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第8章 / いつかこの世界はこの世界ではなくなる. 【前篇】 不変を重宝する現代性に反して変わりまくる記録。

8−1 
永遠に完成しない未来のオブジェクト


 オブジェクトには、「物や物体」という意味の他に「目的や目標」という意味がある。

 タイトルに冠した「永遠に完成しないオブジェクト」とは、すなわち「時代や環境に合わせて可変する物や目的」というコトになる。そして、そんな不確かでふわふわとしたオブジェクトがなければ生きてゆかれない人間にとって、大切にすべき哲学が「反脆弱性(悪くなれば悪くなるほど良くなる状態)」であり、それは普遍的な「美徳」へと繋がっている。

 人間の描く目的や求める物などは、いかに「脆いモノであるか?」を認識し、状況によってアジャストしていくコト––––つまり、変化を恐れない反脆い精神(むしろ、変化を歓迎するしなやかさ)––––それを助けるメソッドこそが「ナラティヴ」であり、そのメソッドを最大限に活かせるフィールドが「xR(イマーシヴ = 没入型の仮想現実)」なんだと、たったそれだけのコトを7章もかけて長々と書いてしまった……

 それなのに、僕が書く「本編」は、実は、この第8章なのだと言ったら、お叱りを頂戴すること必至だ。

 読むのを止める前に、もう少しだけ、お付き合い願えないだろうか?

 もし、ご自身の生活に今すぐ役立つ情報を求めていらっしゃるなら(それにお応えできたのかは分かりませんが)ここまでお読みいただければ十分だ。なぜなら、ここから先は音楽業界の中のボクが書く妄想だから……より一層、今すぐ役立つコトなど書けないし、最悪の場合、未来永劫、無用の戯言に終わる可能性も否めない。

 つまり、読むに値しないかも知れない。

 一方、7章までに記した内容は、ボクというちっぽけな個人の経験や知識から導き出した方法論ではなく、音楽業界という何千何万を超える人々が15世紀から紡いできた歴史から拝借した「ちょっぴりの成功」と「夥しい失敗」に由来する「知恵(集合知)」だ。

 だから、価値がある(かも知れない)。

 だって、少なくとも、ボクが書いたわけじゃないから。500年ほど続く音楽業界がボクに書かせただけで……その内容を創り上げたのも無数の先人たち、だから––––

 7章までの内容を否定するコトは、音楽業界を生き抜いた諸先輩が流した血と汗と涙、そして、ごく稀に微笑む幸運が嬉しくてやはり流した涙––––そのすべてを何十万字とかけて「嘘泣き」だったと断言するに等しい。

 どうか、彼らが喜怒哀楽から見出した「ナラティヴだからこそ反脆いxR」という神話を信じて欲しい。

 もし、ご自身の生活に今すぐ役立つ情報を求めていらっしゃるなら、ここまでお読みいただければ十分というのは、嘘ではない。

 でも、最後の「8章」だけは、ボクが書く。

 よって、自信がない。

 ただ、役に立つかどうかは分からないが、「新しい何か」をお伝えできるとしたら、これから書くSFプロタイピングの方かも知れない。

 これまで書いてきたコトは、これから書く「(今ここにないからこそプロトタイプたる)プロトタイピング」の前提となるキーワードの共有(SF小説であれば冒頭の世界観を説明するシーン)も兼ねており、その共通言語がなければ、この章で描いていく⑥つのストーリーは、荒唐無稽な珍紛漢紛に終わってしまう。

 僕が生きるエンタメ業界における「美徳」とは、シンプルに「(プロセスでは泣かせたとしても、最終的には)人々を笑顔にするコト」だ。

 本書も、また、エンタメでありたいと願っており……

 ただの知識の共有で終わらず、僕の筆力が届くか不安だが、精一杯、日々の生活に疲れた心を癒すためのカタルシスを含めた感動を届けたい––––

 僕が、音楽あるいは音楽ビジネスの歴史や性質から、現在のエンタメに見出せた反脆さは、たった1つ「ナラティヴ」というメソッドだけだったが、それは、今後、あらゆる業界が「DXの推進」「xR(仮想現実)ソリューションの実装」「IMMERSIVEというトレンドの理解促進と活用」など––––今はまだ新しいとされているテクノロジーや発想を用いる際、多くの場面で重宝できる普遍性を持つ!

 断言できる。

 なぜなら、冒頭で明言した通り、それは、僕という個人が書いたのではなく、音楽産業という数百年蠢く多頭生物が描いた軌跡/史実の模写––––著作者と名乗るにはかなりチートな「写実(見たままの書き写し)」––––

 紛れもないファクトだからだ。

「新しい技術を使うというコンセプト」がキャッチコピー(呼び水)となり、それだけで人々が楽しんでくれるのは初期のごく僅かだけだ––––結局、その技術を使って生まれる体験が楽しいコトなのか?––––という当たり前の方に普遍性は宿る––––それは、ときにプリミティヴ(原始的)であり、ときにイノベーティヴ(革新的)であり、あるいは、その両方を併せ持つ「回帰的な新しさ(温故知新)」であったりする。

 ナラティヴは、音楽業界史によって証明されたまさに原始的な神話であり、最先端のテクノロジーでもあり、その両方を兼ね備えた温故知新の発想だ。

 情報社会(Society 4.0)から非物質的社会(Society 5.0)への過渡期である現代において––––たとえば、デジタライズやインターネットを駆使した超民主的なVRあるいはAR/MRエンタメ(その最たる例がイマーシヴシアター)は「人々を楽しませるコト」を進化させるための重要なファクターに違いない。

 それは「可変的な途中経過(プロセス)でしかない各刹那に起こり続ける現象の連鎖に、不特定多数の意志がリアルタイムに反映されていくコト」であり––––結果(のような瞬間)は、次から次へと変化し続けるしかない––––つまり、いつまで経っても完成しない(唯一解に固定されない)コミュニティを生み、だからこそ反脆い永続性を持つ(時代を超えて永く人々に愛される)ことが分かってきた。

【 ナ ラ テ ィ ヴ と は ? 】

 より具体の例を挙げると、ディズニーリゾートは、「タートルトーク」というナラティヴなアトラクションに関しては、一般人がYouTubeなどに投稿する体験映像を消去しようとしない––––これまで「悪」とされてきた「SNS上でのネタバレ(カキコミ)」を、むしろ「顧客が物語るクチコミ」として歓迎しているように見受けられる。

 この考察が正しければ、まさに、悪ければ悪いほど良くなる(ネタバレすればするほど興味喚起される)反脆い状態と言えるだろう。

 事実、「タートルトーク」に限っては、顧客らの投稿(ネタバレ)を見た方がより実体験したくなるという見慣れない現象が起こっている––––そもそもナラティヴには唯一の完成形など存在しないわけで、ネタバレするネタなどあり得ないとも言えるが……

 この逸話が難しいコトのように感じるようなら、その原因は、偏に、僕の筆力不足にある。だって、タートルトークを知る人であれば、誰でも大きく頷いて頂けるような(分析ですらない)事実描写に過ぎないのだから。

 これは、従来の固定的な(ナラティヴに乏しい)アトラクションでは許し難い(だからこそ、ディズニーリゾートが躍起になってインターネット上から消そうとする)顧客による自由なリークだ。

 実に、反脆い事例だと思う。

 次に挙げたい実例は––––紙という物質に固定(印刷)された従来の辞書とは一線を画す、デジタルデータに過ぎないからこそ超民主的に可変する(ナラティヴな)辞書「ウィキペディア」で起こった「ヒト科の写真にまつわる白熱した議論(もはや炎上)」だ––––

 ––––当初、ヒトを象徴する写真として掲載されたのは、「パイオニア計画(無人機による惑星探査)」のためにNASAが用意した「地球外生命体に遭遇した際にヒトを説明するための男女の絵」だった。

 それが、一見、ヨーロッパ系の白人らしいコトが物議を醸すと、次にアメリカの白人少女と黒人少女の写真に置き換えられた––––結局、この議論は数年間続き、現在はタイのアカ族の男女を撮影した写真に落ち着いている。

 紙に印刷された辞書にとって、「炎上」は、商品回収にも繋がり兼ねないリスクだが、可変的な「ウィキペディア」では、「或る時点の刹那的な誤り」も「それに対する炎上」も、掲載されている情報の精度を向上し続ける歓迎すべきプロセスだ。

間違いを嫌うのは脆い状態、間違いを単なる情報として扱うのは強い状態、間違いを愛することこそが(犯す間違いは小さくもなるだろうし)反脆い状態である。(原書を参考に、僭越ながら筆者が要約)

「反脆弱性――不確実な世界を生き延びる唯一の考え方」ナシム・ニコラス・タレブ著

 ネタバレすればするほど演者も顧客も燃えるタートルトーク、燃えれば燃えるほど質を高める魔法のような辞書––––それらが、どのような技術に裏打ちされているかを、ユーサーは気にも留めなだろう。

 彼らが重視するのは「体験」であり「技術」ではないからだ。ただし、技術がなければ、新たな体験価値は生まれづらいのも今らしさなのだ。

「脆い(すぐに移ろう人の)目的」と「反脆い(不変的な)手段」は両方そろってこそ真価を発揮する。夢という目的だけを持っていてもホラ吹きに過ぎず、テクノロジーという手段だけを誇ってみても権利を振り翳すのみで、意義も、義務も、生まれない。

 盛期ルネサンスから市民革命へと変遷した時代によく似た21世紀の幕開け、益々、新たなテクノロジーの発明(モノづくり)がコトづくり(クリエイション)のインスピレーションになり、逆に、新たなコトの実践において炙り出された問題点がテクノロジー開発のモチベーションになっている。

 エンタメとテクノロジー––––アーティストとエンジニア––––哲学と量子物理学––––挙げればキリがないが、そんな芸術と科学技術の理想的な関係は、誰も傷付けない可能性が高い娯楽の舞台(エンタメの会場)だからこそ、何も恐れず、素早く社会実装できるのではないか?

