物事は、自然摂理や物理に則って認識/処理された。古代人は自然という現実の一部であり、他の動物と何ら差はなく、超リアリスト(厳格な自然主義者)である。雷を見ても、神の御業などと考えたりもしない。

① 魔法というバーチャルの登場:

魔法という噂が現れる。理解できないことはすべて「魔法(魔術や呪いの類い)」という言葉で片付けられていく。雷もそうかも知れないし、飢饉や未曾有の感染症など、科学がなかった時代の魔法は、根本的な(生物学上や現実的な)解決はできずとも、精神衛生面での「癒し(逃避)」を与えた。この段階の魔法は、現実世界に対し(良くも悪くも)物質的な影響を与えない。

② 魔法という想造が現実へ物質的な影響を与えはじめる:

魔術師や魔女が登場し、科学的にはあり得ない方法で雷をおさめ、雨を降らせ、病を治す(フリをする)。一方、精神衛生面からの「八つ当たり(差別や迫害)」も散見されるようになる。魔女狩りや生贄など負の面の顕在化。想像に過ぎなかった「幻」が、実在する「(人類を含む)物」へ光と影を落としはじめる。魔法が物質を伴う想造物(魔女:人物+魔法/魔術本:紙+魔法)となり、現実を拡張する。

③ 魔法というありもしない存在が
  高度に人間社会に溶け込む(一般化する):

魔法によって拡張された世界が当たり前になる。魔法が実在するかしないかはもはや論点ではなく、魔法によって生まれる想造物がどのようなモノゴトをもたらすのか? という(偶然を含めた)結果や効能のみが能動的に受容されていく。魔法に関する「共通認識」が重宝され、マジシャンが目の前で(実際は何らかのトリックで)物を消したとき、「現実的とは思えない不思議な体験をして驚いた」とは言わず「魔法みたい!」という一言でお互いに通じ合えるようなコト。特権階級が魔法(魔女や魔術)を政治利用するなどの時代を経て、現代ではビジネス活用されるケースが多い。特にエンタメ業界では、魔法という想造(共通認識)を活かした演劇/小説/漫画/映画/アニメなどが人気を集め、そのような鑑賞物だけでなく「夢と魔法の国 = 魔法を活用したイマーシヴな(没入型)遊園地」という体験価値も創出されている。 

※ 場合によっては、紙を想造で拡張した小説などの「鑑賞物」を「AR」に分類し、「テーマパーク」など想造で拡張した現実(AR)に没入する体験およびその施設を「MR」に分類することもある)

④ 本来、現実の外側にのみ存在する想造に過ぎなかった魔法が、
  ②と③の「物質 + バーチャル = AR状態」からの『解放』
  =『X』を目指す:

魔法に限らず、MR(AR社会への没入)に陥った状況が常態化すると、必ず、物質の比率を下げようとするアプローチが始まる。つまり、想造を(物体を伴わず)想像のみで存在させようとする動きが現れるのだ。これは、多くの宗教が推す「本来、地上にいるはずのない神」を、より厳密に神らしく扱うコトによく似ている。神を物質から解放するような思想––––偶像崇拝ではなく、ただ感じる神––––魔法は、バーチャルだからこそバーチャルなセカイの中で本当のリアリティを得る。紙の上で読んだり、画面の向こうで光る色として観るのではなく、VRやAR(MR)ゴーグルをかけて目の前で非現実に魔法が起こるのを感じる(非現実を非現実で体験する)コトこそがリアリティを生む状態。それは、物質(物理法則)からの解放によって起こる。③の夢と魔法の国は、広大な土地を壁で囲って現実を遮断した上で、木や石で建造物(偶像)をつくり成立していたが、④のそれは、脳の中で夢見るように眼前で起こるVRコンテンツ(幻の中の幻)として成立する。それを「マルチバース」や「メタバース」と呼び、期待する向きもある。


・ ア ー ト の 浸 食 プ ロ セ ス

⓪ リアリティ段階のアートの扱い:

身も温めず、腹も満たさず、雨も凌げない存在 = 最たる例であるアートに意味はない(生存競争の役に立たない)。つまり、アートなど存在しえない。火に意味はなく、暗闇を照らし、暖をとり、敵を威嚇し、森を焼き尽くして加熱消毒した安全な食糧を調達するための物理現象でしかない。道具以下でも以上でもない。

① アートというバーチャルの登場:

科学のなかった時代、様々な危機を神のせいにすることで、根本的な(生物学上や現実的な)解決ではないが、精神衛生面の「癒し(逃避)」が達成された。そのためのソリューションである「神」という存在から「悪魔」や「魔法」や「呪術」も生まれたが、それと共に「祝い(アートの原型)」も生まれた。この時代、アートの観客は「神」のみであり、アートを体現するのは「人全員」であった。つまり、アートは祀り事だった。観客(神)になりたがるような烏滸がましい人は存在せず、全員が参加する(祀り奉る)側にいた。必然、今のアーティストらしき役割も存在しない。アートは表現手法ではなく、祈り方/捧げ方だった。歌唱や舞踏という自身の肉体のみで表現可能なプリミティヴな方法が好まれ、その後、楽器や言葉を使った高度な祈り(音楽/演劇)なども生まれたが、基本的にはすべて神へ捧げる儀式のため、人に観せるという概念もなければ、観客という存在(差別や階層)もなかった。この時代のアートは、自身が自分のままで参加するフェスに過ぎず、祭りは祀りと同義で、アートによって現実世界に与えられる物質的な影響(豊穣で飢饉を救うなどの善的な影響/環境汚染などの悪質な影響)は軽微だった。

② アートという想造が現実へ物質的な影響を与えはじめる:

人間社会のアップデートに応じて、コンサートや演劇がAR化 = 物質+バーチャル化し、「鑑賞芸術化」していった。元々、古代ギリシア劇の俳優は1人だったが、演者を複数にしていく中で顕著なAR化が起こったと推測する。神に向けた祈りでも、客席に向けた訴えでもない「舞台上のみで完結する会話(仮想空間内から飛び出さない対話)」を鑑賞する「観劇」というスタイルが生まれた。この頃から、踊りや歌にしても、美術にしても、「アートあるいはアーティスト」と「鑑賞者」との間に明確な線が引かれはじめ、自然に存在する石/土/木/貝殻/動物の皮や毛などを加工して生まれる顔料/布や紙/粘土/楽器などを駆使した想造物(物質を想像で拡張 = 可視化/可聴化した)を見聞きする(参加型の祭りではない)鑑賞型アートが生まれ、本質以上(以外)の意味を持たせはじめた。やがて、その最たる意義は、神性から地位や金へと変遷していく。

