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無知の知とコレクティヴ - 神は、内に在るのか、外に居るのか?


我々が見ていないとき、空にかかる月は存在していないのか?


 ミクロの世界では、大きな存在である僕たちの「普通」から見るとかなり異様なルールが敷かれている。

 たとえば、分子を構成する原子やその原子を構成する電子、陽子、中性子、光の粒子である光子など、ごく小さな「量子」という「粒」は「波」のようにも振る舞う。

 光子のダブルスリット実験が有名だが、コペンハーゲン解釈の理論的な不備、それを埋めるエヴェレットの多世界解釈など(大きな存在側から見た)異様さに関する議論は、否定や肯定もできない代わりに観測もできないため、未解決(議論が進まない状態)のまま、人類の眼前に深遠を広げている。

 ギュウギュウ詰めの満員電車を想像してみる。

 それは、いよいよ、僕を含めた乗客全員が降りるターミナルに到着する。車両の前方と後方に2つのドア(ダブルスリット)があって、それが開いたとき、車内の人々は、それぞれ個人でありながら、押し合い揉み合い「うねり」= 波のような状態を描きながらプラットフォームへと降りていくはずだ。

 あるいは、十センチほどの柔らかなカラーボールが大量に詰め込まれた子供用の遊戯場––––そこに子供が飛び込んだとき、個々のカラーボールは球体でありながら、全体的には波状を描くうねりを生み出す。

 いずれも、僕や1人の子供がコントロールできる現象でもなければ、他の誰かが操作したり、あらかじめ指揮(推測)できるような現象ではない。

 つまり、僕たちも(粒子とは言いわないが)「個体」でありながら「波」という状態にもある。ミクロな世界に敷かれた「異様なルール」とは「粒」でありながら「波」でもあるコトではなく、その「あり方」が、言葉通り、常軌を逸しているという意味だ。

 大きな広場を想像してみよう。

 僕は、今、その北端に立っていて、南端は、はるか先、そこから目視することはできない。僕の後ろには、先ほどの満員電車と同じ数の人々が列を成している。

 僕は独り、南端にある二つのドア(ダブルスリット)のいずれかを目指す。

 他の誰かと話すことは禁じられ、トランシーバーや携帯電話などで情報共有することも叶わない。

 1時間以上歩いて、やっと、ドアの前まで辿り着き、東側にある「右」という方を選んで、その先にある「赤いスペース」で他の人々を待つことにする。

 その後、百を超える人々が、僕と同じように1人ずつやって来て、各々が自由に赤いスペース、もしくは、西側の「左扉から入る青いスペース」へと入っていく。

 最終的に、人々が、赤青きっちりと半分ずつに集まる確率はいかほどだろう?

 もし、選択できる扉が5つあれば、自然と均一に等分されるようなことは起こりうるだろうか?

 満員電車のように周りに人々がいる状態で、僕という個が、全員で形づくる波状の一部を形成することは想像に容易いが、後者のような条件で、時間差をつけてたった1人、他人の未来の動きを想像しながら波状を成す動きを描くのは、不可能に近い。

 原子や光子といった目に見えないほどの小さな粒は(かなり極論だが)それをやってのける。たとえ一粒ずつであっても、はるか遠くの壁に均一の縞模様を描ける。ダブルスリットの実験でも、まさに申し合わせたように美しい「縞模様(干渉縞)」が現れる。しかも2本ではなく、何本も––––

 しかし、それを我々が観測(※)した途端、量子力学(ミクロな世界の物理法則)的な現象は消え失せ、僕たちが生きる「大きな存在の日常」= 満員電車やだだっ広いスペースを牛耳るマクロな物理法則に従うようになる。 (※)観測というのは正確な表現ではありませんが、便宜上、そのようにしておく。

 どうして、そのようなことが起こるのだろうか?––––

 ––––1930年のある日、アインシュタインは、
   敬愛するインドの詩聖タゴールに、こう尋ねた。

「我々が見ていないとき、
 空にかかる月は存在していないのでしょうか?」

 タゴールは「この世界は人間の世界です。世界についての科学理論も、所詮、科学者の見方にすぎません」と答える。それに対し、「実在は人間と無関係に存在するもので、人が見ていなくても月は確かにある」と主張したアインシュタインに、タゴールは、再度、

「月はあなたの意識になくとも他の誰かの意識にはある(結局、人々の意識の中にしか月が存在しないことに変わりない)」

 と、告げた。

 それを聞いたアインシュタインの答えはこうだ。

「私は、人間を超越した客観性が存在すると信じています。ピタゴラスの定理は、人間の存在とは関係なく存在する真実です」

 神はサイコロを振らないとも述べたアインシュタインが述べた「客観的な実在」、あるいは(認識した瞬間に結果が決まるような確率論への拒絶である)「隠れた変数」は、「ベルの不等式の破れ」や「ウィグナーの友人という思考実験」によって、今では、波のように揺らいでいる––––続くタゴールの回答は、その予言のようにも感じられるのだ。