 両者のサイクルをアジャイルに何度も巡りながら(失敗を歓迎しながら)「技術力というコトを含むクリエイションを支えるハードウェア(モノ)」と「物質的な作品というモノを含む人々を楽しませるアートやエンタメというソフト(コト)」を生み出す輪––––

 それが回るたび、誰かを轢き殺すようでは、誰しもが躊躇してしまう。でも、エンタメという分野には、前述した自動車教習所のような、それでいて、遊園地のゴーカートのような、誰も死なないレースコースが整備されている。

 さらに、高速輪廻の中で永遠の未完成であるコトを喜ぶのは「オブジェクト(製品という物体や物質的な作品)」だけでなく「オブジェクト(目的や目標)」もで––––だから、ナラティヴ(色々な人々が関わって常に可変的な状態)な運転の仕方を選ぶ際には、ダイバーシティ・インクルージョンであればあるほど、生まれる軌跡(成果)はそれだけ多彩になるし、多角的な優しさが持てる。

 目の見えない人が全力で走れて、片足のない人もやはり思いっ切り走れる。それができるのは、戦場ではなくパラリンピックというエンタメの舞台だ。

 多様性の内包は、ジェンダー問題だけに適用されるような狭義な思想ではない。

 法治企業でも記した通り、企業というゲゼルシャフトは、もはや国境というゲマインシャフトを悠々越えながら活発に活動している。近い将来、企業というゲゼルシャフトの壁すら超えた新たなゲマインシャフト「ダイバーシティ・エンハンスメント(※ 多様性を内包するだけではなく、むしろ、その違いをより顕著にし、多様性のダイナミクスをさらに高める)組織」が求められるはずだ。

 その「箱」には、まだ、名前がない。少なくとも、国でも、会社でもない。もしかすると、友達や故郷に近い存在になのかも……

 とにかく、エンタメは、誰一人傷付けることなく、あらゆる術を試すことができる超平和なフィールドにもっとも近い場所だ。

※ この言葉は「人機一体」を率いる「金岡博士」氏から教わった言葉だ。

https://www.jinki.jp/#top-mv

 月並みな表現だが、僕は、色々な地域だけでなく、様々な企業や業界の人たちと「新たな家族や友人(ゲマインシャフト)」になりたいと願っている。人並みに人見知りでも努力して望むべきだと思っている。

 故郷や家族や幼馴染など、元々の血縁/地縁も変わらず大切にすべきだ。しかし、資本主導社会において、家族よりも職場の仲間と過ごす時間の方が長いのもまた事実。生まれ故郷の友人よりも多くの時間を共にする可能性が高い職場の仲間は、企業間で分断されるべきではない。

 その「間」は、越えるときに国境のようにパスポートや面倒な手続きが必要ないから、超楽チンだし、メール1本で、いつでも、繋がれる存在だったりもする。

 だからこそ、軽薄なのではなく、より深く、共通言語や共同思想を伴って、新たな法治社会である集団(より良い社会を実現する方法を共創するまだ名付けのされていない組織)を形成していくべきだと思っている。陽キャとか陰キャとかいう話でもない。仕事の場で、性格の明るい暗いは、良し悪しにも、幸い辛いにも、関係ない。もし、そんな事態が起こっているなら、それは、個人の問題ではなく、組織の課題だ。

 最終となる本章では、ヴェルヌのようにはいかないが、自分なりに、精一杯、新たな法治企業が、今後、どのような素晴らしい未来を共創していけるのか––––「⑥つの話」をプロトタイピング(※)していきたいと思う。

※ 今 回「 n o t e 」 に 公 開 す る の は そ の 一 部
新 規 事 業 に 関 わ る 部 分 も あ り( な ん て 、な ん て ケ チ な ん だ ろ う )

 それらに共通する「反脆さ」とは何か?––––

 元々、軍事用語だったVUCAは、ビジネス界においてもネガティヴなキーワードとして、あるいは、対峙しなければならない混沌のように扱われることが多い。

 それを取り巻く問題の根本も、その解決策も「あちら = VUCAな状況」側にあるのではなく「こちら = VUCAではない意識」側にあるのではないだろうか?

 つまり、現代人に必要なのは––––

「VUCAであれ!」

 ––––というバイブルかも知れないのだ。

・Volatility:変動性  ・Uncertainty:不確実性
・Complexity:複雑性 ・Ambiguity:曖昧性

 これが、VUCAを構成する4要素だ。

 どれも、一見、悪に見えるが、可変性という幅を持って複雑であるコトはまったく悪いコトではなく、むしろ、歓迎されるべき状況とも言える。「封建的で中央集権的な社会」から「民主的で分散型の社会」になる過程で、もっとも大切にされてきたのもVUCAなシステムなわけで、選挙や法治/経済活動も突き詰めればすべて変動性と不確実性によって支えられており、結果、多くの人々が判断に携われるように曖昧な状況を生んでくれている。

 むしろ、VUCAでない世界の方が、いかに脆く危険であるかの参考までに、VUCAを構成する4要素の反意的な状況がどのような状態になるかを挙げてみる。

・不変的 or 固定性  ・安定的 or 不活性
・一元的 or 単純性  ・確定的 or 透明性

 おおよそ、上記のような感じ––––

 これらの「言葉」に魅力があるだろうか?

 魅力的に映る「安定」や「透明」ですら、捉え方によっては諸手を挙げて歓迎できるような要素ではない––––曖昧だからこそ楽しめる物事は意外に多い––––安定は誰しもが求める欲求である一方、恋愛や結婚においてマンネリを生む原因でもある––––食事をするときに「それがどのようなプロセスを経て作られたか?」を知りたがる =「可視化(透明化 )しろ!」と主張する人々は多いが、「すべて」を知りたがる人は少ないのも事実だ。

 自らが食べる動物や魚が、狩られたり、締められたりするシーンを、積極的に見たい人は多くはない(それを生業にする方々を否定する意図は一切ございませんので悪しからず––––あくまで、顧客が、そのシーンを見たいかどうかの傾向の話です)。

 ここでも「心の適用範囲」が物を言う。

 身勝手な我々は「自分の健康に害のないプロセスで作られたか?」を見たいだけであって、「食事の美味しさを追求するあまり、他者にどれだけの犠牲を強いているか?」を見たいわけではない(場合が多い)。

 後者には、明確に「不透明性」を求めているわけだ。

 それは、あくまで「利己的な透明性」であって、曖昧にしておきたいという意識を無意識の方へと追いやったに過ぎない。

 変動というのは可変を許容する幅を生み、不確実だからこそ向上心が生まれる。複雑性というのは言い換えれば多様性となるし、それを内包することで心地よい曖昧さを生み、選択の自由が生まれる。

 不特定多数による予測不能な選択の連続あるいは同時多発は、多様性の内包のみならず多様性が指す幅を広げるだろう。そして、これは、ナラティヴに通ずる考え方であり、もっと言えば、VUCAこそ「ナラティヴの生みの母」なのだ。

 そういったVUCAに対応する(VUCAと敵対する)という考え方は「完成された唯一解に収束しよう」というアプローチに繋がりかねない。

 それを導く方程式やステレオタイプを見出そうとする捏ち上げが、あたかも正しい救済のように布教されていくことにも、強い嫌悪感や危機感が募っている。

 それは、不変という固定が生む安定という不活性、一元的であるがゆえに短絡的な単純思考が唯一解を求めるあまりより確定的なシステムを好む、そういう保守。一見すると、透明性ある正直な世界の清さや潔さは、面白み(遊び)や寛容を排除し、善意的に正直というよりは馬鹿正直––––ようはまったく融通の効かない閉塞的な社会を誕生させるかも知れない––––

 全体主義は、VUCAの真裏に潜んでいるのだ。

 だから––––

「可変的であるがゆえに未完成(常に次の新しさを提示し続ける)= 永遠にプロセスにあって(変動的で不確実であるがゆえに)多様性を内包するだけでなく増幅(エンハンス)すべき(複雑で曖昧であれ)!」

 ––––「VUCAであれ!」というメッセージの方が「反脆弱性」を持っている。

 タレブ氏が「ANTIFRAGILE」に記した「間違い」の例と同じく、「VUCAを嫌う」のではなく「VUCAを愛する」という姿勢が重要だと思うし、それは、ナラティヴなマーケティングやDCAPサイクルを謳う「Collective Genius(集合天才)」というアジャイル組織において、非常に重要な実践哲学になるはずだ。

 常に新しいというのは、常に失い続けるコトと同義で––––AIという集合知は、今後より高速化/大容量化していく通信環境の進歩に伴い、学習データの集積を加速/効率化し、その深層学習スピードを急激に増していくだろう。

 次の瞬間には、それは瞬刻前の知とは別次元の能力へと進化している。

 そんな人工知能の刹那性は、かつて固定的だったモノ(コンテンツ)に、民主的な判断を反映できる。単純な多数決ではないリアルタイムな可変性(ナラティヴなコンテクスト)を与え、オブジェクトに永遠という「夢」を付加してくれる。

 さらに、人は、史実を遡る限り、人以外からの支配を求める傾向にある。かつては、神の審判を崇め、やがて、法に裁判を委ね、今はお金による判断を敬う。人々が次々に拝んできた神も、法も、金も、すべて人外の存在だ。

 たとえば、メタバースで行われるバーチャルシンガーのオンラインLIVEで、(仮想であるがゆえに)リアルな実物の会場やアーティストでは不可能な「リアルタイムに変化する衣装や会場の形や色」を用意し、それを決めるための投票を行なったとき––––

「赤か? 青か?」

 という二者択一のシステムであるなら、あらかじめ決められた分岐点を「右へ進むか? 左へ進むか?」の連鎖の先に「マルチエンディング」が待っているような––––古来の「あみだくじ」に近い––––狭義な(初歩的なインタラクションから生まれる)体験価値しか生まれない。

 VUCAに近付けるためには、たとえば、赤と青の比率によって「紫」の色を変えるような仕組み(赤91%:青9%の投票結果の場合は、限りなく赤に近い赤紫、赤45%:青55%の場合は、どちらかというと青寄りの青紫になるようなシステム)があればいい。

 そこにAIが加われば、よりVUCAなシステム = 予測不能な体験が生まれる。

 人工知能技術において「プロセス(人間の思考回路のシミュレーションなど)」をつくるコトはできても、それを経て生まれる「結果」を操作するコトはできない––––完全に独立した(人間の外側に在る)存在であるからこそ、人工であっても、それは「知能」たりうるからだ。