③ アートが高度に人間社会に溶け込む(一般化する):

人間社会における神の存在感の変遷に沿う形で神事や祭事は形骸化。アートも神との関係性(= 宗教的な意味合い)から独立し、「(精神面における)人外の新たな支配者」である政治や経済と結び付き、現実に複合していった。次第に、アートはビジネスと化し、金を得るために「演者や舞台」と「観客や客席」という差別を強化した。こういったビジネス面でのソリューションは、鑑賞というスタイルを広めるだけでなく、例えば「スタンディングオベーション」のような物理や自然摂理上は何の根拠も効果もない「伝統(様式美)」や「マナー」など、新たな想造を生み出し、あたかもそれが理や正義であるかのように刷り込んでいった。人間の自由を謳った民主化に欠かせなかったビジネスという新たな社会機能は、アート面においては「こうあるべき」という制限/伝統的なしきたり(不自由)を助長し、ステータスや自己顕示欲などと相まって、新たな悪しき差別や階級を次々に生み出した。

④ 本来、現実の外側にのみ存在する想造に過ぎなかったアートが、
  ②と③の「物質 + バーチャル = AR状態」からの『解放』
  =『X』を目指す:

シンデレラというバーチャルは、紙という物質を伴い絵本になり、木や石を積んだ城を夢と魔法の国に築いた。音楽というバーチャルは、ポリ塩化ヴァイナル(ビニール)という物質に刻まれてレコードとなり、木や石などで囲った穴でコンサートを行った。いずれも今は、デジタライズされてデータのみで流通し、サブスク配信やYouTube、メタバースやオンライン公演など、可能な限り物体を伴わないコト(物質を伴う物事ではなく、アートという概念 = デジタルデータのみで)成立するコトを目指している。そんな中、民衆のアートへの参加が見直されている。2次創作や共創カルチャーによって、アートへの参加が顕著になっているのだ。ボカロP/YouTuber/インスタグラマー/TikTokerは、新しい時代の音楽家/映像作家/写真家/舞踏家なのかも知れない。彼ら行っているのは、最先端のコトではなく、古代における歌唱や舞踏と同義だった「まつり」への回帰だ。ただし、かつては神という異界の観客へ届けるアプローチ(意識)として行われていた祀りは、現代のC2C = クリエイターズ・エコノミーあるいはUGC文化において、神に替わって「(精神面における)新たな人外の支配者」となった「ビジネス」のための「お祭り」と化している。それは、演者と観客/舞台と客席などの既成概念を破壊し、参加を好む温故知新の干渉ありきで鑑賞するアート(インタラクティヴなコンテンツ)だ––––観客が作品の中に入って撮影し拡散されてゆくデジタルアート/主人公として没入するゲーム/リスナーではなくユーザーとして音楽を使って踊る人々––––など、ジブンゴト化を歓迎する参加型プラットフォームにおける超民主的な幾次創作は、アートにおける物質(物理法則)からの解放とプリミティヴな体験価値への回帰を加速させた。


・ 社 会 の 浸 食 プ ロ セ ス

⓪ リアリティしかない世界:

原始時代。社会らしきは見当たらない。自然がすべての世界。世界 = 自然界のワンレイヤー。神という認識がまだ登場していないという意味で、神界は人間界と完全に区別され、自然摂理と物理法則のみが人類を支配していた時代。

① 神というバーチャルの登場:

Society 1.0:狩猟社会。神という存在が精神衛生面のソリューションとして登場するが、神界(天)は相変わらず人間界(地上)と完全に区別され、自然摂理と物理法則のみが人類を支配していた。神をはじめとする想造は、現実 = 世界の外側に在り、バーチャルが精神世界(心)の中から飛び出していない時代––––天界(あるいは地獄)と人間社会が切り離されていたので、想造が物理的な自然界に(良くも悪くも)影響を及ぼすコトはなかった。雷も、川の氾濫も、神という想造のせいにはできたが、神を恐れ敬う人々の「(神に対する)畏敬の念」= 信心によって、現実(生活)が改善することはなかったし、逆に言えば、悪化することもなかった。神をはじめとする想造は、物質を伴わず、あくまで、天界という外界か、人間の精神(心)の中でのみ存在していた。

② 神という想造が現実へ物質的な影響を与えはじめる:

Society 2.0:農耕社会。「宗教」と「国」という想造に依存し、「神官」や「王様」という人が人を支配していた「人治時代」––––想造が物体を伴って現実に飛び出し、人間社会を拡張しはじめたAR時代でもある。定住によって(以前は、感染症の発生や資源の採り尽くしなど問題が起これば移動すれば良かったが、それが不可能となり)❶不作による飢餓や疫病の蔓延、❷国境という概念 = 戦争の根源が生まれ、❶に対しては「神に祈る」という役割 = 神職、❷に対しては「武力を生業にする」役割 = 貴族や武士(王)が生まれ、物理法則にも自然摂理上にもない神/国/特権階級という想造が、現実世界に存在/機能しはじめた。例えば、神は、偶像崇拝(絵や彫刻、あるいは、実在の自然物を祈りの対象とすること)や、寺社仏閣など現実世界での可視化、祝詞/お経/呪文など可聴化、さらに、体験化(熊野詣で/お伊勢参り/四国のお遍路など)された結果、神職の生活は、田畑を耕したり漁や猟をする物質的な仕事ではなく、祈祷や占いという想造のみで成立する仕事と化した。神に対する畏怖によって、現実への影響が一切なかった前時代とは異なり、収穫した作物を自身で食さず神に捧げるなどし、幸運にも間接的な生活改善(宗教団体からの救済)に繋がったり、逆に、生贄や人身御供/一向一揆や魔女狩りなど神にまつわる儀式(犠牲を伴う祭祀)/争い/迫害で悪化したりもした。良くも悪くも想造が人間社会を物的に侵食しはじめた(バーチャルが精神的なセカイである「心」から「現実」へ飛び出した)時代で、想造(バーチャル)によって、人間社会の現実(物質)が拡張された結果、人治社会が完成していく。ただし、②の段階での想造は、必ず物体を伴って現実(人間社会)を拡張する「物質 + バーチャル = 拡張現実(AR)」であった。

③ 神と王に代わる想造物が高度に人間社会に溶け込む(一般化する):

