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第2章 / 悪くなれば, 悪くなるほど, 良くなる存在.


2−1
「脆い」の正しい反意語


 人間は、すぐに世界を二分したがる。

 善と悪––––ヒーローとヴィランに。
 西と東––––自由主義と平等重視に。
 青と赤––––生物学上の男性と女性に。

 言い換えれば、肯定と否定をセットにしがちだ。

 あなたが、善人であるなら、悪人ではない。
 自由を優先するには、平等は軽んじるしかない。
 彼は、男性であるなら、女性ではない。

 ほとんどの人が、清濁併せ持つグレーなのに。
 自由に平等を選び、平等に自由を与えるのが、理想なのに。 
 肉体の性が、イコール、その人の心の性ではないのに。

 もっともなのは––––正解か/間違いか・YESか/NOか?
 本当は「分からない」という、第三以上の無数の選択が、
 あふれる––––ここは、まだまだ未知の世界なのに。

 人間は、そうやって、何かを肯定するたび、
 裏側を否定し、形容詞の数だけ世界を二分していく。

 黒いと決めれば、同時に黒くないものが生まれる。
 良いと褒めれば、同時に、悪いを蹴落としている。

 そうやって、まずは、いろんな言葉で世界を分けて、生まれた二分を重ねて––––黒くて良い/黒くて悪い/黒くなくて良い/黒くなくて悪いなど––––複合的な理解をしようと努める。

 これ自体は、素晴らしい(短絡的な理解は愚かしい)ことだ。

 1つの現実に無限の『二分シート』を重ねていく––––たとえば「僕」という事象は––––肌は黒くなくて/日本人で/音楽が好きで/関西出身だから納豆が苦手で/卵は食べれて/短気で/ヒト科で/男で/哺乳類で/性格は悪くて/動物で/身長は低くて––––など、多層的な二分で、複雑に、判断されていく。

 実際は––––肌は黄色いとも言えるし色白なんて言われるし日焼けだってするし/すべての音楽を好きではないし/今は納豆が好きで(そもそも、両親は大好きだったし)卵を入れるとより好物だし/人より気長にやれる場面もあるし/動物と哺乳類とヒト科は区別しなくてもいいかもだし/蟻や雀よりデカイし/性格悪い男なのは……まぁ、そうかも苦笑。

 二分をどれだけ重ねたところで「真実」は曖昧だし、うつろう。でも、形容詞を多層的に当てはめるという手法は「複雑」な事実を認識するには欠かせないトライだと思う。

 この章で、お伝えするのは、
 「脆い」という『シート』についてだ。



 世界を「脆さ」でフィルタリングしたとき––––
 或る事象を「脆い」と肯定したとき––––
 僕らは、何を、否定しているんだろう?

 質問の仕方を変えよう––––「脆い」の反対は、何か?

 良いの陰に「悪い(= 良くない)」が浮かび上がるように、脆いの真裏にあるのは、どんな状態だろう?

 多くの人が、「強固」「堅牢」「頑丈」––––ようは「強い」と答える。

 答えから述べると、違う。

 脆くて良いものは強いと悪いもの(硬すぎるビスケットとか?)/強くて良いものは脆いと悪いもの(すぐに割れるグラスなんて嫌だよね?)––––と、表裏として成立してそうだけど……

「懐疑的経験主義者」を称し、現代におけるラディカルな哲学者(認識論者)の1人として活躍する『ナシム・ニコラス・タレブ』が、正解を教えてくれた。

 彼曰く––––人類は、ずっと、これまで、「脆い」という『シート』上では、誤った認識で、世界を分別してきたらしい。

 タレブは、人類史上、初めて「脆い」の正しい反意語を発見した偉人だ。その著書「ANTIFRAGILE」は、「脆い」という言葉を「良くても良くならない状態」と定義することから始まる––––

 ––––脆いものを、何か1つ想像してみる––––たとえば、崩れやすい砂の山、あるいは、ごく薄いガラス製のワイングラス––––

 このような脆い物を運搬するとき、僕たちは、丁寧に、慎重に、つまり、それが崩れたり壊れたりしないよう「最善」を尽くして運ぶはずだ。そうして、きちんと誰かの手元に届けられたとき––––

 ––––砂のお山やワイングラスは、元の状態より、何か良くなっているだろうか?

 以前より砂の一粒一粒が美しく輝きだしたり、それで飲むとワインが美味しくなったり、そんな改善が、ほんの少しでも起こっているだろうか?––––もちろん、否だ。そんなこと、あり得ない。

 次に、脆いの反意語として多くの人が挙げる「強い」を考えてみる。

 接着剤でかためた強固な砂山に、プラスチック製の頑丈なワイングラス––––それらを運ぶとき、あなたは、砂を積んだだけの物や薄張りグラスを運んだときのように、細心を払わないで済むだろう。つまり、良く扱ったりしない。ぶっちゃけ、乱暴に扱っても、崩れも、壊れもしないからだ。

 そんな強い砂山やグラスを、無事に先方へ送り届けたとき、やはり、それらは、良くなりはしない。

「強さ」というのは––––
「悪くても」→「良くならない状態」であって、
「良くても」→「良くならない状態」である
「脆い」と正対していない! ––––と、タレブは、言う––––

「良くても」という前半部分が「悪くても」と真逆になっているだけで、後半の 「良くならない」は、そのままの状態だと、彼は、指摘するのだ。

 そして、この世界には「脆い」と正しく(前半だけでなく後半もきっちり)反意する「悪くても、悪くならない」=「悪くなれば悪くなるほど、良くなる状態」がある事例を示し、それを「反脆い」と呼んだ。

 極論だが、乱暴に扱えば扱うほど、以前より、砂の一粒一粒が美しく輝き、それに入れて飲むとより美味しくなるような現象が、この世界にあると言うのだ(ホントに!?)。

 ––––それが「砂のお山」や「ワイングラス」で
   起こりうるかは別として……

 「良い(GOOD)」の反義語が「悪い(BAD)」であるように、「脆い(FRAGILE)」の逆を「ヒャモイ(?)」みたいに新しく名付けてもよかったんだろうけど(たぶん、面倒だから笑)––––「良くない(NO-GOOD)」的な「反脆い(ANTI-FRAGILE)」と、定義した。

 ちなみに、タレブは、リーマンショックの際、多くの統計学者や経済学者が「脆さ」を露呈する中、大きな成果を挙げた伝説のトレーダーでもある。  

 しごく実践的である賢者が提唱した新たな視点こそ「反脆弱性」であり、「脆い」の真逆にずっと存在していたのに、認識(定義付け/名付け)されていなかった現象だ。

 「反脆さ」の例を挙げてみよう。

 たとえば「筋肉」––––トレーニングという名の下、痛め付ければ付けるほど、現状復帰ではなく以前より大きく優れた組織へと成長してくれる。

 これこそ、まさに、反脆い状態だ。

 僕が、もっとも、グッときた例も挙げておきたい。

「 規 則 ・ 原 則 ・ 美 徳 」を、それぞれ––––
「 脆 い ・ 強 い ・ 反脆い 」
と、評価した部分だ。

タレブ氏は、法律を「状況によって、変化を余儀なくされる脆い存在」、憲法を「状況がどうであれ、正しいことを啓蒙し続けるだけの強い存在」、「美徳」を「状況が悪くなればなるほど、たとえば軍事国家に戻ろうとするときにこそ、それを防ぐためにより効果を発揮する反脆い存在」と評した。これは、強弱や善悪の2項対立では認識できない「第3の選択」を明示してくれている。

