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AIが人類から奪ったのは「仕事」ではなく「労働」だったせいで「追放」されたマイノリティも「解放」されたマジョリティも 「 」 を思い知るだろう。


最新のVR/ARゴーグルなんて付けなくても、今、目の前に広がっている風景こそ似非物質で囲われた仮想現実なのに……


 本来、人以外と等しく只の動物である『人類』は、想造(想像による創造)力を以って『人間』となり、唯一絶対の「世界(またの名を自然(またの名を現実))」に「社会」という人間のみに通用する共同幻想を重ねて以来、球体である「地球」のたった一面の上を「国境」という不確かな「線」で区切り、多種多様な虚偽を駆使して「壁」を捏造し続けてきた。

 都道府県や市町村という壁––––
 学校や会社という壁––––
 仏教徒/キリスト教信者/ムスリムなどの壁––––

 ––––それらは、ボーダー(境界線)に設置された看板/自宅やオフィス/経典や聖書やコーランあるいは寺社仏閣など、想造を付与した「似非物質」をあふれさせ、最新のゴーグルなど付けなくても、今、あなたの目の前に広がっている光景こそ「仮想現実(あるいは仮想で拡張された現実)」であり、風が吹けばいとも容易く形を変える「社会」や「国」という「VR」もしくは「AR/MR」を構築した。

 ヘッドフォンとゴーグルの中で響き輝く「箱庭(音声付きのゲームや映像作品)」は、「星(世界/自然/現実)」の中にある「人間社会(第1階層の仮想現実)」の次にある「国(第2階層の仮想現実)」に属し(没入し)ながら、様々な「教え(宗教や教育)」や「ルール(法律)」や「組織(会社や学校)」によって操作された「心(精神)」という非物質の色眼鏡を通して見る「数階層目の仮想現実」に過ぎない。

 人間社会の原初––––大きく2つの仮想的な「箱」が捏造された。

 1つは、場所に依存する「国」という目には見えない無色透明/無味無臭の箱で、その幻を死守するため「戦闘を専門で行う階級」が生み落とされた。

 やがて、彼らは「戦士(騎士や武士)」と名乗るようになった。

 もう1つは、祀る「神」の違いで区別された「宗教」という箱だった。やはり、目に見えず、触れることも嗅ぐことも味わうことも叶わなかった––––今なお「信仰」では、雨風を凌ぐことも、腹を満たすことも、身を温めることもできない。

 それでも、人々は神仏を崇めることを諦めず、「祈りを専門で行う階級」である「神官」を生み出した。

 戦士は「城や砦」という新たな箱をつくり、神官は「寺社仏閣」という新たな箱をつくった。彼らは、当初、決して上に立つことなく、横にいる存在だった。

 しかし、いつの頃からか、衣食住に纏わる生産物を「ただ “与える” 側」である「狩猟や農耕という役割を担う人々」と、訓練や儀式に集中する必要があるため「どうしても “与えてもらう” 側」になる「戦士や神官」という、フラットな関係から、「貢がせて “頂く” 側(民衆)」と「貢 “がせる” 側(王)」という上下(主従)関係へシフトしていった。

「スタンフォード監獄実験」をご存知だろうか?

1971年8月14日から8月20日まで、アメリカのスタンフォード大学で行われた心理実験で、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまうことを証明しようとした。

新聞広告などで集めた普通の大学生など70人から選ばれた心身ともに健康な21人の被験者のうち、11人を看守役/10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を、実際の刑務所に近い設備を作って演じさせた。模型の刑務所(実験監獄)は、スタンフォード大学の地下実験室を改造したもので、実験期間は、当初、2週間を予定していた。

主催した心理学者フィリップ・ジンバルドーは、囚人役をよりリアルに演じてもらうため、わざわざパトカーで逮捕し、指紋採取を行い、収監の際には看守らの前で脱衣させ、シラミ駆除剤を散布するなどの屈辱感を与えた。逆に、看守役には表情が読まれないようサングラスを着用させたり、囚人を午前2時に起床させ点呼を取らせたりもした(これらの待遇は、当時、本物の刑務所でもほとんど見受けられず、実際の囚人待遇より非人道的であり、再現性は必ずしも高くなかった)。

時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになることが証明されたと、ジンバルドーは主張した。

例えば、看守役は誰に指示されるわけでもなく、自ら進んで囚人役に罰則を与えはじめ、反抗した囚人の主犯格を独房に見立てた倉庫へ監禁したり、バケツへ排便するよう強制させたりした。耐えかねた囚人役の1人が実験の中止を求めたが、ジンバルドーはリアリティを追求し「仮釈放の審査」を受けさせ、実験はそのまま継続された。


精神的に追い詰められた囚人役数名が実験から離脱。彼らが仲間を連れて襲撃するという情報が入り、一時、実験室のある地下1階から5階へ避難させる事態となったが、残った囚人役の願望だったことが判明した。ちなみに、実験中、囚人役が常時着用していた衣服が女性用ワンピースだったせいか、日常行動が徐々に女性らしい行動へ変化した者が数人いたという。

ジンバルドーは、実際の監獄でカウンセリングをしている牧師に囚人役を診てもらい、監獄実験と実際の監獄を比較させた。牧師は、監獄へ入れられた囚人の初期症状と全く同じことが起こっており、実験の域を超えていると非難した。

看守役は、囚人役にさらなる屈辱感を与えるため、トイレットペーパーの切れ端だけで便所掃除をさせ、ついに(禁止されていた)暴力による制裁が始まった。

ジンバルドーは、それを止めるどころか実験を続行したが、牧師がこの危険な状況を家族へ報告。家族らが弁護士を連れて中止を訴え、協議の末、6日間で中止された。しかし、看守役は「話が違う」と、続行を希望したという(後に、ジンバルドーは、自分自身がその状況に飲まれてしまい、危険な状態であると認識できなかったと説明)。

【 実 験 結 果 】

① 権力への服従:強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が、狭い空間で常に一緒にいると、次第に理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまう。