Society 3.0:工業社会。「神」と「王」に代わり「法」や「お金」という想造が人を支配する時代(人治から法治への変遷)。想造が高度に現実にミックスされ、まるで、自然摂理のように振る舞いはじめた。現在に至る「資本主義社会」や「法治国家」の原型が定まり、陣地の取り合いという意味での物的な争いが少し落ち着いたことで、「争いのない時代の武力の無用さ」や「科学の発展による神や宗教の形骸化」などから特権階級への反感が強まった(18世紀~19世紀:ヨーロッパでは市民革命や産業革命が起こり、中国では最後の王朝である清が台頭、日本では明治維新が起こった)。人は人に支配されることを嫌い、人の上に人ではない想造を置きたがった。人を支配する「人間ではない = 人外の存在(ただし、神以外)」の最たるモノが「お金」と「法」であり、この2つが「王(に付随する貴族)」と「神官」という二大特権階級に取って代わった(※ ちなみに「AI」は、次世代のそれかも知れない)。物質 = 米の「量」よりも、紙幣という想造物の「数」の方を重宝したり、血族関係という生物学上の関係 =「家」に由来する階級が重視されなくなる一方、「経済格差」や「学歴」など、より複雑で多岐にわたる新たな想造上の差別が生まれた。ただし、この時代の「想造」も「物質社会」ありきで存在しており、あくまで物体がベースにある上での複合現実(MR)= 物質 + バーチャルだった。

【 ※ AIが、「法」の次に、人外に想造された神になる話 】

④ 本来、現実 = 自然摂理や物理法則の外側に存在する
  想造に過ぎなかった人間社会が、 
  ②と③の「物質 + バーチャル = AR状態」からの『解放』
  =『X』を目指す:

Society 4.0:情報社会。人を支配する想造 =「情報」の割合が飛躍的に増幅した時代。想造された幻想的価値が、物理上(自然摂理)の現実的価値を凌駕する世界が到来した。特に20世紀後半、インターネットの普及以降は、仮想現実(物質を伴わないセカイ)に没入するVRの台頭が顕著となった––––「情報(化)社会」という名前の真意は、想造で拡張された物質、あるいは、想造が高度に溶け込んだ物質的な世界「人間社会」において、想造(情報)が存在感を著しく上げるコトにある。極論、物質を伴わず情報のみで社会を成立させるコト––––世界で生きる動物(人類)として、衣食住を満たす物質は必要だが、社会で生きる人間としては、法律/お金/地位/アートなど物理法則でも自然摂理でもない幻である「情報」のみを求める状態––––インターネットとその中に生まれた物質を完全に捨て去ったデータ(情報)のみをやり取りする社会(SNSや同時多数接続ゲームなど)により、想造の比率が異常に高い社会(あるいは100%想造による世界 = バーチャルリアリティ)が登場し、さらなる情報化(物質の存在感をなくす傾向)が進行した結果、バーチャル(想造)から始まりAR(物質を想造で拡張した現実)/MR(ARへ没入する余り仮想が複合された現実)へと変遷してきた社会要素の多くがVR化(純粋に情報のみで成立する状態へと変遷)した。例えば、現在、遠隔地へ送金を行う際、金属や紙などをARした物質「貨幣」を実際に移動させる必要はなく、数字という情報(VRデータ)のみを操作するだけで事足りる。前述の通り、音楽も、コンサートやCDというAR(人流や物流)から、情報のみをやりとりするオンラインLIVEや音楽配信 = VRへと変貌した。絵画や彫刻という美術分野でも同じく、物理法則から解放され、情報のみをやり取りするデジタルアートやNFTアートなどが生まれている。



「魔法」「アート」「社会」におけるxRの時系列(歴史)を振り返ったが、④ VR:仮想現実における「X」の別名こそが「DX」の本質であり、それは、本来、デジタライズすることにメリットがあるのではなく、「X」されるコトに効能がある。

 人類をも覆う世界全体の不都合に対する解決策––––それは、例えば、人間による自然破壊へのアゲインストにも役立つ。

「X」に入るのは「非物質化(Incorporeal)」だ。

 ⓪から④を「社会」に置き換えると、おおよそ––––

⓪ 神話の世界
① 狩猟社会
② 農耕社会
③ 工業社会
④ 情報(化)社会

 となる。

 その次に位置し、日本政府が「Society 5.0」と言っているビジョンには、きちんとした名付けがなく、ただただ「DXが進む」的な誤魔化しが標榜されているだけだ。

「DX」も「非物質化」と思えば、理解は容易い。

 最新のAR/MRが行うのは「⑤ 2周目のAR/MR(非物質化で拡張した現実への没入)」という功罪(便利でありながら罪深いコト)だ。


【 1.0 → 5.0 の 変 遷 ま と め 】

⓪ リアリティ(現実):
想像したコトが現実の内外に存在しない状態

① バーチャル(仮想):
想像したコトが現実の外にのみ存在する状態

② AR:拡張現実(想造):
想造したコトを現実に物として実在させる状態

③ MR:複合現実(没入):
②で、拡張された現実を当たり前に受容しようとする状態

④ VR:仮想現実(非物質化):
現実の外にのみ存在する非物質な想造に飛び込む状態

⑤ AR/MRⅡ:2周目の拡張・複合現実 :
非物質化した想造が再び現実を浸食する状態


【 別 表 現 す る と 】

⓪ REALITY:
想造のない世界(人間社会というコト自体が存在しない)

① REALITY / VIRTUAL:
想造が現実の外にだけある社会

② REALITY + VIRTUAL:
想造が人間社会を拡張しはじめたAR社会

③ REALITY × VIRTUAL ⑴:
想造が現実で摂理や法則のように振る舞うMR社会

④ REALITY × VIRTUAL ⑵:
想造の比重が増した仮想現実へと没入するVR社会

⑤ REALITY × VIRTUAL ⑶:
想造が非物質的に拡張した現実へ没入するAR/MR社会


 ④のVR:仮想現実(非物質化)が持つ善い副作用に環境保護がある。

 飛行機を使って海外へ出張する回数はリモート会議で随分と減った。それに対し、「ポケモン GO」に代表される2周目のAR/MR(AR/MRⅡ)事業は人流を生み出す点では、新たな禁断の果実(罪)とも言える。

 人間のみが利益を享受する「社会」で進化し続ける文明は、この星(自然と物理に生きる人類以外の全類)にとっては自然破壊を促す悪化に他ならないときがある。

 実際、コロナ禍対策として多くの都市がロックダウン(退化)を選択した結果、VR化(リモート会議の増加やバーチャルコンテンツの普及)が活性化し、人流(移動や旅行)が抑制されたコトで、大気汚染物質の排出量は大幅に削減された。