「科学は、月も数多の原子が描く「現象」であることを証明したではありませんか。あの天体に、光と闇の神秘を見るか、それとも無数の原子を見るか。もし、我々の意識が月だと感じなくなれば、それはきっと月ではなくなるのです」

 僕たちは、中途半端な(テストなどで定量化するために正解が必ずある)教育によって、自身という肉体や空にかかる月という天体が分子という原子の集まりの集まりで出来ていることまでは知っている。しかし、肝心の世界を構成する最小単位かも知れない「量子」がどのようなものであるか、ほとんど理解できていない。そして、それは、僕やあなただけでなく、アインシュタイン、ウィグナー、エヴェレット、シュレーディンガー、ピタゴラス、ベルなど、多くの天才が解明できなかった不落の難問なのだ。

 光子のダブルスリット実験で、起こった不思議。
 どうして、そのようなことが起こるのか?––––
 その答えは「わからない」しかない。

 正解でも不正解でもない、第3の答え「世界は、わからない」という状態を自覚することこそが、唯一、現生人類に許された正しい姿勢––––そんな僕たちは固定されたように見える肉体の中に無数の波を飼っている。たとえば、身体の半分以上を占める水分子を構成する水素原子と酸素原子の中で飛び回る量子運動として、あるいは、心とも呼ばれる脳内の感動として。それらの波状は、宇宙と同じくらい膨大な謎に満ちている。

 そのベクトルを、次は、内向から外へ向けてみる––––それぞれが小さな宇宙を内包する「生命」の根底である「細胞」は、膜という存在によって生まれた。

 地球という天体が持つ環境下で、ごく自然かつ偶発的に「細胞膜」が生まれる奇跡を示す科学的検証がある一方、それが自然発生する可能性は低いという説もある。つまり、生命の起源は、地球外から飛来した可能性が高いと考えている科学者も多い。

 地球外––––つまり、宇宙。それを内包する「宇宙のある空間」の外側には「その空間のある空間」があるはずで、その空間のある空間のまた外に……と、永遠に続くと思うしかない無限ループの果てはどこまで遠く、どんなところなのか、想像もつかない……想像が届かない。

 幼い頃は、自分の胸に手を当てると心臓が鼓動しているのも不思議だった。「手のひらを太陽に」に触発されて、陽の光にかざした手中を血潮が流れる姿をずっと見ていられるほど、想像力や感受性の豊かな時代が誰にでもあったはずだ。

 そんな若くて青い時代––––夜空に瞬く星々を見上げていると、「感動」よりも言いようのない「不安」を感じた。

 きっと、その予感は当たっていて、僕たちは自分自身が何で出来ていて(ミクロへのベクトル)、今、どんな空間のどのあたりにいるのか(マクロへのベクトル)さえ知らないことを、子供ながらにきちんと感知していたのだろう。

 いや、純粋な子供だからこそ、正確に認識できていたのかも知れない。

 僕たちがはっきりと断言できるのは、今も昔も「世界を、知らない」––––それだけ。

 僕は、知識を得るにつれ、そういう面で、少しずつ愚かになっていくのを感じている。

 かつて、自分の内外に、無限に、無数に、存在していたそんな不思議のほとんどを解明できないまま、多くの「元子供たち」が、すべてを知ったような気分で日常を過ごしてる。それは「諦め」という名の不感症で、それこそ冒頭に書いた「大きな存在側の普通」ではないか?

 この「普通」という表現に「嫌悪感」や「疑い」を持った方もいたはずだ。

僕だって、大っ嫌いな表現だ。


 知りえない森羅万象の真意まで分かっているかのように振る舞わないといけない空気をまとった現代(特に先進国社会)には、科学では証明も説明もできない事象を、無意味に、無根拠に、見下す雰囲気さえ帯びている。それらすべてを表面的な暗黙の了解で取りつくろい、謎に満ちた本質を軽薄に傍観しているのが平均的な現代人の「ワタクシタチ」ではないか。

 知識は、人類を、一部の面で、明らかに愚かで不賢にしている。

 その内の1人であるワタクシも、万能ではない現時点でのちっぽけな知識を盾に、そこに絶対的かつ唯一の解を求めようとしてしまう。ビジネスにおいても、結果論に過ぎない利益に、無理矢理、論理的な根拠を当てはめてみたり、短絡的で済むものを無意味に複雑化してみたり、ときにそれを誤って(おこがましく)「マーケティング」と呼んでみたり––––「法治社会」は、国家(政治)レベルのミクロ(ローカリズムあるいは地縁や血縁によるゲマインシャフト)なコミュニティのみに適用されていて、経済(企業)レベルのマクロ(グローバリズムあるいは社会的機能的であるゲゼルシャフト)なコミュニティにおいては、今なお旧態依然のままの「人治社会」である矛盾を見ず、民主性の完成形のように扱い、ときにそれを誤って(恩着せがましく)「マネジメント」と呼んでみたり––––