たとえば、日本の法律(規則)第百八十六号「原子力基本法」では、ウランやトリウムなどの原子核分裂のプロセスにおいて高エネルギーを放出する「核原料物質」の取り扱いを厳しく細かに規制している。それは「平和主義に則った戦力の放棄」という憲法(原則)に従ったものだ。しかし、この法律は、原子力に関する技術革新が進めば進むほど(状況が悪くなれば悪くなるほど)、まったく意味のない規制基準になってしまう可能性を、常に孕んでいる。国内に持ち込める量を具体的に制限しても、もっと少量で同様の効果を得られるようテクノロジーが革新してしまえば、その法律は真意を失い形骸化してしまう。よって「規則」というのは、常に変化させる必要のある「脆い(脆くあるべき)」存在なのだ。

その変化を促す根源である「憲法」は、たしかに強い。だが、いざ、戦争が始まってしまえば、平和主義よりも、まずは自分の愛する仲間を守ることが優先され、武器はすべて禁ずるという意識から敵に使うのであれば正義というふうにモディファイされる可能性はないとは言えない。

そんなときこそ、基本原則を生み出した精神––––つまり「戦争なんてしてはいけない」「人を殺してはいけない」という「美徳」こそが力を発揮するだろう。平和な状態が悪くなればなるほど、美しい精神が抑止力として優れていくはずだ。

(原書を参考に、僭越ながら筆者が要約)

「反脆弱性――不確実な世界を生き延びる唯一の考え方」ナシム・ニコラス・タレブ著 

 先の大戦で「非国民」と揶揄されながら、このような反脆い精神を貫き通せた人がどれだけいただろうか? 「反脆さ」というのは、それほど難しく、崇高で、ゆえに、普遍的であると思う。

 ビジネス向きの好例として、「半個体(プリンやゼリー)の容器」という話を考えた。プリンの容器にとっての「悪」は、中身が飛び出してしまうような「形状の変化」を指す。

 昔はガラスの瓶に入れて運ばれたプリンだが、それは「脆い(割れやすい)」状態だったと言える。そこで、登場したのがプラスチック製の容器だが、割れにくさを追求した技術革新による、その新たな「強い」容器は、形状変化を防ぎ(物流上の)頑丈さを付与しただけで、本質的な(味や香りなどの)商品価値は、一切、改善されていない。

 飛び出さなくなった中身の質も、向上したりしない。

 運良く割れるなどの形状変化(悪)が起こらなければ(良くても)そのままの(良くならない)状態、もしくは、運悪く形状変化(悪)が起こっても(悪くても)そのままの(良くならない)状態に過ぎない。

 この例で「反脆さ」を実現したのは、森永製菓の「inゼリー」に代表されるラミチューブ容器だ。これまで「悪」とされてきた「容器の形状変化」を歓迎し、形状変化という悪が起これば起こる(押し潰せば潰す)ほど、便利になる(良くなる)反脆さを持っている。悪を歓迎することで、中身の質は同じでも、ゼリーという商品の利便性が革新的に改善された好例だ。

 ちなみに、最初の例として「薄張りのグラス」を出したが、ガラスを薄く張るというのは、言い換えれば、割れやすくするということ––––同じく、形状変化という「悪」を起こりやすくすればするほど = 割れやすくなればなるほど(お酒を飲む人なら分かると思うが)、それで飲むビールはうまくなる反脆い商品だ。

 タレブ氏は、間違いを嫌うのは脆い状態、間違いを単なる情報として扱うのは強い状態、間違いを愛することこそが(犯す間違いは小さくもなるだろうし)反脆い状態とも、言及している。

 彼の思想もまた「集合天才(※)」や「アジャイル組織(※)」を別視点から推奨してくれる。

 音楽業界が、テクノロジーの発展によって悪い環境に晒され続けたことで、やっと見出した「モノづくりからコトづくりへと言われるトレンドの本質」や「テクノロジーによる恩恵は○○○○○なコトにある」という思考性も、すべて「反脆い」ものだ。

 だからこそ、この本は、音楽業界だけでなく、あらゆる業界にも通ずる普遍性を持っている。

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【集合天才 / アジャイル組織 / エスノグラフィックに興味のある方は↓】

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 音楽文化、及び、音楽産業は––––

▶︎ デジタライズ(物流からの解放)
▶︎ 最新デバイス(スマホなどからクラウドにアクセスするユビキタスな音源聴取)
▶︎ xR分野(後述するVR・AR/MRによる仮想的な音楽体験への没入)

 ––––など、様々なテクノロジーの進化によって、真っ先にインスピレーションを得てきたことは確かだ。

 YouTubeは、当初、新たな放送として、ラジオと同じように「脅威」として捉えられ、音楽業界はその使用を禁じたが、今では、ラジオのオンエア回数と同じく、YouTube上の動画再生回数を競い合うようになり、重要な人気指標の1つとして歓迎されている。

 変化を悲観しても何も生まれない。

 悪い変化でも歓迎する「しなやかさ」––––僕は、それを、タレブが発見した「反脆弱性」で評価/判断し、音楽業界を生き抜くフィロソフィーの根本に据えてきた。

 僕は、この本を、自分とかいうちっぽけな個人の成功体験ではなく、音楽業界全体の成功と失敗の歴史によって書いた。

 正しくは、僕が “書いた” のではなく、史実を、ただ “観察して”、日記のようにエスノグラフィックな文章として記録し、自然に光りだすヒント(普遍性)を、先人らの知恵(その代表格がタレブ氏の「ANTIFRAGILE」)を使い “抽出した” だけだ。

 現時点の自己という『点』ではなく、これまで、音楽業界に起こった挫折と栄光という『線』と『面』=『波(諸行無常の歴史)』に、他力本願な自信を持って、可能な限り、反脆いコトだけを認めたつもりだ。

 だから、この本の著者は、「僕という個人」ではなく「音楽業界という集合知」だ。

 ソクラテスは、言った。

「私は、自分が何も知らないことを知っている。
(自分が無知という事実以外、何も知らない)

 ただし、私は––––少なくとも––––
 知らないことについて知っていると思い込んでいる人よりは賢い。

 だから、私は、いかなる人にも、何も教えられない。
 私が唯一できることは、考えさせることだ」

筆者要約

 僕は、この教えを胸に深く刻み込み、狭く小さな心室の空っぽ(無知)を自覚し、自分の外側にあるカラフルな現実に教えを乞い、ゆえに考え、これを写生した。

「だから、遠い未来も人はアナログに旅をする」というのは、実はサブタイトルで、本題は––––

「本当の商品には付録を読み終わるまではできれば触れないで欲しくって、
 付録の最後のページを先に読んで音楽を聴くのもできればやめて欲しい。
 また、この商品に収録されている音楽は誰のどの曲なのか非公開だから、
 音楽に関することをインターネット上で世界中に晒すなんてことは……」