 新たなウィルスは、人類と経済には試練と罰のように映ったが、地球にとっては救済と慈悲であり、皮肉にも、人が動かないコトが、大気や水、延いては、この星を浄化する最善策であるコトが証明されてしまった。

 一方、同じVR化でも「仮想通貨」のマイニングは、ハイスペックなPCを酷使するため、大量の熱を発し、地球温暖化の助長という大罪を犯している。

 ビットコインによって各国の紙幣の製造がなくなり、森林伐採が抑制されたとしても、今度はデジタルなマイニングで温暖化が進む––––それは、原子力発電に抗議するデモが音響設備を賄う自家発電によって大量の化石燃料を焚くのと似ている––––人類がクリーンに生きるためには、科学技術をより良く進めるのではなく、経済をはじめ、あらゆる活動を後退、いや、停滞させるしかないのか––––それは「憧れ」よりも「諦め」を選ぶ道かも知れない––––僕は、時々、そんなふうな絶望に程近い失望を感じてしまう。

 だとすると、少子化というのは……

6−2 
アートと記録に関するパラダイムシフトの歴史


 農耕社会(Society 2.0)の出現によって、人々は定住を始め、社会(コミュニティ)はより重視されていった。

 支配する側とされる側という見方もあるが、IMMERSIVE SOCIETYの視点から見れば、各人が各位の役割(想像によって創造 = 想造された役柄)を納得して演じていた側面もあった(想造された役割に積極的に没入していった)のではないか。

 そんな没入社会の初期––––より重要視されていったのが「宗教」や「国家」といった「口承神話(噂)よりもさらに複雑な想造の産物」だった。科学という根拠が生まれる前まで、予測不可能で理不尽な脅威に対する人々の精神的な拠り所は、ずっと「神」であり続けた。

 そんな時代に暮らす人々は、自然資源を求めて常に移動することをやめた代わりに、土地を耕すことで得られる農作物をはじめとする「定住地に根ざした有限の成果物のみを糧する生活」を余儀なくされた。内陸部の集落では獣を狩り、海岸側の集落では魚を釣る。すぐに、それだけでは満足できなくなり、互いの成果物を交換するコトで幅広い(無限の)欲望を満たしていった。

 かつては自由に移動するコトで多種多様な資源を入手できていた人類(※)は、自ら進んで選択した定住システムと自然摂理に逆らってまで爆発的に増殖させた人口によって、縄張り意識という生易しい構造ではない複雑な境界(国家の根源)を生み、土地を根拠としながら、そこで生まれる原始的価値(生きていくために最低限必要な衣食住に関する生産物)の余剰を交換価値(利権)として機能させはじめる。

※ 一部の説では、縄文時代の人類は、現代人よりもかなり多種多様で豊かな食事を摂っていたとされている。

 余剰は記録しておく必要があり、その数量を管理するための不完全な記録体系(※)が生まれた––––「数(数字)」だ––––縄につくった結び目に一定の法則を与えるコトで「数」を表すキープなどはその代表格だ。

「数」を用いた財産の記録や管理として生み出されたソリューションが「通貨」という(当初は貝殻や金属などの物質に依存した)交換価値を持つシステムだった。

※ ただし、このような「数」あるいは「数字」は、口述できるすべてを書記するようなコト(完全書記)はできなかった。よって、数字を遥かに凌駕する記録/表現体系である「文字」が生まれるまで、物語は長らく口承のみで成立していった。

 これらは、縄や貝殻自体の物質的な価値ではなく精神的な関係性––––つまり、想造に過ぎない「信頼」ありきで成り立っていた––––そして、今なお、その原理原則は変わらず、複雑な「印刷」を施された少し上質な紙が物質的な価値以上の想造された価値を持っている。日本では、最低交換価値を持つ硬貨のみがその価値を超える物質的な価値を持っているが、それすら1円玉を造るのにそれ以上の円がかかるという交換価値で算出された比較に過ぎない。

 ここに登場した「印刷」という技術は、第1章で述べた通り、音楽業界の生みの親でもある。

 印刷において「活版」以上に重要な役割を果たした「紙」という媒体と共に、徐々に完全な書記 =「文字による記録」が生まれ、整備されていった。それは、神話や歴史はたまた思想や学問まで、ありとあらゆる口述できるコトをすべて書物として長期間保存/長距離間伝達できるというパラダイムシフトを起こした。

 ただし、書物には「固定」という「良くない副作用」もあった。キリスト教は聖書という不変ゆえに絶対的な本という形で、画一的にユーラシアの西端を支配していった。その裏で、これまで口承で紡がれてきた神話が、その多種多様で豊かな共創価値(ナラティヴ)を失っていった。

【 ナ ラ テ ィ ヴ と は ? 】

 今も、世界各地の(読み書きを好まない人々が多く暮らしてきた)山深い農村部では、ナラティヴに口承されてきた昔話が、生き生きとした畏怖を描き、瑞々しい伝説や浪漫となって、画一的ではない(唯一解を持たない)歴史由来の価値––––例えば 「観光資源としてのミステリー」であり続ける様子に、最新の発想や技術をもってしても決して超えることのできない(可変ゆえに永続性を持つ)上質さの残り香に触れることができる。

 農耕社会(Society 2.0)の中に築かれた封建社会(人治国家)は、やがて、民主主義と工業社会(Society 3.0)の台頭によって、想造である「権力」という機能を、人以外へと明け渡していく。

 交換価値は、次第に、貴族という想造上の特権階級(高位)から与えられる「物(米など)」ではなく、工場や農場の主 = 資本家(経営者:新たな特権階級)から、労働の対価として与えられる「お金」に宿るようになる。

 地方貴族の上にさらに偉い中央貴族がいて、その上に『王』が君臨したように、社長の上には資本金を提供する株主がおり、その上には『法』が君臨している。『王』という個人の代わりに『法』という人外が人類を裁く現代社会––––資本主義(お金)や法治国家も、極論、王や帝国(人治国家)と変わらない想造が生み出した幻に過ぎない。

 交換価値をやり取りするシステムは「経済」へと名を変え「物質的な価値を交換するための価値」ではなく「物質的な価値を生産するために必要な価値」へと変貌し、その支配力を増していった。