② 非個人化:元々の性格とは関係なく、役割を与えられただけでそのような状態に陥ってしまう。

(ただし、近年、スタンフォード大学より公開された実験の録音テープにより、「刑務所長役」から「看守役」へ積極的な指示/指導がなされていたという指摘があり、実験結果そのものの信頼性が問われる事態となっている。また、被験者の一人が発狂した振りをしたことを認めた)

wikipedia「スタンフォード監獄実験」より要約
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E7%9B%A3%E7%8D%84%E5%AE%9F%E9%A8%93

 信憑性の疑わしい部分が大いにある実験だが、人は役割を与えられると、過剰に夢中/没頭する生き物であることは間違いなく、次第に「役割を演じるコト」から「地位を固めるコト」に重きを置く傾向にある。

 そこで生まれた快楽や既得権益を守るため、自然摂理や物理法則ではない偽物のルールを自らに(無意識に)課す習性があることもまた事実だ。

 洗脳を行いがちだし、その影響を受けやすい––––人類は、マインドコントロールを能受動するコトに長けた種族なのだ。

 その代表こそ「常識」や「マナー」と呼ばれる脅威的な存在で、自身を律し、他者(ただし、対象のほとんどは人類に限る)のためという大義名分で、良く捉えれば「利他の精神」––––悪く見れば「他人の目ばかり気にして」––––必要以上に我慢し––––それを「本能」に対して「理性」と呼び、賞賛し合う自作自演の向きがある。

 それが行き過ぎると「儀式」は加速し、「犠牲」が生まれる。

 多くの自作自演の被害を生み出しながら、ついに「学問」と「科学」を発明すると、前者は迷える人に「疑問」を与え、後者は「根拠」を与えた。

 人々は自分の「存在意義」を考えはじめ、神ではない「創造主の存在(世界の根源)」を知った。自然の理と社会の幻の間に引いては寄せる「波」を「心」や「理性」と呼び、辛いことがあるたび脳ではなく胸が苦しいと嘯き、「精神」という新たな(ただし、内なる)神を生み出した。

 考える人々は、人が造った(であろう)神を悪用して一部の特権階級だけが得をする王国(人治社会)という箱を疑いはじめ、やがて激しく嫌った。

 本当の神であるのなら不条理や不平等を強いるわけがない。王や神官が本当に神託を受けた特別な者であるなら悲しみや怒りを生む源になるわけがない––––が、事実、腐敗した王は役割ではなく地位のみを気にして搾取を繰り返し、敬虔ではない神官は神よりも金を重んじ、あろうことか民衆よりも欲深くなっていった。

 精神という内なる神、つまり、自分たちの深慮の集積である集合知を信じる民は、数で特権階級というマイノリティを圧倒し、新たな政りを目指した。

 市民革命や明治維新の直後は新たな特権階級であるブルジョワジーや藩閥/華族など新興勢力が、早速、新たに腐敗し、結局、権力者のスライドが起こっただけだった––––など、紆余曲折を経て、マジョリティである民衆の想いは「どのような人も(地位を与えると堕落しがちなので)全人類の信用を預けるに値しない」という一点で一致した。

「人は人に支配されるべきではない!」という結論に達したのだ。

 日本には「天は人の上に人を造らず」という名言が、アメリカにも「人民の人民による人民のための政治」という名言が生まれた。

 僕には、どちらも「どのような人にも全人類の信用を預けるべきではない」と聞こえる。人の上には人ではない「天」あるいは「政治」が立つべきというメッセージと受け取っている。

 言い換えれば「(人などという愚かな生き物は)人外の何か(例えば、真の神)に支配されるべきだ」というもの––––ただし、それが自然摂理や物理法則(弱肉強食)であると野性が過ぎ、もはや、育ってしまった理性が受け入れ難い––––なのに、本物の神は、どこにも見当たらない––––

 ––––だから、生まれたのが「法」という、
   新たな希望だった。

 これまでの悪しき王、あるいは、地上のどこにもいない神に代わり、人を支配してくれる「人外」の存在を頂点に据えた「箱」––––

 すなわち「法治国家」の誕生だ。

 そんな新たな神(人外の支配者 = 最高権力)である「法」を崇める「祀り」として「政(まつりごと)」があり、選挙という多数決が重宝された。

 もう1つの「お祭り」が「お金」という人外を拝む「資本主義経済」という新たな箱だ。

 法に依存する「国」という目には見えない無色透明/無味無臭の箱で、その幻を死守するため「政治(立法/改正法)を専門で行う階級」が生み落とされた。

 やがて、彼らは「政治家」を名乗るようになった。

 もう1つは、「仕事」の違いで区別される「企業」という箱だった。やはり、目に見えず、触れることも嗅ぐことも味わうことも叶わなかった––––今なお「お金(賃金)」その物では、雨を凌ぐことも、腹を満たすことも、身を温めることもできない。

 それでも、人々は労働に勤しむことを諦めず、「経営という占いを専門で行う階級」である「経営者」を生み出した。

 政治家は「議事堂」という新たな箱をつくり、経営者は「オフィス」という新たな箱をつくった。彼らは、ティール組織などを騙り、上に立つ素振りを見せず、横にいるかのように振る舞う。

 しかし、結局は、衣食住に纏わる生産物を「ただ “与える” 側」である「労働という役割を担う人々」と、政治や経営に集中する必要があるため「どうしても “与えてもらう” 側」になる「政治家や経営者」という、フラットな関係ではなく、「貢がせて “頂く” 側(民衆/労働者)」と「貢 “がせる” 側(国家/会社)」という上下(経済的な収支/雇用)関係に陥っていった。

 税金や労働賃金というのは、多くの思考停止の上に成り立つ自動献金システムで、前者は能動的な分、まだ現代的に見えるが、後者に至っては、年貢と大して変わり映えしない旧態依然の献上構造と大して変わり映えしない。

 結局、現代というのは、完璧な法治社会(人外によってのみ支配される人の上に1人の人も立たない政治)ではないのだ。

 法が支配できるのは所詮「国家」という星の次に大きな箱のみで、それを支える「企業」という無数の小箱は、一部の特権階級である少数派の人物が、マジョリティである人々(労働階級)を支配する人治社会あるいは閉鎖的かつ好戦的な封建社会に他ならない。