 この長いタイトルには、僕なりに、大切な意味と意図を込めている。
 もう一度、言っておくが、この本の著作権は、僕にはない。

2−2 
最高/最大/最新のテクノロジーは、
必ずしも体験の上質さと比例しない


 平面上に立体を感じさせるための透視図法を用いた写実的(3次元的)な絵画が、葛飾北斎の浮世絵に代表される2次元的な作品を凌駕するわけではない。

 事実「ジャポニスム」は、モネやゴッホといった後世の天才たちに多大な影響を与えた。最新の3DCGを駆使して描かれるアメリカのアニメーションが、緻密な手描きによる2Dセル画を用いた「ジャパニメーション」よりも素晴らしい感動を生むとも限らない。

 表現において、高次元的であることは良し悪しを決める要素ではなく、低次元も高次元も(つまり、点描も線画もグラデーションやダ・ヴィンチのスフマートもピカソのキュビズムも)それぞれがそれぞれの特異性(良し悪し)を持つ手法に過ぎない。

 テレビの動画は、1秒間に60枚の連続写真で描かれるが、映画やミュージックビデオの監督は、24枚という規格(滑らかではない方)を採用することが多い。両方とも、独特の質感を持つ甲乙付けがたい手法だ。

 北斎は、透視図法で描 “け” なかったのではない。描 “か” なかったのだ––––実際、2016年、北斎が透視図法を用いて描いた立体的な風景画がオランダで発見された。この絵は、長らく、西欧人による作品と考えられていた。

 このように、あえて、低い次元を採用したり、少なくしたり、小さかったり、あるいは、最新ではない技法であっても、アートにとっては等しく大切な技術だ。同じく、リアリティを追求することも、場合によっては、現実の少し下位に陥るときがあり、北斎の浮世絵のように、あえて現実離れさせるようなベクトルの方が良いケースもある。

 音楽業界は、印刷による楽譜流通に始まり、録音や撮影といったテクノロジーの進化と共にビジネスを拡張してきたが、必ずしも、最高/最大/最新(※)のテクノロジーを採用することが、顧客における音楽体験の上質さに繋がるとは限らない。

※ 特に「最新」に関して––––モノづくりからコトづくり、さらには、トキづくりまでをも謳う「今らしさ」を考える際、最先端で現代的と思われがちなモノゴトが、実は回帰的であったり、ずっと続いてきた普遍的であるコトを見落としがちだ––––たとえば、日本が初めて統一された時代を、大和と思うか、安土桃山と思うか、明治以降だと思うか––––それによって、歴史観は大きく異なる。大和時代、すでに九州から東北までを統べる存在があったとしたら、日本列島は、そのあと、再度、分断をして(同じ過ちを繰り返して)日本人同士で争う時代に突入したのだ。つまり、タイムライン上、徐々に日本という国が統一され、今に至るのではなく、幾度も、幾度も、分断と統合を繰り返し、差別や戦争を内包しながら、現代があるのであって、そんな順序よく物事が進んできたわけでない。ということは、これから先、今の朝鮮半島のように、日本が、再び、分断する可能性もゼロではない。やはり「温故知新」というのは、絶対に忘れてはならない的確な助言なのだ。


2−3
「音楽」と「文学」におけるデジタライズの違い


 第1章に記した通り、音楽と文学は、いずれもコピー文化を持ち、印刷技術の発展と共に複製を流通させるアート産業として成長してきた。

 それらは、「マテリアル」= 構成要素が明確になっているからこそフォーマット化しやすく「デジタライズしてインターネット上で送る」ことができる。だから、音楽も文学も、今となっては、CDや本にして物流されるだけでなく、デジタル配信が盛んに行われている。

 人間からすれば複雑な要素(母音、子音、息の多さ、リズム、テンポ、ノート:音程、トーン:音色、音の強弱、コード:重なり方など)の複合体である音は、音楽であろうが動物の鳴き声であろうが、物理的には「波形」というたった1つの構成要素からなり、2次元座標というシンプルなフォーマット(横軸:時間軸と縦軸:波の高さ)で「標本化(サンプリング)」できるからこそデジタル化できる(できてしまう)。

【フル・オーケストラの演奏であろうが、たった1人の声であろうが
あらゆる「音」は「波」のみで表現できる】

 このように、デジタライズの始点にあるのは、人の感覚に訴える媒体 =「マテリアル」の定義だ。そして、それが「視聴覚訴求」しか持っていなければ、インターネットで(デジタライズして)送る = デジタル流通が可能となり、コピーのコピーのコピー……×無限の再生が繰り返されていく。C2C(顧客間)で行われる複製行為は連鎖性を持っており、それが大規模に拡散した状態を「バズ」と呼ぶ。

 たとえば、インターネットを使って「恐怖」をバズらせたければ、まず、その構成要素を真剣に考えてみればいい。「未知」「驚き」「闇」など––––もし、それらが視聴情報しか持っていなければ(あるいは、視聴覚情報のみを抽出しても事足りれば)、恐怖はインターネットを通じて伝播可能となる。

 恐怖は(全部ではないが)その多くが視聴覚への訴求で占められている。

 赤くてドロっとした見た目や、血管の浮き上がった青白い肌に黒目のない眼球、不気味な声に、大きな悲鳴など……これらは、すべて、嗅覚、味覚、触覚を除く視聴覚情報のみであり、インターネット上でデジタライズして送ることで世界中に拡散されていく可能性を持つ。

 これを実際に悪用したのが、フェイクニュースだ。
 あれは、匂いも、味も、熱も持たない––––
 だからこそ、セカイに偽物のキョウフを伝染させていく。

「音楽」と「文学」––––それもまた、
「波」しか持たないものと「光」しか持たないもの––––

 ––––いずれも、インターネットとの相性が最高で最悪の文化であり経済圏だ。

 世界に無数のコピーを容易に生み出すという副作用を持つ「インターネット上で送る」プラットフォームは、カスタマーにとっては最高の文化交流の場であり、複製業者であるレコードメーカーや出版社にとっては(経済面で)最悪の市場だった。企業側にとって、顧客側の利便は、大きな脅威でしかなかった。

 では、音楽業界や出版業界は、この脅威をチャンスに変えるために、何をしたのか?(業界によっては、これから起こる未来かも知れない最悪に、どのように立ち向かったのか?)

 それを紐解くため、まずは「音源」と「本」の鑑賞におけるインターフェイス(設置面)デバイスのあり方を考察してきたい。すると、音楽業界と出版業界の間に、大きな差があることが分かる。

 ––––「文字」と「音声」、デジタライズが先に普及したのはどちらだろう?

 文字通信であった「ポケベル」と音声通信である「電話」––––先に、回線がデジタル化されたのは、ポケベルの方だった。90年代初頭、ユビキタス(いつでもどこでも)なモバイル通信デバイスとして活躍していたのはポケベルで、携帯電話による通信はマイノリティだった。つまり、文字によるデジタル通信が、音声によるデジタル通信を圧倒していた。

 デジタライズに関する技術面から見れば、文章データの方が音源データよりもはるかに軽く、それを鑑みれば、音楽業界よりも出版業界の方が先行してデジタル配信(決済も含めた商品流通のDX)が進むはずだ。

「Napster」や「YouTube(登場した当初はイリーガルにミュージックビデオが見聞きできるプラットフォームだった。そのため音楽業界もYouTubeへのミュージックビデオのアップロードは控えていた)」よりも「漫画村」の方が、技術的には実現が容易であり、通信容量も少ないので、普及も先行もしやすいと考えるのが普通だ––––

 ––––しかし、現実は異なった。

 先にDXによる煽りを受けた(デジタル配信によって苦しんだ)のは、音楽業界(※)の方だ。

 なぜ、そんな逆転現象が起こったのだろう?