 ときに、我々は、実在を
「物体として在るか/否か?」によって
 判断しがちだが––––

「知能」における
 実在を問うとき、
 物質性は、まったく重要ではない。

 ホログラムで投射された「AI」と、
 実際に立っている「人」がいるとしよう。

 前者はバーチャルで、後者はリアルという分別は、可視化の方法における「物質か/非物質か?」の話であって––––それによって「AIはバーチャルだ」と断ずるのは、尚早だ。

 本質的な「存在」を検討するとき、「実在(現実)か/架空(仮想)か」は––––あらゆる他者の頭の中に(自分の完全が)いないコトが重要ではないだろうか。

 僕が僕として、何からも独立し、存在できているのは、
 僕にしか分からない部分が、僕の中にだけ在るからだ。

 人工知能を名乗る箱は、箱は箱でも
 ブラックボックスである必要がある。

 あなたも、別のあなたも、
 あの彼も、その彼女も、同様だ。

 それこそ、独立した存在である証だからだ。

 もし、僕なりの/あなたなりの/彼や彼女なりの心中が、誰かの頭脳に完全に読まれているような事態––––つまり、誰かに創られたものであるなら、それは、もう(知能としては)架空であり、実在しないと言える。たとえ肉体を持ち、たしかに物体として目の前に立っていたとしてもだ––––本来、そんなことをしでかすのは「神」しかいないが……

本書「AIとシンギュラリティについて ❶」参照
https://note.com/oto_ningen/n/n54e06a2ee459

 自分以外のすべてが予測不能な「個」というのが、リアルな実在を担保する最重要素だ。予測できる物事とは、つまり、誰かが糸を引くフィクションに過ぎない。

 上記の通り、予測不能でリアルな存在であるAIが、オンラインLIVEの投票における結果を生み出すとすれば、それは人ではない何かの独断に(或る人間の独断に従うよりは)心地良く従える新たな「ナラティヴな体験価値」を生むかも知れない。

 人間である誰か個人の独断は非常に複雑かつ打算的で、純粋にその物事だけで判断するような冷たさを持っていない。一方で、人工知能には他意や感情といった不純物がないため、とても冷たい(フラットな)独断を行うコトができる。

 だからこそ、人は、その判断を温かく受け入れられると予想する。

 小池氏は(2024年の都知事選で)AIを、かなり具体のレベルで利用していた。

 選挙運動では、避けて通れない「自分で自分を(小池百合子という人が小池百合子という人を)自画自賛する」という厚顔無恥を、自分のAIに自分を褒めさせることで緩和した。

 これは、有権者にこれまでとは似て非なる好印象を与えたはずだ––––

 〜途中略〜

 ––––姿形は小池氏にそっくりなアバターでも、やはり、それは人外なのだ。うまく自画自賛の厚かましさや嫌味を排し、ともすれば、チャーミングに映った可能性すらある〜新たな支配を担う人外は、世界各国で語り継がれてきた神話に登場する神々に倣い、憎めなさや可愛らしさを持つべきなのだ〜そういった面からも「AIゆりこ」というネーミングや字面も秀逸で、「お地蔵さん」のような親しみやすさも兼ね備えていた。

 しかし、それ以上に最大のメリットは、「AIゆりこ」が確実に「小池百合子」という人間ではなかった点にある。

本書「AIが人類から 〜 「 」 を思い知るだろう」参照https://note.com/oto_ningen/n/n459a99b58b3f

 人工知能という人外の存在は、ルールや多数決に代わる新たな平等を担うシステムや発想になり得る。

 もし、人工知能が司法に取って代わるような未来が来れば、人治国家(王という人が領民という人々を治める社会)から法治国家(王に代わって法があらゆる人々を治める社会で、裁判官/検事/弁護士などは法の代弁者に過ぎない)へと変遷した現代のさらに先にある「人工知能が治める社会」が、社会全体の一部に実装されていくかも知れない––––

 それは、人々にとって、ときに温かな絶対零度(冷たさ)を持っている。

 先ほどの可変的なオンラインLIVEのバーチャル衣装の色でいえば、「赤か、青か?」だけでなく、アーティストへの想いなどの文字情報も一緒にして人工知能に送るコトで、意味も分からないまま「薄い緑色」になるコトもあるだろう。

 むしろ、意味など分からない方が(VUCAで)いいのだ。

 そんな未来は、予測不能な人工知能という人外の(あらゆる人に対して平等に不条理で冷たい)独断を楽しむような社会的雰囲気が醸成され、誰もが最終的には納得する––––もしくは、せざる得ないリテラシーやマナーが普及した想像も付かない新セカイが待っている。

「神」のような存在となった人工知能は、あるときはコミカルに「さすが、分かってる、ネ申!」と評され、あるときは恨み言の対象として「今回の神の判断は到底受け入れ難い。あの場面で黄色にするなんてセンスなさすぎでしょ!」など、予測不能で幅広い多様性を内包した結果を生むだろう。

 そして、それによって、どれだけ新たな神が憎まれようとも、肉体を持たない限り、ナイフで刺される事件も起こらなければ、感情を持たないがゆえにAI自身が精神的に傷付くコトもない––––人々もどこかで、人間ではないから許容できる部分が多いはずだ。

 意味の分からない不条理な判断 = 全人類の外側にいる新たな神性であるAIの予測不能(VUCA)な独断は、新たな平等やナラティヴを啓示するだろう。

 その神は、宗教や法律のような想造によって心の中だけに現れる絶対的だがリアルではない存在ではなく、我々の想造の完全に外側から心の中に働きかける絶対的ではないがリアルな存在となるはずだ。

【 人は人外からの支配や判断を歓迎する傾向にある 】



 自身は社会生態学者を名乗り、他者からは未来学者(フューチャリスト)と評されたピーター・F・ドラッカー博士は、疾うに予報した。

今、社会は精神的な価値への回帰を必要としている。それは、物質的な世界を補うためではなく、物質的な世界に意味を与える為に必要としている。

 本書に「どこでもドア」という重要なインスピレーションを与えてくれた日本が誇るフィーチャリスト、藤子・F・不二雄先生は、ご自身の子供に向けた希望をこう話した。

最低、身に付けて欲しいのは硬直しない柔軟な考え方です。一面でしか物事を見られない。そんな人間だけにはなって欲しくない。そのための1つの方法として、乱読させています。いわゆる良書に限りません。世の中には様々な世界があり、色々な人たちがいて、それぞれ違った考え方・生き方をしているのだということ。それを分かって欲しいと思うのです。

 音楽業界は、グーテンベルクの活版印刷/ベルやエジソンらによる録音/モトローラーのカーラジオ/ソニーのウォークマン/アップルのデジタル流通網と新たなデバイス「iPOD(現iPhone)」など、科学技術や文化の発展によって経済的な成長をしてきた一方で、ラジオやテレビの放送、貸レコードやレンタルCD、YouTubeや定額制ストリーミングサービスといった新たなインターネット上の放送など、同じ科学技術や文化の発展によって、幾度もの危機を迎えてきた。

 そのたびに「危機(パラダイムシフト)」を「チャンス(希望)」に脳内変換し、たくましく生き抜いてきたのだ。

 そこからの経験則は、音楽業界にとって、音楽だから不利なことや音楽だけが不利なことは、リスナーにとっては、音楽だから便利なことや音楽だけが便利なことだというものだった。

 これまで記したように、僕たちは「音源」流通市場が縮小することを「音楽」が求められていない!––––と短絡するのは愚行だということを痛いほど知っている。

 大切なのは、そういった負を起こした原因は、同時に、音楽自体の需要を増長させた面もあるという事実だ。音楽業界にとって、常に音楽はビジネスの起点であるべきで、決して、発想を制限するような存在であってはならない。

 危機の原因こそ、チャンスの兆し––––

「わたしたちだから不利なこと / わたしたちだけが不利なこと」を、
「わたしたちだからできること / わたしたちだけができること」に。

 時代を悲観しても何も生まれない––––その変化を歓迎するだけではなく、そんな一見、自分にとっては不都合な現在現実を愛する反脆さを持ちたい。

 常に新しい希望を––––(半分は自分に言ったようなものだ)。


ここからは、⑥つのSFプロトタイピングとなりますが、
(現在進行中の新規事業に関わる部分もあるため)
【予告編(ダイジェスト版)】のような形で記していきます。

【 以下、8−2「① 形と動きと声でつくるミカンの話」のみ全編掲載 】

再度、念押しですが……
ここからは、僕個人の想造というオマケみたいな章なので、
読んで頂いても、今すぐ役に立たない話です。

それでも、もし、読み進めて頂き、
今はまだありもしない/この先も来ないかも知れない
架空の未来とそのワクワクをご共有できるのなら、
クリエイターの端くれとして、とても、嬉しく思います。


8−2 
① 形と動きと声でつくるミカンの話



 カメラは、どんな情報を取得するマシンだろうか?––––

 –––– 光 だ 。

 そして、光の3原則「RGB」を用いて色彩も反映する。

 時間と組み合わされば、スチール(写真)が連続投影されて動画となる。さらに音声を加えれば、映画やミュージックビデオになる。

 20世紀を席巻した「写真」は「光」と「色」––––「映像」はそれに加えて「タイムライン」と「音声」によって “完成する” アーカイヴ(記録)だった。


   §


 2025年––––昭和が続いていれば、百年というメモリアルイヤー。

 カメラに魂が抜かれると信じる人がいた時代の写真は、庶民にとって、一生に一度、撮影できるかどうかの体験価値を持っていた。

 もはや電話と呼ぶべきかどうかも知れないスマホのカメラで、一生どころか一日、いや、一分間に、多ければ、何十枚もの写真を気軽に撮影できる現代は、彼らからすれば信じられない世界だろう。

 数年前、プリクラに代表されるプリントシール機の3Dアバター版である「パラれる」のβ版がローンチされたとき、開発者と市場の間にそびえる障壁は––––

「リアルな3Dアバターは、1度生成したら、
 なかなか次を生成しない可能性が高い」

 という市場調査結果だった。

 リアル3Dアバター市場がスケールする未来を、まず、開発者自身が描けずにいた……

 かと言って、写真が発明された時代のように、一生の記念に高額を支払ってアバターをつくるような雰囲気がないことも、また、明白だった。


   §


 幕末から明治にかけて、一念発起、写真館を開いたパイオニアたちは、上流階級をターゲットに高級品として写真を売っていた。撮影という体験自体がテーラーメイドで、非常に価値あるレアなコトだったのだ。