 今の先進国を象づくっているのは「民主による法治」と「資本主義による人治」の2つ柱で、神(教義/聖典)に代わり法(ルール/六法全書)で人々を治め(癒しと裁きを与え)、土地を有する王に代わりお金(資本)を有する経営者が人々を率いている。

 人類史/人間社会史を巨視的に振り返り、これから先の遠い未来を長い目で予想するとき、脳裏に浮かぶ波はたった1つのベクトルを示している。

 とにかく「支配層から人を除外したい」という悲願の延長線––––

 それが、本能による欲望なのか理性的な希望なのかは分からないが、事実的に、人類が「人外によって統治されたい」というたった1つの矢印で蠢いてきた結果を、見たまま書いていく。

 それは、僕という孤独な変人の独断と偏見かも知れないし、僕たち人類という変化を好む生物の集合的無意識かも知れない。

 いずれにせよ、勇気がいるが、とにかく、そのまま記す––––

 次に革命の標的になるのは、間違いなく「経済」という幻だ。

 対象となる人外は「お金」であり、対象となる(特権階級に位置する)人間は「経営者」となるだろう––––僕は、誓って、経営者に恨みがあるわけではない。むしろ、自分の会社の創業者 = 経営トップをすごく尊敬している––––ただ、ここで書くことは、個人の所感や自分には幸運と思える境遇の話ではなく、歴史から延いた一般論……

 今、もっとも力を持っているのは、人外の「法」ではなく、世界を席巻するグローバル大企業のトップ「80億分の数十人」の方だ。それを讃える法治社会の中に残存した封建制度(人治社会)である「企業」こそ淘汰されるべき箱なのだ––––

 彼らと彼らの王国(会社)が持つ資産と権力は、国家予算や国家権力を凌駕する勢いを持っている––––例えば、以下の選択に対して、前者を選ぶ人が多いはずだ––––それほど、企業というパトロン(現代版の貴族)は、強力な影響力と支配力を誇っている……


(前提として––––

 今の給料に満足している会社員であり、人並みに「日本」という平和で(物的には)豊かな国を愛している

 ––––ということを設定した上で)

・日本国民であることを捨てれば、今の企業で働き続けられる。
(ただし、次の国は自由に選べる:先方が受け入れるかは不明)

・今の企業を辞めなければ、日本国民でいられない。
(ただし、次の企業は自由に選べる:先方が受け入れるかは不明)


 どうしてもどちらかを選べと言われたとき––––「移住すれば経済の安定が変わらない(転勤に近い)前者」と「経済を不安定にしても日本国民であることに拘る(高い忠誠心を誇る愛国者である)後者」とでは、国を転籍してでも経済(賃金)の安定を保つことのできる同企業で働き続けたい人の方が多いはずだ。僕もそちらを選ぶ可能性が圧倒的に高い。

「法治国家という開かれた(進んだ)箱」と「いまだに人治(封建)社会である会社という閉鎖的で遅れた箱」という、現代版の究極の2択を迫られた際、僕たちの多くは「国」ではなく「企業」という箱を選ぶはずだ––––

 ––––このような状況は、人間社会史から見えば、退化に他ならない––––ほんの一部の人がその他大勢を支配する時代への回帰とも取れる。

 非常に一般的な社会人である僕は、自ら望んで、会社に属し、売り上げを捧げ、経営者から支配されたがっている。そして、どこかで(経営したいかどうかはさておき、少なくとも賃金の上昇を目指し)上流階級へのステップアップを卑しくも求めてしまっている。

 いつの時代も、トップ(王や社長)が人徳者であれば(もしかすると現代の民主主義国家よりも)平和で笑顔にあふれたキングダムが実現する。それでも、人類は、そんな良き王を含めた王と呼ばれるすべての者を排除したいと無意識に願い、事実、ブータン王国でさえ幸福度ランキングを下り続けているし、世界最高峰の1つであるグーグルという企業も訴訟を抱えている。

 ルイ16世とマリー・アントワネットに反旗を翻すことや江戸幕府の転覆を図ることが冒涜であったように、(トップが素晴らしい人徳者であろうがなかろうが)現代の王たる経営者に楯突くことは、大変、愚かに映るかも知れない––––しかし、これから千年も経たないうちに、日本が鎌倉幕府を頂点とした武家社会から現在の民主的かつ資本主義の社会に変化したような大きなパラダイムシフトが、必ず、起こる。

 ルイとマリーを処刑したのは、誰よりも王を崇拝し、その妃に憧れたサンソンだった。徳川家を武家の頭領から引き摺り下ろしたのは、農民ではなく誰よりも忠誠を誓っていたはずの侍たちだ。

 そのモチベーションは「人外に支配されることへの抗い難い欲求」にあった。これから起こる新たな革命の具体も「現代社会にも少なくとも半分(おそらく半分以上)残っている人治(王政/幕府/企業という箱)を跡形も無く消し去ること」にある。

 もっと、はっきりと僕の予測を言ってしまおう。

 現代社会が求めているのは、間違いなく––––

 ––––「労働」からの解放だ。

 他にも言い方はある––––

 ––––「企業」という、いまだに前時代的な人治を行う箱(閉鎖空間)の破壊と再構築––––それに伴う「経営者」という特権階級の追放(断っておくが殺人でも幽閉でもなく、あくまでその立場のみを駆逐することを指す)。

 ––––「お金」に変わるシステムの発明。

 等々。

 僕は、そのために必要なソリューションこそが
「人工知能(AI)」という人外だと考えている。

 どっからどう見てもAIこそが「革命の狼煙」に見えるのだ。

 最新式の銃や戦闘機でない分、人類も少しは成長を遂げたなんて自画自賛さえしたくなっている。

【 人工であっても「知能」であるなら人外である 】

 今回(2024年/夏)の都知事選––––

 小池百合子さんが当選をした裏で、安野貴博さんが5番目に多い票を獲得した。

 両者の成果に貢献したのが「人工知能」だ。

 安野氏への期待は、もちろん、ご本人への期待も大きかったが、「AI」というトレンドに対する期待の大きさの表れでもあった。「DX」による経済的な利点よりも、「AI」に対する(何だかよく分からない)期待感が、安野氏の躍進を後押した部分がある(と、程度は別にすれば、断言しても良いのではないだろうか)。