 ––––それらを超越した余白を、世界では「神」と呼び、
   タゴールは、その知識外的な「真白」に祈ったのかも知れない。

 法治国家や資本主義といったシステムより実践的な美徳の方が、圧倒的に懐が深く、真理に近い場合もあるはずだ。タゴールの祈り通り、この世界は魂(精神)の世界でもある。それは間違いない。そこには、まだまだ、生まれたての子供たちが希望を持てるだけの余白が残されているはずだ。

 知らない物事は知らないと言う。そうでなければ、人類がこれまで培ってきた知識や組織という小さな箱は、余りある真白に闇を落とすような慢心からの不用意な塗り潰しを犯すだろう。現時点の社会における自分の役割においても、まず、無知を知り、限界を認め、事実的な生活における事実的な解決に、小さく、大きな個人として、身を捧げるほかない。それの届く範囲が「世界平和」まで広くなくとも、せめて、この目が届く家族や友人のために、そして、そんな小さな一歩一歩の蓄積の先で、僕たちにできる発見があるかも知れない。

 1人1人は凡人でも互いに協力し、各々の能力を活かすことができれば良い。価値あるコトを世に送り出すときに、1人の天才の出現を待つ必要はない。

 - Thomas Alva Edison -

 1人のカリスマのひらめきよりも、人々のコラボレーション。
 ゆえに、まずはアイデアを支援する社風を創造すべき。


 - Linda Annette Hill -

「Collective Genius: The Art and Practice of Leading Innovation」リンダ・A・ヒル著

「VUCA(変動や不安定・不確実性・複雑性・曖昧や不明確さ)」がますます加速する現代、アジャイル組織やティール組織の有用性が説かれている。それらに共通する「個の集合」のあり方を啓くフィロソフィーの1つが「COLLECTIVE GENIUS(集合天才)」だ。トーマス・A・エジソンの研究チームを始祖とする革新的イデアで、経営思想家リンダ・A・ヒルによって更新された。集合天才に求められる組織 =「コレクティヴ」のあり方は(そうであるに越したコトはないが)ビジョナリーであることはマストではなく、理想のリーダー像も1人の天才(スター社員)にフォーカスするようなものではない。

 ヒル氏は「才能ある人々は誰かに付いていこうとは思わない」と指摘し、「一緒に未来を創り出したいという自発的な集合を目指すべき」と提言している。

 そのためにリーダーが行うべき最重要課題は「場」の設計だ。

 大多数を占める「実はできる凡人」が少しずつ保有する「天才の片鱗」を解き放ち活かせる雰囲気づくり(誰もが、発言、行動しやすいオープンで透明度の高い空気感の醸造)を行う「ソーシャル・アーキテクチャー」が求められる。

 彼らは、革新の源泉や組織成長の中心を、ヒエラルキーの先っぽにいる特権階級「経営者」から現場へと移行し(逆ピラミッド型を築き)、実践の中で日常的に起こるイノベーションの質と速度の向上を目指す。アジャイル組織の正体とも言える「PDCA」ではなく「DCAP」というサイクルを重視し、机上の空論ばかりを長時間交わすことなく、まずは実際にやってみることを何より重んじる。絶対に失敗できない大規模な企画の実現ではなく、素早く小さな社会実装から「始めること」を優先するのだ。

「仕留めるのにたくさん撃つ人が下手な鉄砲撃ち」なのではなく、
「まず数を撃たねば上手な狙撃手が育たない」のが真実だ。

 チームメンバーが、下手な鉄砲撃ちになるか、上手な狙撃手になるかは、ソーシャル・アーキテクチャーたるリーダーが設計する実践環境に懸かっている。VUCAな世界で「数撃ちゃ当たる戦略」は、もはや、悪ではない。DCAPというプロセスで、「失敗」と「成功」は、いずれも大切な成果であり、貴重な情報源だ。成功は有益で、失敗は無益、というような捉え方は、停滞への近道。だからこそ、失敗の際、誰も、何も、傷付けないために「道徳」「美徳」「コンプライアンス」が、より重要視されている。

 失敗さえも歓迎できる姿勢こそが「集合天才」の神髄だ。

 当然、コレクティヴの構成(チームが持つ多様性)が多彩であればあるほど「数(チャンス)」は生まれやすくなる。今後「ゲマインシャフトの拡張である多国籍連盟(例:EU)」みたいな「ゲゼルシャフトの拡張である多企業組織(例:レコードメーカーの社員であっても、社内やエンタメ業界だけで編成されるチームワークだけでなく異なる業種の他社との協働や共創を行う機会を探求すべき)」から生まれるボーダレスなプロジェクトが、水面に波紋を描くように三千世界へと拡散していくことを心から願う。


役に立たないビッグデータ 
必要なのは、 シックデータ


 実は、リンダ・A・ヒルは「民族誌学(エスノグラフィー)」の学者でもある。その学問は、「フィールドワークに基づいて人間社会の現象を質的に説明する表現」を重視する。つまり、数値を重視するビッグデータでは分からないコトを見出すために「芸術的な視点(※)」を持つ必要性を説いており、具現化として、数的なデータではなく、物語(文章)をもっとも重要視している。