 生活に必要な物質を新たに生み出すためにまず必要なのは、農業であれば土地や鍬や種、漁業であれば海/川/湖や船や網ではなく、それらを用意(購入)するための軍資金 = 資本という幻だ。お金は、もはや、物質的な余剰(米が余ったから魚と交換したいときの交換価値の根拠だった確かな量)ではなく、想造の客体化(共通概念として成立している数値における不確かな相互信用)という幻(情報)を根拠とした交換価値(経済的な価値)のみを持つ存在と化した。

 これが、世界の約半分が幻で構成されている世界「人間社会」だ。

 資本主義へと舵を切った人間社会に暮らすほとんどの人々は、王政からの解放という自由の代償として、労働という新たな鎖に繋がれ、経済のいずれかの歯車に取り込まれて生活することを余儀なくされた。

 新たな差別と不平等(経済格差)、ヒエラルキー(士農工商など職業は血縁で相続するものではなくなったが、現代もそれに匹敵する財産は個人の死後に公に帰すことなく血縁でそう相続される)が生まれ、人々はそれぞれの役割に没頭している。

 想造であるお金を稼ぎ、物質的な価値ではなく交換価値としてのお金に余剰があればあるほど、そのお金の有意義な使い道を求めるようになった。

 かつての王である卑弥呼が質素倹約な生活を送っていたのに対し、織田信長は楽市楽座という経済政策によって得た余剰金を用いて動物として生きるために(自然摂理上)は一切役立たない美術品の収集に価値を見出した。部下である武士もこぞって「茶道」に夢中/没頭した。

 工業社会が、その無尽蔵の欲望(需要)に応える形で大量生産する商品やサービスは「人々が物質的に生きるために必要不可欠なモノ」から「人々が精神的に豊かに生きるための贅沢なコト」へと変貌し、衣食住以外の想造 =「情報」を増産/加速させていく。

 その中で生まれたのが、印刷による書物であり、録音による音源であり、撮影による写真や映像だ。

 当初は実務的なモノ(善例:医療機器/悪例:戦争兵器)を生んでいた記録技術は、庶民の余剰を吸い上げる娯楽ビジネスとして、演劇やコンサートなどのライヴ興業に代わるエンタメ分野の記録産業に応用され、結果、挿絵付きの本や写真付きの新聞/雑誌、レコードやビデオ、そして、放送が登場した。

 これらの商品やサービスのコアコンピタンスは、本を物質的に構成する紙でもなければ、レコードを製作するためのビニールでもない。

 その中に収められた「情報」にこそ、価値あるモノゴトだ。

 さらに情報化(主な商材が物質ではなく想造へと変化するコト)が進むと、エンタメに限らず様々な工業分野(業界)においても「商品販売(モノ売り)」の上流に位置付けられた「デザイン/広告/ブランドなど(想造である情報を扱うコト)」が社会に占める割合が、飛躍的に大きくなっていった。

 それが、情報社会(Society 4.0)だ。

 普段の日常を想像してみて欲しい––––

 ––––起床して、新聞やテレビを見ながら朝食を摂る。音楽を聴きながら鉄道に乗って移動し、合間に昼食を食べつつも仕事や学業に勤しみ、終業後/放課後、余裕があれば映画を観て、再び、鉄道に揺られて帰る。あらゆる場面で広告に触れるだろう––––

 ––––それらすべてが、想造である法律によって権利や安全が保たれ、想造であるお金が対価として機能し、物質的な体験価値は「食事(それすら産地などのブランディングは想造の産物かも知れない)」と「移動」ぐらいで、あとのほとんどは、想造された情報のやり取りのみで構成されている。

 学生に人気の職業上位に常にランクインする法曹界/銀行/新聞社は、想造の産物をメイン商材として扱うビジネスだ。世界を席巻しているGAFAも同様で、グーグルとメタ(元フェイスブック)だけでなく、ハードをメインに販売しているように見えるアップルも、想造 = 音楽やソフトウェアあるいは実用以外のデザインやブランドを活用しているし、アマゾンが扱う商品には、本や映画をはじめ物質ではなく想造されたコトにこそ価値あるモノゴトが含まれている。

 次代という位置付けで、日本政府が目指すSociety 5.0やドイツ政府が提唱するIndustry 4.0は、内包する世界の範疇やフォーカスする市場に差はあれど、想造の産物をさらに駆使した拡張現実社会への没入(拡張現実社会の複合)度合いの向上を目指している。

 人間社会は、狩猟社会(Society 1.0)から情報社会(Society 4.0)まで、ずっと「世界の “約半分” は想造で出来ている」状態 = AR/MRであり、「IMMERSIVE SOCIETY(物質 + 想像に没入する社会)」だったと言える––––が、現代社会は「Society 5.0」に向けて「世界の “半分以上” が想造で出来ている」次世代の状態へと急進している。

6−3 
未来の世界の半分以上は想造で出来ていく


 技術という面から、最近のバーチャル市場(政府がSociety 5.0で提唱しているサイバー空間)を捉えると、どうしても「VRからAR/MRへ」という流れで解釈しがちだが、前述の通り、実際には「xR」という発想は、最近になって登場した技術的なモノゴトではなく、太古から存在する心的に作用する発想/体験であり、人間社会における仮想現実は、むしろARに没入するコト = MR(IMMERSIVE SOCIETY 1.0)から始まった。

 ただし、その時代の人間社会は、現実の物質に依存したため、物理法則に縛られた仮想現実を活用したクリエイションやソリューションに止まっていた。ディズニーランドも実際の土地や建築物に依存してこそ存在できたし、通貨というソリューションも紙や金属などの物質に依存し、価値の根拠も長らく物質世界でレアな「金(Au)」に由来して存在してきた。

 情報化が高度に進んだ社会であるSociety 4.0の最終形態と位置付けられた現代において、それらは、VR化することで「物質(物理法則)からの解放」を実現した。僕は、そんな社会を「IMMERSIVE SOCIETY 1.5」と呼んでいる。「1.0」と異なるのは「非物質的であるコト」= 情報という想造のみでソリューションや体験価値を生み出す点にある。

 代表格が、ソーシャル・ネットワークサービスという「社会」だ。

 名前がそのことを自称している––––あれは、紛う事無き新しい社会だ。さらに、今後、VR体験をより没入的にするオキュラスリフトなどのウェアラブルデバイス(VRゴーグル)の普及によって、ディズニーランドのような夢と魔法のセカイが自宅にいながら楽しめる時代が来るかも知れない(もっとも、企業側がそれを許せばだが……)。そうなれば、実際の土地と建築物という物質やそこへの物理的な移動などは全て省かれる。