 これは、僕も含めたごくごく一般的なマジョリティ(民衆)が、知らず知らず、社会が次へと進みたがっている(つまり、僕らがレジスタンスを起こしたがっている)空気感を、無意識で自作自演的に受け取り、感化されているからこそ吹いた風ではなかろうか––––

 特に若い世代は、自らも内側で鳴らしている「合図」に敏感なように思う。

 それは、きっと、当たり前のことだろう––––だって、彼らからすれば、AIによる大きな社会変化の影響は(僕のような中年よりも)ジブンゴトなのだから––––人工知能がいたる所で活躍する社会は、近未来のSFが描くセカイで起こる空想ではなく、近い将来、自身の生活に直結する現実問題であり、その「兆し」をきちんと真に受けている感じがするのだ。

 一方、小池氏は、AIをもっと具体のレベルで利用していた。

 選挙運動では、避けて通れない「自分で自分を(小池百合子という人が小池百合子という人を)自画自賛する」という厚顔無恥を、自分のAIに自分を褒めさせることで緩和した。

 これは、有権者にこれまでとは似て非なる好印象を与えたはずだ。得票数次点となった石丸伸二氏は、もしかすると、情報を伝達する手段を従来のマスメディアからSNSなどの今っぽいものに変えただけで、そこに乗っけるコンテンツ(選挙運動としての自画自賛)の厚かましさは、好意的ではない人や無関心層には、むしろ、昔ながらの人物像に映った可能性がある。

 事実、選挙後に彼が受けているバッシングの多くは、旧来のパワハラやセクハラに当たるというもので、メディア(媒体)は新しくとも、古いタイプの伝え方を存分に含んだコンテンツを供給してしまったように思う(だから、勝てなかったという結果論ではなく、あくまでプロセスにおける考察だ)。

 姿形は小池氏にそっくりなアバターでも、やはり、それは人外なのだ。うまく自画自賛の厚かましさや嫌味を排し、ともすれば、チャーミングに映った可能性すらある。真にチャレンジングだったのは小池氏だったのかも知れない。

 新たな支配を担う人外は、世界各国で語り継がれてきた神話に登場する神々に倣い、憎めなさや可愛らしさを持つべきなのだと痛感した。そういった面からも「AIゆりこ」というネーミングや字面も秀逸で、「お地蔵さん」のような親しみやすさも兼ね備えていた。

 しかし、それ以上に最大のメリットは、「AIゆりこ」が確実に「小池百合子」という人間ではなかった点にあるのだ。

「不気味の谷(※)」という言葉もある。

 AIの可視化/可聴化においても、それは積極的に越えるべきラインではない。AIに「人間らしさを求めるコト」や「(人としての)リアリティを追求するコト」は、「人外に支配されることへの抗い難い欲求」を邪魔するからだ。フォトリアルな「AI」は、人ではない何かに支配されたいという大きな流れ(集合的無意識)に絆された個人の意識において「嫌悪感」となって現れるとさえ思っている。

※ 不気味の谷現象とは、美学芸術心理学生態学ロボット工学、その他多くの分野で主張される、創作に関わる心理現象である。外見写実に主眼を置いて描写された人間立体像、平面像、電影の像などで動作も対象とする)を、実際の人間(ヒト)が目にするときに、写実の精度が高まっていく先のかなり高度なある1点において、好感とは逆の違和感・恐怖感・嫌悪感薄気味悪さ (uncanny) といった負の要素が観察者の感情に強く唐突に現れるというもので、共感度の理論上の放物線断崖のように急降下する1点をに喩えて不気味の谷 (uncanny valley) という。不気味の谷理論とも。元は、ロボットの人間に似せた造形に対する人間の感情的反応に関して提唱された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%B0%97%E5%91%B3%E3%81%AE%E8%B0%B7%E7%8F%BE%E8%B1%A1

 このように、本格的に社会を侵食しはじめた「AI」だが、どのように我々を「労働」や「拝金主義」から解放し、法治国家を凌駕する企業という人治社会を壊し、経営者という現代版の王を追放してくれるのか?––––予測を記しておきたい。

 ここからは、あくまで個人的な創作––––独断と偏見に満ちた「SFプロトタイピング」と思って、読んで頂けたら幸いだ。

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AIが人から奪ったのは「仕事」ではなく「労働」だったせいで「追放」されたマイノリティも「解放」されたマジョリティも本当の幸福へと放たれた。



 西暦 / 2539年––––

 AIが奪ったのは「仕事」ではなく「労働」だった。

 かつては、シンギュラリティに対する誤った解釈から––––「生き甲斐を奪われる」––––「金を稼げなくなる」––––という恐れが「反人工知能」という風潮を生み出した時代もあったが、AIは、特定の人々に対して金を稼げなくしたのではなく、全人類において金という存在自体を無効化することで、そもそも金を稼ぐ必要をなくし、人類に新たな生き甲斐を与えてくれた。

 人々が目指すのは––––

「労働によって、金を稼ぎ、良い暮らしをするコトではなく、
 金ではなく愛を育み捧げ合い、純粋な仕事を支え合うコト」

 ––––そんな社会では、自動的に、
 教育も「愛」というピュアな精神でしか成立しなくなった。

 それは、大企業に入るために高ランクの大学に入るための受験勉強という副次的なものではなく、好きなこと =「夢」を見付け、それに向かって夢中になるからこそ没頭できる純粋に利己的な「学び」だ。


 現代、労働というものは存在しない。

 お金?––––随分と前に消滅した。

 会社という箱に属する人間はいない。

 人は、好きなことを極めるためだけに存在し、
 労働を行うのは、人工知能を搭載したロボットだ。

 一方で、法を司る存在も、また、人工知能になった。
(ただし、そのAIは、神と同じくフィジカルの身体を持たない)

 前者は、人間を支える労働者階級で、
 後者は、人間を治める神の代弁者だ。

 全ての人「間」は、等しく、
 AIとAIの間を生きる中流階級となった。

 昔は、労働を奪われるコトが生きる糧(賃金)を奪われるコトと同義だったために、AIの社会進出に対して強い反発が生まれたらしいが、それが全人類を「労働」から解放してくれる存在であると分かった瞬間、多くの人々は諸手を上げてAIを歓迎しはじめた。

 人は働くことを止め、「お金」を求めなくなった。

 なぜ、あれだけ欲していた「お金」を求めなくなったのだろう?