※ 民族誌学的で、たとえば「日本人の国民性」を表す際、身長や職業などのビッグデータを並べた統計学的な数量分析では本質には辿り着けないため、日本に長期間滞在し、書き溜めた日記(例:東方見聞録)のような文章化=シックデータが重視される

 イノベーションとは、レアだから=他にはないから/これまでにないからこそ、初めてイノベーションたるわけで、そもそもビッグデータ(数的データ)の取り用がないものだ。そういった定量化しづらい世界では、測定可能な結果を無意識に重んじる「定量化バイアス(数的データ重視)」による支配的な閉じた系構造から解放された「シックデータ(濃密な文章によるデータ)による根拠」に基づき、その是非を判断される開かれた性質が重宝される。

 ヒル氏は、まさに、グーグルやピクサーをはじめ世界中のイノベーティヴな組織のいくつか(民族誌学的にはそれで十分)で、長時間のフィールドワークを行い、共通項などを「シックデータ」=「ドキュメンタリー」としてまとめ上げ、最新版の「COLLECTIVE GENIUS」を発表した。僕が「集合天才」を推す根拠として、これ以上の「証拠(データ)」はないと思う。彼女のプレゼンテーションから「このフィロソフィーはきっと役に立つ」と信じる勇気を与えてもらった。そして、その勇気こそをみんなと共有したい。

(↑ 日 本 語 字 幕 も 出 せ ま す ↑ )

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いまだ、あらゆる向こう側は、未曾有の存在でしかない。
「VUCA = 予測不可能」な世界では、
「DCAP = まず、やる!」しかない。
見えないのではなく、見ようとしないだけで、
「All Ocean」のすぐ隣にある「Galaxy」を見ること。

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「知ること」や「知ったこと」は、言うまでもなく有意義だ。しかし、それを過信することは、ときに僕たちの判断を曇らせる。賢くなればなるほど、愚かになるリスクも高まる。理解できない事象に対して、持っているわずかな知識で、何とか、無理矢理、解釈し、表現あるいは実行しようとするからだ。そんなでっち上げをするくらいなら「分からない」は「分からないまま」にしておくべきだ。

 むしろ、その無知に、信じられないパワーが存在することを信じたい。 
 すでに観測(認識)できている世界を疑い、未知に感謝を忘れないこと。

 可能性というのは、常に生み出さなくてはいけないイノベーションではないと思う。生み出す必要のない生産性の高い可能性を、僕は「見付ける可能性」と呼んでいる。「すでにあるもので、見ようとしていないものを見る」という実践的な意識の徹底、つまり、天才ではない凡人の情熱と執念によって発見されることもあるという信念だ。

 これは、「遠大過ぎて見えない宇宙」を見ようとするようなごく一部の天才に許された非実践的な思考実験(想像上のみの証明)とはまったく異なる。新たに生み出すこと(発明)を意味する英語の「Invention」には「捏造」という意味も含まれている。ほとんどの情熱的な凡人には、似て非なる「発見」という意味を持つ「Discovery」という、覆っていたベール(cover)を剥がす(dis)という、すでに存在していたのに隠されていただけの何かをフィールドワーク(執念)で見付けるという言葉の方が、似合っていたり、相応しいと感じる。

 僕は、後者の「生み出す発明」ではない「見付ける発見」による新たな市場を「ギャラクシー(銀河)マーケット」と呼んでいる。それは、ブルーオーシャンとレッドオーシャンを足したオールオーシャン(地球)にすぐ隣接する外側にある市場で、「can not =(外的要因から)できない」のではなく「do/will not =(内的要因から)やらない/しようとしない」というバイアスによって「見えない」と誤認されてきた「見ようとしていなかっただけの世界(市場)」のこと。

 見えないものを見ようとはするが、無理矢理、理解しようとはせず、まずは動いてみる姿勢。そういう意味ではコペンハーゲン解釈に近い発想で、空を見上げようともしない、そのための望遠鏡を作ろうともしないことが本質的な問題であり、凡人にとっては「新たな市場」という可能性を「生み出す(invention:ときに捏造になりうる)」よりも、即効性と生産性を持つ「見付ける(discovery)」ための「イノベーティヴな組織=集合天才」という実践的なコレクティヴこそが必要不可欠だと思っている。

 エスノグラフィックな(無意味に溢れる膨大な情報を取捨選択し価値を生む)視点を持つためにも、まず「すでにある(We have)」と自覚すべきだ。その意識の届く範囲は、広ければ広いほど良い。だから、個社が抱える物事よりも幾社にもまたがる物事の方が、当然(問題も含めて)多彩で魅力的であり、高いエントロピーを保有しているはずだ。