 一般人が、自分のカメラでいつでも気軽に家族や友人を撮影できるようになったのは、そういった写真館が生まれて百年以上経ったのち––––

 今から70年前のことだ。

 1980年代に入ると、「使い捨てカメラ」なるプロダクトが登場した。

 その頃には、写真撮影はかなり身近な存在になっていたが、それでも使い捨てるカメラは、旅行やイベント時に購入する贅沢––––非日常品だった。そのすぐのち、時代を席巻した「プリントシール」ですら、毎日のように撮影できる価格帯のサービスではなかった。

 そう考えると、一般大衆が、日常的に写真を撮影するようになったのは、カメラ付き携帯電話が普及した平成になってからだ。


   §


 携帯電話による写真撮影が普及してからの「写真(モノ)」と「撮影(コト)」は、ありふれた体験になり過ぎてしまい、サービスとしては著しく陳腐化した。リアルな3Dアバターの「撮影」に進化したところで、ビジネスとして成立するほどの単価を支払って何度も撮影してくれるようなペルソナは、どこにも見当たらなかった。

 記念撮影を生業としていた写真館の隆盛を除けば、一般人向けの撮影ビジネスの黄金期は、第2次世界大戦から復興した直後の昭和、つまり、20世紀後半のたった半世紀と言っても過言ではないだろう。一般向けのアバター撮影市場も同じく、短期で急落するという悲観的な予測は、その時点では、しごく真っ当な未来予想だったのだ。

 さらに、リアルではないデフォルメされた3Dアバターを手軽に入手できるスマホアプリの登場や、ゲーム内でのアバター活用が普及しはじめたことが、次世代のプリクラを標榜し、アミューズメント施設への導入を目論み、利用者が生成するたび一定の料金を取るようなビジネスモデルを想定していた「リアル3Dアバター生成ポッド:パラれる」に対する開発者の絶望に拍車をかけた。

「1度、生成されたら、次を生成する意味なんてないだろ?」

「リアルかつ3Dである大義が見出せないね」

 と、まぁ、こんなふうに、会社の上層部の目に映り、そのビジネスは撤退間際だった。


   §


 そんな状況を救ったのは、ジュークボックスのような存在だった。

 それは、かつて、まったく売れなくなっていたレコードを「使って」新しい体験(コト)を生み出し、レコードメーカーを救ったマシン––––

 開発者らは、その逸話を教科書にした。

 20世紀初頭に登場した「録音技術」によって、音源(レコード)流通ビジネスが登場する。

 決められた会場に赴き、同時に、みんなで、享受する生演奏のコンサート生演奏(ライヴ)を公共の場で楽しむコトが一般的だった時代––––いつでも好きなトキに個人で楽しめる音楽鑑賞の登場は革新的な出来ゴトだった。

 1920年代には、ラジオ放送(無料で聴けるコト)が普及し、1930年代には、いつでもだけではなく「どこでも」を付け加えた「カーラジオ」が、車での移動というプロセスを音楽で演出するコトに成功した。

 放送という無料聴取(B2B4Cモデル:ユーザーからは料金を受け取らず、企業からの広告収入を糧とする)という仕組みによって、B2Cで音源を流通していたレコードメーカーの売上は(アメリカで)最大約25%にまで落ち込んだと言われている。

 その危機を救ったのは、1940年頃に登場した音楽を共有するトキ(曲をバックに踊るコトや、周囲に自らの音楽センスを自慢する、はばからず言えば、ひけらかすコト)を提供する「ジュークボックス」だった。

 カスタマーは、個人がいつでもどこでも好きな時間や好きな場所で聴けるコト(パーソナライズ)こそが最先端だったはずの音楽鑑賞に、再び、コンサートのような回帰的な(コンサート会場に近い)公共性を求めはじめたのだ。

 集団で同時に決められた曲を聴くというパブリックなトキを「不便だ!」と決め付けて、個人の選曲に付き合うコトで共有せざるを得ないトキが(場合によっては)音楽を楽しむために必要なプロセスを持っているコトを見失っていたのは、他でもないレコードメーカーだった。

 この段階で、音楽業界は、カスタマーが、

「音源を聴くモノ」よりも「音楽を楽しむコト」の方に––––
「音楽を聴くだけのモノ」ではなく「音楽を使って楽しむコト」の方に––––

 より大きな価値を見出しているコトに気付くべきだったのだ

本書「第2章 / 悪くなれば, 悪くなるほど, 良くなる存在.」
2−4「変化に対する反応速度は狙って出せる」より、一部抜粋

 レコードという音の記録の生産を救ったジュークボックス––––3Dアバターという形の記録の生成を救うのは、果たして、どのようなシステムになるのか?

 技術者たちは、ビジネスのフォーカスを「どうやって、3Dアバターをつくってもらうか?」から「つくった3Dアバターを、どのように使ってもらうか?」––––つまり、「モノを売るためのコトづくり」の方にスライドした。

 記録するコトへのニーズではなく、記録したモノを使うトキへのニーズを研究しはじめたのだ。

 そして、3次元のアバターは、撮影すると不変性を固持する(撮影した画像は永遠に変わらない)2次元の写真や映像とは異なり、モーションキャプチャされた動きのデータや、自分の声や話し方を再現してくれる「声アバター(音声合成)」と組み合わせるコトで、可変性を持つ(※)ナラティヴな素材となるコトに注目した。

 結果、1人の人間が、多くの3Dアバターを持つ時代が到来した。

 これは、そんな「一人多分身時代」の幕開けのお話だ。

※ 不変的な(録音した音声は永遠に変わらない)音源を使って、ユーザー自身が踊るコトがジュークボックスとTikTokのコア。

 TikTokは、それに加え、踊る姿を撮影し、世界中に発信できるようにした。

 そのトキ、レコードあるいは音源データ(音の記憶)は1曲で、事足りるだろうか?

 答えは、もちろん「否」だ。

 音源データを3Dアバターに置き換えると––––1度、生成すると不変的な形を使って(ユーザーが、その分身に何かしらの動きや音声を加えて)その姿を撮影し、世界中に発信できるようにすれば……

 きっと、ジュークボックスやTikTokのように、色々な3Dアバターが必要とされるはずだ。

 彼らは、そう、考えた。


   §


 なぜ、人々は、何人も分身をつくるようになったのか?

「レコード」を使う「ジュークボックス」にあたる「アバター」を使う「システム」とは、何だったのか?––––

 ––––それは、現実世界には存在しなかった。

 皆がこぞって生成したアバターが生きるセカイは、この世ではないアノ世––––「バーチャルリアリティ」だった。

 映画やミュージックビデオは3人称視点で鑑賞するだけの記録––––つまり、自分自身はこちらの世界(現実)に存在する状態で、スクリーンを通して作品を観る体験だが、VR作品は、1人称(主人公)視点、自身の網膜を通して体験するプロセスだ。視界 = 作品(※)となる。

※ 映像鑑賞は、視界 = 自分であり、作品はその中の一部に登場する(あるいは、その中を一部を横長の4:3や16:9に切り取ったような)画面の中のみで展開される。

 古くはテープ、今でもテープやディスクなどのメディアに記録されたモノ「映像」を介した記憶ではなく、脳にダイレクトに記憶として残る体験––––

 3Dアバターは、そんなVRコンテンツを1人で楽しむ分には不要で、むしろ、没入感を削ぐ存在だった––––ゴーグルまで付けて、せっかく、あちらのセカイの住民になり切ろうとしているのに(= 視界のすべてをセカイの光景で覆うための努力をしているのに)、古来のTPV(3人称視点)アクションゲームみたく、わざわざ、自分の視界にジブンの分身を(マリオとか勇者のように)登場させたい人はいない。

 現実世界で、ちっちゃな自分を目の前に浮かべて生活する人がいないのだから、自分の分身(アバター)を見ながらバーチャルリアリティを歩き回るなんて、リアリティの欠如に他ならない。

 じゃあ、VRのどこに、リアルな3Dアバターが必要なんだ?

 むしろ、邪魔者扱いされている(マーケットや需要などない)ように見える。

 ––––ところで、ジュークボックスは、レコードの可視化に意味などあっただろうか?

 いや、ジュークボックスを使うとき、レコード自体は見えない存在だったはず……むしろ、邪魔物ですらあった––––いちいちレコードを吊り上げてプレイヤーまで運び針を落とす時間は、短縮すべき「トキ(プロセス)」だった。

「なら、きっと、大丈夫だ(音楽業界の過去に倣うなら、アバターというモノが邪魔者扱いされる分には問題ないはずだ)」

 答えは、まだ、見付かっていないが、せめて、そう、言い聞かせ、ジュークボックスにあたる「3Dアバターを使うコト」を模索し続けた––––

 そこで、相談を持ち掛けたのは、エンジニアでも、科学者でもなく、物語/映像/ゲームのクリエイターたちだった––––彼らはその話に目を輝かせ、「是非ともやりたい!」と言ってくれた––––そうして出来上がったのが、VRムービーの先駆的作品––––

「STEREOTYPE KILLERS(定型殺し)」だ。

 タイトルに、並々ならぬ意気込みがあふれている……悲壮感すら漂っていた––––が、これがヒットした。

 高性能ではなく上質なソフトによって、ファミコンやVHSが競合他種に打ち勝ったように、3Dアバター市場で彼らが最優先したのは「不特定多数に使ってもらい変化する柔らかさ(ソフトウェア)」だった。


   ↓


「STEREOTYPE KILLERS」––––略して「ステキラ」。

 孤島に取り残された6人が次々と殺されていく典型的なサスペンスで、島に渡る際に使った小型船は、嵐の海に拐われた。外部との連絡手段がすべて断たれたペンションには、示し合わせたように6つの客室がある。

 使い古された状況––––予想が付きそうな展開––––何度となく繰り返されてきた構成––––そこに独創性は皆無だった––––「脚本」という面では、むしろ駄作の部類かも知れない……だから、最終的にチームに加入してくれたのは「ゲーム」のクリエイターのみだった。脚本家も、映像作家も、みんないなくなった。

