川上弘美さんの『三度目の恋』を読んで、ついに『センセイの鞄』を超える恋愛小説を書き上げたなこの人は、という感慨を抱いた。
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「違うよ、母子でもなく、恋人でもなく、ともだちでもなく、ただ大切におもいあっている二人だった」
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ええ、そうなのです。わたしはこのごろ、ますます高丘さんが好きになっているのです。けれど、それは以前にも言ったとおり、高丘さんと体を重ねたい、というような意味での好きさではありません。
高丘さんとは、ただただ、ずっと一緒にいたいのです。
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「人間は、なぜ自分ではない、他者みたいなものに、執着してしまうんだろうねえ」
高丘さんが、ふと、というふうに言いました。
「執着?」
ささやくように、わたしは聞き返します。今の自分の、粘るような感情がふきだしてしまわないように。
「うん。執着は、人間を強くする。そして同時に、執着は人間をとてつもなく弱くする」
まるでわたしの心の中をあらわに覗いたかのように、高丘さんは答えるのでした。
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────ぼくは、悟りなんて全然開けてないよ。だって、あなたのことを、ぼくは少し恋しているもの。くすこさんをこんなにも恋している、そのかたわらで、平然と。
あなたのことを、少し恋している。
高丘さんのその言葉に、わたしは胸がしめつけられるような心もちとなります。なぜなら、わたしの方も、高丘さんに、少し恋しているからです。
とても、ではなく、少しだけ、恋をしている。
そのことが、安らかで、そしてたまらなく切ないことなのでした。
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川上弘美の『三度目の恋』を読み終えて、印象に残った箇所を書き出しているうちに、ふたたびまた、あの甘美な物語世界に引き込まれてしまいそうになり、あわてて冷蔵庫からインドの青鬼を取り出して、一息いれているところだ。
一言で言えば、川上弘美恋愛小説のひとつの到達点であり、ついに『センセイの鞄』を超える恋愛小説を書き上げたなこの人は、というのが、今の率直な僕の思いである。
川上弘美が伊勢物語をモチーフに恋愛小説を書いたと聞いたときに僕が抱いた期待を、いとも簡単に軽々と凌駕してくれた、全読書人必読の一冊だ。
愛でも恋でもない、でも、この胸のうちに確かに育った、あのひとへの想い。
そういうものを描かせたら、おそらく日本一であろう作家が、そういうものを描きながら「恋とは何か」「愛とは何か」「夫婦とは何か」「恋をしているわたしとは何か」ということを縦横無尽に語った物語である。
二頁に一度くらいの割合で、書き出したくなる文章が見つかるので、適当に切り上げてしまわないと、物語にからみとられて、身動きがとれなくなりそうだ。
たがいに「少しだけ恋をしている」関係を、川上弘美さんは頻繁に物語の中で描いて読者をうっとりさせる。
でも、うっとりしながらも僕は、「ほんとうにそれは、少しだけ、なんだろうか」と疑ってしまう。
執着しない、束縛しない、いつでも手放すことのできる恋。
それって、確かに憧れるけどさ、でも。
「少しだけ恋をしている」なんて、そんなの僕にはとうてい無理で、執着して束縛して嫉妬して手放したくないと叫んで失いたくないと取り乱して顔の形が変わってしまうような、そんな恋しか人間ってできないんじゃないのかな、なんてことを思ってしまう。
でも、なんということか、恐ろしいことに、そんな僕の思いを先回りした物語を、川上弘美はきちんとその先に用意しているのだ。
愛というものの不確かさ。
恋というものの不確かさ。
夫婦というものの不確かさ。
男と女というものの不確かさ。
そして、人間というものの不確かさ。
川上弘美がずっと描いてきたものばかりが、ここには描かれているのだけれど、色とりどりの不確かさをここまで「確かなもの」として描いた作品はなかったかもな、と思う。
初恋を通して、夫婦としての円熟味や倦怠期を描く。
あるいは、「夢で逢えたら」をモチーフに、いくつになっても幾多の女性の影を引きずる夫に対して芽生えた「もはや、このおとこのことは、かわいいと思うしかないのか」という覚悟を描く。
川上弘美の小説はいつも、恋をしていた頃の自分を思い出させ、同時に、恋なんてくだらないことで傷つくもんなんだと呟いた夜を目の前に再現する。
普段ならここで、おセンチエピソードのひとつやふたつを披露するところだけど、「思い出しても、もう苦しい気持ちは一つもないから、いくらでも思い出すことができる」思い出なんて、今日は書きたくなんかないんだ、分かって。
それにしても、「叶わぬ恋」の、夢の中での「別人同士としての逢い引き」は片思いにおけるかなりの高等テクニックと思われ、僕もその域に早く達したいと心の底から願っている。
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