 人が「お金」を求めなくなった流れを知るには、かつて、人が、なぜ、あんなに「お金」を求めていたのか?––––を解明することが近道だ。

 人が求める状態 =「欲求」には、大きく分けて2種類ある。

 物質的な欲求と精神的な欲求––––

 ジンバルドーと同じく、アメリカの心理学者であるアブラハム・マズローは、人間の欲求をさらに細かく⑤段階に分けた。

 物質的な欲求とは、簡単に言えば「衣食住」にまつわる欲求で、マズローはそれを「①生理的欲求」と「②安全欲求」に分類した。

 ①生理的欲求は、食事/睡眠/排泄など本能的(動物的)なものを指す。身体を温めてくれる衣服/腹を満たす食物/よく眠るために室温を保ってくれる住居などを求める気持ちだ。

 ②安全の欲求は、食事/睡眠/など本能的(動物的)な利益や快楽を得る際、身体を外傷から守る衣服/毒を持たない(あるいは消毒された)食物/よく眠るために外敵の侵入を拒む堅牢な住居などを求める気持ちだ。もちろん、人類以外の動物も持っている欲求だが、頭脳の進化に特化し、身体能力という面では非常に脆い人類がこれを実現するには「知恵」が必要となるため、人間に限っては、①よりもやや人間らしい欲求でもある。

 精神的な欲求には、③所属と愛の欲求/④承認欲求/⑤自己実現欲求の3つがある。

 これらのほとんどは、物理法則と自然摂理が絶対支配する現実世界をサバイヴする人類以外の全生物が欲しない望みでもある。つまり、人間社会特有の幻想的な欲求である場合がほとんどだ。

 ③所属と愛の欲求は、別名「社会的欲求」とも呼ばれ、そもそも地球全体から忌み嫌われる人類という史上最悪の支配者だからこそ、せめて、嫌われることのない(= 嫌うことの少ない)同族専用コミュニティ(国/宗教/学校や会社など)に属し、少なくとも人間社会では求められていると感じ合いたいという(唯一絶対の自然界から逃避した卑怯な弱者である)我々が傷を舐め合うような気持ちだ。ただし、この一部は、かろうじて他の動物にも本能として組み込まれている。

 ちなみに、マズローはこの段階までの欲求を「外的欲求」––––つまり、自分の外側にある環境を整備するための欲求と呼んだ。以降の段階は「内的欲求」に分類され、自分という内側を満たすためのものとされている。

 ④承認欲求は、尊敬されたい(ただし、人類に限る)という気持ちだ。2段階あり、名声や注目など他人からの表面的な評価と、自己肯定感や自律できていることへの自信(自身という人間からの内面的な評価)に分かれる。後者は、神/マナー(常識)/法などの人外にも由来することから、より高次な承認欲求とも言われる。自分で自分を評価するためには、幽体離脱するような形でより高い視座から、他人でもなく(実は自分ですらない)人外の基準によって己を判断する必要がある。この欲求が悪い方向に働くと、自己嫌悪に陥り、最悪の場合、自傷や自殺に至る。他の動物でも、理性的というよりは本能的に(多くの食物を貢いでもらえる/多くの異性と交配できる = ①生理的欲求(本能)を満たしてくれる事実的な機能として、尊敬という幻覚を伴わず、リアリティのみを以って、されど、表面上/結果的には)承認欲求に見えるような状態はある。

 ここまでの④つの欲求は「欠乏欲求」というものにも分類されており、不足している要素を満たすことが目的や動機になっている。

 その一方、どれだけ満たしても満たされない……与えれば与えるだけより多くを求めてしまう青天井/底無しの欲求とも言える。人間に限らず他の動物でも、豊か過ぎる食生活を約束すれば、必要以上にエネルギーを摂取し、贅肉を蓄え、肥満体になるようなこと。

 そういう面では、唯一、⑤自己実現欲求のみが「器を満たす(欠乏感を補う)欲求」ではなく「自分という器そのものを広げたり発展させたりする欲求」=「成長欲求」に分類されている。こう書くと「欠乏欲求」よりも「成長欲求」の方が無限なのでは?––––と、感じる方もいるかも知れない––––が、むしろ、自分自身の限界を謙虚かつ真摯に受け止めてこそ成立する「挑戦するためのモチベーション」であるため、青天井や底無しとはいかず、地に足を着けた状態で、手が届いたり頭を押さえ付けられている上限(確かな天井)を打ち破ろうとする(贅沢や肥満とは無縁の)ストイックな欲求と言える––––

 己が持つ能力や少し背伸びすれば拡張できる可能性を最大限発揮したい(その結果として、為すべきことを為したり、夢を叶えたい)という、成長そのものが目的や動機である欲求で、マズローは、これを「自己の存在意義を実現する欲求」と評して⑤段階の最高位に据え、これを満たすことこそ「人間を幸福に導く」と唱した。

 しかし、人間の欲求は、それさえ飛び越えることがある。

 マズローは、晩年、欲求を6段階に改変した(実はこの表現は正しくなく)「⑤自己実現の欲求」と思われていた望みの中に、まったく別の次元の気持ちがあることを新たに提唱した。

 それが「自己超越欲求」と呼ばれる⑥つ目の(⑥段階目ではないことが肝心な)存在だ。

 一般的な「マズローの欲求⑤段階説」では、高位の欲求は下位の欲求が満たされてから生じるとされているが、時に(物質的な豊かさがあふれる現代の先進国であればなおさら)高次の欲求が下位に先んじて出現することがある。

 それを体現する最たる者が「アーティスト」だ。

 彼らは、何を差し置いても、まず「芸術(表現)」に命を賭ける。これは言葉の綾ではなく、事実、アーティストは衣食住の安定や安全よりも(ましてや金儲けよりも)芸術で世界を変えることを優先する。