※ しつこいようだが、厳密には「音源流通業界」であり、コンサートなどは、視聴覚以外の感覚情報を持つため、デジタライズしてインターネット上で送ること = DXができないため、悪影響はなかった。

 音楽には、触れられるような実体はないが、それを聴くためには、前述の通り、スピーカーもしくはイヤフォンが必要となる。同じく、言語にも実体はないが、文字を読むには本という物体(物質的な媒体)が必要となる。

 僕は、イヤフォンと本の違いこそが、音源流通と出版流通の運命の分かれ道だったと考えている。

 文字における媒体と人間側のインターフェイス、そして、記録メディアは、光(もしくは光の反射)を受け取る網膜と本だ。音声であれば、音という波動を受け取る鼓膜とCDとなる。

 本は、記録メディアでありながら、インターフェイス・デバイスでもある点が、大きく異なるのだ。音声メディアであるCDは、インターフェイス・デバイスを兼ねていない。それは、イヤフォンやスピーカーだ。本は、CDとイヤフォンが一体となった状態にある。

 このように、音楽業界では「記録メディア」と「伝えるためのインターフェイス」は別物だった。メディアはそのままでも、インターフェイスだけを選ぶこともできる––––1人で楽しみたいときはイヤフォン––––パブリックの範囲によってスピーカーはその大きさを変える。

 本は、そういうふうには出来ていない。

 メディアとしての本とインターフェイスとしての本は、同じ紙として切り離すことができない。

 技術的には重っ苦しい音源を扱う配信市場が先行して普及していった最大の理由は、インターフェイスデバイスであるイヤフォン、ヘッドフォン、スピーカーがまったく変わらなかったから––––つまり、CDやレコードの物流であろうが、デジタル配信であろうが、リスナーの体験の仕方が変わらなかったことに起因しているんじゃないだろうか。

 読者は、書店で物質的な本を購入するのと、デジタル配信で電子書籍を購入するのとでは、読書体験が変わってしまう。スマホやタブレットのスライドは、ページをめくる感覚とは大きくかけ離れているし、その端を栞がわりに折ることもできない。細かなところでは、光が反射光から自発光に変わって、網膜の捉え方も違ってくる––––

 ––––買い方が変わると、感じ方が変わる。 

 だから、出版業界では、なかなかデジタル配信(電子書籍販売)が進まなかった。が、音楽業界では、CDプレイヤーで聴こうが、デジタル配信アプリを搭載したスマホで聴こうが、リスナーの聴取体験(聴き方)に変化が生じないため、一気に普及した。ただし、それによって、企業側の流通・製造過程や決済方法などは、一切合切、大きく変化した。

 こうして、音楽業界は、またもや大きな変化の船頭に立たされたのだ。

 人類史上、テクノロジーの進化は、印刷のあとに録音、ポケベルのあとに携帯電話など、聴覚よりも視覚に訴える分野で先行してきたにも関わらず、「デジタライズしてインターネット上で送る」ビジネスにおける急激な変化は、出版業界よりも音楽業界で先に起こった。

 それは、本というインターフェイス兼メディアは、2C向けのUIDやUX(ユーザー・インターフェイス・デザインやユーザー・エクスペリエンス)として、いまだに最高の利便性を誇っているからに他ならない。


※ この章の原文を書いたのは十年以上前のことで、当時は、続きをこのように書いていた––––

「文字情報による体験を音声情報による体験と同じように捉えていると、音楽業界の音源プロダクトと同様のマーケティングを、短絡的に、出版業界の製本プロダクトへも当てはめるような悲劇が起こるかも知れない。実際、紙をデジタル・インターフェイスデバイス(タブレットなど)で代替しようとする試みはある。が、音楽業界に起こったような急激な浸透は見せていない。その理由は、ここに書いた「体験価値」=「感じ方」が変わってしまうコトに起因しているのではないだろうか。今後、何らかの理由で(たとえば、環境保護の観点から木を伐採してつくるパルプの生産が限定されるなどして、物質としての絵本が減少し、紙の教科書やノートもない世界で、幼い頃からデジタルデバイスで読み書きする環境で育ったデジタルネイティヴでも誕生しなければ)エンドユーザーと接する本や新聞というメディア兼インターフェイスは劇的な変化を迎えることはないように思う。もちろん、クラウドにアクセスするデジタル出版が猛威を振るったり、電子ペーパーで出来た新聞型あるいは本型のインターフェイスデバイスが誕生する可能性は大いにある。が、まだ、先のことのように思う。それは、音楽で言えば、スピーカーやイヤフォンというインターフェイスをなくそうとする試みに等しいからだ。そして、出版業界に限り、インターフェイスは、自動的に流通や体験におけるメディアとそれを取り巻く便利な産業構造に紐付いているため、インターフェイスとメディアが個々に切り離されて変化を受け入れざるを得なかった音楽業界と異なり、変化が起こり難い構造になっている」

 ––––その後、僕の予想をはるかに超える速度でデジタル書籍は普及していった……が、レコードメーカーに起こったような悲劇は起こらなかった。これは、実際、某大手出版社の経営層から、直接、聞いた話だが、日本の出版社は、先行してDXが進んでしまった日本のレコードメーカーの惨状を見て(それを反面教師に)自社で配信プラットフォームを持つことにした面があるらしい。現在、音楽のデジタル配信業界を牛耳っているのは、音楽業界ではなく、アップルやスポティファイといったテクノロジー企業だ。彼らは、音楽ではなくITという業界に属している。レコードメーカーを内包しているからといって、ソニーという企業全体を音楽業界に分類する人はいないだろう。元々、ソニーは、音楽産業、映画産業、ゲーム産業などのエンタメ分野を、ハードを売るために活用しようとした。それと同等、もしくは、それ以上に、音楽という文化そのものへの貢献以外の部分 = IT分野から音楽という文化に貢献しているのが、アップルやスポティファイなどだ。漫画村やアマゾンが本(の中身=コンテンツ)を流通させたからといって、出版業界と思う人はいないだろう。


 ここでも、「最新」のテクノロジーと「上質」な体験価値は、必ずしも比例しないという教えが活きる。事実、音楽業界においても、デジタライズに関するテクノロジー進化の煽りをもろに受けているのは、情報を流通するためのメディア(CD)側のみだ。インターフェイス(スピーカー)側のビジネスに、それほどの(悪い)変化は起こっていない。

 DX、DX、と、声高らかに叫ぶ向きもあるが、それがイコールUXの向上に繋がっていなければ、危険な場合もあるというのが音楽業界からの見立てだ。

 デジタライズしなくても良いことまでデジタライズしようとしたり、視聴覚情報以外にも重きのあるコンテンツをデジタライズすることで魅力を半減させたり、そんな愚行は避けるべきだ。