 世界の理は、いつだって大きく深過ぎるべきだ。

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 自由とは、行動にしてはならないもの。
 何をすまじきか。
 平等とは、行動でしかなしえないもの。
 何をするべきか。

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 企業がSF作家にオーダーメイドの近未来ストーリー(プロトタイピング)を依頼するというトレンドもある。量子力学だけでなく、哲学やアートが見直されている風潮も含め、数学的な理論だけでなく芸術的な妄想も重視されているのは、たしかな、時代の流れだ。

 可能な限りの根拠をもって、未来予想図を描くには、「ブレードランナー」における「レプリカント」のような共通言語(フィロソフィーやナレッヂ)や「HAL」が存在する「2001年宇宙の旅」の社会情勢みたいな世界観(マーケティング)を共有する必要があり、このノートでは、僕が身を置く音楽業界から見た世界の事実的な見解を、必ず、前置きするようにしている。

 それらを評価する際の基準に据えたのは、ナシム・ニコラス・タレブの「反脆い」という新しい言葉だ。“良い” 戦略や “強い” ビジネスモデルよりも、サステイナブルで普遍的な “しなやかさ” を持つ戦略やモデルを評価するための形容詞として最適な言葉だ。

 「反脆いモノゴト」を、音楽業界の歴史に沿って文章化(エスノグラフィックなマーケットリサーチ)することにも注力している。これはSF映画で言えば、冒頭を占める「世界観の背景にある歴史」の説明(スターウォーズの最初の字幕部分)。その中には、モノづくりとコトづくりという言葉に、音楽業界から感じる違和感や、より具体的かつ事実的な体験から導き出した「○○○○○」や「非物質的」という大きな信頼を寄せるべき言語(ナレッヂ)も含まれている。

 最終的には「IMMERSIVE = 没入」のコアである「xR(VR : 仮想現実 / AR : 拡張現実 / MR : 複合現実)」に関する反脆い「哲学」や「実践法」や「魂(倫理)」として重要な「新たな法治」というメソッドにも触れていく。

 開祖や興国における神話には共通項があり、それとの対立を避け続けて現代があるのは否めない。身体性を伴わない信仰における境界線は、最初は無意識的でも、いつしか意図的なタブーや禁足地を生み、それを悪用することで正義のまがいものとしての共同幻想を生み、布教や侵略、差別と排除を、繰り返し繰り返し成長させてきた。

 どこに、どのように、線を引くかではなく、線を引くこと自体が相対的(一定の)悪に繋がっている。それが分断した片側(たとえば、全生物の一部に過ぎない人類)に対する「生き易さの享受」は、一定の善である「生き辛さの強制」という双子を孕んでいる。それは、悪魔と天使のような存在でなく、1つの混濁とした現実だ。絶対悪も絶対善もなく、清濁併せ持つ一面の灰––––そんな濃淡グレーの世界で、自由は行動にしてはならず、常に変化(進化)を追求する=絶対に追い付けない理想であるべきで、逆に、平等は思惑ではなく、行動でしかなしえないことだ。今やるべきことは、決してやれないのではなくやれる範囲の中にある抑制的な自由と能動的な平等に違いない。いずれも、一部の生き易さよりも一定の生き辛さを産むものだ。


IMMERSIVE SOCIETY 
神は - 内に在る?/外に居る?

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人間に限って、世界の半分以上は、
想造(想像による創造)で出来ている。

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 2019年、世界的パンデミックがこの星を包み込んだ。人々が取る距離はソーシャルディスタンスと呼ばれ、我々が「人類」ではなく「人間」だと名乗る根拠を明示した。いつだって、人と人の間に確かに存在する「何か」こそが、人間にとって重要なのだと思い知った。

戦争を起こすのも「人間(人と人との間)」にある「国境」に違いない。
 しかし、それは、決して、実在しないものなのだ。

 本来、手に触れることも、目に映ることも、悲鳴として聞こえたり、熱として肌を焦がし、苦渋を舐めさせることもない。つまり、だから、変えることのできる軽薄な存在だ。物理法則や自然摂理のような絶対はない。引き金を引き飛び出した弾丸の速度、回転、威力、勢いよく噴き上げた毒の成分、拡散、効果、これらは決して覆らない重みを持っているが、それを引く気持ち、撒く事情は、心ひとつですぐに撤回することができる。行った後ではなく、行う前にできることがある、いや、行う前にしかできることはない。ミサイルは撃ってしまえば、着弾しようが、空中で破壊されようが、もう、未然ではない。肉体的な被害ではなく精神的な被害妄想は、次へ次へと飛び火していく。

「国境」と呼ばれる線上あるいは戦場に、自然に存在する裂け目や壁などの何かしらの実在(物体)を見たことがあるだろうか?––––ないはずだ。だからこそ、鳥は、軽々と、悠々と、本能のみに従い、そのボーダーを飛び越えてゆける。そんな幻を見ているのは、「人類」ではない「人間」だけで、鳥瞰に国境が映ることもない。そして、たとえ「人間」がただの「人類」に退化しようとも、航空というテクノロジーを手に入れ進化しても、もう、永遠に、本能でそれを飛び越えることはできない。