 経済的に困窮しようが、食うに困ろうが、自分が生み出す芸術に影響する以外の面で外見的なメリットを損なおうが、気にも留めない。なぜなら、彼らは、安心安全な衣食住を願う①や②の物質的欲求も、社会から必要とされたいと願う「③社会的欲求」も、他人や自分から認められたい「④承認欲求」も飛び越え、もっと大きな使命を帯びた「自己実現 = 芸術表現の欲求」に忠実に生きている。

 このように、自己超越というのは「利他」ではない。人外(神)とコンタクトするような、あるいは、無我の境地とも言える「人間超越」だ。ピラミッドの上に旗のように描いた図だと、欲求の行き着く先(最終ゴール)が「超越した欲求」のように見えるが、実際は順序立てたり階層化できる代物ではなく、もはや、欲求であるかさえも疑わしい「望みのような突然変異の何か」だ。

「祈り」と表現する方が近いかも知れない。

「超越した欲求」ではなく「欲求を超越した何か(あえて言うなら祈り)」こそ、人間が求める⑥つ目のモノゴトだ。それは⑥段階目でも、⑥番目でもない。

 それは、長らく、人類に大きな犠牲を強いてきた。

 フィンセント・ファン・ゴッホや宮沢賢治は、死後、それを実現した(と評すこと自体、彼らに対し大変に失礼な表現かも知れない。そもそも、彼らが失礼などということを気にするとは思えないが、少なくとも、彼らは存命中に欲求を超越した何かを絵画や文学として後世に遺した時点で、つまり、表現し終えた瞬間、⑥の超越を実現していたはずだ)。

 ⑥に達した超人の敵は、③階層目の「所属」や「愛」でも、④階層目の他人からの「尊敬」や「評価」でも、もう発揮しているという点で⑤階層目の「自己実現」でもなかった––––これを書いている今も悲しくて泣いてしまいそうだが、①や②の最低限「人」して生きるための「衣食住」への欲求だった。

 普通の人には普通に与えられると多くが思っているからこそ普通と言われて日常に軽やかに溶け込んでいくモノが、彼らには遠く遠く手が届かず、羽織ることも、口に含むことも、住むこともできない夢か幻だった。多くの凡人が嘆く生き辛さは③から④の贅沢あるいは⑤のストイックな志向から生じるが、彼らのように⑥へといきなりぶっ飛んでしまう天才の生き辛さは、生死に直結し、自らの熱で肉体を焦がしてしまうような(物心付いて、あるいは、生まれて、すぐから始まる急勾配な下り坂の先で)「緩やかな自殺」などと呼ばれ、後世に輝く悲劇だ。

 AIは、そんな悲運の天才らを含めた全人類を、夜空で強く瞬く星(という悠久を生きた巨星が自重に爆ぜ死んだ瞬間、発した光熱)のような地獄から救い出した。

 先述した「人外に支配されることへの抗い難い欲求」––––これは、⑥つ目の欲求と同義かも知れない。

 人は、なぜ、あんなに「お金」を求めていたのか?––––それは、根源である物質的欲求「衣食住」を満たすに、悲しいかな「お金」がどうしても必要だったからだ。

 そして、そこには巧妙に張り巡らされた二重苦があった。

 1つは、衣食住を満たすための金を稼ぐために強いられる労働––––

 もう1つは、稼いだ金で衣食住を満たすための原料(布や毛/食物/木材や石など)と加工物(衣服/加工食品/建築物)を生産するために必要なものもまた労働であること––––

「使える金」と「金を使える対象」というサイクルを回しているのは、金による経済ではなく、労働を生むための労働だったのだ。

 AIを搭載したロボットは、そのサイクルから労働者というマジョリティを解放し、その代償として経営者というマイノリティを追放した。

 結果、拝金主義かつ封建主義な人治コミュニティ「会社」は滅亡した。

 それらは「FACT(製造する)+ ORY(場所)= ファクトリー」と呼ばれる(人類が1人もいない)新たな人外の箱に生まれ変わった。

 現在、「ファクトリー」には、①②を満たすための生産 = 労働を行う人類は存在せず、AIロボットのみが、畑を耕し、家畜を育て、漁や猟を行い、木を切り、糸を撚り、布を編み、紙を漉き––––衣服/加工食品/住宅をつくり、材料から実用品まであらゆるを生産している––––それを保管/物流するのもAIロボットだ。

 衣食住を満たすための金を稼ぐ労働も––––稼いだ金で衣食住を満たすための原料(布や毛/食物/木材や石など)と加工物(衣服/加工食品/建築物)を生産するための労働も––––人間が行う必要はなくなった。

 すると、皆、自然に、お金を求めなくなった。

 人類は、③以上の精神的な欲求のためだけに生きはじめた。

 その裏で、アーティストをはじめとする生き辛さの天才たちも少しは救われていった(清貧こそアートの源泉とか宣うのは食うにも寝るにも困ったことのない偽善者か当事者意識の薄っぺらな批評家ばかりだった––––アートはそんな生易しい道ではないし、そもそも、アーティストという人種は、物で満腹や適温が与えられても、ちっとも満たされず、険しい苦難を精神的な苦痛と共に歩み続ける求道者––––「少しは救われた」と言ったのはそういう意味で……アーティストが、外的要因や物的要因で表現したくてもできなくなり、ついには餓死や自殺するといった非業の死を遂げることくらいは避けられるようになった状態を指す)。



 労働から解放された人類は、どうなっていったか––––

 月並みだが、自由に好きなコトだけをして生きはじめた。

(ただし、殺人/傷害/性暴力(窃盗は著しく減った)などの犯罪は、言うまでもなく厳しく取り締まられた。②の安全を保つ––––そのための労働は変わらず必要だったが、それもまたAIロボットが担うようになった。裁判所や警察署も人外の箱「ファクトリー」と化し、そこで働く人類はいなくなった。消防署や行政サービスの多くも人外に委ねられた)