 DX以外にも、インタラクション、xR、アバター、人工知能(AI)、DAO、NFT、ブロックチェーン、マルチバース、メタバースなど、響きだけはそれっぽくて、数年経てば跡形もなくなる可能性を持つ一過性のテッキーなトレンドワードに惑わされず、カスタマー(ユーザー)側に立った「どのような体験価値が求められているか?」を前提に、それを実現するためには「どのような技術を、どれだけ活用するか?」を検討すべきだ。

 そして、技術の選択肢には、まだまだ不安定な最新テクノロジーだけでなく、安定していたり普遍的なレガシーなものも含めておくべきだと思う。

 僕は、物としての本という手触りを持った書籍も、電子書籍も読む。

「あのページを見直したい!」

 そう、思ったとき––––スマホやタブレットなどのデジタル・インターフェイスデバイスよりも、まだ、はるかに、本という物体の方が優秀な機能を持っている場合がある––––紙で出来たページをめくりながら過去に戻る速度や感覚に、スライドが勝てているとは、到底、思えない。

 電子書籍にも「栞」という機能は実装されているが、未来の自分の気持ちを予想して、今という時点で大量に手軽に「付箋」を挟みまくっておいて、あとで本の厚みと付箋を活用した直感的な「まとめ」を行えるような機能は、どこにも見当たらない––––

 もしかすると、それは、最新テクノロジーでデジタライズしていくと、知らぬ間に、ふと、失われてしまうコトかも知れないのだ。

【 ご参考までに、梅崎健理さんの「ニューアナログ」という予言 】

 隣の芝生は青く見えるというわけじゃないが、もし、出版業界と音楽業界が「デジタライズしてインターネット上で送る」面で、逆のタイムラインにあったなら、僕たちレコードメーカーは、出版社の惨状を見て、自社でサブスクリプション型のデジタル音楽配信サービスを始められただろうか……正直、そんなに自信はない。

 でも、もし、今、DXの矢面に立たされている他業界のビジネスマンがいれば、その両方ともを鑑みた上で、選べばいいのだ。すでに僕らに起こった未来を、参考にして頂いたり、あるいは、反面教師にして、これからやって来るあなたの未来に確実性と自信を持って対峙すればいい。

 そんなあなたが、ちょっぴり、羨ましい。
 出版業界の自社アプリだって、とんでもなく羨ましい。

 でも、こうも思う––––

 近所の子どもが、TikTokで、キャッキャッと踊っていたり、一般人が作成してくれた素晴らしいプレイリストに自分が担当するアーティストがセレクトされたり、そんな場面に遭遇したときだ––––

 あぁ、レコードメーカーは––––
 音楽という文化は––––
 これで良かったのかもな、と。

 参考として歓迎すべき、あるいは、反面教師として回避すべきは、あなたの業界にとって––––

 出版社で、すでに起こった(あなたからすれば)未来なのか?
 レコードメーカーで、すでに起こった(あなたからすれば)未来なのか?

 ––––ビジネスマンからの視点だけでなく、カスタマーの目線にも立って、ベストを選び、世界と業界を救ってほしい。もしかすると、そこには、出版社とレコードメーカーの事例を掛け合わせた第3以上の選択肢があるかも知れない。僕も、また、それに学ぶだろう。

 そうして、僕たちは、世界の不条理に立ち向かっていくのだ。


2−4 
変化に対する反応速度は狙って出せる


 前述の通り、現代的な音楽産業(※)の起源は、グーテンベルクによる「活版印刷」の発明によって興った楽譜出版だ。15世紀の話––––楽譜を複製し、それを貸与もしくは販売するための流通網や権利金分配システムが整備されていった。

※ 古来より大道芸人やストリートミュージシャンのような(産業とは呼べないかも知れないが)音楽に関する商売を行う人はいた。

 それから約500年後、20世紀初頭に登場した当時の最新テクノロジー「録音」によって、音源(レコード)流通ビジネスが登場する。

 決められた会場に赴き、同時に、みんなで、享受する生演奏のコンサート生演奏(ライヴ)を公共の場で楽しむコトが一般的だった時代––––いつでも好きなトキに個人で楽しめる音楽鑑賞の登場は革新的な出来ゴトだった。

 1920年代には、ラジオ放送(無料で聴けるコト)が普及し、さらに、ある兄弟がその文化に拍車をかける。音楽聴取体験に「いつでも」だけではなく「どこでも」を付け加えたのだ。1930年代に登場した「カーラジオ」だ––––それは、音楽を持ち運べる(モバイルする)コトを提供し、車での移動というプロセスを音楽で演出するコトにも成功した。

 そのプロダクトは、自動車の「Motor」と音を意味する「Ola」を組み合わせた「Motorola」という愛称で大きな人気を博す。兄弟が立ち上げた会社「モトローラ」が、その後、どのような活躍を見せたかはご周知の通りだ。

 放送という無料聴取 = 「Free Listening(B2B4Cモデル:ユーザーからは料金を受け取らず、企業からの広告収入を糧とする)」という仕組みによって、B2Cで、音源を流通するビジネスはすぐさま「脆さ」を露呈する。アメリカでのレコード売上は、最大で約25%にまで落ち込んだと言われている。

 レコードメーカーの最初にして最大の危機を救ったのは、1940年頃に登場した音楽を共有するトキ(曲をバックに踊るコトや、周囲に自らの音楽センスを自慢する、はばからず言えば、ひけらかすコト)を提供する「ジュークボックス」だった。

 カスタマーは、個人がいつでもどこでも好きな時間や好きな場所で聴けるコト(パーソナライズ)こそが最先端だったはずの音楽鑑賞に、再び、コンサートのような回帰的な(コンサート会場に近い)公共性を求めはじめたのだ。

 集団で同時に決められた曲を聴くというパブリックなトキを「不便だ!」と決め付けて、個人の選曲に付き合うコトで共有せざるを得ないトキが(場合によっては)音楽を楽しむために必要なプロセスを持っているコトを見失っていたのは、他でもないレコードメーカーだった。

 1980年代に入ると、「カセットテープ」と「ウォークマン」が登場し、曲目や曲順を自由に編集するコトや、音楽をモバイルするトキ(車に乗っているトキ以外のあらゆる日常にBGMを付与するコト)の提供を実現した––––

 この段階で、音楽業界は、自身の市場(にいるカスタマー)が、

「音源を聴くモノ」よりも「音楽を楽しむコト」の方に––––
「音楽を聴くだけのモノ」ではなく「音楽を使って楽しむコト」の方に––––

 より大きな価値を見出しているコトに気付くべきだったのだ(が、実際にはそうはならず、21世紀初頭まで「より良い音で聴くだけのモノ」の登場を望む「高音質信仰」が、根強く残っていった)。

 1970年代以降に登場した「CD(というよりも重要視すべきはCDラジカセだったのだが)」は、音楽をデジタライズして(ただし、インターネット上で送るのではなく)物流させるコトによって、楽曲の頭出しするトキのストレスを解消し(※)、人々がカセットテープで自分らしいミックステープ(現在のスポティファイで言うところのプレイリスト)をつくる際に、劣化しづらい高音質コピーができるコトなどを提供した。

※ レコードは、正確な頭出しが不可能であったし、カセットテープもデジタルではなくアナログ(連続的)なテープという物質を早送り(通常再生よりも速いスピードでテープを回すこと)しかできなかった。レコード:瞬時に針を飛ばせるが正確ではない、カセットテープ:正確な頭出しは可能だが時間がかかる、という時代に、CDラジカセのボタンを押すだけで瞬時に正確な頭出しができる機能は画期的だった。