 知ってしまえば、愚かになる。

 このような境界線は、物理法則でも自然摂理でもない。人間が想像による創造=「想造」ででっち上げた幻に過ぎない。にも関わらず、僕たちはその幻に囚われて生きていくしかない。

 目の前にある、僕やあなたが、今、包まれている「人間社会」こそが、「AR(幻=仮想によって拡張された現実)」であり「MR(拡張された現実に没入する体験=ARにVRするとも言われる)」なのだ。

 人間に限って、世界の半分以上は、想造で出来ている。

 その世界は、少なくとも数十万年に渡り、全人類が総出で築き上げた自作自演の「IMMERSIVE SOCIETY(想造に過剰に没入する社会)」なのだ。

 僕が知る限り、没入社会は、人類史上、3段階の進化を遂げている。僕は、現在を、「1.0」と「2.0」の間に位置する過渡期(1.5)と捉えた。「1.0」が本格的に始まる以前のプロローグに「0:ゼロ」があり、それは「想造は現実のまったく外側のみにあった時代」を指す。当時の人々は、その外側を「神界」と「魔界」に分け、それぞれの住民である「神」や「悪魔」という「相反する得体の知れない存在」を畏怖していた。この頃からすでに、新たな発想(イノベーション)は、必ず「進化」と「問題」という双子を生み出すことを、本能的に察知していたのだろう。

 想造が生んだ「幻=バーチャル(仮想)」というイノベーションも、他に漏れず、陽陰、善悪、正負など、清濁併せ持った可能性を孕んでいた。仮想とは、現在の現実では有り得ない物事を脳内にだけ造り上げることを言う。仮想世界では、未来の理想の自分に成り切ることも、過去の誰かに憑依して新たな歴史を刻むことも、世界をヒーローや魔法使いの住むファンタジーに創り替え、ユニコーンや怪物を産み落とすことだってできる。

 古代の人々は、そういった現実の外側を「神界」と呼び、その主である「神」を畏れた。心の中に人外のセカイをつくり、世界の外側にある宇宙をも心の中「心界」で可視化したのだ。内は外で、外は内。いずれにせよ、それらはあくまで「シンカイ」のみに存在していた。

 いつしか「脳」は、生物学上の臓器から「心」という精神的な機能に昇華され(気体のように手に触れられないモノになり)、知らぬ間に人間(人と人の間にある空気=社会)を冒しはじめる。たとえば、嵐は物理的な現象に過ぎないはずが「神」の怒りのせいになり、それを鎮めるために貴重な作物を(心的には)祭壇という(脳的には)ただの石の上で腐らせた。

 こうして、本来、まったく乖離していたはずの「心」が生む「夢」のセカイと、「脳」が見聞き嗅いで味わい触れる「現」の世界は、複雑に絡み合い一体化し、あらゆる善的な利便と悪徳な差別をも内包していった。

 それらは、宗教、政治、経済など時代と共に姿形を変え、自然摂理に人工的なルールを巧みに混沌とさせたシステム×まやかしを駆使して、人間を実に強力に支配していった。

 僕は、宗教や神仏を否定したいわけではない。「神」が現実世界にはいない(時空を超えた異次元の住民である)ことは多くの宗教そのものが認めているし、現に、ある宗教では、偶像崇拝を厳しく禁じている。

「神界」というマクロな宇宙のどこか(外界)にいる「神」を、
 脳で=物理的に見てとる(客観的に認識する)のか?
「心界」というミクロの宇宙(内界)にいる「神」を、
 心で=精神的に信じる(主観的に信仰する)のか?

 その違いの説明をしているだけで、僕自身は、科学的な根拠などなくとも、どちらかの「神」の存在を感じている。ただし、その立場をここで明らかにするつもりはないし、僕は、それを「カミ」とは呼んでいないだけの話だ。

 こうして、原始は人類の外側にしか存在しなかったはずのバーチャルは、宗教や国家という大義名分をかざし、着実に、人間(人と人との間)社会においてのみ実在化=(あえて嫌な表現で書くと)似非物質化していった。

 人間は人として眠って夢見るだけでは飽き足らず、仏像を掘り、宗教画を描き、万里の長城やベルリンの壁を築き、隣国との界面に位置する島に自国の旗を掲げるなどして、本来、物理法則や自然摂理に従順だったはずの現実を、非物質的で反自然的な想造を加えた人工的な偶像 =「似非物質」で侵していったのだ。

 当初、人間社会においてのみ有効だったそれらは、いつからか物質的にも生物学的にも大きな現象を引き起こして、今に至ります。中でも特にシンボリックな負の顕在化こそ、今この瞬間もこの星の各地で進行し続ける「自然環境破壊」だ。起点は人間の心(幻)だとしても、終点は森羅万象の物理や摂理ということは少なくない。これらは明確なAR(物質的な現実+非物質的な想造)であり、MR(ARに没入する現実)だ。このように現代的な人間社会は、AR=拡張とMR=没入から始まった––––この段階を「IMMERSIVE SOCIETY 1.0」と呼んでいる。