 労働がなくなりつつある当初、根強く反発し続けたのは「働きたい人々」だった。

 その多くは、好きなコトを仕事にできていた人たち––––

 例えば、eスポーツを含むアスリートや、音楽/ダンス/演劇/文学/美術/写真や映像/建築/服飾など様々分野で活躍するアーティスト、一流の料理人/高い技量を持つ宮大工/強い拘りを実現する農家/鉄オタ上がりの電車運転士など––––つまりは「夢を叶えた人々」だった。

 しかし、それもすぐに止んでいった。

 AIが奪った––––いや、この表現はAIに失礼極まりないか––––AIが消極的にされど完璧に代替する仕事は、彼らの快楽や既得権益を損なうものではないと知ったからだ。

 現在、地上に「人を治める人」はどこにもいない。最後まで残存していた企業という人治社会も無用の長物として消え去り、社長や経営者と呼ばれた最後の王たちも姿を消した。お金による経済ではなくなった時代、社長や経営者というのは「無意味な地位」であり「組織を率いる役割」にすらいられなかった。

 こうして、人が行う「労働」は全て純粋な「仕事」と帰した。物質的に生きるための苦役ではなく、精神的な「生業」となったのだ。

 ドラッカーは、とっくに––––

「今、社会は精神的な価値への回帰を必要としている。物質的な世界を補うためでなく、物質的な世界に意味を与えるために必要としている」

 と、予言していた。

 農業は純粋に作物を作る事に戻り、作物を売る事はなくなった。
 畜産は純粋に家畜を飼う事に戻り、乳や肉を売る事はなくなった。
 漁師や猟師は純粋に釣りや狩りに勤しみ、肉を売る事はなくなった。
 音楽家は純粋に音声を楽しんで操り、音源やチケットを売らなくなった。
 画家は純粋に絵を描き、像を彫り、作品を売らなくなった。
 芸術批評家は純粋にそれを評価し、それが換金される事はなくなった。
 スポーツ選手は純粋に競技に邁進するが、金儲けはしなくなった。

 それらは、全てAIが①と②の欲求を満たすためだけに生産する商品やサービスとは一線を画す「高級なモノゴト」として、より大切に扱われていった。

 でも、もう「お金」はないのだ……

 それは、どうやって「貴重」と見做され、
 人々は、どうやってそれを享受するのか?

 また、その際、客になれる人物というのは、
 どういった人物なのか?
 (仕事人は、どのように客を選定するのか?)

 お金で回す経済の時代には、高級 = 高額であり、商品やサービスを享受するためには多額のお金を支払えばよかった。言い換えれば、金さえあれば多くのことは手に入った。

 プロ野球を3度の飯よりも愛するマニアより、金持ちの方が、良い席で、何度も観戦するコトができた––––コンサートの最前列に、そのアーティストなど好きでも何でもない金持ちの中年が座り、横で盛り上がる連れの若い異性の方ばかり見ているコトなど知る由もない小学生の大ファンが、なけなしのお年玉貯金をはたいて購入した最後列から豆粒ほどのアーティストを凝視していた––––資産運用のためにアートを購入し、値上がりばかりを楽しみにしている大富豪が笑った––––

 ––––もちろん、素晴らしいお金持ちもいたが、上記のような金に物を言わせたり、金に毒された富裕層がいたのも事実だ。

 今は、どんな人物が、最前列に座れるのだろう?––––

 芸術家がアートを売らないのだとしたら、
 どんな人物の元に届けられるんだろう?––––

 一方で、働く側にも、大きなパラダイムシフトが起こっていた。いまだに高級な寿司職人は存在するし、マグロ釣りを極める名人漁師もいる––––が、彼らにとって「寿司職人」も「漁師」も金を稼ぐための職ではなくなった。

 こんな例もある––––現在、電車の運転手というのは、純粋に電車(とその運転)が好きな人が行う「職業ではない何か」になったが、かつては、電車がどれだけ好きでも(どうしても他の勉強ができず)倍率の高い鉄道会社に入れず、当然、運転士にも車掌にもなれなかった = 夢敗れた鉄オタがたくさん存在した。

 自分の好きなことを職業にしたかった彼らは、
 何を、糧に、労働ではなくなった仕事のような何かに
 勤しんでいるのだろう?––––

 もう一度、マズローの欲求整理を振り返ってみよう。

① 生 命 を 維 持 し た い(食事/睡眠/排泄):生 理 的 欲 求
② 安 全 で あ り た い(無害な食事/安心な睡眠):安 全 の 欲 求
③ 集 団 に 属 し た い(家族/友人/学校や会社):社 会 的 欲 求
④ 尊 敬 さ れ た い(他人からの存在価値の認知):承 認 欲 求
⑤ 為すべきことを為したい/夢を叶えたい:自 己 実 現 欲 求

※ 例 外 / 社 会 や 世 界 を 変 え た い:欲 求 を 超 越 し た 何 か

 上記の「アーティスト」や「好きを求道する職人やファン上がりの仕事人」は、何を欲しているのだろう?

 ①や②でないことは明らかだ––––③は別として––––④もどうでも良くて––––⑤もしくは⑥欲求を超越した何かのために精魂を尽くす––––

 そもそも、お金が回す経済が蔓延っていた時代から、人間は好きなことに対して①②の物質的な欲求など持たないし、好きでもないアーティストの最前列にいることをひけらかしていた金持ちでさえ、恋人なのかその候補なのかと③家族になるため––––彼女から④尊敬されるため––––周囲から羨ましがれて④承認欲求を満たすために––––チケットを購入しており––––少なくとも①腹を満たすためではなかった(性欲を満たすためではあったかも……)。

 ③以上の欲求を満たすために必要不可欠な存在は、労働という苦労でもなければ、お金という経済的な価値でもない––––数値という不完全なソリューションでは表現できない「精神的な熱量」––––おそらく、文字を連ねる行為でしか完全に表現できない何か……

 お金に代わるそれとは、一体、何なのか?