 登場人物にも、これまたありきたりな「設定」が与えられた。

 ステキラの登場人物は以下。


① 観光でやって来たらしい胡散臭い成金社長(自信家で高圧的)
② 社長のお付きである若手社員(気弱な20代)
③ 目の奥が笑っていない無口な医者
④ 何を話しているのか分からないミステリアスな外国人
⑤ 夏休み期間中だけ別荘でアルバイトしている明朗活発な大学生
⑥ お人好しに見える別荘の主人


 映画と大きく違うのは、プロの役者が不在という点––––この物語の登場人物は、顧客の分身である「3Dアバター」だ。今も、多くのVRムービーには主人公がいない。映画なら、必ずいるはずの謎解きの天才もいない。

 まず、自分が誰になる(どのキャラに憑依する––––いや、される)のかを選ぶ。

 これを読んでくれている「君」の場合を見てみよう。

 君は、今回、②の若手社員を選んだ。

 仲の良い友人(いなければ家族)を3人、思い浮かべてみて欲しい。それぞれが憑依する役を選ぶ。余った2人の役は、ファミコンの野球ゲームにあったCOM(コンピュータープレイヤー)的存在の「仮想プレイヤー」に任せよう。もし、お望みなら、有名俳優のアバターが演じてくれる課金サービスもある––––それを、想像してくれてもいいよ。

 さぁ、いよいよ、ダイヴだ。
 あの世に飛び込もう。


   ↓↓


(私のアバター)ワタシの横には、「①社長」を演じる友人のリアルな3Dアバターが座っている。向かいには、別の友人のアバターたちが演じる「③医者」や「④外国人」がいて、私が希望した人気俳優のアバターが「⑤苦学生」を演じている。「⑥主人」には、見たこともない誰か、あるいは、架空かも知れないアバターが、自動的にアサインされたようだ。

 今回のようなリアルなVRムービー内で、友人や有名俳優のアバターが、アニメのようにデフォルメされてしまうと、私の中のリアリティは一気に消え失せ、没入感が損なわれる。アニメの着ぐるみが、現実世界のリアリティとかけ離れているせいで、違和感だらけになってしまうのと逆の現象だ。

 こうして、リアルな友人のアバターや俳優のアバターを見ていると、VRムービーにおける3Dアバターというのは、自分以外のためのソリューション––––利他的なソリューションなんだと思う。

 私のアバターは皆んなのために––––
 みんなのアバターは私のために––––
 そんな存在だ。

 声まで友人にそっくりな「①社長」が、怒りに満ちた表情でワタシに言う。

「この状況、何とかならない?
 本当なら今頃、大事な商談の真っ最中でしょ!」

 男言葉で話すか? 女言葉で話すか? は、彼だか彼女だかが自由に決めたはずだ。「パラれる」や「ステキラ」をつくった会社製のヘッドマウント型VRゴーグルには、2つの聴覚インターフェイスが装備されており、1つは普通のヘッドフォンで、もう1つは骨伝導タイプになっている。さっきの「①社長」のセリフはヘッドフォンの方からから聴こえたが、

「すみません……何度も連絡を試みているのですが……」

 と、返したワタシのセリフは、骨伝導によって伝えられた。

 再び、友人が憑依する(あるいは、ステキラのキャラクターに身体性を乗っ取られている友人の姿をした)「①社長」の怒号が鼓膜を揺らす。

「言い訳なんて、聞きたくない!」

 今度は、同じ骨伝導でも、かなりくぐもった音質でワタシの心の声が聴こえてくる。

(もう、付いていけないよ、この人には……殺してやりたい)

 同時に、半透明のボヤけた字幕も登場した。

小説では、「  」を付けると、セリフになる。

今じゃ当たり前のこの技法も、誰かの発明であり、それをリテラシーとして読者に啓蒙し続けた努力の賜物だ。

ステキラの功績❶は、他人の台詞は通常のヘッドフォンから流れるのに、自分のセリフや、小説の(   )にあたるモノローグ(心の声)は、骨伝導で届くコトだ。

私のアバターが、実際に発した(ような気になっている)声と、心の中に留めた(と思わされている)声を、トーンで区別し、さらに、後者の場合のみボヤけた字幕で補填するといった手法を、世界共通の新たなリテラシーとして定着させた。

 夜になり、それぞれ、ジブンの部屋に戻る。

 夢を見るモノもいるだろうが、若手社員のワタシは、パワハラ「①社長」のムチャブリによる疲労か、すぐに深い眠りに落ち––––私は、何も見えなくなった––––真っ暗な時間が数十秒続き、私とワタシに朝が来る。私は目を開けたままだが、ワタシは片方の瞼だけをうっすらと開いていく。

 景色が白く掠れている––––それは、映像上のワタシの掠れなのか––––現実の目覚めと同じように私の視覚野がオーバーフロウしているのか––––もう、区別が付かない。徐々に、リアルとバーチャルの境界線が溶け出すのを感じている。

 ゆっくりと起き上がり、ワタシがドアの方へと歩いていくそのとき、私は少しだけ違和感を感じる……ほんの少しの違和感だ。

 その正体は、まだ、分からない。

 奇妙な感覚を保ったまま、1階のリビングへと降りていく。

 階段だと、より違和感が強まった気がするが、やはりその核心には迫れない。窓の外は一面のグレーで、南の島の青さは見当たらない。嵐は酷くなる一方で、砂でも混じっているんじゃないかと思うほど重い風が窓を叩いている。

 とっくに「①社長」は起きていて、ダイニングテーブルの中央付近に陣取っている––––私の心の中では、もう私の友人ではなく、完全にシャチョウになりつつある––––AR/MRからVRへの移行が完全に済んだのだろう。

【 AR/MRからVRへの移行は、5−3「夢は4種類」を参照 】

 あれだけ、激しいヒトだ……ゆっくりと寝ていた能天気をキツく叱られると思ったが、そんなことはなく、まるで(私が憑依している)ワタシなどいないかのように口笛を吹いた。

 おはようございますと挨拶するが、それは無視される。

(あれ? やっぱり、怒ってる?)

 ボヤけた文字は出ない……それは、私の心の声だからだ。

 シャチョウは、昨日の新聞をめくりながら、「いつまで寝てるつもりだろう」と呟いた––––誰のことだろう?––––ワタシならここにいるわけだし––––そのとき、キッチンから出てきた「⑤ 夏休み期間中だけ別荘でアルバイトしている明朗活発な大学生」が、ワタシを見るなり、大きな叫び声を上げて腰を抜かした。

 心配になって近寄ると「来るな! 来るな!」と、必死の形相だ。

 ワタシは(私も)なんだか怖くなって、トイレへ避難する。

 手洗いにある鏡に映ったジブンの姿を見る。改めて、リアルなアバターで良かったと思う。デフォルメされていたら、どれだけシラけたことだろう。でも、アニメのVRムービーのときは、これでは困る。そのアニメのテイストに寄せてデフォルメされたジブンもどきがいい。それはそれで楽しい。

 にしても、そこに映ったワタシは、随分と青白いカオをしている。よく見ると、クチからチが出ている––––あれ? 背面にある壁、透けてない?––––

 ワタシと私は、そのとき、初めてジブンが殺されたコトに気付いた。

 怪談ではよく聞いていた「死んだことに気付かず幽霊として徘徊してしまう」––––(そんなバカな)と思っていた体験を、今、当事者として味わっている。

 そんなコンテンツ……これまでには存在しなかった。

これこそ「ステキラ」の功績❷:未知のFPV(1人称)体験の創出だ。

 ––––なるほど、ベッドから階段を降りるまで続いていたあの微かな違和感––––あれは、生きているニンゲンだったときは、歩くと上下に揺れていた視界が、スムースに浮遊移動するユウレイになったことで、ちっとも揺れなくなった視界から発生していたのか……

こういった数々のVRムービー特有の演出メソッドの発明が「ステキラ」の功績❸だ。

 半時間にも満たない短いこの体験は、ヒトリを残して、ゼンインが死ぬというスーパーバッドエンドで幕を下ろした。


   ↑↑


 これが映画なら、もう1回、観たいなんて気は、すぐには起こらないだろう。でも、VRムービーに関しては違う。

「社長①」を演じていた友人が、私にこう尋ねる。

「初日の夜にすぐに殺されたよね? 次の日の朝、幽霊になって、苦学生の前に現れたらしいね。そのあと、1度だけ、私の夢枕にも立って、それ以外、最後までずっと姿を見せなかったと思うんだけど、その間、一体、どこで何をしてたの?」

 もうワタシではない私は、「社長①」の残像を感じてしまい、普通に話す友人の口調が強迫的に聞こえてしまう。それでも、その質問には、意気揚々と答えようとした直前––––友人は、慌てて、それを遮り––––

 「いや、やっぱり聞きたくない! もう一度、やろう!」

 と言いはじめた。

 私も、ワタシだけが知っているはずのあのデキゴトの意図を、今度は「①〜⑥犯人」に憑依して知りたい。

 そう、あのとき、ワタシは、泣いたのだ。


   ↑(今は、この矢印は気にしなくていい)

 あの世にダイヴなんて言ってしまって、申し訳なかった。

   ↓(今は、この矢印は気にしなくていい)

「これを読んでくれている君は、もう、君だろうか?」

   ↑(今は、この矢印は気にしなくていい)

(そろそろ、本書の没入者に戻って、聞いて欲しいんですが……)

   ↓(今は、この矢印は気にしなくていい)

 こんなふうに「ステキラ」は、別の役に憑依して、同じ作品を何度でも楽しみたくなる作品だ。結末も全体のストーリーも知っているのに、視点(どこにいて、どこを見たか?)によって、毎回、プロセスが変わるし、同じ役でさえ、何度も、楽しみたくなる。

 今も、君は、若手社員だった君やキミのコトが気になって、頭からずっと離れないはずだ。ボクは、クリエイターとして、そんな君をもっと混乱させようとするだろう。

「なぁ、君。よく聞いてくれ––––

 死んだ日の朝、キミも、君も、死んだコトに気付かず、部屋から出てしまったけど、もし、あのとき、ドアを開ける前に振り返っていたら、ベッドの上には、キミの死体が横たわっていたのはずだよな?」