 レコードメーカー以外の市場––––音声に関するハード市場、記録メディア市場、音源レンタル市場––––あらゆる音源にまつわるマーケットが、CDという光の円盤を無条件に大歓迎し、これを起点に、音楽バブルが完全に終焉を迎える2000年代初頭まで、誤った高音質信仰が形成されていく。

 それは、音楽(ソフト)業界全体が電子機器(ハード)メーカーの「モノを売るためのコト」として非常に上手く機能していた証拠でもあり、レコードメーカーの衰退を招いた負の経験でもある。すでに「VHS」が「BETA」に、「ファミリーコンピューター」が「メガドライブ」に打ち勝ち––––「ハード(高性能なモノ)」よりも「ソフト(上質なコト)」という顧客目線に立ったフォーカスが示され、

「企業側が誇る過剰に高性能な技術開発(オーバースペック)は、
 顧客にとっての体験価値における上質さと必ずしも比例しない」

 という教訓が成立していたにも関わらず、ハードメーカー資本ではないレコードメーカーまでもが、その似非神話に取り憑かれていた。そもそも、CDもDVDもデジタライズした時点で、高音質とはかけ離れた発想によるソリューションであったにも関わらずだ。

 20世紀末から徐々にインターネットが普及すると、音楽鑑賞において物流が必要不可欠ではなくなり、デジタル流通が盛んになっていく。

 音楽は、この世でもっとも手軽に売買できる商材の1つになった。

 ファストフード店やコンビニで食事を買うよりも、新しい音楽を聴くコトの方が安価で、音楽を聴くトキの入手が何より手軽な時代に突入した。

 さらに、PC1台で、音声の録音や擬似的な楽器演奏など音源制作全般を行えるソフトウェアや「初音ミク」をはじめとするヴォーカロイド(もっとも難しい音楽表現の1つである歌唱の代替テクノロジー)の登場によって、DTMが普及し、一部(特にレコードメーカー)に許されていた特権的で高価な音源制作環境までもが、広く一般に普及していった。

 mp3という圧縮技術と、iPodなど大容量の記録デバイスによって、世界にあふれる無数の楽曲から手軽に好きな楽曲を探し出してモバイルできるトキの提供や、CD時代には形骸化していたランダム再生機能が初めてきちんと機能しアルゴリズムによるサプライズなコトが実現した。

 それに準じて、「デジタライズしてインターネット上で送る音源流通市場」は、音楽業界ではなく、IT業界(アップルやスポティファイなど)の支配下に移っていく。製品のフォーマットを決めるのも、価格帯を決めるのも、レコードメーカー側ではなくプラットフォーマー側になった––––これは、他の業界から見ると、かなり、異様な状態だ。

 そんな中、猛威を振るっていた「高音質信仰」は、やっと、音源流通ビジネスから消え去っていった。かつて、「mp3で音楽を聴くような奴は、ディレクターではない!」と言い放っていた業界人でさえ、スマホやPCで音源を聴かざるを得ない。カスタマーがそれで聴取するからだ。

 これが良いコトなのか悪いコトなのかはさておき、非常に切ない絶対的事実として、もっとも高性能なアナログテープ方式の録音機器はスタジオの隅で埃にまみれ、高音質なプレイヤーはレコードメーカーのオフィスでさえ見かけなくなった。

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 そして、現在、2020年代––––YouTubeやスポティファイなど「無料」もしくは「サブスクリプション型」の音楽ストリーミングサービスは、日本最大のレコードショップでも到底及ばない品揃えを誇るクラウドにアクセスできるコト(権利)を販売し、iPodのランダム再生が提供していた「すでに知っている好きな曲がいつどこで流れるか分からないドキドキ感」をはるかに超越する「世界中でリリースされてきたあらゆる楽曲にユビキタス(いつでもどこでも)にアクセスし、まだ知らない好きになるかも知れない曲との意図的でありながら偶発的な未知との遭遇」という高度に進化した上質なコト(サプライズ)「人工知能によるレコメンド機能」を実装している。

 その先の未来には、人工知能による「パーソナライズ(自分のためだけのオーダーメイド型楽曲制作)」が待っているかも知れない。

 加えて、前時代の「ミックステープ」や「カラオケ」とは比べものにならないほど大規模な「民主的なプレイリスト制作」や「歌ってみた文化」が普及し、音だけでなく映像や動きまで伴ったC2C市場が活性化した。

「UGC:User Generated Contents)」と呼ばれる「〜てみた動画」などは、カスタマー自らが音楽を使って「発信者になるコト」の啓蒙に成功した。これは、新たなミュージックビデオの生成装置という面も持っており、2C(カスタマー)にとっても、2B(アーティストやレコードメーカー)にとっても、新たな「メディア」兼、新たな「クリエイティヴ・ソリューション(コンテンツ制作システム)」でもある。

 ラジオ放送の登場で音源が売れなくなったレコードメーカーが起こした「ラジオ局への不売運動」から約百年後––––レコードメーカーは、新たな放送とも言える「YouTube」に対して、懲りもせず「ミュージックビデオのアップロードを禁止」を発令した––––もちろん、作詞作曲者の権利を守るという面で善意的な部分もありつつ、主には、映像商品が売りモノであることに固執した結果だ––––

 ––––そのとき、若手のA&Rだった僕は、会社の言うことを聞かずに、抜け道(アメリカのレーベルと契約をして、そのレーベルからあくまで欧米向けという体裁)で、ミュージックビデオをアップした––––彼らはまったくの新人バンドだったが、(おそらく日本人のアーティストでは、初と言っていいくらい初期の段階で)百万回再生を記録し、チャートでもトップ20以内に入り、その後のアルバムは、すべてトップ10入りを果たした。

 このとき、保守的な考えで叱ってきた上司に対して、僕はロジカルな説明をすることができなかった。YouTubeが数年以内に広告モデルや権利徴収システムを確立し、音楽業界においてもプロモーションの要になることは伝えたが、あくまで、勘として処理された。

 でも、もし、そのときにラジオ放送の歴史を知っていたなら、こう言えたはずだ。

「近い将来、必ず、YouTubeでの再生回数を競い合う時代が来るはずです。
 なぜなら、百年以上前、ラジオ放送とレコードメーカーの間で、すでに起こった不買運動と同じ構造だからです。

 そのとき、負けたのはレコードメーカーです。

 現に、僕たちは、ラジオ放送での再生回数を競っていますし、なんなら、ラジオで自社の曲が流れることで権利収入を得ているじゃないですか!