 現代、予約困難な高級寿司店に行くのに、必要なのはお金ではなく「 」だ。

 その寿司店の板前が、名人漁師から魚を仕入れるために必要のも、また、お金には替えられない「 」だ。

 お金が消え失せた今、世界的に著名なアーティストの絵画を手に入れるために必要なのも「 」だ。

 他には何の取り柄もないが、電車を好きなことだけは誰にも負けない鉄オタがAIロボという人外に混じって、珍しい人類運転士になるために必要なのは電車への「 」だけだ。それ以外は、瑣末なこと。

「 」に入る言葉こそ、お金に代わる存在だ。

 それは––––

 ––––「愛」だ。

 高級寿司店の板前は、世界中から届くラブレターに目を通して、その日、1組だけ迎える大切な客を選ぶ。そこに、運などという生ぬるい偶然が入り込む余地はない。そもそも、名人から愛で仕入れた「高級魚」は、昔から金では買えないものだ。

 AIに混じって政治家になりたい人物が世に訴えるのも、また、人類と政治への想いを認めたラブレターだ。ただの多数決みたいな数値では決まらない。それは、AIという人外によって、数値ではなく、これまで人類が積み上げてきた歴史という壮大な物語と比較され、政治参加の是非が判断される。真剣と適当と無責任が玉石混交になる可能性の高い選挙という多数決で選ばれたマジョリティ代表が、少数派(マイノリティ)のことを決めるというような矛盾は、多少解決されたかも知れない。

 憚らずに言えば、かつて、世界に存在した最も悪い存在は、
 経済とかいう耳馴染みだけは良いまやかしで流布され続けた
「お金」という、胡散臭い新興宗教じみた似非物質信仰だ。

 昔の王や武将が血が繋がっているという理由だけで(あるいは、それすらなく家柄という枠組みだけで)自らの子に既得権益(地位や領土)を継がせるのは鼻で笑えた民主的かつ資本主義社会に生きた人々が、なぜだか、金持ちは血が繋がっているというだけで子どもに全財産を相続させることには何の疑問も感じず、当然だと真顔で思い込んでいたことを、26世紀を生きる我々は笑ってしまう。

 お金で回す経済の末期、ようやく、財産分与は1人の子共につき「3億円」までという法律が施行され、あっという間に、国家財政も経済も回復した。一生かかっても使いきれないほどの財産の大部分は、自分の幸運と他人の不運や不幸で構成されており、自分の死後は、社会に返還すべきものだという③以上の欲求が、やっと、金持ちの正義感や倫理と一致した。

 寄付ぐらいでは、その欲求は超越できない。

 死後、国庫に返金するステータス。
 あるいは、生前に使い果たして、
 大金をばら撒き市場を活性化させた豪胆さへの賞賛。 

 世界を変えるには、
 金を後生大事にしないという
 新たな冒涜が必要だった。

 そうして、やっと、金という悪循環は無くなった。

 それは、人工知能(AI)という人外によって、実現された。

 現代の人々が目指すのは––––

「労働によって、金を稼ぎ、良い暮らしをするコトではなく、
 金ではなく愛を育み捧げ合い、純粋な仕事を支え合うコト」

 ––––そんな社会では、自動的に、
 教育も「愛」というピュアな精神でしか成立しなくなった。

 寿司職人に憧れ、本気でそれを目指す子どもは、義務教育が終われば、すぐに有名寿司職人にラブレターを出す。そのために、中学では、国語と書道と家庭科に力を入れ、近所の料理教室にも通い詰めた。

 スポーツでプロ(今の時代、それは金を儲けることを意味せず、最高峰のリーグで活躍するプレイヤーのこと)を目指すサッカー部員は、語学と体育に注力した。一方で、美術教室で彫刻を学び、空間把握能力を高めることにも余念がない。

 鉄オタは、ずっと、鉄道にまつわるあらゆるを研鑽し続け、声楽家を志すクラシック音楽ファンは、音楽の授業だけでなく、歌詞を書いたり理解するために語学も真剣に学んだ。

 中には、とにかく勉強に才能があり、勉強が好きで好きでたまらない(勉強に対する努力が苦にならない)子どもや、勉強だけがなぜかすいすいとできてしまう勉強の天才がいた。彼らは、受験勉強というかつてあった形骸的な学習などはるかに超越し、勉強そのものを目的として、勉強に夢中になったからこそ東京大学へ進学し、学者や研究者を目指す。

「好きこそ物の上手なれ」––––こうして、教育は「愛」というピュアな精神でのみ成立するようになった。


 人工知能の英語表記の略である「AI」が、奇しくも「愛」と読めてしまうのは、果たして、偶然や奇跡か––––あるいは、狼煙か合図か––––僕は、この件に関してはロマンチストではなくリアリストでいたい。

 だから、「AI」という「愛」は、金という存在で殺伐としたセカイに鳴り響いた(反撃じゃなく)転生の開始を告げるファンファーレだと信じている。

※ 転 生 : 生 活 態 度 や 環 境 を 一 変 さ せ る コ ト 。

【 あ と が き へ と 続 く 】


【 マ ガ ジ ン 】

(人間に限って)世界の半分以上は「想像による創造」で出来ている。

鳥は自由に国境を飛び越えていく
人がそう呼ばれる「幻」の「壁」を越えられないのは
物質的な高さではなく、精神的に没入する深さのせい

某レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら、クリエティヴ・ディレクターとして、アート/広告/建築/人工知能/地域創生/ファッション/メタバースなど多種多様な業界と(運良く)仕事させてもらえたボクが、古くは『神話時代』から『ルネサンス』を経て『どこでもドアが普及した遠い未来』まで、史実とSF、考察と予測、観測と希望を交え、プロトタイピングしていく。

音楽業界を目指す人はもちろん、「DX」と「xR」の(良くも悪くもな)歴史(レファレンス)と未来(将来性)を知りたいあらゆる人向け。

 本当のタイトルは––––

「本当の商品には付録を読み終わるまではできれば触れないで欲しくって、
 付録の最後のページを先に読んで音楽を聴くのもできればやめて欲しい。
 また、この商品に収録されている音楽は誰のどの曲なのか非公開だから、
 音楽に関することをインターネット上で世界中に晒すなんてことは……」


【 自 己 紹 介 】

【 プ ロ ロ ー グ 】



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