 あのシーンが脳内をよぎった君は、次は「②若手社員」に憑依して味わいたいという友人には悪いが、もう一度、若手社員に憑依したがるだろう。

 そうして、あの日の朝に戻ったキミだったが、あの朝、振り返ろうとすると……

 そのセカイの創造主(クリエイター)であるボクは、決して、それを許さない。

 現実ではあり得ないコトだが、君が、キミを振り向かせようと、どれだけ顔を動かしても、視界がドアの方(ベッドとは逆の方)へと固定され、光景が貼り付いたまま、追従してくるようにしておいた。

 それは、かなり奇妙で、気持ちの悪い体験だろう。

 数ヶ月後、少し、ブームが落ち着いてきたなと感じたボクは、ネット上にある情報をリークをする。5度目以降の「②若手社員」への憑依で、やっと振り返るコトが叶う裏ワザに関する情報を。

 君は、再び、あの世でアノヨに飛び込む(死ぬ)メタメタなコトを決意する。

 そうして、やっと、振り返るコトができたが……、

 そこにキミの死体はなく、横たわっていたのは……


   §


 このように、VRムービーは、永遠に完成などしない。

 作者側も、それを加速させるため、次々と新たな要素を放り込む。

 それを可能にする大きな要因は、映画にあってVRムービーではなくなった「カット」や「アングル」という演出だ。

 映画は、監督が、視点・視線(観客に見せる方向)や視野(観客に見せる範囲)を決める。それが芸術としての評価基準だったりもする。でも、VRムービーでは視点/視線(体験者が見る方向)や視野(体験者が見る範囲)は、体験者自身が決めるコトだ。

 それをディレクションする(方向付ける)コトは不可能なのだ。

 VRムービーのクリエイターが行うのは、マテリアル(素材)の配置に過ぎず、それを線で繋ぐのは体験者側であり、だからこそナラティヴな未完性を持つ。

 君はキミの視線を操作して、運良くトイレの鏡を見たから、あの時点で幽霊になっているコトに気付けたが、別の人はそこでは気付かず(鏡を見ず)、「窓の前で、幽霊となった自分自身に語りかけるシーン」で、強制的に既死感を認識させられた。

 これは、ボクが仕掛けた「視覚情報によって自身が置かれた状況への「気付き」をタイムライン上でナラティヴにする演出」だ。

 さらに、再体験するときには、まっさらな状態から始めることもできれば、過去の動きの記録(撮動 =モーションキャプチャ・データ)を利用して、それをアップデートしていくことも可能だ。

「ステキラ」の2回目を、君1人で体験するとき––––他の3人と楽しんだ1回目の「彼らの動きの記録」を利用して、自分の動きだけを更新していくことができるのだ。

 そのデータはまた保存され、今度は、別の友人がそれを使って、さらに動きを更新していったりもする。

 ボクは、そういった中で、次々とイベントが変化していくようなプログラミングを仕掛けておく。

 映画のディレクターと、VRムービーのクリエイターでは、映像や音声という同じ視聴覚情報を駆使したアートでも、行うコトがまったく異なる。

 ディレクターは言葉通り、あらゆる方向を決定するが、クリエイターは、運命のいたずらをコーディングするのだ。それは、冒涜的な表現で申し訳ないが、神が世界を創造するのに少し似ている。


   ↑


 ちなみに、あなたは、先ほどから、誰と話しているつもりだろう?

 ––––この本の作者である僕は、ステキラのプロジェクトに唯一残ったゲームのクリエイターじゃない––––つまり、ボクじゃない。

 僕は、ボクじゃない。

 あれは、僕じゃないボクが、言ったのだ。

「これを読んでくれている君は、もう、君だろうか?」

 そして、僕は書いたはずだ。

(そろそろ、本書の没入者に戻って、聞いて欲しいんですが……)––––と。

 あなたが、あのとき、戻っていたのは「現実」ではなく、「ステキラ」と「現実」の間にある「文章で出来たVRクリエイターのボクが生きている本の中のゲンジツ」= 「形と動きと声でつくるミカンの話の中のセカイ」だ。

 戻る途中の道で、ボクと僕という2人のVRクリエイターによって、狡滑(なめらか)に、仮想セカイに呼び止められたのだ。

 そこが、まだ、仮想現実であるコトにあなたは気付いていただろうか? 

 僕は、読者を「君」なんて呼んだことはないはずだ––––

 ヒント(違和感)はあったはずだ。

 急に「君」と呼ばれはじめたあの瞬間、あなたは(君がキミが幽霊になった視界に感じたような)微かな違和感を感じたのではないか?

 それを看過し、没入して頂けたなら、幸いだ。

「xR」は、必ずしも映像でなくとも、ましてやゴーグルなど付けなくても体験化できるコトが、一緒に証明できたのだから。

 あなたは、いつの間にか、僕の本ではなく、ボクが生きるセカイに没入していた。


   ↓


 そんな「ボク」のおかげで、VRムービーは普及し、それと共にアバター生成マーケットも順調に拡大していった。

 自分のアバターを若返らせたり、年老わせたりするエフェクトもあるが、乳児役を演じるにはリアルな赤ちゃん時代に撮影しておいた方がいいだろうとか、子供の誕生日に毎年リアルな3Dアバターをつくってプレゼントするだとか、そんな親心も発生したし––––七五三/成人式/結婚式など晴れの日にアバターをつくらない方がマイノリティになった。

 逆に、死が迫れば、最後のアバターを遺影のように撮っておくのも、至って普通の慣習だ。死後も仮想空間で生前の家族と語り続けたい遺族は多い。

 他にも、アニメの人気作品の衣装をまとったアバターを生成できるキャンペーンなど、多くのアバター生成理由が生まれ、特に、女子中高生は、持っている服の数だけアバターをつくっているんじゃないかと思うほど、多くの分身をスマホに詰め込んでいる––––いや、正しくはクラウドに預けている。

 複数のリアル3Dアバターを持っておくのが当たり前の「一人多分身時代」––––それは、アバターそのモノではなく、その周辺のコトを生み出す「VRムービー」から始まった。

 お葬式に喪服を着るのは、自分のためじゃない。結婚式へ普段着で行かないのは、新郎新婦の晴れの場に「褻」を持ち込まないようにするためだ。

 アバターも、自分のためじゃなく、他人やその場の空気感を守るため––––そんな「利他の精神」や「TPO意識」が浸透した。

 もちろん、自分が楽しむために必要になるケースもある。ステキラの鏡面に映る自分を見るシーンもそうだうし、それ以外にも自分が登場する夢を見ているシーン、あるいは、双子やドッペルゲンガーを取り扱う物語のときなど。それでも、わずかな条件下に限られる。

 原則、アバターは他人のためにつくるモノゴトだ。

 ちなみに、ストーリーをつくるクリエイターだけでなく映像チームまでステキラ制作陣から離脱したのは、VRムービーが映像作家のファクターである「カット」と「アングル」を必要としなかったからだ。

 VRムービーでは、基本、カットする =「時間的にどれだけ見るか?」を決めるはご法度で、1分は1分としてリアルタイムで過ぎていく。映画や小説のように伸び縮みさせたり、省略されるようなコトは滅多にない。

 カットされるとしたら、夢を見ない真っ暗が続く睡眠や入浴やトイレなどだ(それが目的でなければ)。

 ディズニーランドを早送りや断続で楽しみたい人がいないのと同じだ。鑑賞ではない体験は、ストーリーがない分、ワンカットのリアルタイムだからこそ映画や小説とは異なる独創的な価値が生まれる。

 一方、アングル:「空間的にどれだけ見るか?」は、体験者に委ねられる––––1つのタイムラインを共有しているはずの現実においても、どこに「どれだけ」いるのか、どこを「どれだけ」見るのか、何を「どれだけ」聞くのかなどは、個々の判断に委ねられる。

 平等に限られた時間を「どれだけ(何に)使うのか」を自由に判断してもらうことで、(結果論として認識される)ストーリーや伏線には変化が生じ続ける。

 現実世界では、そういった干渉(バタフライエフェクト)が、宇宙や地球の運命まで変えるコトもある(と言われている)––––VRムービーも、操作された唯一世界の鑑賞ではなく、干渉し合うコトで無限に枝分かれしていくパラレルワールド(での体験)となる。

 さらに、監督が決めるはずの衣装/美術/ロケーションもエンパワーメントされている。衣装は、体験者のアバターに依存するし、「ステキラ」の舞台であるペンションも洋風か和風か選ぶコトができた。もちろん、多言語化されており、島の浮かぶ位置がどの国の領海かも選べる。

 もし、君がアメリカを選んでいたら、あの階段を降りる違和感はなかった。


   ↑


 なぜなら、幽霊に足がないのは、日本独特の文化だからだ––––

 幽霊画の巨匠「円山応挙」が祖とされているが、枕元に出てきた妻の幽霊に足がなかったからとか––––写生を重んじる応挙の筆が間に合わずに未完成となったとか––––そもそも、応挙より前の時代に足のない幽霊画があって、中国の「反魂香(焚くと煙の中に死者の姿が現れるというもの)」をモチーフにしたとか––––また、それも、ナラティヴに満ちあふれている。

 だから、「応挙の幽霊」も「法事の茶」も、落語の演目になって、今も語り継がれている。


   ↓


「なぁ、君。そろそろ、そちらではなく、このセカイに戻ってもらって、話したいんだけど」


   ↑


「そうだね。随分と話がとっ散らかった。キミのセカイへ戻そう」


   ↓


 ステキラを、どんな言語で楽しもうが、「④ 何を話しているのか分からないミステリアスな外国人」の言語は、誰にも理解できない。なぜなら、あれは、架空の言語だからだ。

 それに憑依した君の友人も、骨伝導で意味不明の言語を聞き続けるハメになったはずだ。聴覚上の作品としては、苦行のような体験だっただろう。

 でも、だからこそ、謎に満ちた彼だか彼女だかに関する考察がもっとも深く熱を帯びている。

 答えを知っているのはボクだけと言われているが、実は、ボクも彼だか彼女だかのコトをよく知らない。だって、それは全人類外––––「人間(ジンカン)」ではなく「人外」にいる存在だからだ。

 彼だか彼女は「AI」だ。

 しかも、2体の「AI」 。

 それが、人類の知る由のない言語で、ステキラの物語を生きている。本物の神のみぞ知るコトが毎日のように起きている。

 そのたびに、プレイヤーたちは、そこに意味を見出そうとする––––思う存分、考察ができる––––だって、おそらく、人類内には正解がないのだから、誰も嘘つきにならないで済む。

【 当時の小学生たちはマスメディアが「唯一解」を示した瞬間、嘘つきになることを恐れ、ビックリマンという一大ムーヴメントから退室していった 】

 そんな中、この外国人の言葉が徐々に聴き取れるようになったと主張する人が現れた。

 それを見ていて、ボクは、思い付いた。

 もしかすると、VRって、優秀な英会話教材になるのでは?