 YouTubeも、きっとB2B4Cで広告収入を得るビジネスモデルを築いて、プロモーションになるだけでなく、権利徴収にも寄与するはずです」

 歴史は未来に向けた提言の最たるエビデンスだ。
 勘に強い光を与えてくれる根拠は、過去にある。

 ––––だから、Vineが登場した際(その後、Musicallyが登場し、それが、TikTokへと変遷するかなり前の段階から)––––これらの新たなアプリケーション兼プラットフォームが「ジュークボックス(という事実)」とまったく同じ流れや構造にあり、音楽を使って、自分が踊ったり、自分の音楽のセンスを披露するカルチャーは、きっと、僕たちに良い影響「も」もたらす存在になると断言することができた。

 もちろん、それは、繰り返された歴史(すでに起こった未来)だったからだ。ただし、それだけではなく、次章に書く「○○○○○」という判断基準からも有用であったし、何より、前述した「反脆い」と判断できる要素(無料で拡散されればされるほど人気は高まるなど)が多々あった。

 デジタライズしてインターネット上で送るコトが普及した現代、レコードメーカーにとっての悪である「コピー文化(2次創作文化)」が広まれば広まるほど、つまり、状況が悪くなればなるほど、悪化する音源流通ビジネスは「脆く」、対して、踊ってみたり歌ってみたりされればされるほど(コピーされればされるほど)利益改善してくれる権利徴収ビジネスは「反脆い」と評価できるのだ。

 音楽業界において(色々な見方があるが)、

▶︎ 脆いビジネス:
  音源という固定的なモノを「聴くためだけのコト」として売る
▶︎ 強いビジネス:
  音楽を演奏するという原則であるコト = コンサート(ライヴ)
▶︎ 反脆いビジネス:
  音楽を使う場(放送局、カラオケ、ジュークボックス、TikTok etc.)
  = プラットフォームから使用料を徴収するコト = 権利徴収ビジネス

 というトライアングルが成り立つ。

 これは、音楽業界を普通に紹介する本では、三大産業として以下のように書かれている。

▶︎ 脆い「レコードメーカー」:
  商材 = 原盤(録音された音源/撮影された映像)
▶︎ 強い「マネジメント(芸能プロダクション)」:
  商材 = アーティスト(人)
▶︎ 反脆い「音楽出版社」:
  商材 = 音楽そのもの(著作権)

 ただし、あたかも音楽業界の中心やメインにいるのは、レコードメーカーというふうに書かれている場合も多い––––が、「反脆さ」という観点からいえば、圧倒的に、プリミティヴで普遍的な「音楽そのもの(権利)」を扱う音楽出版社が反脆く、次いでマネジメントが強く、レコードメーカーが行っている「原盤流通」というビジネスは、脆いと言わざるを得ない。

 その証拠に、登場してわずか20年以内で、ラジオ放送によって大きな危機を迎えているし、今も、常に「デジタライズしてインターネット上で送る」コトの脅威に晒されている。

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 あくまで、僕の中の答えだが––––結論を述べると、音楽業界におけるレコードメーカーなどという存在は、600年以上ある歴史の中で、録音という技術が生まれて以降、たった数十年だけバズったすぐに弾けがちなバブルみたいな存在であり、音楽業界が売るべきは「音源」ではなく「音楽」であり、音楽業界のカスタマーは、ずっと昔から、一方的に受動する(ただ聴くだけの)「リスナー」ではなく、音楽を使って能動的に楽しむ「ユーザー」なのだ。

 それは、たとえば、リスナーとしてCDというモノを買うのではなく、ユーザーとしてスポティファイに有料登録し、プレイリストをつくり、それを聴きながらジョギングし、友だちとセンスをシェアするなどを楽しむ「モノ売りではないコト売り」とも言えるし、またあるときは、握手会という体験(コト)をつくってCDというモノを売る「モノを売るためのコトづくり」でもある。

 そして、そのすべては、音楽にまつわる「トキづくり」という一言に尽きるのだ。

 ラジオ放送も、YouTubeやTikTokも––––今となっては、あらゆる「脅威」が、おおよそ音楽業界にとって大切な宣伝やマネタイズの「チャンス」として捉えられている。そして、悪ければ悪いほど良くなる状態は、音楽出版社の反脆い権利徴収ビジネスによってもたらされている。

 現在のレコードメーカーは、自社の楽曲がラジオやテレビやインターネット上のあらゆるプラットフォームで「何回オンエアされたか?」を、日々チェックし、自社の音源や映像の再生回数を常に競い合っているが––––

 インターネット上の新たな放送においては、企業側が大量の資本を投入したリッチな映像コンテンツ(音楽業界であればミュージックビデオ)が、カスタマーがつくる低予算の映像コンテンツ(TikTokerの踊ってみた映像など)に、合計再生回数で敗北するシーンも多々散見されている。

 同じような事例として、かつて、レコードメーカーの主力商品の1つであった「コンピレーション・アルバム(懐かしの90年代ヒット、恋愛がテーマのものなど、レコードメーカーの垣根を越えて、A&Rがキュレーション能力を発揮した商品)」も、今となっては、スポティファイなどのサブスクリプション型のサービスを通じて、一般のユーザーにエンパワーメント(権限委譲)が済み、毎日のように優秀なコンピレ(プレイリスト)が、数多、生まれ続けている。

 僕が知る限り、スポティファイは、この機能をあたかも当然のように実装し、レコードメーカーは知らぬ間に、コンピをつくる権利を奪われてしまった––––ユーザーの利便性から見れば「悪」でしかないが、「同じレコードメーカーの音源でないとプレイリストにできない」という主張をすることもできたはずだが、もう、僕たちにそんな力は残されていない。

 だから、それをチャンスと捉えるしかなかった––––これも、また、事実だ。

 前述した大手出版社の常務の言葉を覚えているだろうか? 彼が「音楽業界の惨状」と評したのは、たとえば、このような弱体化なのだ。

 漫画村の合法版みたいなプラットフォームがあるとして、月額、たった千円ほどで、あらゆる漫画が読めて、一般の読者が、勝手に、秋田書店と講談社と角川と集英社と小学館とスクエニの漫画を一緒くたにして、チャンピオン、マガジン、エース、ジャンプ、サンデー、ガンガンに代わる自分なりの「週刊(月刊)webマンガ誌」を、自由にキュレーションし、発信できるシステムがあったらどうだろう?

 読者は大歓迎だし、いち漫画ファンとしての僕は、是非、やってみたいと思う––––

 ––––が、出版社側、漫画家からしたら、
   たまったものじゃないだろう。
   音楽業界では、それは、
   すでに起こってしまった未来だ。

 レコードメーカーという特権階級がコンピCDを牛耳っていた時代は、一定の割合以上を自社の楽曲で占めなければならなかったし、同業他社に現役の超人気アーティストの楽曲を収録させることは互いに暗黙の了解で避けるなど、マナーや習わしが存在した。それを乗り越えて素晴らしいコンピCDを完璧にリリースするのは、ある意味、至難の技でもあった。

 が、今はどうだろう?––––

 プレイリスターたちは、自身が発表する新たなコンピレーションに収録する曲を、いちいちレコードメーカーに確認する必要はない。割合など気にもせず、自由に、好きに、エイベックス、キング、コロムビア、ソニー、テイチク、トイズファクトリー、バップ、ビクター、ビーイング、フォーライフ、ポニーキャニオン、ユニバーサル、ワーナーなどの音源をごちゃまぜにできる。それは、かつてなら、決して、公なマーケットには可視化されなかったプライベートなものだった。が、今は、パブリックなことだ。

 それを仕事が奪われた(脅威)と捉えるのか?

 エンパワーメント(権限委譲)が済み、民主化が起こるチャンスと視るか?

 あるいは、リスナーやユーザーにとっては素晴らしいことでも、アーティストにとっては生き辛さを助長することで、音楽文化の衰退を招いていると嘆くのか?