 多くのモノゴトが、バーチャル化/リモート化していく(コロナ禍は、ただでさえ進行していたその傾向をさらに加速させた)。

 お金も、紙や金属といった物質への依存度を下げるコト、もしくは物質性を無くすコトで、インターネットという仮想空間内で物理法則に縛られず、交換価値の移動/変動を行なっている。これは仮想通貨という最新のモノゴトではなく、クレジットカード/電子決済/スイカやパスモなど交通系ICカードなどによって、とっくの昔に実現されていた。

 仮想通貨は、生成される過程(マイニング)を非物質化し、さらにブロックチェーンを活用するコトで「契約」という幻を強固にした。例えば、契約者(その貨幣の保有者)履歴を遡れたりする––––財布に入っている「十円玉」の前の持ち主が誰だか知るコトはできないし、その前の持ち主ともなればなおさらだ––––レコードメーカーがCDというデジタル音源をアナログに物流していた当時、買う回数は分かっても、そのあと各曲ごとの聴かれた回数を正確に追跡するコトはできなかった––––

 ––––しかし、ブロックチェーンを活用した仮想通貨であれば、どういう経緯で、今、自分の手元にやって来たかが正確に分かるし、悪意あるマネーロンダリングは駆逐されるという触れ込みも嘘ではない。サブスクの音楽ストリーミングサービスは、各楽曲がどれだけ再生されたかを永続的にリアルタイムで世界に明示し続けている。

 紙幣や硬貨も––––鉄道の切符も––––レコードメーカーの音源も––––物に依存せず、情報化(デジタライズ)された––––この「情報化」という言葉の定義こそ明確にすべきコトであり、IMMERSIVE SOCIETY 2.0におけるコアでもある。

 それこそが「非物質的:Incorporeal」だ。そして、非物質化によって得られる効能の1つが「現在だけでなく過去と未来を含む線的な追従(トラッキング)」であり、物理的に移動可能な狭いエリアだけでなく仮想空間を含む広大な宇宙をワープ/テレポーテーションするような面と空間を俯瞰するような4次元的な社会なのだ。

 時空を超える感覚––––

 同じ家でも、有名人が住んでいた家の方が価値が高いように。物そのものではなく、その所有者によって、未来において価値が上がるようなコトが幅広くビジネスになる時代が来るかも知れないし、現実世界には存在しない別の宇宙(フィクションのセカイ)から召喚された存在によって、物理的には価値のない普通の土地に高値が付くかも知れない(ポケモン GOという非物質的なAR/MRは、それに近い状態を生み出している)。

 何もない空間から聖灰を出現させるサイ・ババ––––四次元ポケットからどこでもドアを取り出すドラえもん––––そんなビジネス。

 よくよく考えてみると、非常に理解しづらい「情報化」という言葉は、「非物質化(物理法則を超越するコト)」に置き換えれば理解しやすくなる。情報化社会とは非物質化社会であり、様々なデジタライズも、仮想現実化も、ほぼすべて非物質化という言葉に置き換えるコトができる。

 神話や宗教やお金などの想造が物質を伴うことで物理法則や自然摂理に縛られた(限定された)まま拡張した現実が現実以上の価値を生む「IMMERSIVE SOCIETY 1.0」=1周目のAR/MR(拡張された現実に没入する社会)は、まだまだ現実世界に依存もしくは寄生するような形でしか機能しなかった。

 遊園地は広大な土地を必要とし、音源を聴くにはレコードという物質的な媒体を物流させる必要があった。経済には「金(Au)」と紙と比較的安く量産可能で加工しやすい金属が不可欠であったし、鉄道に乗るためには紙の切符を手にし、駅員がそれを鋏という物体で切るという物理的なチェックを経る必要があった。

 その時代に「ポケモン GO」を実装しようとすると、実際に怪「物」を配置するしかなかっただろう––––動きもしない置き物(像)をつくって各地に配するしかなかった––––が、今は違う。

「デジタライズしてインターネット上で送る」という技術革新によって、非物質的な4次元流通が普及し、情報のみでやり取りできる(視聴覚情報のみを扱う)モノゴトはすべて物理法則から解放された。

 昔は、船便で何十日とかかっていた手紙はワープするように素早く海外に届くし、オンラインライヴを開けば世界中から客がテレポーテーションしてくる。ファミコンではケーブルの長さに縛られていた2人の対戦が、いまや、リアルタイムに、ワールドワイドに、大量同時参加で、1つのゲームを楽しめる。

 非物質的なコト=「VRソリューション(IMMERSIVE SOCIETY 1.5)」が大きな成長を遂げている。

 それは、限られた地球の(物質的な)資源を守る「エコ」というメッセージによっても、今後、さらに助長されていくだろう。

 ただし、それは、まだ「Society 4.0」なのだ。

「Society 5.0」=「IMMERSIVE SOCIETY 2.0」が目指す次世代社会は、「ポケモン GO」のように、視聴覚情報を非物質化するだけでなく、それ(バーチャル)を非物質のまま現実世界へと飛び出させようとしている。

6−4 
非物質化する社会が解く呪い


 非物質化する社会を「進化」と捉えるべきか? はたまた「回帰」と捉えるべきか?––––

 ––––人間が没入する社会を持つ以前、想造(仮想)は人間社会の外側のみに存在していた––––その時代、自然摂理や物理法則が支配する「現実世界」に想造で拡張できるような幅は存在しなかった。この時代を、没入社会以前という意味で「IMMERSIVE SOCIETY 0.0」と位置付けている。

 徐々に、神話は口承される「噂」になり、活版印刷による楽譜も楽器などなくとも「歌」は生まれ、やがて、それらの「物語」や「音楽」を、あたかも物質(紙で出来た本やビニールで出来たレコード)に価値があるように見せかけ、流通させはじめた。

 それが「IMMERSIVE SOCIETY 1.0」の魔法だ。

 魔法使いに、正義と悪という2つの面があるように、その魔法も、国境という幻をまるで物理(山)のように「壁」や「長城」として可視化したり、お金という錬金術とさして変わらない部分も多い実態のないまやかしを巡る無用の争いを生んだりと、負の要素も多く産み落とした。

 そんな中、ビジネス的な利便の裏で、副作用的に失われていったのが「ナラティヴ」という人間社会/文化にとって、非常に重要な発想だったのではないだろうか。

 そうして、迎えた「2.0」への過渡期である「IMMERSIVE SOCIETY 1.5」は、非物質化(デジタライズしてインターネット上で送るコト)によるVR社会を生み出した。