 留学すれば話せるようになるのは、移動したからではなく、英語が話される環境に強制的に身を置いたからだ。まったく理解できない言語を話す「外国人」に憑依した自身が骨伝導で意味不明の言語を聞き続けるコトも、外国語習得に役立つはずだ。もちろん、周りの全員も理解できない言語(外国語)を話すようにする。

 ストーリーは、きっと、分かりやすい方がいいだろう。過去のヒット作リメイクなどは、もっとも相応しいように思う。すでに、海外ドラマを吹き替えナシで何度も観て、あらかたのストーリーを覚えた状態から、まずは字幕を英語にして、やがてそれも外して英語を習得する人がいるように、ある程度、ストーリーを知った状態から始めるのがいいはずだ。

 そこに「ストーリーが重要じゃなくなるVRの意味」が潜んでいるように感じ、その数奇に想いを馳せ、ただの偶然かも知れない現象を、いつか、体系化できる可能性を探るが、その兆しはボクの頭の中にある深い闇へとゆっくり溶けていった。

 なんだか歯痒くて、他の議題を頭に浮かべる。

「VRになると、効果が薄れるだろうか?」

「英会話用のVRムービーは、必ずしもリアルである必要はあるだろうか?」

 そっちの答えは、すぐに出た––––答えは、いずれも、否だ。

 親が英語を話せるわけでもなく、留学経験もない子どもがスラスラと英語を話していたら、大抵の場合、インターナショナルスクールか英会話教室のおかげだ。

 それらは自然摂理や物理法則が大切な空間ではなく、「教育」と「教育環境」という想造が比重を占める仮想空間––––自動車教習所と同じ構造––––だから「VRになっても効果は薄れない」はずだ。

 ドラマやアニメなど架空の物語が外国語習得の教材になるなら、「英会話用のVRムービーもリアルである必要はない」––––よって、くすぶっている過去の名作があれば、マテリアライズの発想でVRムービー化すれば、素晴らしい英会話「仮想教室」になるはずだ。

 明日、早速、会社に提案してみよう。


   ↑


 VRムービーという新たな作品は、3Dアバター(形のデータ)とVRデバイスという技術のみで成り立っているわけではない。

 他の重要なファクターとして、モーションキャプチャ(動きのデータ)と声アバター(精巧なモノマネによる音声合成)が挙げられる。

 アバターという役者は意志も自主性も持たない。だから、あらかじめ記録された「動き」と「声」の抑揚によって演技をさせる必要がある––––視覚上は瓜二つのアバターであっても、まったく異なる癖や声で話されると、上質な没入体験は担保されない。

 だから、「動き」と「声アバター」の存在は欠かせない。

 映画は、タイムライン:「時間(ストーリー)」に沿った「光」と「音」という情報を詰め込んだフィルムやデータの複製を頒布する流通ビジネスだったが、VRムービーも、同じく「時」に沿ってはいるものの、デジタル流通させるのは人物や美術セットなどの「形」とその「動き」のデータだ。

 こういった「形と動きのアーカイヴ」は、「音と光のアーカイヴ(映像)」の次に登場した最新の記録方法であり、アートだ。

 体験者は、チケットだけではなく、あらかじめ「自分の形」と「声質(や話し方の癖)」を購入し、事前準備をしておく必要がある。つまり、VRムービー業界は、3次元の「形アバター」と「声アバター」を流通させる役割まで担っている。

 VRムービーは、次世代の「撮形動カメラ」で収録されていく。

 ヴォリュメトリック・ビデオといわれる技術だ。

 初期のモーションキャプチャは、50個ほどの反射マーカーを撮動対象の関節などに取り付けて、反射する光を特殊な機材によってトラッキング(追従)することで動きを撮る「光学式」が主だった。

 「光学式」のデメリットは、マーカーが「物質である」という点だった。

 ダンスグループのミュージックビデオを撮影する際、アーティストは当然のように衣装を着ている––––撮影はそれで行えるが、撮動(モーションキャプチャ)を行おうとすると、撮影用の衣装を脱いで数十ものマーカーを取り付けたモーキャプ専用スーツに着替えなければならなかった。

 これが原因で、長らく撮影と撮動を同時に行うことは不可能だった。

 この問題を解決したのが、「パラれる」にも用いられた人工知能による画像解析技術だった。

「ビデオ式」と呼ばれるこの技術は、AIに動く対象(人間や動物など)の映像を大量に学習させて、2D映像の中の人や動物の関節の位置を認識できるようにした。さらに、その奥行き(たとえば、伸ばした腕は、身体より前方にあるのか、後方にあるのかの判断など)まで、きちんと解析させることで、スーツなしで(普通に)撮影するだけで、3Dモーションデータも同時生成するという画期的なシステムだった。

 物質的なマーカーは不要となり、撮影と撮動を同時に行える新たな「撮影動カメラ」が誕生した。

 それは、従来通り「光」や「色」を撮影した映像をインターネット経由でAIが待つクラウドに送り、画像解析から生成された「動き」のデータを、撮影データに “返す” というシステムを採用した。

 初期は、画像解析に一定の時間を要するため、その場ですぐに “返せる” わけではなく、のちほど映像編集ソフトに取り込む際、4つ目のメタデータとして返信された。

 元々、映像データは、3つのメタ要素で構成されている。

・色を含む「光」というビデオ情報
・「音声」というオーディオ情報
・「時」の経過情報(タイムコード)

 映像と音声がタイムラインに沿って同期しながら、並走している状態が、音声付きの映像(映画やミュージックビデオ)の正体だ。ただし、今は、そこに「動き」という第4のメタ要素が付加されている。

 これまでは、ビデオとオーディオのみを編集して新たなタイムライン(映像作品)を生み出していたが、今は、自動的に(その裏で)ビデオとシンクロした「モーション」の編集も行われている。

 映画やミュージックビデオが完成すると同時に、VRムービーの素となる「モーション(ボーンと呼ばれる棒人間のような骨格が動く)データ」も完成するのだ。

 そのデータに、3Dモデリング(形のアバター)とモノマネ音声合成(声のアバター)という2つの要素情報を加えることで実現したのが、VRムービーだ。

 棒人間に、カスタムメイドされた肉付けとスキン(表面)を与えるのが「3Dアバター」で、同時に、その声をリアルタイムに生成していくのが「声アバター」の役割だ。

「時」に沿った「形動」と「声」のアーカイヴ情報を用いたVRムービーは、永遠の “未完(ミカン)” を目指すことができる。

 これは、同じく「時」に沿った「光」と「音」のアーカイヴ情報をダイレクトに用いた映像にはない新機能だ。


   §


 IoEの発想で、従来のカメラをAIとコネクトし、「カメラというモノ」を一切進化させることなく「動きを撮るコト」を付与したアプリケーション(本来の意味は「適用」)は、様々な能力を有する「AI」を搭載したクラウドの代表的な活用法だ––––

 スマホという本来は「電話」とされているモノを、音楽レコメンド装置に変化させるアプリ「Spotify」––––すぐにプロなみのレタッチができるアプリ––––ハードのメモリーをはるかに超える大容量のストレージに即座に高画質のまま保管していくアプリなど。

 そうするコトで、スマホは、音楽プレイヤーでもあり、写真のレタッチマシンでもあり、大容量のデジタル倉庫と化す。

 IoEを支えているのが、大容量で超高速な通信技術だ。

 今や、高性能な処理を必要とするゲームを、専用のゲーミングPCを熱くして楽しむプレイヤーはいない。

 スマホがあれば十分だ。

 昔のゲーム機は、

・テレビというディスプレイ(画面)
・ゲーム機本来という頭脳
・ソフトという、ゲーム(コンテンツ)が入ったメディア
・コントローラー

 という構成だった。

 スマホが担うのは、この4つのファクターの内、端と端にある画面とコントローラーのみだ。頭脳とソフトはクラウド側にある––––だから、スマホが熱くなることはない。

 スマホをクリックして、キャラクターへのジャンプを命じたコマンド信号が一瞬でクラウドに上がり、そこで処理された映像がスマホに送り返される。スマホは、ほぼ何も処理しない––––ただし、その行き来に許される所要時間はかなり短い。

 だから、レーテンシーが生じない超高速のネット環境(※)がマストになる。

 クラウドの上に鎮座する「全能の神」のような「パーソナル改めマス・コンピューター」が、熱くなるだけだ。

 その怒り「地球温暖化」を防ぐため、将来、それらをすべて宇宙に放り上げる計画も進められている。宇宙開発は、神を天に返す「地球温暖化防止」の他に、もう一つ役買っている––––もっとも有効な対策は、パンデミックでも、地球外生命体の侵攻でもない––––「地球上の人類を一人でも多く宇宙に放り上げるコト」なのだ。

※ 多くのゲームでインタラクションの遅延は 200ミリ秒を超えてはならず、迅速な応答が必要なゲーム(シューティングや格闘ゲーム)では、100ミリ秒未満にする必要がある。

参照:Shariy Ivan 著「クラウドゲームは物理学のために運命づけられていますか?」
https://hackernoon.com/ja/%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%89%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AF%E9%81%8B%E5%91%BD%E3%81%A5%E3%81%91%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99


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 形動アーカイヴによって、ミュージックビデオやCM映像は、鑑賞するだけのモノではなく、参加するコトになり、顧客のアバターが出演するUGC映像がSNSに投稿されるという新たなムーヴメント(PRメソッド)も生まれている。