 一方、VRは、あくまで、主観的かつ個人的な体験でしかなかった。その代表が眠って見る「夢」だ。「夢」は「社会」にはなりえず、長らく、個人の心(脳)の中で謙虚に留まり続けていた。

 子供が絵本を読んでいるとき、主観的(1人称視点)になればなるほど、ARという鑑賞からVRという体験へと変遷していく。無知の知を失ったつまらない大人にとって「シンデレラ」の絵本や「忍者」のマンガは、想造(物語と絵)によって拡張(演出)された紙という似非物質(AR作品)を鑑賞するだけの代物に過ぎないが、想像力豊かな子供たちにとって絵本というインターフェイスは、没入体験への入り口やトリガーであり、「シンデレラ」や「忍者」は、目や脳で読む物(AR鑑賞)ではなく、心で感じるコト、ともすれば、成る者(VR体験)なのだ。

 ただし、その機能は、非常に主観的であり、人間(人と人の間)社会に大きな影響を及ぼさなかった。たとえ、子供が、物質であるドレスを着てシンデレラに成り切ったとしても、忍者と思い込んでプラスチックの手裏剣を実際に投げ付けたとしても、無邪気な妄想は現実を拡張するような機能や権力を持っておらず、あくまで、この世(現実)をあの世(仮想世界)と同一視(誤信)しているだけで、MR=拡張された現実への没入にはならず、自分を含めたこの世界ごとアチラの世界へと飛び込むような荒唐無稽に過ぎない(からこそ価値がある)VRだった。結果、それは、アートやエンタテインメントの専売特許であり続け、国家や政治など社会的ソリューションにはならなかった。

 もう、お分かりかも知れないが、僕は、VR/AR/MRというカテゴリーを、技術やインターフェイスデバイスを区別するための呼称ではなく発想や体験を区別するための定義と捉えている。

 また、最近、ARやMRをVRの次世代と捉えている人も多いが、それは間違いであることにも気付くはずだ。20世紀末から起こったxRデバイスの技術革新という短スパンの歴史が、VR(例:オキュラスリフト)からAR/MR(例:アップルのヴィジョン・プロ)という流れだっただけで、人間社会は間違いなくAR/MRから始まった––––

 それが「IMMERSIVE SOCIETY 1.0」だ。

 紙+物語で絵本、紙+通貨としての価値で紙幣、石であれば硬貨になり、その石と木+物語でコンセプト型の遊園地、+神で自社仏閣、木や石で出来た壁や城+国という概念で国境など、「1.0」を構成するあらゆるは、物質+仮想(AR/MR)という構造を持っている。人間は、長らく、この「1.0」バージョンの社会に居続けてきたが、インターネットの登場によって、その空気は一変した。特筆すべきは、VRが、ついに「社会」になりはじめたことだ。

 インターネットという広大な世界に存在する様々なVR社会を、僕は「IMMERSIVE SOCIETY 1.5」と定義している。それは、掲示板やチャットに始まり、多種多様なSNSにまで進化した。

「1.5」における「インターネットとVR(例:SNS)」は、「1.0」における「地球とAR/MR(例:国や宗教)」のような関係で、フィールド(プラットフォームとも呼ばれる)グローバルなセカイに、大規模なコミュニティ(社会)を生み出し、国境のような企業間のボーダーや競争(戦争ではないところに希望を感じる)を顕在化し、新たなエンパワーメント(権限移譲:インターネット時代の市民革命のような数々のパラダイムシフト)による超民主を同時多発させている。

 SNS以外にも、超民主の辞書:ウィキペディア、食べログ、UGC(ユーザーが民主的に生成するコンテンツ)があふれ、メタバースやNFTというトレンドが世界経済に影響を与えた。すべて、紙も石も木も伴わない、物質を持たないバーチャルへの没入=VRだ。ブロックチェーンを用いた仮想通貨の価値を担保するマイニングは、中央集権的ではなく非常に分散的で、大規模なエンパワーメントを実現した超民主の代表例だ。それらは、当初、VR内でのみ起こったムーヴメントだったが、ビットコインでピザを購入してみたり(世界一高価なピザ)、マイニングPCが地球温暖化を加速させたり、ウィキも食べログも肉体的にも炎上したりと、AR/MR化=現実世界への侵食が始まっている––––これは「IMMERSIVE SOCIETY 1.5」の次を予感させる現象だ。

 仮想(バーチャル)が現実の外側にのみ存在していた「IMMERSIVE SOCIETY以前=0」から仮想が現実(物質)を拡張する「1.0」に変遷したときに起こった侵食とまったく同様に、インターネット内のVR=IMMERSIVE SOCIETY 1.5のみで起こっていたコト(仮想通貨やゲームなど)が、現実世界へと侵攻を開始した(例:仮想通貨と既存の似非物質的な貨幣の為替取引やポケモン GOなど)。