 ここまで読んで頂いて、まだ「VR」を技術やデバイスとセットで考える人はいないはずだが、世の中は、まだまだ、360度映像でないと––––デジタルでないと––––ゴーグルを付けないと––––などなど、「VR」をかなり狭義に捉える場合も多い。

 例えば、SNSやゲーム––––前述の通り、それに参加しているユーザーが心の中で没入すれば、それは「VR」であり「没入社会」になり得る。

 人々がそこでやり取りするコトに、物質は1つもない。

 あらゆるは非物質的なデータ「情報」で、だからこそ、物理法則を超えたデタラメなワープやテレポーテーション、ブラックホールのようなコトまで起こせる。世界各国から(仮想的であはあるが)1箇所に集まって意見を交わしたり、手紙を一瞬で送れるだけでなく、それが届いたことを肩ではなくスマホを持つ手を揺らして知らせ、即座に返信が来れば、またすぐにそれにリアクションができる––––場合によって、そのやり取りは世界中に公開されていく––––返信は(送った人からだけでなく)世界中のあらゆる人から届く可能性を持っている。

「IMMERSIVE SOCIETY 1.5」は、そういった非物質的なユビキタスでメタ・インタラクティヴな社会を指す。

 1億円を海外に持ち込む際、大量の「紙幣」や「金(Au)」を用意し、強盗に襲われるリスクを冒す必要はなくなった。

 インターネットというセカイ網は、国境やお金という幻を、本当の幻に戻してくれた。VR(IMMERSIVE SOCIETY 1.5)内で、国という概念を感じる瞬間は、日に日に少なくなっている。

 一方、音楽業界は、音楽流通におけるVR(IMMERSIVE SOCIETY 1.5)であるiTMS/YouTube/Spotifyなどの登場で、レコードを物流していた時代に比べると、経済的に辛い期間を過ごした。

 コロナ禍によって、あらゆる業界が(かつてのレコードメーカーと同じく)対応する猶予も与えられないほど急激なIMMERSIVE SOCIETY 1.5化(バーチャル/リモート化)の荒波に晒され、リアルなビジネスなど最初から幻だったかのように消え去ろうとしている。

 そのほとんどは、デジタライズしてインターネット上で送るコトが可能な「視聴覚情報しか持たない業界」だ。

 会員制のレンタルビデオ/お見合い/出張に関する一部のマーケット––––すべて見聞きする情報のみで事足りる産業であったがゆえに、それぞれ、会員制の動画配信サービス/出会い系アプリ/リモート会議という「VR(IMMERSIVE SOCIETY 1.5)」に市場を奪われた。

 非物質化した「1.5」社会によって呪いを解かれ、野獣から王子に戻れた者も少なくないが、その陰で、人魚姫のように泡となり海の藻屑と消えゆく産業が少なからずいることも、また、事実だ。

 今後、ありとあらゆるドキュメント(記録)やオブジェクト(物質的な作品など)が非物質化するコトで、回帰的だが新しい価値として捉えられるナラティヴ・マーケティングが有効になっていくのは間違いない。

 そんな期待膨らむ「非物質的な記録」とは、どのようなアーカイヴなのだろうか?––––それは、xRにも大きく関係するアーカイヴたちだ。いや、むしろ、その根幹となるものかも知れない。

▶︎書記は、文字でアーカイヴする。

▶︎録音は、音波をアーカイヴする。

▶︎撮影は、光をアーカーヴする。

 今、注目されている新たなアーカイヴが「形動声アーカイヴ」だ。

▶︎撮形(アバターや3Dモデルといった方が馴染みがあるか)––––
それは、3次元の形をアーカイヴする。

▶︎撮動(モーションキャプチャ)––––
 それは、言葉通り、
 動きをアーカイヴするコト(やはり3次元のデータだ)。

▶︎音声合成––––
 それは、録音ではなく、声をアーカイヴするコト
(美空ひばりの声を再現するようなコト)

 これらの新たなアーカイヴによって起こるパラダイムシフトについては、第8章で詳しく物語化 = SFプロトタイピングしていく。


【 技術革新と記録に関するパラダイムシフトの歴史(未来を含む)

人工知能というテクノロジーは 「一部の記憶(まだまだ限定的だが嗜好や性格)のアーカイヴ」面からも期待できる。AIをソフトウェアのUI(ユーザー・インターフェイス)における機能として活用すると、(作業代行)ソリューションになるが、VR内でのUX(ユーザー・エクスペリエンス)におけるバックグラウンド技術として活用すれば、体験を生む。前者のように「機能」として使うか、後者のように「体験」としてコミュニケーションに活用するかによって、AIとのインタラクション(対話におけるユーザーの能動 = 学習情報の提供)には大きな差が生まれ、AI技術革新の速度や精度にも影響するため、より複雑なUXとしてのVR体験を重視する向きもある。

 次に訪れる「IMMERSIVE SOCIETY 2.0」は、非物質なままやり取りされる情報を、再び、物質的な現実世界に回帰させる社会(AR/MRⅡ)だ。

 そのポイントは、仮想(非物質)的な情報を、現実世界の位置情報に紐付けるコトにある。

 非物質化による物理法則の解放をフル活用した「1.5」的なユビキタスは「いつでも」「どこでも」享受できる分散型サービスをあらゆる業種に生み落としたが、「2.0」では「どこでも」のみを、あえて、再び、物理法則で縛るコトが起点となる。

【逆に、ユビキタスの「いつでも」のみを縛るコトについては下記を↓】

 昨今の「AR」コンテンツは、「その場にいなければ享受できない非物質な情報を用意するコト」で、現実の空間の価値を仮想的に高めるような取り組みと言える。

「ポケモンGO」や「イングレス」を想像すると分かりやすい。

 それ以外にも、たとえば、美術館の音声ガイドもそれに近い––––建物と絵や彫刻という物質的な「1.0」価値に、展示物(の位置情報)ごとに「音声での説明」という非物質の「1.5」情報を配置するコトで、仮想的な「2.0」価値を付加し、次世代のAR/MRを実現するコトができる。

 目に見えない非物質的な音声データを配置するコトで、一切、作品を邪魔するコトなく= 物質的あるいは物理的な現実世界の価値を一切損なうコトなく(景観を保持しながら)、それを必要とする対象者のみに(パーソナライズして)対象が望む時間で(カスタマイズして)説明を届けるコトで、他人への音声環境への配慮も実現している。