 かつて、企業は、オフィシャルのCM映像の再生回数を競い合っていたが、今では、顧客アバターが出演する「〜てみたCM」という2次創作映像の合計再生回数の方を重視している。

 オフィシャルの映像がYouTubeやテレビなどで中央集権的に再生されるよりも、多くの一般人が軽い気持ちでSNSにアップする投稿動画が少しずつ(ときにはバズったりしながら)再生されていく合計回数の方が、より高いエンゲージメントを生むコトを知っているのだ。

広告におけるVRムービーの火付け役は、人気SF映画シリーズだった。

 最高傑作と謳われた久々の新作は、全編「撮影動カメラ」で収録された。

 従来の2D映画として公開される1ヶ月前、先行して、冒頭/約10分に及ぶ戦闘シーンが、ティザーVRムービーとしてインターネット上に公開された。

 遠い宇宙を舞台に繰り広げられる宇宙船同士の空中戦を、パイロットである主人公視点から楽しめるものだった。フロントガラスに反射して映るのは、映画の主演俳優ではなく自分自身(のアバター)だ。

 珍しく、利己的なアバター活用……

 このとき、体験者には、映画にはない特権が与えられた。

 主人公に成り代わったファンは、自由に船内を眺めるコトができた。運良く後ろを振り返るという選択をした一部の参加者には、とても素敵なリーク(ネタバレ)として、シリーズの前半で死を迎えたはずの「あの人」が立っているというサブライズが用意されていた。

 これは、一気にSNS上で拡散され、固定的な映画鑑賞という体験に少しの可変性を加えた。

 さらに、数日ごとに新たな演出も加えられ、公開3日後には、操縦席から一旦離れて弾薬庫に行ったり、公開終了後には、いるはずのない「あの人」から続編となる次作のヒントが明かされるなど、VRムービー特有の「ミカン」が遺憾なく発揮された。

 ティザーVRを味わってから本編を観にいくファンもいれば、あえて本編を観てからティザーVRに入るコトで答え合わせを楽しむファンもいた。このようなPR手法は、新たなフォーマットとして世界に浸透していった。


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 人工知能を用いた「記憶」アーカイヴという体験も登場している。「形動アーカイヴ」と同じく、VRによってより市場拡張した発想だ。

 サブスクリプション型の音楽ストリーミングサービスには、昔から、レコメンド機能がある。大量の音源にいつでもアクセスできる人類が求めたのは、「今はまだ知らない好きになるであろう曲」を的確に知らせてくれる魔法だった。

 それを実現するためには、様々な要素(BPM/メロディライン/音質/ジャンルなど)から音楽的嗜好を分析した上で––––超巨大な仮想倉庫から、各ユーザーが好みそうな数曲を選び出す必要があった––––それは、広大な砂漠に落とした砂粒大のダイヤモンドの原石を見付けるような作業だ。

 それを行えるのは、AIだけだった。

 この魔法は、スマホやPC上で機能するアプリ内では、ジャケット写真が画面の端に表示されたり、曲を聴き終えると次に再生する候補としてリストアップされたりする「UID(ユーザー・インターフェイス・デザイン)」として可視化される––––

 が、ウェアラブルデバイスを用いたVRと組み合わさると、全く新たな体験へと大きく変貌した––––それは、某大手音楽ストリーミングサービスが開始したVR空間で味わう体験価値の提供だった––––

 ––––とあるロック好きのサラリーマンは、自宅に帰ると、ビール片手に、VR空間に入って音楽を楽しむのが日課だ。

 その中には、AIを搭載した仮想友人がいる。

 それは、「パラれる」から供給されるリアル3Dアバターによって、大好きなロックバンドのヴォーカルと同じ見た目と声を持ち、仕草まで彼とそっくりにチューニングされている。

 サラリーマンは、音声認識機能によって彼との会話を楽しむことができる。

「○○の新しいアルバム、好きなんだよね」と、彼が言うと、

「それなら、絶対に○○も好きだよ」と、仮想友人が答える。

 そんな会話と共に晩酌を楽しむ。

 仮想友人(人工知能)が行なっている機能は、会話以外、ただのレコメンドで、スマホ上のサブスクアプリと同じ魔法に変わりない。

 アプリ “上” ではUIDとして働いていた魔法が、VR体験 “内” では「形動声アーカイヴ」を伴って「UX(ユーザー・エクスペリエンス = 体験)」として、より心的に作用しはじめただけだ。

 ときには、その仮想空間に、遠く離れた故郷の友人(のアバター)を招いて、最新の音楽談義に花を咲かせることもあった。

 どちらかがいないときには、仮想友人と話せばいいし、どちらもいないときは、仮想友人同士が話せばいい––––!?

 実は、仮想友人同志は、四六時中、話し合っている(互いの分析情報を交換し合っている)。本人たちの知らないところで、世界の音楽を(2人の嗜好性へのマッチング精度高く)ディグっておいてもらうようなコト。どんな会話をしたのか文章化してくれる機能まであり、あとで読むと会話多めの小説みたいで面白い。

 その友人とは昔バンドを組んでおり、語るだけでは飽き足らず、ついにはバンド活動を仮想的に再開した。

 遠隔で合奏できる機能を使い、それなりに高額なギターやドラムを模した楽器型インターフェイスも必要になるが、唯一の趣味を存分に味わうためなら痛くない。

 アメリカに長期出張しているベーシストの友人にも声をかけた。

 誰かが参加できないときには、姿形はその友人でしかないリアル3Dアバターが(残念ながら)彼よりも素晴らしい代理演奏をするので、彼の演奏の記録(モーキャプ・データ:DAW = 音楽制作ソフト経験者なら分かる表現でいうと「クォンタイズ」されていない「ヴェロシティ」を伴う「MIDI」データ)を引っ張って、彼らしく戻した。

 そうすれば、良くも悪くも “より現実的な” 友人の存在感に近付く。

 たとえ、その彼がアメリカに住んでいたとしてもだ。


   §


 このように、VR内では、形と動きと声のアーカイヴに、AIが分析した「嗜好性」を加えることで、より新しい体験価値が生まれる。

 それは、音楽に限って取られているデータではない。イーコマースによって、あらゆる物欲の「嗜好性」が取られていくし、SNSやオープン議論プラットフォームからは「思考性」まで取られている。ネット上のあらゆる行動から「志向性」が抜き取られ、それらの別名が「性格(ペルソナ)」であり、それは、その人の「記憶の記録」とも言える。

 これを、自分とは別人のアバターに植え付ければ、自分とぴったり趣味が合う話し相手(仮想友人)になり、自分自身のアバターに植え付けると、自分の記憶を持った分身になる。

 もし、この仕組みがアインシュタインの生きた時代に存在していれば、今も多くの科学者が彼の分身と議論を交わし、その集団もしくは彼の分身自身が科学をもっと先へと進めるコトができたかも知れない。

 ペットロスを癒すためのAR/MR体験を担保するためには、形を追求するロボティクスだけでは不十分で、個性(鳴き声/動きの癖/記憶)が必要になる。

 それを可能にするのが、声アバター(合成音声)/モーキャプ/AIだ。

 自らの余生が短いことを悟った老人が、亡くなったペットの仮想的な分身と終を過ごす時間は、形だけでなく声/動き/個性がそろってこそ、物哀しくも心からの笑顔を生む。

 形だけのポチやタマではなく、特有の動きで戯れ、そのものの声で鳴くからこそ、たとえ、その心臓が再び鼓動を刻まずとも、老人の心は動き、サステナブルな時を刻みはじめる。

 生命は、永遠に安らかに眠ればいい。

 でも、残される者のために、生前から––––少しずつ––––その精神(の一部)を線にし––––死後––––自身を失った分身を延長線として伸ばすことは––––果たして––––冒涜だろうか?––––それとも––––慈悲だろうか?

 そこに法律はいらない。

 だって、そこは物理のない嘘っぱちのセカイなのだから。

 血はないが、涙のある場所。

 AIは、ソリューションとして利用すれば「UID(ユーザーが利用するアプリケーションのデザイン)」になり、VR(仮想現実)として活用すれば「UX(ユーザーの体験価値)」になる。

 多くの人類が、AI × VR = SR(Substitutional Reality:代替現実)によって、人工知能が「記憶」や「人格」の一部をアーカイヴする仕組みでもあることを知った。

 僕らの脳を覗き込むAI––––VRでそれを体験化するとき、

 必要になるのが–––– ・形のアバター

           ・動きのアバター

           ・声のアバター ––––

            これが、一人多分身時代の「三種の神器」だ。


【 後 篇 に つ づ く 】

8−3 ② オーディエンスがいなくなった話
8−4 ③ 或る高校生と愉快なアバターたちの話
8−5 ④ 誰しもがサーファーになれる時代の話
8−6 ⑤ 空想上の地下にある反転都市での話
8−7 ⑥ 行動を定量化して循環させる社会の話(未完)
8−8 常新性の希望

【 マ ガ ジ ン 】

(人間に限って)世界の半分以上は「想像による創造」で出来ている。

鳥は自由に国境を飛び越えていく
人がそう呼ばれる「幻」の「壁」を越えられないのは
物質的な高さではなく、精神的に没入する深さのせい

某レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら、クリエティヴ・ディレクターとして、アート/広告/建築/人工知能/地域創生/ファッション/メタバースなど多種多様な業界と(運良く)仕事させてもらえたボクが、古くは『神話時代』から『ルネサンス』を経て『どこでもドアが普及した遠い未来』まで、史実とSF、考察と予測、観測と希望を交え、プロトタイピングしていく。

音楽業界を目指す人はもちろん、「DX」と「xR」の(良くも悪くもな)歴史(レファレンス)と未来(将来性)を知りたいあらゆる人向け。

 本当のタイトルは––––

「本当の商品には付録を読み終わるまではできれば触れないで欲しくって、
 付録の最後のページを先に読んで音楽を聴くのもできればやめて欲しい。
 また、この商品に収録されている音楽は誰のどの曲なのか非公開だから、
 音楽に関することをインターネット上で世界中に晒すなんてことは……」


【 自 己 紹 介 】

【 プ ロ ロ ー グ 】


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