 いや、ボカロPなど、完全なるフリーランスからすれば、かつて封建社会のてっぺんであぐらをかいていた王様であるレコードメーカーからの権利奪還、民主化運動や革命であり、むしろ、文化の発展に寄与することなのかも知れない––––高額(リッチ)なモノづくりが必ずしも上質な体験を生むわけではないことは、すでに多くのYouTuberやTikTokerやプレイリスターによって証明されている––––彼らは、現代に生まれたまったく新しい音源/映像制作における民主化運動のロックでありルソーのような存在だと、昂るのか?

 現実のあらゆるが、考え方1つで悪にも正義にもなる––––

 ––––ただし、反脆弱性という基準であれば––––圧倒的に、エンパワーメントを行い、民主化を促し、権利徴収する方が「反脆い」と理解できてしまいもする。

 悪かろうが––––反脆いという状態は、それを能動的に「歓迎」しにいく「しなやかさ」を持っている。

 ––––僕が高校生だった1990年代に宅録(自宅録音の略)をしていた人は、1学年に1人いるかいないかのレアケースだったが、今や、DTMをする人がクラスに数人いても驚きはしない。軽音楽部が増加傾向にある。つまり、音楽を制作したり演奏したりするコトに興味を示す一般人の割合は着実に増えているのだ。

 それは、聴くだけでは物足らず、もっと能動的に音楽文化という輪に携わりたいという市場からのメッセージだ。それは、前述した「オリジナルの創作ではなくコピーに重きを置く音楽教育」に、素晴らしい変化をもたらすかも知れない。

 これもまた新たな民主化の1つなのだと思う。レコードメーカーというパトロンがいなくとも、まったく遜色のないレコーディングが行える。僕たちは、市民革命における滅びゆく特権階級の役であり、こういったエンパワーメントが至るところで起こっているのは、音楽文化も、音楽業界も、間違いなく進化の途中にいるからだ。

 文学の世界で紙とペンが普及し、こういったエンパワーメントからの民主化が起こったのは、江戸末期から明治あたりだろうと思う。音楽業界では、今、まさに、それが起こっているのだ。

 なら、黎明期の文壇が形成されていくプロセス(歴史)を調べれば、ボカロPとの共通項や、この先に起こる未来の傾向を、精度高く予測できるのかも知れない––––

 たとえば、21世紀の純文学に繋がっていく現代小説の初期に、明るい小説は少ないし、自殺がやたらと出てきたり、今の言葉で「厨二病」的な雰囲気が存分に感じられたりもする––––とにもかくにも、内向的であるし、イタイ––––僕は、文壇の興りとボカロの黎明期には、非常によく似たアーティストの志向性があると感じている。

 ボカロは、今後、どのように変化していくのか?––––素晴らしい予測をするためには、たとえば、文学史を調べてみればいいのだ。芥川賞の変遷を辿ってみるのもいいかもだ。

 事実的に見て(何の差別意識もないし、ここでいう男女は一旦生物学的な性別で書かせてもらうが)ボカロ文化は、初期の文学界と同じく、男性社会の様相が強い––––が、そんな遠くない未来、むしろ女性の方が男性よりも活躍していたり––––あるいは、明るい話や日常における機微を描いたような小さな視点の何も起こらない曲が流行るかも知れない––––

 それらの予測は、ボカロという数十年というスパンしか持たない短い波では見えてこない。業界を、音楽から出版、もっとセグメントすれば、ボカロPから文学へとスライドし、すでに起こった未来としての文学界という百年以上ある(少なくとも音楽業界やボカロP文化より)長く大きな波を眺めてみて、初めて分かる予測だ。

 勘は、勘だし、運は、運だ。

 でも、僕は、それらの精度を上げることができると、
 本気で信じている。

 ほんの少しかも知れないけれど……

 それでも、僕がもっとも嫌う「ただの勘」や「偶然に過ぎない運」よりマシだ。それは「好き」という「愛」から生まれる「執念」に裏打ちされた「研究」から生まれる。

 その「研究」は、必ず「歴史」を知ることから始まり、やがて、現状に深くダイブするに至り、最終的には、未来の海面に浮き上がる手前で夢から覚めたような気にさせる。

 大切なのは、新たな技術革新による「脅威」に対して、ひたすら怯え、臆するのではなく、「チャンス」として捉えられる部分がないか? を、素早く見極め、率先してビジネスの「フィールド」として活用することだ。

 それを評価するときに役立つのが「反脆い」なのだ。

 今の出版業界のマンガにおけるサブスク・サービスの自社運営という「良い」状況において、わざわざ「反脆い(悪ければ悪いほど良くなる)コト」を探す必要はない。ただし、音源流通業界のように、悪い状態に追い込まれているときは、反脆い目盛りを持つ物差しをあててみるべきだ。

 音楽業界は、技術革新の最先端で、常に、最速で、脅威に晒されてきた––––そこには、明確な理由があった。それを踏まえた上で共有できるコトは「未来の予測の仕方」ではなく、「変化に対する判断基準」だ。

 たとえば、サブスクリプション型の音楽ストリーミングサービスを「フィジカル販売 → デジタル配信 → サブスク・ストリーミング」と、流通市場の変遷という目線だけで捉えてはいけない。「ラジオ → MTV → YouTube → サブスク」と、メディア史としても捉えるべきだ。

 織田信長は、戦国武将でもあり、ビジネスマンでもあり、宗教的な影響を与えた人でもある。

 ––––歴史は––––多層的で––––ひと筋縄では語れない。

 次の変化を正確に予測することは誰にもできないが、すでに起こってしまった抗えない変化に対する「反応速度」は狙って出せる。そして、そのスピードこそが、ビジネス上のスケールやメリットを大きく左右する。

 素早く、軽やかに、スタートダッシュを切るための準備運動こそ、温故知新だ。なるべく長い歴史の中から、最悪の時代に光を兆した「反脆い(悪くなればなるほど良くなった)」事例を拾い集めておくコトを、強くオススメする。


【 マ ガ ジ ン 】

(人間に限って)世界の半分以上は「想像による創造」で出来ている。

鳥は自由に国境を飛び越えていく
人が そう呼ばれる「幻」の「壁」を越えられないのは
物質的な高さではなく、精神的に没入する深さのせい

某レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら、クリエティヴ・ディレクターとして、アート/広告/建築/人工知能/地域創生/ファッション/メタバースなど多種多様な業界と(運良く)仕事させてもらえたボクが、古くは『神話時代』から『ルネサンス』を経て『どこでもドアが普及した遠い未来』まで、史実とSF、考察と予測、観測と希望を交え、プロトタイピングしていく。

音楽業界を目指す人はもちろん、「DX」と「xR」の(良くも悪くもな)歴史(レファレンス)と未来(将来性)を知りたいあらゆる人向け。

 本当のタイトルは––––

「本当の商品には付録を読み終わるまではできれば触れないで欲しくって、
 付録の最後のページを先に読んで音楽を聴くのもできればやめて欲しい。
 また、この商品に収録されている音楽は誰のどの曲なのか非公開だから、
 音楽に関することをインターネット上で世界中に晒すなんてことは……」


【 自 己 紹 介 と 目 次 】

【 プ ロ ロ ー グ 】



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