 これこそ、Society 5.0が目指すべき「パラレル」かつ「多層的」な社会だ。隣の作品を鑑賞している人と同時間にまったく異なる情報を聞いたり、同じ作品の前にしてもズレた時間で説明を楽しむコトができるのだ。

 これまでの「1.0」アプローチでは、物質に依存するため、説明を記した物体である「キャプションボード」を絵の下に配置するなど、本来、作品だけを観たいはずの視界をごちゃつかせながら(全員に対して)画一的なサービスしか実現できなった。

 一方、「1.5」というアプローチは、作品自体もバーチャル化するようなコト(例:メタバース美術館)なので、リアルな美術館には向かない。

「2.0」という場所に紐付いた「非物質」は、景観に対して、一切、干渉せずに、パーソナライズ/カスタマイズされたサービスを個別に届けるコトができる––––つまり、「1.5」とは異なり、1つの場所で、大規模なパーソナライズ(マス・カスタマイゼーション)が容易となる。

 このような音声ガイドであれば、英語/中国語/韓国語など、極論、無数に多言語化するコトも容易だ––––もし、これを「1.0」のソリューションである「パンフレット(紙)」や「キャプションボード(プラスチック)」で行おうものなら、物理的な大きさは増すわ、言語の数だけ文字数が増えごちゃつくわ、多くの面で本文である美術鑑賞(景観)への悪影響が強くなってしまう。一方、非物質的な音声ガイドであれば、100種類の多言語化を付加したとしても、一切、リアルな景観に干渉するコトなく、受信側がデバイスのチャネルを希望する言語に切り替えれば済むコトだ。

 これこそ「音声AR」という仕組みで、美術館だけでなく、インバウンド市場向けの観光ガイドなど、あらゆる場面で、このようなソリューションが活用できるコトを目指している。

 東海道新幹線で東京から新大阪に行くまでに流す用の音声ガイド(ABC席用とDE席用それぞれに上り下り用を完備)––––音声なら、目覚まし時計がそうであるように、富士山を見逃さないソリューションにもなる––––車両前方の電光掲示板に、いくら「もうすぐ富士山ですよ!」とコーションを出しても見逃す人は見逃してしまう––––でも、イヤフォンから流れる警告音を聞き逃すコトは、たとえ目を閉じて眠りこけていても少ない。

 他にも、渋谷のスクランブル交差点をスタートにして、カップルが別々で楽しみ、最後に原宿で再会する音声ARコンテンツなど(再会したとき、男性はなぜか花束を持っていて、女性はハサミを持っている––––それで何をするのか? は、演出側では決めない!––––人それぞれ = ナラティヴにしておくことでSNSへの体験レポートの投稿は増えるだろう)––––そして、それらは、レコードメーカー改め音楽体験創出企業にとっても、新たな周辺のコトになると信じている。

 1つの場所(位置情報)に対して、非物質な情報を無限のチャネルに分けて多層的に配置するコトで、物理的あるいは現実的にはたった1つの地点に、享受側が取捨選択できる無限の価値(想造/仮想コンテンツ/デジタルデータ)を積み重ねることができ、さらに、それを時間的には自由に楽しめることこそ「IMMERSIVE SOCIETY 2.0」の最大の長所だ。

 このような世界を、僕は「多層化社会(Multilayered Society)」と名付けた。

 その場所に行かなければ享受できない情報を無限に増殖するコトは、移動の需要が抑制され、リモートやバーチャルばかりで溜まった鬱憤を晴らしたいアフターコロナにとって、非常に有用なソリューションになるはずだ。


そもそも、人間社会の約半分は、想像による創造(想造)= 仮想(図の赤字部分)で出来ている
ITの進化によって、想造のみで成立する仮想現実 = 擬似的な体験が生まれた
非物質化した世界
(AR/MR = IMMERSIVE SOCIETY 1.0 → VR = IMMERSIVE SOCIETY 1.5)
非物質的(物質に依存せず)に現実を拡張する世界
(IMMERSIVE SOCIETY 2.0 = AR/MRⅡ)へと

人間社会はAR/MR型(物質+情報)から始まり
VR型(情報の重要度が高い情報化社会)へと変遷し
非物質なAR/MRⅡ型(情報のみ)へ向かっている


情報(仮想)の重要度や支配率は益々増幅し
常に仮想世界にアクセスどころか融合している心理

(没入社会2.0とは、SOCIETY 5.0 / AR/MRⅡ /多層化世界と同義)

① 非物質比率の高い拡張現実:ARが高度に溶け込んだ(現実と仮想の境界がごく曖昧な)MR =「人間社会」に没入する体験。

② 人工的な体験を自然的な現実と思い込む洗脳が加速し、物質や物理法則に依存しないからこそ、常にAR/MRに取り込まれている時代。

③ 無限に多層化するデジタルコンテンツを選択するコトで、パーソナライズやマス・カスタマイゼーションされた非物質的な拡張現実チャネルが、同時多発/共存するパラレルな世界。

人間の心の使い方という観点からxR(VR/AR/MR)を
それぞれ定義すると––––

VIRTUAL:「想像によって創造 = 想造する物事」
VR:「想造物の中にわたしたちが存在しようとする」アプローチ
AR:「想造物を現実に存在させようとする」というVRと逆のアプローチ
MR:「想造で拡張された現実 = ARを受け入れようとする」アプローチ


【 マ ガ ジ ン 】

(人間に限って)世界の半分以上は「想像による創造」で出来ている。

鳥は自由に国境を飛び越えていく
人がそう呼ばれる「幻」の「壁」を越えられないのは
物質的な高さではなく、精神的に没入する深さのせい

某レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら、クリエティヴ・ディレクターとして、アート/広告/建築/人工知能/地域創生/ファッション/メタバースなど多種多様な業界と(運良く)仕事させてもらえたボクが、古くは『神話時代』から『ルネサンス』を経て『どこでもドアが普及した遠い未来』まで、史実とSF、考察と予測、観測と希望を交え、プロトタイピングしていく。

音楽業界を目指す人はもちろん、「DX」と「xR」の(良くも悪くもな)歴史(レファレンス)と未来(将来性)を知りたいあらゆる人向け。

 本当のタイトルは––––

「本当の商品には付録を読み終わるまではできれば触れないで欲しくって、
 付録の最後のページを先に読んで音楽を聴くのもできればやめて欲しい。
 また、この商品に収録されている音楽は誰のどの曲なのか非公開だから、
 音楽に関することをインターネット上で世界中に晒すなんてことは……」


【 自 己 紹 介 】

【 プ ロ ロ ー グ 】




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