 それが、「IMMERSIVE SOCIETY 2.0」だ。

 この「VR内現象のAR/MR化(現実や物質への侵食)」は、まるで国境を悠々と飛び越える鳥のように、あらゆるボーダーを直感で飛び越える本能的な行為に近付いている。梅崎健理氏が提唱した「ニューアナログ」なインターフェイスデザイン(イラストレーターのほとんどが物質の紙、鉛筆、絵の具ではなくペンタブを使用するようなこと=デジタルなのにアナログっぽく直感的に使用できるデザイン)は、それをプリミティヴ(自然摂理に則った)な行為だと思い込ませることに、おそらく、成功するだろう。

 ただし、そこには飛行機で物質的に飛び越えるのとは大きく異なる非物質性(物理法則を超越した性質:たとえばリモート会議などのワープコミュニケーションやARゲームによるパラレルで無限にも思える付加価値など)から生じるデメリットも潜んでいるはずだ。前述の通り、新たな発想やテクノロジーは、必ず「進化」と「問題」という双子を世界に産み落とすからだ。

 今後、それらの起こる場所が、インターネット内のSNSという技術(最重要はセキュリティ)に裏打ちされたグローバルなゲマインシャフトであろうが、学校という似非物質ゆえに物理(地理)に縛られたローカルなゲマインシャフトであろうが、あるいは、企業という経済に裏打ちされたグローバルなゲゼルシャフトであろうが、政府という国境に縛られたローカルなゲゼルシャフトであろうが、すべてに等しく同じ地球規模の倫理が必要となっていくはずだ(国レベルで区切られた法律では不十分な状態に突入している)。この世界は、再び「仮想と現実」「国という幻に過ぎない境と各国間にある法の差異」「グローバル化する企業」「生物学的な性別を超越した精神的な愛」など、ありとあらゆるインターフェイスの消滅=ボーダレス化と対峙しようとしている(ように見える)。

 この「序」を書いた2020年のある日(パンデミックの真っ只中)––––医療従事者を称えるために、ブルーインパルスが頭上をものすごい勢いで追い越していった。戦争の終わらない地域では殺戮の象徴である戦闘機も、ここ日本では平和の象徴となり、みんなが笑顔でそれを歓迎していた。先の大戦を経験した老人は、旅客機であっても飛行機の音を嫌う。そんな事実は、薄れはじめている。

「航空機が飛ぶ音は、B29から降り注ぐ焼夷弾を思い出す」––––今も、世界には、そういう子どもがたくさんいる。これもまた、すべて、心の中から起こった/起こる/起こっていく現実だ。

 いつの日か、ブルーインパルスが、鳥のように軽やかに、普通に、韓国のソウルを超えて中国の北京や上海、その先どこまでも飛んでゆくのが当たり前の時代が来る……もちろん、ただの曲芸として––––そんなことを、力なく願った。



▶︎ 新 世 界 =「 I M M E R S I V E   S O C I E T Y   2 . 0 」 を
紐 解 く 6 つ の キ ー ワ ー ド

A N T I F R A G I L E

反 脆 弱 性 と い う 評 価 基 準

E M P O W E R M E N T

権 限 移 譲 か ら 起 こ る 超 民 主

I N C O R P O R E A L

非 物 質 的 が 解 く 呪 い

M A T E R I A L I Z E

素 材 化 に よ る 実 現

M U L T I L A Y E R E D

多 層 化 社 会 が 生 む パ ラ レ ル な 可 能 性

N A R R A T I V E

常 新 性 の 物 語 り : 誰 が 語 り 手 か ?


【 マ ガ ジ ン 】

(人間に限って)世界の半分以上は「想像による創造」で出来ている。

鳥は自由に国境を飛び越えていく人が
そう呼ばれる「幻」の「壁」を越えられないのは
物質的な高さではなく、精神的に没入する深さのせい

某レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら、クリエティヴ・ディレクターとして、アート/広告/建築/人工知能/地域創生/ファッション/メタバースなど多種多様な業界で仕事してきたボクが、古くは『神話時代』から『ルネサンス』を経て『どこでもドアが普及した遠い未来』まで、史実とSF、考察と予測、観測と希望を交え、プロトタイピングしていく。

音楽業界を目指す人はもちろん、「DX」と「xR」の(良くも悪くもな)歴史(レファレンス)と未来(将来性)を知りたいあらゆる人向け。

 本当のタイトルは––––

「本当の商品には付録を読み終わるまではできれば触れないで欲しくって、
 付録の最後のページを先に読んで音楽を聴くのもできればやめて欲しい。
 また、この商品に収録されている音楽は誰のどの曲なのか非公開だから、
 音楽に関することをインターネット上で世界中に晒すなんてことは……」


【 自 己 紹 介 と 目 次 】

【 プ ロ ロ ー グ 】



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